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モンテカルロとバレエ
(モンテカルロ・バレエ日本公演プログラム 1998/10)
フロイトの『精神分析入門』の中に、あるときモンテカルロがある国の名を度忘れしてしまい、なかなか思い出せなかった、というフロイト自身の体験談が語られているが、もちろん国名はモナコである。モンテカルロはモナコ公国にある4つの地区のうちの1つだ。
モナコは本当に小さな国で(1.5平方キロしかない)、街を散歩していると、いつのまにかフランスに出てしまったりする。モナコはフランスに囲まれていて、国民の大多数はフランス人だし、もし大公の一族に男の世継ぎが絶えたときにはフランスに吸収されるということになっている。
モンテカルロというと、有名なのは自動車レースとカジノだが、そのカジノのある建物は、パリのオペラ座によく似ている。それもそのはず、同じシャルル・ガルニエの設計である。そしてその同じ建物の中に、カジノと並んで歌劇場がある。かつてディアギレフのバレエ・リュスが本拠とし、現在モンテカルロ・バレエが本拠にしている劇場である。
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史上最も有名なバレエ団であるバレエ・リュスは、1909年にパリのシャトレ座で、あまりに有名な歴史的公演「セゾン・リュス」を催した。そのときはまだ固定したバレエ団ではなくて、休暇中のマリインスキー劇場のダンサーたちを集めた臨時のカンパニーだったが、翌年、今度はパリ・オペラ座でふたたび公演を大成功させたディアギレフは自前の一座を結成することを決心した。
そして1911年、正式に結成されたバレエ・リュスの第一回公演はモンテカルロから始まった。最初に上演されたのはフォーキン振付、ニジンスキーとカルサヴィナ主演の『薔薇の精』である。どうしてモンテカルロだったのか。
当時、モンテカルロの歌劇場の支配人をつとめていたのは、ラウール・ド・ギュンズブールという人物だった。彼はフランス人とルーマニア人との混血で、以前はモスクワで芝居のプロデューサーをしていた。その手腕にかけても野心においても、ディアギレフに劣らぬ興行師(インプレッサリオ)だったらしいが、その彼がバレエ・リュスをモンテカルロに招いたのである。
ちなみに、バレエやオペラの歴史を調べていると、興行師とそのネットワークが非常に重要な役割を演じていたことがわかる。先に述べた有名なバレエ・リュスの1909年シャトレ座公演にしても、今日ではディアギレフの巨大な陰に隠れてしまったが、ガブリエル・アストリュクというフランスの興行師がいなければ成功したかどうかわからない。ちなみに劇場支配人とか興行師には、アストリュクやギュンズブールを含め、ユダヤ系がひじょうに多い(アメリカのブロードウェイやハリウッドを創り上げたのがユダヤ人だったことは改めていうまでもない)。
面白いのは、というより恐ろしいのは、興行師たちは手を組んで公演に取り組みつつ、裏で足を引っ張り合ったりするということだ。ディアギレフとアストリュクも喧嘩と仲直りの繰り返しだったが、ディギレフとギュンズブールの関係も、表面上は協力し合いながら、ディアギレフはモンテカルロ歌劇場の支配人の椅子を狙い、ギュンズブールはバレエ・リュスの団長の座を狙っていた。
バレエ・リュスとモンテカルロの結びつきがいっそう深くなったのは、第一次世界大戦後である。大戦中、バレエ・リュスは一時活動停止に追い込まれたが、なんとか一座を存続させようとするディアギレフとギュンズブールの思惑が一致したのである。これがバレエ史上幸運な結びつきであったことは、1924年だけでも『女羊飼いの誘惑』『牝鹿』『うるさがた』『禿山の一夜』などがモンテカルロで初演されていることからもわかる。
だが、ディアギレフは1929年に急死してしまった。
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同年、それまでモンテカルロ歌劇場の演劇・オペレッタ部門の監督をしていたルネ・ブリュムがバレエ部門の監督になり、バレエ・リュスに変わるバレエ団を結成しようと考えた。最初はうまくいかなかったが、1932年、ワシーリイ・ド・バジル大佐と知り合った。ド・バジルはかつてコサック軍の大佐だったが、その後興行界に入り、当時はパリでロシア歌劇団(バレエ団も附属していた)を共同経営していた。ブリュムとド・バジルは、バレエマスターにバランシン、芸術アドバイザーにボリス・コフノ、レジッスール・ジェネラールにグリゴーリエフを迎えて、バレエ・リュス・ド・モンテ・カルロ(Les
Ballets Russes de Monte Carlo)を結成した。このバレエ団で華々しく登場したのが、ベビー・バレリーナと呼ばれたトゥマノワ、バロノワ、リャブシンスカである。彼女たちは文字通り「ベビー」で、トゥマノワとバロノワは12歳、リャブシンスカは14歳だった。
だがその年の末には早くもバランシンとコフノが抜け、「バレエ1933」を結成した。代わりにレオニード・マシーンがバレエマスターに就任し、マシーン時代は1938年まで続く。念のため申し添えておくと、バレエマスターというのは現代の芸術監督に相当する。
1935年、ブリュムがモンテカルロ歌劇場の監督をやめたため、バレエ・リュス・ド・モンテカルロは「バジル大佐のバレエ・リュス」(Ballets
Russes de Colonel W. de Basil)と名を変え、モンテカルロとの繋がりは切れた。その後、このカンパニーはエデュケーショナル・バレエ・リミテッド(Educational
Ballets Limited)、オリジナル・バレエ・リュス(Original Ballet Russe)などと名前を変えながら活動を続け、最終的に1952年に解散した。
いっぽうブリュムはモンテカルロ・バレエ団(Les Ballets de Monte Carlo)を結成し、1938年、バジル大佐と喧嘩別れしたマシーンを芸術監督に迎え、デナムを団長とするバレエ・リュス・ド・モンテカルロ(Ballet
Russes de Monte Carlo)と改称し、マシーンは『ゲテ・パリジエンヌ』などを創作した。1938年には有名なバレエ戦争が起きた。バジル大佐の一座とブリュムの一座とが同じロンドンで同じ時期に、たがいに近くの劇場で公演したのである。これは裁判へと発展した。その後、ブリュムの一座もアメリカに渡り、そのままヨーロッパに戻ってくることはなく、そのまま解散した。
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ド・バジルやブリュムの一座がモンテカルロを去った後、第二次世界大戦中にふたたびモンテカルロ・バレエ団(Ballet de
Monte Carlo)が結成された。1945年、フランスが解放されると、オペラ座の芸術監督だったリファールはナチスへの協力疑惑で、ジャック・ルーシェとともに解雇され、モンテカルロにやってきた。かくして、彼が芸術監督となった新モンテカルロ・バレエ団(Nouveau
Ballet de Monte Carlo)では、パリからやってきたジャニーヌ・シャラ、イヴェット・ショヴィレ、ジジ・ジャンメールらが舞台に立ったが、1947年、リファールはパリ・オペラ座に呼び戻された。リファールの後を継いだのが、ド・クエヴァス侯爵である。彼はもともと南米チリの貴族で、バレエ狂だったが、ロックフェラー一族の一員だった女性と結婚し、妻の財力によってアメリカでバレエ団を経営していた。彼がアメリカから連れてきたロゼラ・ハイタワー、マリア・トールチーフ(元バランシンの妻)、アンドレ・エグレフスキーらが、シャラ、ショヴィレ、ジャンメールらといっしょに舞台に立ったが、毎年かなり長い期間、モンテカルロで定期公演を打たなければならず、ド・クエヴァスはそれよりも国際的に活動したかったため、1950年、彼は一座の名前をド・クエヴァス侯爵グラン・バレエ(Grands
ballet du Marquis de Cuevas)とし、モンテカルロと縁を切った。
その後長いこと、モンテカルロにはバレエ団がなかった。元ハリウッドの大スターだったグレース公妃はぜひともバレエ団を設立したいと願っていたが、82年に自動車事故で他界し、その遺志を継いだカロリーヌ公女が1988年にモンテカルロ・バレエを創設した。
モンテカルロは、一言でいえば富豪老人たちのためのリゾート地なので、最初のうちはそうした人びとに喜ばれそうな演目が多かったが、1995年に芸術監督に就任したジャン=クリストフ・マイヨーは、フォーキンのレパートリーを継承しながらも、敬愛するバランシンの作品を取り入れ、さらには自分の作品を多く上演するようになり、かなりモダンなカンパニーに衣替えした。
このようにバレエ・リュスから現代バレエへといたる20世紀バレエの歴史において、モンテカルロは「核」ともいうべき場所だったのである。
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