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フォーキンのバレエ 〜『レ・シルフィード』と『ペトルーシュカ』
(新国立劇場バレエ講演プログラム 1999年6月)
1904年、ミハイル・フォーキンは、帝室マリインスキー劇場支配人テリャコフスキーに、『ダフニスとクロエ』のバレエ台本を提出した。上演許可を得るためである。結局、テリャコフスキーからはなんの返事も来なかったのだが、この台本には序文が付いていて、フォーキンはバレエに対する自分の考えをその中にしるしていた。つまり、それはいわば彼のバレエ改革宣言だったのである。(註1)
このとき、フォーキンは24歳。舞踊学校卒業と同時にソリストとしてマリインスキー劇場バレエ団に入ったフォーキンは、この年には第一舞踊手となり、その一方で2年前から舞踊学校の教師にもなっていたが、舞台と学校の両方で精力的に仕事をしながらも、当時のマリインスキー劇場バレエ団のスタイル、すなわちマリウス・プティパのスタイルに対して強い不満を抱いていた。
その歴史全体を通じて、バレエは演劇性(表現主義)と抽象性(形式主義)という二つの極端の間を蛇行しながら発達してきた。18世紀にバレエ・ダクシヨン(舞踊劇)を提唱したノヴェールはバレエを演劇性の方に近づけようとし、19世紀前半にロマンティック・バレエはその理念を継承したが、世紀後半にいわゆるクラシック・バレエの様式を確立したマリウス・プティパは演劇と舞踊を分離し、前者はパントマイムで処理し(かくしてストーリーは舞踊を見せるためのたんなる口実になりさがった)、抽象的舞踊を作品の中心に据えた。タマーラ・カルサーヴィナはその自伝『劇場通り』の中で、プティパの様式について、「主題はもはや、種々雑多な踊りがそこにぶらさがっている、壁の釘みたいなものになってしまいました。プティパは(中略)舞踊の内的動機を見失ってしまったのです」と書いている。
1904年に書いた事実上の舞踊改革宣言のなかでフォーキンが問題にしたのは、まさにこの「舞踊の内的動機」であった。彼がいちばん強調したのは表現主義である。舞踊は人間の内面の表現であり、抽象舞踊などというものはありえない。個々の作品は主題をもたねばならず、その主題にふさわしい新しい様式をもたねばならない。伝統的なパをそのまま使うことは許されないのである。(註2)
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『ダフニスとクロエ』の台本を提出したときには、フォーキンはまだ振付は手がけたことがなかったが、翌年には処女作『アキスとガラテア』を上演した。以後、ほぼ40年間にわたって60以上のバレエを創作し、その中でみずからの改革宣言を実践していったが、『レ・シルフィード』は最も初期の作品のひとつである。おそらく彼の全作品の中で、現在最も上演される機会の多い作品であろう。しばしば今世紀最初の抽象(アブストラクト)バレエ、物語のない(プロットレス)バレエと評されるが、最初は、現在とはずいぶん趣を異にする作品だった。
1907年2月、マリインスキー劇場での児童虐待防止協会主催慈善公演のためのバレエ作品を委嘱されたフォーキンは、グラズノーフがオーケストラ用に編曲したショパンのピアノ曲を使って、『ショパニアーナ』(ショパン組曲)というバレエを作ることにした。グラズノーフが編曲したのは4曲だったが、フォーキンはワルツを1曲グラズノーフに追加注文し、
(1)ポロネーズ(イ長調 op.40-1)
(2)ノクターン(ヘ長調 op.15-1)
(3)マズルカ(嬰ハ短調 op.50-3)
(4)ワルツ(嬰ハ短調 op.64-2)
(5)タランテラ(変イ長調 op.43)
の5場からなるバレエを発表した。第1曲は「ワルシャワの舞踏会」と題され、カラフルなポーランドの衣裳をつけた大勢の男女が踊る。第2曲はまるで演劇の一場面のようで、ショパンがマヨルカ島で作曲に没頭しているが、熱に浮かされている彼に修道僧の亡霊が襲いかかる。白い衣裳のミューズが登場して悪夢を追い払い、ショパンを慰める。「ポーランドの農村の結婚式」と題された第3曲も演劇的で、花嫁は年老いた花婿に花束を投げつけて恋人と駆け落ちする。「月光幻想」と題された第4曲は、青年とシルフィードとのデュエットで、明らかに『ラ・シルフィード』のパ・ド・ドゥを下敷きにしている。第5曲は「ナポリの広場」と題され、大勢の男女が盛大にタランテラを踊る。
フォーキンの狙いはバレエのさまざまな可能性を追求することだった。彼はとくに、ポロネーズやタランテラに見られるような、「できるだけ真正に近い」民族舞踊の創作に力を入れていたようだが、その後1年の間に彼の関心は大きく変化し、グラズノーフに追加注文した嬰ハ短調のワルツの部分、すなわち演劇性を排して「ムード」を強調する抽象バレエを拡大したいと考えるようになった。皮肉なことに、これはロマンティック・バレエにおけるバレエ・ブラン(『ラ・シルフィード』や『ジゼル』の第2幕のような、女性たちが白い衣裳で踊るバレエ)の復興に繋がり、フォーキンが反発していた抽象バレエの発展へと繋がるものであった。
翌1908年、第1版とはがらりとムードの異なる第2版が作られた。今回の編曲者はモーリッツ・ケーレルだったが、2月に上演された『ショパンの音楽による舞踊』(第2−1版)では、編曲が間に合わなかったため、マズルカ、ワルツ、ノクターン、ワルツの4曲がピアノのまま演奏された。このとき、終曲のワルツでは20人のコール・ド・バレエがロマンティック・チュチュを着て踊った。これが現在の様式の原型となった。翌月、ケーレルのオーケストレーションが完成し、
(1)ノクターン
(2)ワルツ
(3)マズルカ
(4)ワルツ
(5)プレリュード
(6)マズルカ
(7)華麗なる大ワルツ
の7曲からなる『ロマン的夢想〜ショパンの音楽によるバレエ』(第2−2版)が上演され、パヴロワ、プレオブラジェンスカヤ、カルサヴィナ、ニジンスキーらが踊った。(註3)
翌1909年2月、ポロネーズが序曲として加えられ、ふたたび『ショパニアーナ』(第2−3版)という題名で上演された。
そして同年6月2日、パリにおける第一回ロシアバレエ(バレエ・リュス)公演の演目のひとつとして、『レ・シルフィード』(第3版)というタイトルで、パリで上演された。主催者(というより芸術監督)ディアギレフはケーレルの編曲が気に入らず、グラズノーフ、チェレプニーン、リャードフ、そしてストラヴィンスキーに新たに編曲を依頼した。以後、この作品は世界中の数多くのバレエ団でレパートリーに加えられるようになった(註4)。
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ストラヴィンスキーは『レ・シルフィード』のノクターンと大ワルツのオーケストレーションを担当したが、以後、彼はバレエ・リュスに深く関わることになり、『火の鳥』『ペトルーシュカ』『春の祭典』『結婚』『狐』『ナイチンゲールの歌』『ミューズを導くアポロ』などの名作を提供することになる。
ストラヴィンスキーの自伝は虚偽が少なくなく、たとえば彼は自分が『春の祭典』を着想したと書いているが、現在、原案者はニコライ・レーリッヒだったことが判明している。したがって、「自分が『ペトルーシュカ』を着想した」というストラヴィンスキーの記述も果たして本当に信用できるかどうか、わからないのだが、今のところ反証は挙がっていないので、彼の記述に従うと、ストラヴィンスキーは『春の祭典』を作曲中にペトルーシュカのライトモチーフを着想した。その報告を受けたディアギレフの提案で、アレクサンドル・ブノワ(ロシアではベヌア)が台本を書くことになり、その台本に沿って、ストラヴィンスキーが曲を完成させたのだった。装置・衣裳もブノワが担当することになった。
ブノワはその自伝のなかで、「自分にとってすべての活動の出発点はペトルーシュカ劇だった」と述べ、幼い頃にあちこちで見たペトルーシュカ劇について詳しく書いている。ペトルーシュカ劇とは、お祭り・縁日の見世物小屋で上演された、英国の『パンチとジュディ』に相当する人形劇である。ブノワは『ペトルーシュカ』の台本に少年時代へのノスタルジーを込めたのだったが、それはともかく、直接に『ペトルーシュカ』に影響を与えたと考えられる舞台作品は二つある。ひとつは1906年に初演された、ブローク原作、メイエルホリド演出の『見世物小屋』である。世紀末から今世紀初頭にかけて、ヨーロッパ各地でコンメーディア・デルラルテの復活が見られたが、『見世物小屋』もそうした例の一つである。もうひとつの、より直接的影響を与えたと思われる作品は『聖ドニの日の市』という中世劇である。これは1907年12月にエヴレイノフが企画・主催した「古劇」という催しで上演される予定で、準備は完了していたが、結局、公開されなかった。「古劇」という催しは、主として中世の街頭劇・神秘劇を復元上演しようという企画で、舞台美術ではブノワが、振付ではフォーキンが参加していた。スペンサー・ゴループやサリー・ボーデンが指摘しているように、『聖ドニの日の市』の装置(担当はランセレー、衣裳はブノワ)と『ペトルーシュカ』のそれとを比べてみると、どちらにも劇場内劇場としての人形芝居小屋があって、それが舞台の中心になっているだけでなく、どちらも場所は街の広場で、市がたっており、そこには色とりどりの店が並び、酔っぱらいをはじめ、浮かれ騒ぐ群衆が踊る、というふうに共通点が多い。『ペトルーシュカ』を中世神秘劇の現代版として見ると、最後の場面でのペトルーシュカの復活はキリストの復活と重なって見えてくる。
フォーキンは、ブノワの台本、ストラヴィンスキーの音楽ができあがってから、それに従って振り付けたが、彼はこの作品でも自分の舞踊美学を実践に移し、まずトウシューズを追放した。登場人物のなかでトウシューズをはいているのは「バレリーナ」の人形と大道芸人の踊り子だけで、いずれもクラシック・バレエのパロディを演じるためにトウシューズをはいている。
さらにフォーキンは、とくに二つの点で、みずからが信奉する個人主義・民主主義を実践した。第1に、クラシック・バレエにおけるコール・ド・バレエの無名性・没個性性を排した。すなわち、それ以前のバレエでは、ソリストたちにはちゃんとした役柄があるが、コール・ド・バレエはたとえば男1、女2というふうに無名であり没個性的である。というより、コール・ド・バレエには個性があってはいけないのである。それにたいしてフォーキンは『ペトルーシュカ』において、コール・ド・バレエの一人ひとりに警官、兵士、子守、大道芸人といった役柄を与えた。
第2に、コレオグラファーの独裁制を排した。19世紀にはコレオグラファーの権威は絶対的で、ダンサーは全員、彼の言うとおりに踊らなくてはならなかった。フォーキンはダンサー一人ひとりの創意を尊重し、役作りや振付のかなりの部分を個々のダンサーに任せた。(註5)
主役のペトルーシュカは、演技力を試される非常に難しい役柄で、感動的な演技にはなかなかお目にかかれない。初演時に主役を演じたのはニジンスキーで、魂を揺さぶるような名演技だったといわれる。
(註1)そのちょうど10年後の1914年に、フォーキンは英国の「タイムズ」紙に、5項目からなる改革宣言を発表するが、内容的には1904年のものとほぼ同じである。
(註2)ちなみに、クラシック・バレエでは1曲終わるごとに拍手する「お約束」になっているが、フォーキンは「劇的進行を阻害する」として、そうした慣習を激しく批難している。
(註3)翌月、『ショパンの音楽によるグラン・パ』というタイトルで、舞踊学校の生徒たちによって踊られた。
(註4)『レ・シルフィード』は今日なお世界中で広く上演されているが、ロシアでは『ショパニアーナ』というタイトルで上演されている。序曲が異なり(前者はプレリュード、後者はポロネーズ)、また男性のソロの曲も異なり(前者はop.33-3,
後者はop.67-3)、テンポは概して後者の方が速い。
(註5)それで、大道芸人の踊り子を演じたブロニスラヴァ・ニジンスカは自分の思いつきで、「古い」スタイルのバレリーナ、マチルダ・クシェシンスカヤのパロディを演じてみせた。
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