パパ・タラフマラ「青/ao」
(日経新聞 01/2/13)

 青い壁に囲まれた舞台には、ジャコメッティの人体彫刻をさらに抽象化したようなオブジェが並んでいる(途中から回転する)。民謡のような、声明のような、あるいはグレゴリオ聖歌のような声が朗々と響き渡り、やがて単調で無機的な音響とともに、作務衣風の青い衣裳を着た十人のパフォーマーたちが入れ替わり立ち替わり踊る。踊るという表現がふさわしいかどうか、わからない。彼らはひたすら歩き、走り、回り、倒れ、転げ回り、寝そべる。
二十年近く前にこのカンパニーを結成した小池博史は、言葉とそれがもたらす意味を徹底的に排除して、ダンスとも演劇ともつかぬ、音楽と美術とパフォーマンスを融合させた、ジャンル分けのむずかしい独自のスタイルを確立し、国際的評価も高い。
舞台上の世界は未来のようでもあるし、原始のようでもある。その空間は漠然とアジア、それも乾いた土地を連想させるが、やがてそこに、赤い十字架のモチーフとともにヨーロッパ的な空気が流れてくる。錬金術の儀式みたいなものが繰り広げられるなか、張りぼての青い馬が登場する(黙示録?)。終末かと思いきや、印象的なフィナーレが待っている。このカンパニーの公演にはいつも、どこか郷愁をそそる奇怪な装置が登場するが、この作品では舞台中央に、ピサの斜塔の模型みたいな金属の塔が作られ、そこから張り出した「枝」にパフォーマーたちが寝そべる。やがて塔の底から煙が立ち上る。
小池の他の作品と比べて、ダンスの要素が強いが、ダンスの部分にだけ注目すると、パフォーマーの身体がもっと鋭く鍛えられていたらなあとか、ところどころ凡庸だなあ、もっと面白いダンスはいくらでもあるなあという不満をおぼえてしまう。これはこの作品に対する「正しい」見方ではないのかもしれないが、どうしてもそういう見方になってしまうのは、超時間的で無機的で抽象的な舞台の中で、身体だけが浮いているからだ。身体がもっと舞台空間に溶け込んだなら、この世界はより完成度を増すのではなかろうか。
8日、世田谷パブリック・シアター。