|
オリガの「赤いジゼル」〜現代の視点で古典問う『この作品で、プリマが帰ってきた』
(東京新聞 1998/10/16)
この夏、ロシアのサンクトペテルブルクにあるマリインスキー劇場で、ボリス・エイフマンの『赤いジゼル』をみた。
クラシック一辺倒のロシア・バレエ界にあって、唯一モダン・バレエのカンパニーを率いて孤軍奮闘しているエイフマンがクラシック・バレエの殿堂で公演したのである。しかもその『赤いジゼル』は、かつてのマリインスキー劇場のプリマ、オリガ・スペシーフツェワをモデルにしている。「この作品で、オリガはこの劇場に帰ってきたのだ」とエイフマンは言った。
パヴロワやニジンスキーを育てた名教師エンリコ・チェケッティはかつてこう言ったという。「一つのリンゴが二つに割れて、半分がパヴロワに、もう半分がスペシーフツェワになった」。かの有名なバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)の団長だったディアギレフは、このチェケッティの言葉を受けて、「陽の当たっていた方の半分がスペシーフツェワだ」と言った。にもかかわらず、スペシーフツェワはすっかりパヴロワの名声の陰に隠れてしまっている。
スペシーフツェワは一八九五年生まれ。パヴロワより十四歳下である。ロシア帝室舞踊学校を卒業してマリインスキー劇場のバレエ団に入り、瞬く間にスターになった。パヴロワとまったく同じ道を歩んだわけである。先輩のパヴロワが早くに西側に亡命したのに対し、スペシーフツェワは革命後の混乱の時代にもロシアに残っていたが、動乱の波に翻弄され、一九二四年には西側に亡命した。パリ・オペラ座のプリマになって一世を風靡すると同時に、ディアギレフのバレエ・リュスの前衛的な作品でもたびたび主役を踊ったが、ロシアのクラシック・バレエの伝統の化身ともいうべき彼女は(この点でもパヴロワとまったく同じだが)現代的な作品を理解できなかったし、好きにもなれなかった。そこに彼女の最大の悲劇があったようだ。
それはともかく、彼女がバレエ史上に残した最大の功績は『ジゼル』を西側諸国に広めたことだろう。いうまでもなく『ジゼル』は『白鳥の湖』と並び、世界中で最も愛されているバレエのひとつだ。いわゆるロマンティック・バレエの代表作であるこのバレエは、一八四一年にパリ・オペラ座で初演されたが、人気は長続きせず、いつのまにか忘れられてしまった。
ところがこの作品はロシアではずっと上演され続け、今世紀になってからフランスに逆輸入されたのである。最初はニジンスキーとカルサヴィナ、パヴロワらによって紹介されたが、最も強いインパクトを与えたのはスペシーフツェワだった。とくに「狂乱の場」における迫真の演技はとても演技には見えなかったといわれる。
いや実際、彼女は狂気の芽をはらんだバレリーナだったらしく、一九四〇年代半ばに実生活でも精神に異常をきたし、じつに二〇年間にわたってニューヨークの精神病院に隔離されていた。その後ある程度回復して、ニューヨーク市郊外で静かな余生を送り、一九九一年に九十六歳で没した。
『赤いジゼル』の「赤」は共産主義と情熱と狂気の象徴であろう。忠実にスペシーフツェワの生涯を追っているわけではなく、エイフマンによるフィクションになっている。彼は「劇場の伝統についてのバレエを作りたいと長いこと思っていたが、それがこの作品で実現した」と、筆者に語った。
この作品は「バレエについてのバレエ」であり、劇場とは何か、伝統・古典とは何か、そして二十世紀とは何であったのか、について考える絶好の機会を与えてくれそうである。
|