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例証の天才
(ちくま 2001年9月号)
What is it like? という表現がある。「それはどんなもの?」という意味だ。未知のものを説明するとき、いちばんわかりやすいのは既知のものに喩えることだ。つまり、既知のもののなかで、その未知のものにいちばん近いものを例に挙げることだ。
難解な思想や理論を説明するときも、いちばんわかりやすいのは適切な例を引くことである。どれほど「ぴったり」の例を挙げられるかで、その著者の力量を計れるのではなかろうか。適切な例を引くこと、それは書き手にとって重要な才能である。
その点で、スラヴォイ・ジジェクという人は天才的だ。ジジェクの著書はもう十一冊邦訳されており、そのうちの三冊は私が訳したのだが、翻訳するたびに、その例証の巧みさに感心する。
適切な例を挙げるためには、たくさん例を知っている必要があるが、ジジェクは相当重症の映画フリークらしく、膨大な数の映画を見ている。しかも古典的名作だけでなく、B級映画やマイナーな映画をじつによく知っている。
一例を挙げよう。「自分自身について『物語全体を語ろう』という努力が、死の脅威に覆われ」、「言葉にすることが(古典的探偵小説のように)解決を、つまり自分の象徴的共同体との和解をもたらさず、死の危険を呼び寄せる」ことがある。それを示す例を、ジジェクは四つ挙げる。ジョン・ファーロウ監督の『大時計』、アナトール・リトヴァック『私は殺される』、テッド・テッツラフ『窓』、オーソン・ウェルズ『アーカディン/秘密調査報告書』。
最後の作品の筋はこうだーー億万長者の男が、健忘症を装って、ジャーナリストを雇い、自分の詳しい過去を調べさせる。一歩一歩、ジャーナリストは真実を再構成していくが、それは殺人、裏切り、詐欺にみちた暗い物語である。ところが、ジャーナリストが接触した、アーカディンの過去を知っている人たちは次々に殺されていく。ついにジャーナリストは自分が依頼された調査の真の目的をさとる。アーカディンは、自分の犯罪者としての過去を知る者を見つけだすためにジャーナリストを雇ったのだ。彼らを消し、最後にジャーナリストも殺してしまえば、自分の過去は永久に葬られるというわけだ。
ジジェクの手にかかると、この映画は資本主義の隠喩だということになる。「資本主義の特徴は共時態と通時態との構造的非対称であり、トラウマ的・通時的過去の痕跡を消すことによってのみ、みずからの共時的全体を確立できる」からである。
この方法論の面白いところは、こうやって映画を例に挙げることによって、ラカンが、マルクスが、ヘーゲルが、ぐんと親しみやすいものになると同時に、例として引かれた映画の意外な側面が(場合によってはその「本質」が)明らかになることである。ジジェクの著作が、ラカンを学びたいという読者だけでなく、映画好きの読者をも惹きつける由縁である。
この方法論の底にあるのは、日の下に新しきものなしという信念である。ある理論の例として使える映画あるいは小説はかならず誰かがすでに作っている、という信念である(例に使えるものがなければ、自分で例を考え出さなくてはならないのだが、これは容易ではない。しろうとが下手に例を考えると、陳腐なものになるのが落ちである)。
ジジェクはラカンの解説屋であって思想家ではないという人がいるが、果たしてそうだろうか。ジジェクもどこかで書いているが、新しい思想家というのは師匠の教えを修正する者ではない。師匠の教えを修正主義から守り、師の教えに回帰するという形で、新しい思想家になりうるのである。ラカンが「フロイトに帰れ」と言ったように。ジジェクはその巧みな例証によってカント、ヘーゲル、マルクス、フロイト、ラカンを解説し、それによって新しい思想家たりえているのである。
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