ニジンスキー没後50年に寄せて

(パルコ劇場「ニジンスキー」プログラム 2000/2)

 今から50年前の1950年4月にロンドンで亡くなったとき、ニジンスキーはすでに「過去の人」であった。
 だがその後の50年間に、彼は「永遠の人」となった。
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 1889年にキエフでポーランド人の両親から生まれたヴァーツラフ・ニジンスキーは、ペテルブルクのロシア帝室舞踊学校で最高級のバレエ教育を受けた。1907年に当時世界最高水準を誇っていたマリインスキー劇場バレエ団に入り、コール・ド・バレエを飛び越えていきなりソリストになったとき、彼はすでに若手ナンバーワンとして、クシェシンスカヤ、パヴロワなどのプリマ・バレリーナの相手をつとめていた。もしそのままマリインスキー劇場のダンサーとして生涯を終えたとしても、バレエ史に残る名ダンサーになったことは間違いない。だが、バレエ・ファン以外の人びとの関心をも惹きつける芸術家になったかどうかはわからない。彼の運命を変えたのは、バレエ史上最高のプロデューサー、セルゲイ・ディアギレフとの出会いであった。
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 当時、パリやロンドンでは、バレエは大衆娯楽になりさがっていた。そこへディアギレフはロシアのバレエを紹介しようと企てた。そのディアギレフの「最大の武器」だったのがニジンスキーである。彼は文字通り一世を風靡し、その驚くべき跳躍力は人びとを唖然とさせ、「彼は空中に静止している」とすら言われた。
 だが跳躍力だけで名ダンサーになれるわけもない。跳躍よりも観客の心を揺すぶったのはその表現力であった。『シェエラザード』の奴隷役では、豹のようなしなやかな肢体で、人間の奥深く眠る原始的なエロスを生々しく表現し、『ペトルーシュカ』では、魂をもった「醜い」人形を演じて観客の涙を誘うと同時に、その醜さこそが現代における新たな美であることを宣告した。また『薔薇の精』では、19世紀には考えられなかった両性具有美を体現した。
 それまでバレエを娯楽としか考えていなかった人びとは、ニジンスキーが舞台に現出させる幻に圧倒され、バレエが人間の心の闇をも表現しうる芸術であることを思い知らされたのだった。
 ニジンスキーの登場は、同時に、男性ダンサーの力を人びとに見せつけた。近代バレエ、つまり私たちが今みているようなバレエは19世紀初頭、すなわち今からおよそ200年前に生まれたが、最初の100年間、舞台の中心はつねに女性によって占められていた。19世紀は「バレリーナの時代」だったのである。これは比喩ではなく、パリやロンドンのようなブルジョワ階級が指導権を握った都市では、実際に男性は「見苦しい」という理由で舞台から締め出され、男役は男装の女性ダンサーによって踊られた。
 その傾向を180度転換させたのがニジンスキーであった。ニジンスキーの出現によって、20世紀は「男性ダンサーの時代」になった。ヌレエフ、ドン、バリシニコフ、そして熊川哲也も首藤康之も、その意味ではニジンスキーの「血」を引いているのである(「いや、今だってバレエは圧倒的に女性中心ではないか」という反論の声が挙がるかもしれないが、繰り返し上演されている『白鳥の湖』や『眠れる森の美女』や『ジゼル』は19世紀のバレエだということをお忘れなく)。
 ただし、19世紀の女性ダンサーに求められたのは「女らしさ」であったが(それを求めたのは男性の眼差しである)、『薔薇の精』が典型的に示しているように、ニジンスキーがその原型を作り上げた現代の男性ダンサー像は、けっして古いタイプの男らしい男ではなく、両性具有的な美をかねそなえた男の魅力であった。
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 バレエ史上におけるニジンスキーの意義はそれだけに留まらない。振付家として彼は作品を4つしか残していないが、どのような振付であったのかいまだによくわからない『遊戯』『ティル・オイレンシュピーゲル』はともかく、『牧神の午後』と『春の祭典』によって、ニジンスキーは一気にバレエというジャンルの枠を超越してしまった。その点で、半世紀後に日本で生まれ、西洋の舞踊に決定的な影響を与える暗黒舞踏もまた、遠くニジンスキーの血を引いている。
 驚異的な跳躍力を誇ったニジンスキーだったが、その振付処女作『牧神の午後』ではいっさい跳ばない。また、きわめて様式化されたその振付は、モダンダンスとは反対の方向からバレエの解体を予言した。しかも、演出家・振付家・美術家たちが額縁型舞台をできるだけ立体的に見せようと腐心していた時代に、彼はあえて二次元の舞台を創出し、またストレートに「性」のテーマを扱うことによって、やがて20世紀に主流となる芸術傾向を予言した。
 そして『春の祭典』によって、ニジンスキーはバレエの枠からさらに大きく跳び出す。ストラヴィンスキーの『春の祭典』には、それ以後、100人近いコレオグラファーたちが挑戦してきたが(今なお、挑戦は続いている)、その中で、最初の振付家であるニジンスキーだけは、ストラヴィンスキーの重層リズムに対して、より複雑な「ダンサーのリズム」で対抗しようとしたのだった。またその振付は、古典バレエの根幹にあるアン・ドゥオール(開脚)、垂直性、上昇志向性を全否定した。ダンサーたちは首を傾げ、内股で、大地を踏みならし、あるいは痙攣的に跳躍する。「バレエダンサーがどうしてこんなことをしなくてはならないのか」と観客もダンサーたちも思った。その特異な振付の意味が理解されるようになるのは、暗黒舞踏が生まれてから以後のことだといっても過言ではなかろう。
 20世紀後半の最大のコレオグラファー、モーリス・ベジャールは自分がニジンスキーの精神の後継者であることを自認しているし、ジョルジュ・ドンもまたかなりニジンスキーに自己を同一化していた。ニジンスキーの死から現在までの50年は、あまりに遠くまで跳躍したニジンスキーの才能に、バレエ芸術が必死に追いつこうとしてきた50年だったのだ、ともいえそうだ。
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 しかし、ニジンスキーがダンサーとして、コレオグラファーとして活動したのは、ほんの10年ほどの間だけである。29歳で、彼は人々の前から姿を消した。以後30年間、彼は精神病者として、意識の薄闇の中を生き、生きながらに「伝説」と化した。
 だがその死後、彼はその『手記』によって、舞踊の「神」となった。いや少なくとも「神」を見た者として私たちの前に再びあらわれた。
 正気から狂気への崖っ淵にいたときに書かれた『ニジンスキーの手記』は、まるで精神分析の自由連想のように、話題から話題へと平行移動していく。幼い頃の父親の思い出。娘への愛情。妻に対する愛憎。新作バレエの構想。新式の万年筆を発明して一儲けしようという妄想。
 狂気の闇へと沈みかけた意識の中に繰り返し浮上してくるのは、かつての師=愛人ディアギレフへの愛憎だ。彼は正気と狂気の狭間にあってなお、ディアギレフを愛し、そして憎んでいたのである。
 そして何度も繰り返し書き付けられる「神」という言葉。彼はみずからしるす・・・「舞踊の神ニジンスキー」と。
 暗黒舞踏の創始者、土方巽はこう書いている。「生涯に4コのバレエを作ったその道の天才が、その為に何千時間を費やしたという告白より、むしろ風邪を引くことを怖れているニジンスキー氏に興味がわく。そこでは氏の告白が踊っている」。たしかにバレエや踊ることについて書かれた部分は多くなく、ニジンスキーは迫り来る狂気に脅えながら、ありふれたこと、ばかばかしい、あるいは下らないことを懸命に書きつける。だがじつは、そうしたありふれているように見える部分こそが、清冽な魂の告白であり、神との対話なのである。それゆえ私たちの心を打つのだ。その魂の告白を通じて、私たちはニジンスキーのダンスが魂の舞踏であったことを思い知るのである。
 どんなダンサーも、血の滲むような努力をして、形を超えた魂の表現を、喘ぐようにして求めるが、多くの場合はその表面をかすることしかできない。ニジンスキーはその「魂の跳躍」によって、それを一気に鷲づかみしたのだ。だが、ニジンスキーとて神ではありえず、舞踊の核心を掴み取った代償として、永遠に正気を失ったのだった。
 没後50年たった今、ニジンスキーについて考えることは、たんに現在や未来の舞踊について考えることではなく、芸術の本質について、そしてさらには人間の魂について考えることなのである。