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オリガ・スペシーフツェワの生涯
(エイフマン・バレエ来日公演プログラム 1998/11)
ーー「彼女は踊る葦である」−アンドレ・レヴィンソン
オリガ・スペシーフツェワについて語られるとき、かならず引用される文章がある。バレエ・リュスの団長ディアギレフがフランスの新聞『フィガロ』に書いた記事である。それによると、エンリコ・チェケッティ(パヴロワやニジンスキーを育てた名教師)はかつてこう言ったという。「一つのリンゴが二つに割れて、パヴロワとスペシーフツェワになった」。ディアギレフはこの言葉を引いたうえで、こう書いている。「私はこう付け加えたい。陽が当たっていたほうがスペシーフツェワだ」。
このディアギレフの言葉を鵜呑みにして、「そうか、パヴロワより優れていたのか」などと早合点してはいけない。この記事はディアギレフがスペシーフツェワを売り出すために書いた宣伝記事であり、チェケッティの言葉も十中八九ディアギレフの作り話である。
残されているわずかな映像だけで二人を比較することはできないが、残されている証言を集めて判断すると、どうやらスペシーフツェワにはパヴロワほど芸の幅はなかったようである。しかし、「小顔」で手足が長く(その意味で、現代のバレリーナの体型を先取りしていた)、とくに脚線は完璧で、足の甲も美しく湾曲していた、というだけでなく、技術的にも表現力においてもパヴロワと肩を並べる大バレリーナであったこと、役柄によってはパヴロワを凌駕していたことは間違いなく(パヴロワ自身もスペシーフツェワを絶賛している)、とくに彼女の『ジゼル』は伝説と化している。
じつは、以下に述べるように、パヴロワとスペシーフツェワはいくつかの点で非常によく似ている。
オリガ・スペシーフツェワは1895年7月5日(旧ロシア暦)、南ロシアの田舎町で生まれた。パヴロワより14歳下、ウラノワより15歳上である。パヴロワと同じく幼いときに父親を失い、また母親がたいへんな美人で男にもてたため、オリガは「自分は私生児ではないか」という疑いに一生悩まされた。パヴロワの場合と同じく母親はたいへん貧しく、オリガはマリインスキー劇場附属舞踊学校に入るまで孤児院に預けられていた。ただパヴロワとは違って母親に愛されず、美人の母親はオリガの美貌に嫉妬し、オリガをいじめつづけたらしい。
舞踊学校時代に早くも批評家たちに注目され、とくに『歓喜の書』の著者であるアキム・ヴォルィンスキーはスペシーフツェワが亡命するまで彼女を絶賛しつづけた。
卒業後、マリインスキー劇場のバレエ団に入ると、彼女はとんとん拍子に出世した。パヴロワ、カルサヴィナが亡命した後は「無敵」だったのである。
1916年、バレエ・リュスの北米公演に参加し、ニジンスキーと『薔薇の精』『レ・シルフィード』、『眠れる森の美女』の「青い鳥のパ・ド・ドゥ」を踊ったが、公演後ロシアに帰り、革命前後の動乱の時代はGATOB(国立オペラ・バレエ・アカデミー劇場)と名前を変えたマリインスキー劇場のプリマとして舞台に立っていた。1921年、ロンドンでバレエ・リュスの『眠れる森の美女』の主役を踊ったが、ふたたびソ連に戻った。
この時代に自由に国を出たり入ったりできたのは、「その筋」にコネがあったからだといわれている。実際、レーニンの片腕ジノヴィエフの部下であったボリス・カプルーンという人物と関係があったことはわかっている。どういう関係だったのか。政治が絡んでいたのか。詳しくはわからないが、いくつかの資料から推測するに、カプルーンが権力を利用してオリガに接近し、彼女を庇護し、オリガのほうもカプルーンに好意を寄せるようになったが、やがてカプルーンはオリガを遠ざけるようになり、彼女は深く傷ついた、ということのようだ。
また、革命後の食糧難の時代にオリガは結核にかかり、クリミアで保養し、一時は再起を危ぶまれたが、結局は病を克服した。
1924年、スペシーフツェワは西側に亡命し、パリ・オペラ座のバレリーナになった。スペシーフツェワの名を不朽のものとしたのは『ジゼル』である。彼女のジゼルについては数多くの証言が残っている。彼女はソ連時代、最初に『ジゼル』に挑戦したとき、精神病院まで見学に行ったというが、狂乱の場の演技はとても演技には見えなかった。いや実際、彼女はすでにみずからの内に狂気をはらんでいたようだ。
しかし、西側での彼女の生活は悲劇の連続だった。彼女はバレエ・リュスの最後期にバランシンの『牝猫』で成功をおさめるが、彼女自身はフォーキン以後のモダンなバレエが理解できず、大嫌いだった。彼女はパヴロワと同じく、古典バレエの化身だったのである。オペラ座でも、リファールとの確執があった。リファールは長いこと後景に退けられていた男性ダンサーの復権に情熱を注ぎ、バレリーナを脇役に貶めようと努力した。オペラ座で『プロメテウスの創造物』を上演したときも、振付家のバランシンが病気で倒れた後、勝手に男性中心に作り変えた。プティパのバレエこそが最高だと信じていたスペシーフツェワにはそれが堪えられなかったのである。
一時、ボリス・クニアセフ(よほどのバレエ通でないと知らないだろうと思うが、バレエ史上重要な人物である)と結婚していたが、これもごく短期間で終わったようである。
やがてオペラ座を離れたスペシーフツェワは、妻パヴロワを亡くしたヴィクター・ダンドレが結成した一座に参加してパヴロワの後継者になると同時に、レナード・ブラウンというアメリカの富豪と知り合い、このブラウンが彼女の内縁の夫兼父親的存在になる。だが、彼女はしだいに精神のバランスを失い、異常な行動を示すようになり、1943年から20年間にわたって、ニューヨークの精神病院に隔離されていた。
だが、治療の効果が上がったのか、それとも突然のことなのか、奇跡的に快復し、1963年に退院してからはニューヨーク郊外にあったトルストイ財団の施設で静かな晩年をすごし、1991年に95歳で世を去った。
なお、『ジゼルの肖像』(KULTUR社)というビデオで、スペシーフツェワの踊る『ジゼル』の一部と、最晩年の姿を見ることができる。
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