|
リズムとの対決/「春の祭典」がだとった運命
(ダンスマガジン 1997/10)
台本
第一幕。雪が溶け、大地はふたたび花と草に覆われる。人びとの心に生命の悦びが満ちる。長老たちを従えた老賢者が春を祝福し、人びとは浮かれ踊る。
第二幕。夜。丘の上。処女たちが環になってぐるぐる回りながら、神秘的な遊戯をおこない、ひとりの処女を選び出す。選ばれた処女は恐怖におののきながら踊り、太陽神に生け贄として捧げられる。
ストラヴィンスキー
『春の祭典』はストラヴィンスキーのみたヴィジョン(幻像)から生まれた。1910年初めのことだ。後にストラヴィンスキーはこう書いている。「ある日、『火の鳥』の最後の頁を書き上げていたとき、私は束の間の幻影をみた。[……]私は空想のうちに、おごそかな異教の祭典をみた。輪になって座った長老たちが、死ぬまで踊る若い娘を見守っていた。彼らは春の神の心を和らげるために彼女を犠牲に供したのである」(『ストラヴィンスキー自伝』塚谷晃弘訳)
彼はすぐにそのアイディアを、古代ロシアの風習に詳しい民俗学者・画家のニコライ・リョーリフ(ニコラス・レーリヒ)に打ち明け、協力を仰いだ。台本はストラヴィンスキーとリョーリフが共同で執筆し、美術と衣装もリョーリフが手がけた(ちなみに、リョーリフは後に神秘主義者として世界的に有名になる)。
神に処女を捧げるというと、実際に古代に行われていた儀式のような気がするが、名著『ディアギレフのバレエ・リュス』の著者リン・ガラフォラが指摘しているように、そのような風習があったわけではなく、これはあくまで二十世紀の芸術家の幻想(それはセクシュアル・ファンタジー(性幻想)でもある)から生まれたものである。
ニジンスキー
バレエ・リュスの初期作品はほとんどすべてミハイル・フォーキンの振付である。だが、フォーキンのエキゾティスム路線の限界を見抜いたディアギレフは、一座の花形ダンサーであった自分の愛人ニジンスキーに振付もさせることにした。そのニジンスキーが最初に発表したのは『牧神の午後』である。いまでは二十世紀の古典となったこの作品も当時は、話題にはなったものの、ヒット作とはいえず、ディアギレフもニジンスキーのコレオグラファーとしての才能には信頼をおくことができなかった。ストラヴィンスキーもまた、ニジンスキーが『春の祭典』のような複雑極まる作品の振付を手がけることには不安を抱かざるを得なかった。彼は『自伝』にこう書いている。「はっきり本当のことをいうと、友情やその才能への非常な賛嘆にもかかわらず、ニジンスキーと協同して仕事をすることは私には非常に不安だったことを告白せねばならない。音楽のごく初歩の知識すら彼がもっていなかったことは明らかだった。このあわれな青年は音楽について何一つ知らなかったのだ」。
稽古には膨大な時間がかかった。ストラヴィンスキーは、二分音符と四分音符の違い、小節、リズム、テンポといった音楽の基礎をニジンスキーに教えることから始めなければならなかった。しかも、ニジンスキーが一つのパッセージを振付けるたびに、「テンポ、拍子や音符の長さにそれらを合致させねばならないことを」ニジンスキーにたえず思い出させなければならなかった。不安を覚えたディアギレフは、リトミックで有名なダルクローズ・メソッドを取り入れることにし、ダルクローズの弟子ミリアム・ランベルク(後のマリー・ランバート)を振付助手として雇い入れたが、それで稽古が楽になったわけでもなかったようで、団員たちの肉体的限界を超えるほどの回数のリハーサルが重ねられた。
教師経験はまったくなく、振付の経験もほとんど無に等しかったニジンスキーは、団員たちの呑み込みが悪いとすぐに癇癪を起こし、ダンサーたちを口汚く罵倒した。だが、ランバートの自伝『水銀』によると、ニジンスキーがみずから示す見本は素晴らしく、「ニジンスキー本人が犠牲の処女の役を踊ったらどんなに素晴らしいだろう」と思ったという。初演の際はマリヤ・ピルツがその役を踊り、好評だったが、ランバートにいわせれば、それはニジンスキーの見本の「みすぼらしいコピー」にすぎなかった。
1913年5月29日
その夜、『春の祭典』はパリのシャンゼリゼ劇場で初演された。その夜の騒乱はあまりに有名だ。『春の祭典(サクル)』を『春の大虐殺(マサクル)』と呼ぶのは珍しくもないシャレだったという。「こんなものは芸術じゃない。やめろ!」という反対派と、「黙って聞け、素晴らしい芸術じゃないか!」という賛成派とが、怒鳴り合い、殴り合いまで繰り広げたのだ。「まるで地震みたいでした。劇場自体が身震いしているかのようでした。観客が罵り、怒号し、口笛を吹くので、音楽はまるで聞こえませんでした。平手打ちの音や殴り合いの音まで聞こえました。あんな場面は、言葉ではとても言い表せません」と、ヴァランティーヌ・グロスは書いている。ちなみに、後に画家になるグロスはバレエ・リュスの公演には欠かさず通い、天上桟敷からみた舞台をせっせとスケッチしていたが、そのスケッチは振付復元に貴重な貢献をすることになる。
その騒乱には「やらせ」的な部分もあったようだが(混乱を予想したディアギレフはあらかじめ、前衛芸術の好きな学生にタダ券を大量に配っていたらしい)、それにしても人びとはどうしてそんなに騒いだのか。そしてその騒乱はどうして社会的事件にまでなったのか。
前出のガラフォラが指摘しているように、リョーリフの美術・衣装だけは別として(それは古代ロシアをできるだけ忠実に再現しようとしたもので、現代的なところはなかった)、ストラヴィンスキーの音楽は人びとがそれまで聞いたことのなかったような「騒音」であり、ニジンスキーの振付も人びとの頭にあったバレエの概念とはあまりにも隔たっていたのだ。しかも、前衛的な芸術家集団が小劇場で実験的な公演をするのとは違って、当時もっともメジャーなバレエ団の公演だったからこそショッキングだったのである。
ミリセント・ホドソン
1979年、バークレイの大学院生だったミリセント・ホドソンは、それまで誰も考えなかったようなことを思いついた。ニジンスキーの振付の復元である。
ニジンスキー版『春の祭典』は、ニジンスキーが結婚してバレエ・リュスを解雇されてしまったこともあって、八回しか上演されなかった。そしてその複雑怪奇な振付はあっという間に忘れられてしまった。
それから長い間、その振付は一部の人の記憶のなかだけにしかなく、ハーバート・ロス監督の映画『ニジンスキー』の中にも、もちろん『春の祭典』の場面があるが、これはケネス・マクミランが振付けたもので、今日復元上演されているものとはずいぶん違う。
ホドソンによる復元版はジョフリー・バレエによって初演され、さらにテレビ放映されて、そのビデオが出回っているし、現在ではパリ・オペラ座のレパートリーにもなっている。私はこの復元版を初めてみたとき、ニジンスキーの崇拝者として感慨無量だったが、「なるほど、これじゃあ、ニジンスキーに怒鳴られ続けたバレエ・ダンサーたちが自分たちのやっていることをまるで理解できなかったとしても無理ないな、いや、いま踊っているパリ・オペラ座の現在のダンサーたちも、よくわからないで踊っているのだろうな(ただし、パリでみたときのピエトラガラは素晴らしかった)、でも私にはニジンスキーの意図したことがわかる」という高慢な感想を抱いた。それは私が日本の「舞踏」を知っていることと関係があるのかもしれない。
マシーン版
ニジンスキー版の上演の七年後の1920年、ディアギレフは『春の祭典』を再演することにした。予定されていたストラヴィンスキーの『結婚』の完成が遅れていたためである。装置・衣装はそのままだった(ニジンスキー版は八回しか上演されなかったから、まだ新品同様だった)。大オーケストラの費用をいかに捻出するかが問題だったが、これはココ・シャネルが「いっさい口外しないこと」を条件に、ぽんと提供してくれた。
振付けたのはニジンスキーの後継者としてバレエ・リュスのスター・ダンサー兼コレオグラファーとなったレオニード・マシーンである。このマシーン版はあまり話題にならず、これまたすぐにレパートリーから消えた。とはいえ、バレエ・リュスの解散後、何回か上演される機会があり、筆者は三年前、ニース・バレエによる復元をみたが、ニジンスキー版と比べるとずっとオーソドックスというか、私たちの抱いている普通のダンスのイメージに近かった。フォーキンの有名な「ポロヴェツ人の踊り(イーゴリ公)」の影響が顕著だったことを覚えている。
さまざまなチャレンジ
ストラヴィンスキーの『春の祭典』は真の傑作だが、コレオグラファーにとってはこの上なく誘惑的な音楽らしく、これまで数多くのバレエやモダンダンスのコレオグラファーたちが振付を試みてきた。
1930年代
1930年、マシーン版がアメリカで上演されたが(マーサ・グレアムが犠牲の処女を踊った)、その七年後、モダンダンスのレスター・ホートンが自分のヴァージョンを上演した。ホートンはオリジナルのもつ原始性を保ちつつ、アメリカ先住民の踊りを取り入れ、オリジナルのロシア性を払拭し、「アメリカナイズ」したが、同時に、ロシア性を拭い去ることでテーマの普遍性を浮彫にした。1954年には同じホートン・カンパニーがジョイス・トライスラーの振付による版を上演している。
1950年代
マリー・ヴィグマンが1957年にベルリン・フェスティバルのために創作した『春の祭典』は、黒いカーテンの前の楕円形の舞台で演じられ、台本の骨格を残しつつも、抽象性への道を開いた。
私たちは東京バレエ団のおかげで現在なおモーリス・ベジャールの振付による『春の祭典』をみることができるが、この版は1959年にブリュッセルで初演され、ベジャールの名を一挙に国際的に知らしめた。ベジャールは(『火の鳥』の場合と同じく)原台本を捨て、音楽を古代ロシアとは切り離し、原始人の春の儀式を「性の儀式」に変えた。装置のない舞台の上で、レオタードの男女が性交を繰り広げる。群衆はのたうち、はいずり、渦を巻いて、クライマックスへと緊張を盛り上げていく。二十世紀後半のバレエを代表する傑作といえよう。
1970年代
エリック・ウォルター版(デュッセルドルフ、1970)、ジョン・タラス版(ミラノ・スカラ座、1972)、ジョン・ノイマイヤー版(ハンブルク・バレエ、1976)はいずれもベジャールの影響のもとで作られた。
1974年にバイエルン国立歌劇場バレエが初演したグレン・テトリー版では、生け贄の処女が男性に置き換えられ、青年がスケープゴートとして虐殺され、復活するというストーリーになっている。
1975年に初演されたピナ・バウシュの『春の祭典』に衝撃を受けたという人は多いだろう。舞台一面に盛られた土の上を裸足の娘たちが走り回る。全体に地味なトーンの中で眼に鮮やかな赤い布が、犠牲の処女を選び出す。だが彼女は生け贄として神に捧げられるのではなく、男たちの集団に差し出される。この作品は、男女関係のもつ残虐さを私たちに突きつける。
1980年代〜
オーケストラ版ではなく二台のピアノのための編曲を用いたポール・テイラー版(1980)は、ベジャール的な抽象性を排し、古代の儀式とニューヨークのスラムの日常とを融合させ、日常生活の下に潜む人間の暴力性・残虐性を描き出そうとした。
リチャード・オルストンが1981年にバレエ・ランバートのために振り付けた作品は、ホドソンのように実証的にではなく、コレオグラファーの直観によって、ニジンスキーの意図したものを再現しようとする試みだった。
さて、先に述べたように、マーサ・グレアムは1930年にマシーン版で犠牲の処女を踊ったが、1984年になって、90歳のグレアムは自分の『春の祭典』を発表した。それまでの振付の試みの多くは、オリジナルのもつ原始性・ロシア性を払拭して、人間の普遍的・根源的な性衝動や攻撃性を描こうとしたが、グレアムはそうした流れに逆らって、オリジナルの台本に立ち返り、古代ロシアを、ジョージア・オキーフの絵を想わせるアメリカ南西部に、老賢者をアメリカ先住民のシャーマンに置き換えてはいるが、あくまで古代の儀式を現代舞踊によって再現しようとした。
以上の他にも、マッツ・エック版(1984)などがある。というより、筆者が知らないだけで、もっとたくさんのコレオグラファーがそれぞれの『春の祭典』を世に問うているのだろう。
日本では1995年に、三人のコレオグラファーが『春の祭典』を競作するという興味深い催しがあった。三者の中で突出していたのは大島早紀子が主宰し、傑出したダンサー、白河直子を擁するH・アール・カオスだった。来年一月には新国立劇場で、竹内登志子が手がけるという。
繰り返すが、ストラヴィンスキーの『春の祭典』はじつに誘惑的な名曲である。だが、生半可な才能は寄せつけないほどの難曲でもある。何よりも、あの複雑な重層構造。聞いているぶんにはいいが、舞踊による表現を与えるとなると、その複雑なリズムと対決しなければならない。
ニジンスキー、ベジャール、バウシュらによる名作に酔いつつ、心ひそかに新たな試みを期待しているのは筆者ばかりではないだろう。
|