バレエの誕生/イタリア・ルネサンスから20世紀まで
(静岡県舞台芸術センター「シアター・オリンピックス手帖」1999/3)

バレエって何?
 バレエについて何かを語るには、まずバレエとは何かについて簡単に触れておく必要があろう。能の仕舞、地唄舞、フラメンコ、フラダンス、モダンダンスなど、古今東西にさまざまな舞踊があるなかで、バレエというジャンルの特徴は何なのか。簡単な座標と位置づけを考えてみよう。
 世界中の舞踊はまず、自分で踊るダンスと見るダンスとに分かれる。ディスコ・ダンスとか盆踊りが前者で、バレエはもちろん後者である。もともとは貴族が自分たちで踊って楽しむものだったが、しだいに職業的舞踊家が取って代わり、それによって技術はどんどん難しくなっていき、現在のようなシステムができあがった。ご存じだろうが、おとなになってからバレエを始めても、いわゆるプロのレベルに達することは不可能である。バレエは股関節が固まってしまう前に始める必要があるのだ。というのもアン・ドゥオール(開脚)、つまり両脚を一八〇度開くことがバレエのすべての技術の基本だからである。
 次に、バレエはヨーロッパで生まれ、ヨーロッパで発達したものであることを忘れてはならない。いまでこそバレエは世界中で盛んだが、これは二〇世紀も半ばを過ぎてからの現象にすぎない。
 また、舞踊は表出的舞踊と描写的舞踊の二つに大別される。前者は身体を用いた本能的な感情表出であり、後者は身体を用いて自然現象を描写するものである。概して西洋のダンスは前者に属し、東洋の舞踊は後者に属する。前者では下半身が中心になり、後者では上半身が中心となる。上半身のほうがはるかに描写力・表現力があるからである。だから西洋では「パ(ステップ)」と言い、日本では「振り」と言う。バレエはもちろん前者に属しており、下半身、要するに「足」が動きの中心となる。
 その動きであるが、バレエの動きは回転と跳躍がほとんどすべてだといっていい。
 では、そのバレエがいつどこで生まれ、どんな歴史を辿って現在に至るのか、を簡単に述べることにしよう。

バレエはいつどこで生まれのたか
 舞踊がいつ生まれたのかという疑問に答えることはおそらく不可能である。言語学の世界では言語の起源について議論することはタブーになっているが、舞踊にしても事情は同じである。とりあえず「舞踊はつねに人類とともにあった」と考えておく他ないのである。
 話をバレエに限っても、事情はあまり変わらない。バレエがいつどこで生まれたかというのは非常に厄介な問題だ。なぜなら、何をもってバレエと呼ぶかという、バレエの定義に関わってくるからである。そこで私は便宜上、バレエを「開脚を基本とする、西洋の劇場舞踊の主流」と大ざっぱに捉え、さらにバレエ発生から現在までの歴史を二つの時期に分け、バレエは二度誕生したのだと考えることにしている。
 一度目の誕生の時代と場所は十五世紀のイタリア。すなわちルネサンス時代である。では早速、この最初の誕生について述べることにしよう。

イタリア・ルネサンス
「バレエの歴史」と題された本にはかならず、バレエは十五世紀のイタリアで生まれた、と書かれている。そう考える最大の理由は、この時期に「バレエ」という言葉が生まれたからである。イタリア語では踊ることをバラーレ(ballare)というが、これがバレエの語源である。このバラーレから舞踏会・宴会を意味するバーロ(ballo 仏語の bal、英語のballの語源)という語が生まれ、十五世紀には、そこからバレット(balletto)という語が派生して、これが後にバレエ(ballet)になったのである。
 イタリア・ルネサンスの背景には、貿易による商業資本の蓄積があったが、イタリア各地の都市国家では、大富豪たちがこぞって派手な宴会を催した。バレエはその宴会から生まれたものである。
 オペラはルネサンスのフィレンツェで、古代ギリシアの音楽劇の再興として生まれたが、バレエの誕生にもそうした意味合いがあった。ルネサンスの前、つまり中世はキリスト教会がヨーロッパ中を支配していた。キリスト教は、その初期にはミサに舞踊を取り入れていたが、霊肉二元論にもとづいた神学が確立されるにしたがって肉体が蔑視されるようになり(魂は永遠だが、肉体は滅ぶ)、そのために肉体の芸術である舞踊は排斥されていった。ルネサンス時代になって、舞踊は、古代ギリシアの舞踊劇の復興として、つまりキリスト教からみれば異教的な芸術として再生したわけである。

宮廷バレエ
 一五三三年、フィレンツェはメディチ家の娘カタリーナがフランス王アンリ二世のもとに嫁いだ。このとき、カタリーナ(カトリーヌ・ド・メディシス)はイタリアからフランスに二つの文化をもたらしたと言われている。
 ひとつは料理。今でこそフランス料理のほうがイタリア料理よりも格が上だが、当時、イタリアではすでにナイフとフォークで食事をしていたが、フランスでは王や貴族ですら手づかみで食べていた。カタリーナは、そんな野蛮な国ではろくな食事ができないだろうと考えて、大勢の料理人を引き連れていき、後のフランス料理の発達の礎を築いたのである。
 もうひとつがバレエである。カタリーナはベルジオジョーゾという音楽家をフランスに連れていったが、このベルジオジョーゾ(フランス名、ボージョワイユー)がフランスの宮廷バレエの基礎を築いたのである。一五八一年には、歴史上最初の本格的なバレエといわれる『王妃のバレエ・コミック』が上演されている。
 バレエは最初、床の上に幾何学的模様を描くことが中心であったから、広いホールで演じられ、観客は上方の席から見下ろしていた。十七世紀にいわゆるイタリア式舞台、すなわりプロセニアムをもった舞台が生まれ、舞台を正面から見るという形に変わった。
 またバレエは長いこと、歌、演奏、朗読、演劇などからなる「ショー」の一部であり、とくに長いことオペラの付属品のような立場にあり、舞踊だけが独立するのはずっと後、十八世紀になってからのことである。
 ブルボン王朝絶頂期のルイ十四世は「バレエ狂」であった。彼は五歳で即位したが、少年の頃から数多くのバレエに出演した。彼はさまざまな方面で、自分を「太陽」として臣民に印象づけようとする、今でいうイメージ戦略を展開したが、バレエにおいてもみずから「太陽」の役を踊った。
 だが、ルイ十四世が太りすぎで踊れなくなってバレエから引退すると、宮廷バレエは下火になり、踊り手は王族・貴族から職業的舞踊家へと変わり、舞台も宮廷から劇場へと移った。ルイ十四世がバレエから足を洗った翌年の一六七一年にはオペラ座が開場している。

バレエ・ダクシオン
 十八世紀に入ると、カマルゴ、サレといった優れた女性ダンサーたちが登場して(それまでは、バレエはもっぱら男のものであった)、人気を博すようになると同時に、バレエは、それまで歌あり芝居あり朗読あり舞踊ありといったヴァラエティ・ショーのようなものだったのだが、ひとつの物語をもったまとまりのある作品が作られるようになった。そうした様式をバレエ・ダクシオン(舞踊劇あるいは劇舞踊)と呼び、その代表者が、大反響を呼んだ舞踊論『舞踊とバレエについての手紙』(一七六〇)で有名なノヴェールである。このバレエ・ダクシオンが次の時代のロマンティック・バレエの、そしてクラシック・バレエの基礎となった。
 さて、フランス革命によって、宮廷バレエは事実上消滅し、バレエは今度は勃興する市民階級に愛されることになった。

ロマンティック・バレエ
 バレエ史の流れには十九世紀初頭に大きな断絶が見られる。これが私のいうバレエの二度目の誕生である。現在まで残っているバレエはすべてこの時代以降に作られたものである。つまりそれ以前の作品は間接的にしかわからないのである。だから、ルネサンスから十八世紀までは「バレエ前史」と呼ぶこともできるだろう。
 いま、一般の人に「バレエというと何をイメージしますか」と尋ねたなら、十人が十人、「爪先で立って踊ること」と答えるにちがいない。たしかに爪先で立って踊ること(ポワント技法)はバレエの最も顕著な特徴で、他のジャンルの踊りには見られないものだが、このポワント技法は十九世紀初頭に生まれたものである。
 ポワント技法の発生とほぼ同時に、思想・文学・美術の後を追って、バレエもロマン主義の荒波に洗われ、エキゾティズムや超自然的世界への憧れが顕著にあらわれているロマン主義的なバレエが作られるようになった。その代表が『ラ・シルフィード』(一八三二)と『ジゼル』(一八四一)である。
 ほっそりとしたバレリーナが、ふわふわの薄い生地でできたチュチュ(スカート)をはいて、爪先で立ち、まるで空気の精のように軽やかに踊るーーこれがバレリーナのイメージとして固定された。このイメージは現在まで生き延びているが、それを体現したのが、麦畑の上で踊っても麦の穂一本折れなかったと言われた有名なマリー・タリオーニである。かくしてこの時代に、垂直志向性・天上志向性がバレエの本質的要素となったのだった。ぐっと膝を曲げて重心を低くして踊る、われらが農耕民族の踊りとはまったく対照的な様式と美学が確立されたのである。
 解剖学的にいって、男性ダンサーだって爪先立ちで踊れないわけではない。それにもかかわらず、ポワントは女性ダンサーの専売特許となった。それはロマン主義時代に、男性の観客が女性の踊りを見るという性的不均衡(フェミニストたちのいう「メイル・ゲイズ(男性の視線)」)が固定されたからである。ロマン主義の想像力というのは男性の想像力であり、女性はもっぱら見られるものとなったのである。
 そして実際に、舞台からはしだいに男性が姿を消し、男装した女性が男の役を踊るようになった。それと並行して、バレエは女性の肢体を鑑賞するための芸能になっていった。さらに劇場は、愛人を探す好色な金持ちの男性と、パトロンを探す女性ダンサーたち(ほとんど下層階級の出身だった)との出会いの場と化した。
 当然ながらバレエの芸術的水準は低下の一途を辿った。

クラシック・バレエ
 ただしそれはフランスやイギリスの話で、東方の辺境国ロシアでは事情が異なっていた。「後進国」であったロシアは西欧の文化を輸入して西欧に追いつこうとしたが、その際、「国興し」の目玉のひとつにバレエを選んだのだった。ロシア皇帝は、莫大な給料を提示して、フランスから著名な振付家・教師を招聘したが、その甲斐あって、十九世紀後半になるとロシア・バレエの水準はフランスを追い越した。そして、先に述べたようにフランスでバレエがエロティックな見せ物に堕落していた頃、ロシアでは新しい美学と様式を持ったバレエが完成された。これがクラシック・バレエと呼ばれるもので、その確立者はフランス人のマリウス・プティパである。
 プティパの確立したクラシック・バレエは、ロマンティック・バレエとは違って、「舞踊による劇」という色彩が薄れ、もっぱらマイム(手振り身振り)で進行する劇の部分と、劇の進行とは直接無関係な純粋舞踊の部分とが分離された。言い換えると、劇的内容はどうでもよくなり、ストーリーは踊りを見せるためのアリバイのようなものになった。
 バレエ史を振り返ってみると、バレエという舞台芸術が、純粋(幾何学的)舞踊と演劇的・意味表現的舞踊という二つの極の間を、あっちに傾いたりこっちに傾いたりしながら発達してきたことがわかる。ロマンティック・バレエは演劇のほうに、クラシック・バレエは純粋舞踊のほうへと傾いていた。
 さて十九世紀後半、文学ではリアリズムが主流となり、トルストイ、ドストエフスキーといった作家が登場するが、ロマン主義時代には他の芸術ジャンルと結びついていたバレエは、世紀後半になると他ジャンルと分離し、孤立してしまった。
 クラシック・バレエの代表作は『眠れる森の美女』であるが、プティパはその他にも『白鳥の湖』『バヤデルカ』『ドン・キホーテ』『海賊』など、数多くの作品を残している。

バレエ・リュス
 しかし、プティパがクラシック・バレエの様式を確立してから十年と経たぬうちに、その様式への反逆が始まった。反逆の先頭に立ったのが、二十世紀最初のバレエ改革者ミハイル・フォーキンである。そしてそのフォーキンの新しいバレエに着目し、それをパリに持っていこうと考えたのが有名な興行師セルゲイ・ディアギレフである。
 このコンビによる第一回公演は一九〇九年にパリのシャトレ座でおこなわれ、大成功をおさめた。先に述べたようにパリでは、バレエはすっかりお色気が売り物の大衆娯楽になり果てていたから、観客は驚愕し、バレエ芸術を見直し、空前のバレエ・ブームが巻き起こった。この公演をバレエの三度目の誕生と呼んでいいのかもしれない。というのも、この公演が成功しなかったら、今日の世界的なバレエの隆盛はなかったかもしれないのだ。
 ディアギレフが結成したバレエ団「バレエ・リュス」は、団長のディアギレフが一九二九年に糖尿病で急死するまで二〇年間活動したが、その活動に参加した芸術家のリストをみればわかるように、バレエ史上最高のバレエ団であったーーピカソ、シャネル、ローランサン、ブラック、ミロ、ルオー、マティス、ドビュッシー、ラヴェル、ストラヴィンスキー、サティ、等々。
 振付では主に五人のコレオグラファー(振付家)が活躍した。ミハイル・フォーキン(『火の鳥』『ペトルーシュカ』『薔薇の精』など)、ワスラフ・ニジンスキー(『牧神の午後』『春の祭典』など)、レオニード・マシーン(『パラード』『奇妙な店』『三角帽子』など)、ブロニスラヴァ・ニジンスカ(『結婚』『青汽車』など)、ジョルジュ・バランシン(『放蕩息子』『ミューズを導くアポロ』など)である。
 バレエ・リュスが上演した作品に共通して言えることは、きわめて実験的・前衛的だったということである。とくにニジンスキーの作品はバレエの領域をはるかに超え、数十年後に出現する日本の暗黒舞踏の遠い祖先となった。
 また、先に述べたように一九世紀バレエでは女性中心だったのにたいし、ニジンスキーの出現以来、二〇世紀のバレエは男性中心となった。

バレエと二〇世紀
 ディアギレフの死によってバレエ・リュスが解散した後、最後期のスターであったリファールはオペラ座の芸術監督となって、堕落したオペラ座を再興し、今日の繁栄の基礎を築いた。フォーキン、ニジンスカ、マシーン、バランシンらはそれぞれモンテカルロやアメリカで、バレエ・リュスの伝統を受け継ぎつつ、独自のスタイルの作品を発表した。彼らの努力によってアメリカにもバレエが根付き、バランシンとカーステインの結成したニューヨーク・シティ・バレエやアメリカン・バレエ・シアターをはじめ、全米各地にバレエ団が生まれた。イギリスではかつてバレエ・リュスにいたニネット・ド・ヴァロワがロイヤル・バレエ団を結成した。
 一方、ソ連では、スターリンの唱道する社会主義リアリズムにのっとった、ドラマティック・バレエという新しい様式が生まれ、プロコフィエフ作曲の『ロミオとジュリエット』のような傑作が生み出された。
 第二次世界大戦後、日本を含め、欧米以外の国にもバレエが浸透すると同時に、『白鳥の湖』『眠れる森の美女』『ジゼル』といった古典作品が世界のいたることろで上演されるようになった。
 上演回数や大衆的人気などの点では、二〇世紀後半の現在にいたっても、クラシック・バレエが主流を占めている。だがその一方で、十九世紀バレエとは明確に異なる現代的なバレエが発達してきたことも忘れてはならない。そうした傾向をひとまとめにしてモダン・バレエと呼んでいるが、ひとりだけ代表者の名を挙げるとしたら、それはモーリス・ベジャールであろう。ベジャールはクラシック・バレエのヴォキャブラリーを大幅に拡大し、それによって性・愛・憎悪・嫉妬・死といった二十世紀的なテーマを表現しつづけている。
 一方、プティパによって確立されたクラシック・バレエの様式と体系はバランシンによって純化され、二十世紀的に衣替えがほどこされたが、その後、ウィリアム・フォーサイスによってさらにその純化は極限まで推し進められ、システム自体の解体へと至っている。

バレエと日本
 さまざまな舞踊ジャンルがある中で、どうしてヨーロッパで生まれ育ったバレエが最も広く世界に受け入れられたのだろうか。それはバレエの持つ普遍性の度合いが他の舞踊よりも高いからであろう。ただしそれは西洋的視点に立った普遍性であり、バレエの普及は西洋音楽の世界的浸透と似ている。
 かつて土方巽は、バレエに代表されるような西洋起源の舞踊に対して、ガニマタに基づいた舞踏こそが日本人にふさわしい身体表現であると主張した。だが現在、日本国内ですらいわゆる舞踏の観客動員数はバレエの一パーセントにも満たないだろう。
 ヨーロッパで生まれ育ったバレエを自分たちのものにしようという努力は世界各地でなされている。いまではアフリカやアジアで上演されているバレエがかならずしも西洋の模倣であるとは限らない。いわゆるクラシック・バレエを別にすれば、いまやバレエと他ジャンルの舞踊との境界線は明確でなくなっている。
 ただ残念なことに日本では、いわゆるコンテンポラリー・ダンスの世界に比べると、バレエ界ではいまだに西洋の模倣が主流を占め、優秀なダンサーは排出されているものの、「日本的」でオリジナルなバレエが創出されるのはまだまだ先かもしれない。