ジゼルをめぐる悲劇とロマン

(ハイ・ファッション 1998/12)

 写真を見てほしい。オリガ・スペシーフツェワは稀にみるほど美しいバレリーナだ。現代的な小さな顔、驚くほどの美貌、すらりと伸びた手足、眩しいほどの脚線美(むかしのバレリーナはふつうもっと太っている)。さらに、写真ではわからないが、完璧な技術と、怖いほど真に迫った演技については数多くの証言が残されている。
 アンナ・パヴロワやニジンスキーを育てた名教師チェケッティはかつてこう言った。「1つのリンゴが2つに割れて、パヴロワとスペシーフツェワになった」。バレエ・リュスの団長ディアギレフはチェケッティの言葉を引いて、こう書いている。「私はこう付け加えたい。陽が当たっていたほうがスペシーフツェワだ」。
 にもかかわらず、パヴロワがかくも有名なのにたいし、スペシーフツェワの名はバレエ・ファンの間でもほとんど知られていない。この薄幸のバレリーナは、死後の名声にも恵まれなかったのである。
 彼女の写真をよく見ると、そこはかとない哀しみが漂っている。悲劇的な生涯が、写真にもあらわれているのだろうか。
 オリガ・スペシーフツェワは1895年にロシアの地方都市で生まれた。帝室バレエ学校に入るまでは孤児院に預けられていたというが、学校時代には早くも批評家たちの目を惹き、卒業後はマリインスキー劇場のバレエ団に入って、瞬く間にトップの座を射止めた。
 彼女の活躍の場はロシア国内に留まらず、1916年には、西側で活動していたバレエ・リュスのアメリカ公演に参加してニジンスキーと『薔薇の精』を踊り、1921年にはロンドンで同じくバレエ・リュスの『眠れる森の美女』の主役を踊ったが、そのたびに、西側に留まったらどうかというディアギレフの誘いを蹴ってソ連に帰った。
 この革命後の動乱の時代に国を出たり入ったりすることは容易ではなかった。オリガが自由に国を出入りできたのは、共産党幹部のカプルーンという人物と関係があったからだ。カプルーンは権力を笠に着てオリガに接近し、彼女にあれこれ便宜をはかり、そのうちにオリガのほうもカプルーンに好意を寄せるようになったが、やがてカプルーンはオリガを捨てた。同時にオリガは結核におかされ、一時は再起を危ぶまれた。
 1924年、オリガはついに西側に亡命し、パリ・オペラ座のプリマとして迎えられた。彼女を一気に有名にしたのは『ジゼル』である。狂乱の場における彼女の演技はとてもただの演技には見えなかった、と多くの人が書いている。
 だが西側での生活は悲劇の連続だった。当時はモダンで前衛的なバレエが流行していたが、彼女自身は現代バレエがまったく理解できず、大嫌いだった。彼女はクラシック・バレエ以外は念頭になかったのである。オペラ座でも、セルジュ・リファールとの確執があった。19世紀のバレエでは、男性ダンサーたちが後景に退けられていたが、リファールは男性ダンサーの地位を復権しようと努力していた。クラシック・バレエ信奉者のオリガにはそれが堪えられなかった。
 やがてオペラ座を離れたオリガは、しだいに精神に異常をきたし、1943年、ニューヨークの精神病院に収容され、以後20年間以上にわたって隔離されていた。
 1963年、オリガは奇跡的に快復して退院し、ニューヨーク郊外にあったトルストイ財団の施設で静かな老後をすごし、1991年に95歳の高齢でこの世を去った。なお、『ジゼルの肖像』というビデオに、最晩年の彼女の姿と、ジゼルを踊る若い姿が残されている。(残念ながら、現在は廃盤)。