「性善説」はつねに正しいか
(「大法輪」2000年5月号)


 電車の座席は七人掛けが多いが、ゆったり座ると六人しか座れない。座りたい人は「すみません」と声をかけなくてはならない。それに対して快くスペースを作る人は少なく、たいてい嫌そうな顔をする。私はそうした光景を目にするたびに気分がわるくなる。たまたま先に座ったというだけで、まるで自分の権利のように思い込み、譲るにしても「譲ってやる」という態度を示す人が多すぎやしないか。
 似たようなことを、私の利用する横須賀線のグリーン車でも見かける。グリーン車は二人掛けだが、空いているときは、ほとんどの席はひとりが占領する。中途半端な混み方だと、そのうちのいくつかは二人掛けとなるが、ひとを「阻止する」ために、となりに鞄をおいて寝たふりをしたり、わざと通路側に座る人がいる。自分ひとりで占領していた方が快適に決まっているが、きっと会社では役職付きで、家では怖いお父さんとして威張っているのだろうなという人相風体の人がそういうことをしているのを見ると、情けなくなる。
 外国の例を引き合いに出して日本の事情を批判する人のことを「ではの守」という。私も「ではの守」はきらいなのだが、イギリスでは電車の座席には一人ずつ肘掛けが、つまりは境界線がついていて、決まった人数がかならず座れるようになっている。どうして日本でもそうしないのだろうか。それは大袈裟にいうと、日本の鉄道会社は「性善説」に、イギリスは「性悪説」にもとづいているからだろう。
 最近、駅などで「チップ制」のトイレが増えたが、見ていると、チップを置いていかない人も多い。これも似たようなことだろう。イギリスでは有料のトイレが多い。誰もが「譲り合い」の心をもっていると信じたいけれど、現代社会では「性善説」がいつでも正しいとは限らない、というのが私の持論である。