日本のバレエとスターダンサーズ・バレエ団

(スターダンサーズ・バレエ団プログラム 1997/11)

第二次世界大戦前の日本におけるバレエ
 1911年(明治44年)3月、帝国劇場がオープンし、その柿落としに「フラワー・ダンス」という舞踊作品が上演されたが、これが日本の劇場で上演された最初の西洋舞踊だったといわれる。もっとも、振付家の名前も出演者の名前もわかってはいるものの、一体どんな舞踊だったのかは皆目わからない。
 翌12年、帝劇歌劇部専属の演出家・振付家・舞踊教師として、スカラ座バレエ学校出身のイタリア人、ジョヴァンニ・ビットリオ・ローシーが来日し、わが国初のバレエ教師となった。ローシーは日本人ダンサーの育成に力を注いだが、たった4年で契約を打ち切られ、彼の蒔いたバレエの種は芽を出しかけたまま枯れてしまった。
 帝劇を去ったローシーは、すぐには離日せず、私財を投じてローヤル館という歌劇場を開き、この劇場は客入りの悪さに1年余りで閉鎖を余儀なくされたものの、彼の努力はその後「浅草オペラ」として開花した。だが一方、バレエは日本に根づかなかった。もし彼の舞踊教室がそのまま続いていたなら、やがては国立バレエ学校の創立へと繋がったかもしれないが、これはもちろんただの空想である。
 その後、1922年にはアンナ・パブロワが来日して大きな話題になったが、結局、戦前を通じてわが国に普及していったのはバレエよりもむしろモダンダンスだった。とはいえ、1920年頃に亡命してきた白系ロシア人のエリアナ・パブロバと、日本人外交官と結婚して1936年に来日したオリガ・サファイアによって、日本のバレエの基礎が作られた(エリアナ・パブロバの本名はトゥマノワだが、かのアンナ・パブロワにあやかってパブロバと名乗った。一方、オリガ・サファイアの本名はパブロワだが、すでに日本ではアンナ・パブロワとエリアナ・パブロバが有名だったのでサファイアを名乗った)。ヴォルィンスキーのバレエ学校を経てソヴィエト国立舞踊アカデミーを卒業したサファイアに対して、パブロバのほうは正式なバレエ教育を受けたのかどうか不明だが、日本のバレエ史上における彼女の存在意義は測りしれぬほど大きく、彼女のもとからは服部智恵子、橘秋子、貝谷八百子、東勇作といった、後に日本のバレエを創生することになる先駆者たちが巣立っていった。1938年には17歳の貝谷八百子が歌舞伎座で第一回公演を催し、1941年には東勇作バレエ団が第一回公演として、驚くなかれ『レ・シルフィード』と『牧神の午後』を上演しており、1944年には服部・島田バレエ団が『盲鳥』を上演している。

戦後日本のバレエ
 まだ東京都心にも焼け跡が広がっていた1946年(昭和21年)に帝劇で『白鳥の湖』が、なんと一ヶ月間にわたって上演された。これが戦後の日本のバレエの出発点となった。これを上演した東京バレエ団(現在の東京バレエ団とは無関係)はいくつものバレエ団が大同団結したもので、参加したのは東勇作バレエ団、貝谷八百子バレエ団、服部・島田バレエ団、それに上海から帰国した小牧正英が加わった。
 いくつものバレエ団が合同で公演するというこの伝統がもしずっと続いていたなら、国立バレエ団の創造へとスムーズに繋がったかもしれないが、これまたただの空想である。現実はといえば、東京バレエ団は組織としてはきわめて不安定で、第一回公演の後、小牧正英が自分のバレエ団を結成し、服部・島田バレエ団から大勢のダンサーがそちらに移ったため、第二回公演では服部・島田バレエ団が抜け、第三回公演からは東バレエ団が抜けた。第四回公演では服部・島田バレエ団が復帰するが、結局、この合同バレエ団は1950年に解散した。
 一方、1948年には清水正夫と松山樹子によって松山バレエ団が、49年には谷桃子バレエ団が発足し、やや時代を下って58年には牧阿佐美バレエ団が発足している。

スターダンサーズ・バレエ団の結成へ
 さらに時代を下って、1964年、すなわち東京オリンピックがあった年の9月、日比谷公会堂で「スター・ダンサーの競演によるバレエ特別公演」という催しがあった。当時も今も、いくつものバレエ団が群雄割拠し、観客を奪い合うというのが日本のバレエ界の特色だが、この公演には小牧バレエ団、服部・島田バレエ団、東京バレエ団、東京青年バレエ団所属あるいは出身のダンサーたちが参加し、それに太刀川瑠璃子とニューヨークから帰国した小川亜矢子が加わった。当然、所属を超えたダンサーたちを集めたプロデュース公演として注目を集めた。公演プログラムに三島由紀夫は「今度の各バレー団の花形による競演会は、日本のバレエが各種の悪条件にめげず達成した、最高の花を見せるわけである」と書いている。公演翌朝の読売新聞には「第一線で活躍しているダンサーを所属のバレエ団にとらわれることなく、一同に集めて競演する画期的なもの」と報じられた。プログラムの中心を占めていたのは関直人の「ワルツ・ノーブル・センチメンタル」「帯」「白の旋律」の3作品であった。
 この公演をプロデュースしたのは太刀川瑠璃子である。先に、戦前の日本ではバレエよりもむしろモダンダンスのほうが普及していたと書いたが、太刀川も戦前はモダンダンスを学んでいた。だが終戦後バレエに転向し、発足して間もない小牧バレエ団に入り、1963年に退団するまで、プリマバレリーナとして17年間全国のバレエファンを魅了した。彼女はそのかたわらバレエ団経営の実務を一手に引き受け、その経験が後にスターダンサーズ・バレエ団の経営に遺憾なく生かされることになる。
 この第一回プロデュース公演は太刀川のダンサーとしての最後の舞台となった。彼女は以後プロデュースに専念する決意を固め、翌1965年、同じく所属を超えたダンサーたちを集めて、「アントニー・チューダー・バレエ特別公演」を企画し、アメリカからチューダーを招聘して、「暗い悲歌」「火の柱」「底流」「リラの園」「小さな即興曲」を上演した。
 なぜチューダーだったのか。およそ10年前の1954年に太刀川の所属していた小牧バレエ団の招きでチューダーがノラ・ケイとともに来日し、「リラの園」と「カンカン・バア」を上演して大成功をおさめ、日本のバレエ界にチューダー・ブームが起きたのだったが、出演者のひとりだった太刀川にとってチューダーとの出会いは「今までのバレエを根底からくつがえし、一生を左右する程の衝撃であった」のである。

カンパニー設立
 チューダー公演終了後、太刀川を中心に、数名の有志によってスターダンサーズ・バレエ・カンパニーが発足し、服部・島田バレエ団のスタジオを借りて、スターダンサーズ・バレエ・スタジオが開設された。
 太刀川は所属のそれぞれ異なるダンサーたちに呼びかけ、二度の公演を成功させ、世間の注目を集め、日本のバレエ界に新風を吹き込んだのだったが、結局、みずからのバレエ団を発足させることになったのである。当時のプログラムに批評家の山野博大は、「バレエ界のすぐれたタレントを公演ごとに集めるやり方はチューダー公演で終わった。1966年7月の第三回からはスターダンサーズ・バレエという団体が観客の前に登場する。この登場は既製バレエ団の仲間入りという面であきらかに一歩後退と思われた。日本のバレエ界をかつての東京バレエ団のように統一するかもしれないという希望は遠くなってしまった」と書いている。もっとも山野はこう続けている。「しかし、すでに後からつけ入る余地はないと思われていたところからこれだけの協力者を集めることができたということはむしろ『バレエは娯しくなければいけない』という主張を勝利と解釈すべきだ」
 その名が示す通り、所属を超えた「スターダンサー」が競演するという試みには、多くの人が期待を抱いていたのである。それがどうして一方後退を余儀なくされたかといえば、太刀川のプロデュースの予想以上の成功に各バレエ団が脅威を感じ、自分のところのダンサーが太刀川のプロデュース公演に出演するのを禁じるようになったからである。優秀なダンサーが集まらなければ話にならない。やむをえぬ後退だったのである。
 しかしそれはたんなる後退ではなかった。カンパニーができたことで、レパートリーをもつことができるようになったからである。毎回オーディションによってダンサーを集めていたのでは、作品を長期間にわたって練り上げ深めていくことができない。
 さて太刀川のプロデュースによる第三回公演、すなわちカンパニーとしての初の自主公演は1966年7月に「4人の振付者による作品発表」として行われた。後にバレエ団の中核的存在の一人となる遠藤善久が振付家としてデビューし、メシアンの曲による「高熱」を、ダンサーを引退した尺田知路が「化粧室」を、関直人が「絹」の改訂版をそれぞれ発表し、後に日本のポストモダンダンスの旗手となる厚木凡人は「舗道のある館」を振り付け、公演開幕を待たずにフルブライト留学生として渡米した。
 この年の秋、カンパニーは「レ・シルフィード」「遊戯」「暗い悲歌」「化粧室」の4作品をもって芸術祭に参加し、「化粧室」が芸術祭奨励賞を受賞した。このことは生まれたばかりのカンパニーにとって大きな励みとなった。当時の芸術祭は今よりもずっと権威があったのである。
 翌1967年には日本フィルとの提携が実現し、この提携関係は今日まで続いている。これまた画期的なことといわねばならない。英国ロイヤル、パリ・オペラ座、ABTなど、外国のメジャーなバレエ団はオペラハウスを本拠としているから、立派なオーケストラがついている。それにたいして日本のバレエは最初から今にいたるまで、もっぱら舞台すなわち踊り中心で、けっして一流とはいえないオーケストラが伴奏をするというのが普通である。日本フィルとの提携はその意味で日本のバレエ界にとって刺激的なことだったのである。

1970年代
 1970年には古典の「ジゼル」と、新作「からす」(諸井誠音楽・遠藤善久振付)を並演するという変わった試みをおこない、72年には武満徹作曲の「地平線のドーリア」(遠藤善久振付)を、74年には黛敏郎の「10楽器のための喜遊曲」に千葉昭則が振り付けた「バレエ・アルバムII」を上演、というふうにつねに意欲的な公演を続けているが、70年代の最も重要な出来事は、76年に、マーゴ・フォンテインの絶賛するバレエ教師イリーナ・フドーバがフィンランドから来日し、6ヶ月間にわたる指導が実現したことと、クルト・ヨースの「緑のテーブル」の本邦初演である。『白鳥の湖』のような観客を動員しやすい古典を繰り返し上演するバレエ団が多い中で、スターダンサーズ・バレエは一貫して「日本のバレエの創造」をめざし、日本人振付家による新作を次々に発表していたが、太刀川はそれと並行して西洋の現代の名作を日本に紹介したいと思うようになった。それでチューダーに続いて手がけたのが、表現主義舞踊の名作「緑のテーブル」であった。太刀川は現在に至るまで、西洋の作品を紹介する際には「ちゃんとした形で本格的に紹介したい」というポリシーを持ち続けているが、「緑のテーブル」のときも、ドイツからヨースの娘であるアンナ・マーカードを招聘し、7週間におよぶ厳しいリハーサルがおこなわれた。公演は大成功をおさめ、大きな反響を呼び、テレビでも放映された。この作品はその後も何度か再演されているが、このバレエ団の貴重な財産のひとつである。

1980年代
 1981年には日本のバレエ団としては初めて財団法人となり、正式名称も「スターダンサーズ・バレエ団」となった。
 83年にはバランシン作品を熟知しているメリッサ・ヘイドンを迎えてバランシンの「セレナーデ」「コンチェルト・バロッコ」を上演し、その後もこのバレエ団はバランシンを自家薬篭中のものとすべく意欲を燃やし、88年にはぶたたびヘイドンを招いて「バランシンの夕べ」を催し、「スコッチ・シンフォニー」「錫の兵隊」「ドニゼッティ・ヴァリエーション」「チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ」「フォー・テンペラメント」「コンチェルト・バロッコ」を上演している。
 その間、85年には石井真木作曲の「輝夜姫」(振付・遠藤善久)を上演しているが、これは同曲によるイリ・キリアン作品よりも先である。先見の明を見せたといえる。
 また88年には、前年に世を去ったチューダーの追悼公演として「暗い悲歌」「火の柱」「リラの園」「底流」「小さな即興曲」を上演している。
 80年代の終わりには二つの大きな事件があった。ひとつはピーター・ライト版「ジゼル」の上演であり、いまひとつは厚木凡人の芸術監督就任である。
 太刀川瑠璃子は古典の上演にはひじょうに慎重で、古典をそのまま、あるいは自分たちで改訂して、という大方のやり方には一貫して否定的だったが、古典を見事に現代に甦らせるピーター・ライト版に出会ったとき、「これならやりたい」と思ったという。
 1988年にはバリシニコフの率いるABTがいわゆるモダンダンス系に属するトワイラ・サープを芸術監督に迎えたが、海のこちら側でもいわゆるバレエ団がポストモダンの厚木凡人を芸術監督に迎えるという画期的なことが起きた。厚木はみずからも新作を発表しつつ、勅使川原三郎に作品を委嘱するなど、1993年まで、その特異な個性によってバレエ団を牽引した。

90年代
 90年代には鈴木稔という若い振付家が頭角をあらわし、95年には、大ヒットしたビデオゲームをバレエ化した「ドラゴン・クエスト」を発表し、バレエ界を超えて一般の注目を集め、バレエの観客層を大きく拡大した。
 いっぽう「ジゼル」から始まったピーター・ライトとの協力関係はますます太いものとなり、96年秋には「コッペリア」が上演された。この作品はピーター・ライトが95年まで芸術監督をつとめていたバーミンガム・ロイヤル・バレエ団のレパートリーだが、日本での上演にあたっては、バーミンガム・ロイヤルの装置と衣装が日本まで運ばれ、またベネシュ・ノーテーションにもとづいた振付指導がなされるというまさに画期的な試みがなされ、バーミンガム・ロイヤルにおけるのと寸分たがわぬ上演がなされた。この公演はその質の高さによって、批評家をはじめ広く観客の感動を呼び、日本のバレエの水準の高さを示した。
 時代を遡って1978年に岩手県遠野市民センターにバレエ教室ができ、太刀川が指導にあたったが、この遠野のスタジオとの関係はいまだに続いており、そのおかげで遠野市にはバレエの火が消えずに燃え続けている。96年には昭和音楽芸術学院にバレエ科が新設され、太刀川が学科長に、ピーター・ライトが客員教授に就任した。太刀川はかねてから、いわゆるバレエ教室とは違う本格的なバレエ教育の必要性を痛感していたのだったが、その彼女の願いがささやかながら叶ったわけである。
 さらに97年には日本のバレエ団としては初めてウィリアム・フォーサイスの作品を上演し、当初からのチャレンジ精神がいまだ顕在であることを示した。
 わが国では、外来のバレエ団公演には客が集まるが、国内のバレエ団はチケットが売れず、経営がなりたたないといわれ、多くのバレエ団の公演は実質的にはバレエ教室の発表会の域を超えていない。そうした現状の中で、スターダンサーズ・バレエ団は、西洋の猿真似ではない日本のバレエの創出という目標を断念することなく、一般観客を惹きつけるような魅力的な公演を続けようと努力しているバレエ団として広く評価されており、来年は何をやるのだろうかという楽しみを与えてくれる希少なバレエ団である。