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サンクトペテルブルクとバレエ芸術
(キーロフ・バレエ団来日公演プログラム 2003年12月)
キーロフ・バレエの本拠地であるサンクト・ペテルブルクは今年、建都300年を迎えた。同じロシアでもモスクワには800年以上の歴史があるし、「ロシアの都市の母」と呼ばれるキエフ(現在はウクライナ共和国)にいたっては1500年以上の歴史を誇る。ペテルブルクは「古都」と呼ばれることもあるが、ロシアの中でも、またヨーロッパの他の大都市と比べても、ひときわ若い町なのである。
またこの町は、世界中の人口100万人以上の大都市のなかで最北にある。さらに、面積の十分の一が水面という点でもユニークだ。40以上の島を300以上の橋が結んでいる、「水の都」なのである。「北のベニス」と呼ばれるゆえん。
今から300年前、ピョートル大帝がここに要塞を築いたのだが、それまでここはスウェーデン領だった。葦の生い茂るただの湿地帯だったが、ここがスウェーデンに占領されていたため、ロシアの船が西ヨーロッパに行こうとしたら、北方の港アルハンゲリスクから北極海を通って、つまりスカンジナビア半島の北を回って行くほかなかった。ピョートルはこの地を奪還して「西欧への窓」とし、首都をモスクワからこちらに移したのだった。ペテルブルクという名は「聖ペテロの町」という意味で、ピョートル大帝の町という意味ではないが、大帝の町だと思っているロシア人も多い。
なお、この町は何度も名前を変えている。最初はオランダ風にサンクト・ピーテルブッフ、19世紀になるとドイツ風にサンクト・ペテルブルク、第一次世界大戦時には(ブルクが敵国ドイツの言葉だという理由で)ペトログラード、1924年にレニングラードになった。そしてソ連崩壊後の1991年、サンクト・ペテルブルクに戻った。
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ピョートルは相当な奇人だったが、その話を始めると、それだけで紙面が尽きてしまうので、ここでは彼の西欧化政策のなかで、われわれバレエ・ファンに多少とも関係のあることにだけ触れておこう。彼は西欧からさまざまな制度風習を輸入したが、そのなかにアッサンブレがあった。これは宮廷宴会のことだが、そのメインはダンスであった。ピョートルは「かならず女性が参加すること」というお触れを出し、それまで家に閉じこめられていた女性の地位向上に貢献したといわれる。
ピョートルの死後、アンナ女帝による治世の1730年代に、ジャン=バティスト・ランデというフランス人が、ペテルブルクの町にバレエ学校を創立した。これがワガノワ学校の遠い祖先である。
その後、ロシアは、ヒルファーディング、アンジョリーニ、ル・ピックといった、バレエ史の本にかならず名前の出てくる有名なバレエ・マスターたちを西欧から次々に呼び、彼らの尽力によって、ロシアのバレエは18世紀を通じて着実に発展していった(ちなみに、バレエ・マスターというのは現在とは意味が違い、振付家兼芸術監督に近い役職だった)。
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ロシアの芸術が花開くのは19世紀である。
文学ではまずロシア最大の詩人プーシキン。彼は38歳で決闘に倒れるまで、『エヴゲーニイ・オネーギン』『スペードのクイーン』『ボリス・ゴドゥノフ』『金鶏』などの名作を残した。世紀後半になると、ツルゲーネフ、トルストイ、ドストエフスキーらが小説の黄金時代を築き、次いでチェーホフが小説や芝居に才能を発揮する。周知のごとく、チェーホフの芝居は今なお世界中で上演されている。
ちなみに、近代日本文学にいちばん大きな影響を与えた外国文学はロシア文学だろう。
音楽に目を転じても、近代ロシア音楽の父と呼ばれるグリンカ以降、大作曲家が次々にあらわれ、ロシア独特の音楽を確立していく。そのひとつの頂点がチャイコフスキーである。彼の作品には交響曲もピアノ協奏曲もバイオリン協奏曲もオペラもあるが、私たちバレエ・ファンにとっては、彼は何よりも三大バレエの作曲者だ。だが、その話をする前に、ふたたびペテルブルクの町に眼を戻そう。
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初めのうちはもっぱら船が交通輸送手段だったこともあり、ネヴァ川には一本も橋がかかっていなかったが、やがて次々に橋ができ、1713年にはネフスキー大通りができた。18世紀半ばまではラストレリというイタリア人建築家の主導のもと、バロックやロココの絢爛豪華な建築が盛んに作られたが、エカテリーナ女帝の時代になると古典様式が支配的になった。それを完成させたのがカルロ・ロッシである。彼の父はロシアの貴族、母はイタリア出身のバレリーナだった。彼はワガノワ学校のある「ロッシ通り」にその名を残している。こうして19世紀半ばにはペテルブルクの町は完成した(が、後に述べるように、古い建物の大半は第二次大戦中に破壊された)。
ロシアの作家たちには、このペテルブルクの町を描いた名作が多くある。プーシキンの『青銅の騎士』は、一方ではピョートルの偉業を讃えながら、同時に、ネヴァ川の氾濫でいっさいを失って発狂する小官吏の悲劇を描く。ゴーゴリは『外套』や『鼻』で、霧に包まれた寒い町で惨めな生活を送る小官吏たちを描いた。ドストエフスキーの『罪と罰』は、うだるような暑さのペテルブルクで起きた殺人事件を描いている。この北方の特異な町は、芸術家たちを惹きつけてやまない魅力をもっていたのである。
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ふたたびバレエに目を向けると、18世紀に引き続き、19世紀に入っても、ロシアのバレエは着実に発展を続けた。その発展に最大の貢献をしたのは、引き続いて西欧からやってきた有名なバレエ・マスターたちだ。まず『フロールとゼフィール』などで知られるディドロが、次いで『エスメラルダ』『パ・ド・カトル』『ジゼル』などで有名なペローが、そして『コッペリア』で知られるサン=レオンがやってきて、ロシア・バレエの水準をぐんぐん上げていった。
いっぽう、マリー・タリオーニ、ルシール・グラーン、ファニー・エルスラー、カルロッタ・グリジ、ファニー・チェリート、カロリーナ・ロザーティといった、西欧で最も有名なバレリーナたちが入れ替わり立ち替わりロシアにやってきた。ロシアのバレエ・ファンの眼はどんどん肥えていったのだった。
19世紀前半、西欧ではパリ・オペラ座を中心にバレエが隆盛を誇り、『ラ・シルフィード』『ジゼル』といった名作を生んだが、世紀後半に入ると、急速に衰退していった。というのも、女性の体目当てにやってくる中小企業の経営者や商店主が観客席を占めるようになり、彼らの好みに合わせ、お軽い出し物ばかり上演するようになって、どんどん質が低下していったのである。観客の目当ては若い女性の肉体だったから、男の役も女性が踊るようになった。だから、リフト(男性が女性を持ち上げる)のようなテクニックは存在しなかった。
それに対してロシアでは、バレエはいわば国家事業であり、皇帝みずからがバレエ団を庇護した。「バレエによる国興し」が行われたといっても過言ではない。そのために、19世紀後半になると、ロシア・バレエの水準はパリ・オペラ座を凌駕するまでになったのである。
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さて、先に述べたサン=レオンの後にやってきたのが、バレエ史上最も重要な振付家であるマリウス・プティパである。彼は先輩たちと違って、ロシアに来る前、西欧ではほとんど無名だったが、ロシアでその才能を全面開花させた。彼はロシア・バレエを世界一の水準に引き上げると同時に、クラシック・バレエという新しい様式を完成させた。彼は『ファラオの娘』『ドン・キホーテ』『バヤデルカ』といった作品を発表するたびに名声を高めていったが、その名声は『眠れる森の美女』(1890)で絶頂に達する。
それまでロシアでバレエ音楽の第一人者は、オーストリア人のミンクスだった。彼が書いた『ドン・キホーテ』や『バヤデルカ』の音楽は、私たちバレエ・ファンにとってはひじょうに馴染み深いが、けっして一流の音楽とはいえない。それが証拠に、いわゆるクラシック音楽ファンの間ではまったく知られていないし、演奏会で取り上げられることもない。
新しくマリインスキー劇場の支配人(早い話がプロデューサー)になったフセヴォロジスキーは、振付も音楽も美術も超一流のバレエを作って、いささか停滞気味のロシア・バレエをさらに発展させようと考え、ペローの昔話「眠れる森の美女」を題材に(彼はフランス趣味でもあった)、振付は当然ながらマリインスキー劇場の主席バレエ・マスターだったプティパに依頼し、音楽は人気絶頂のチャイコフスキーの依頼したのだった。なお、フセヴォロジスキーは自信家で、美術・衣装は自分で担当している。
チャイコフスキーは、プティパの細かい指示に従って曲を書くのは不愉快だったらしいが、我慢して曲を書き上げた。結果は大好評だった。この初演版を、最近、ヴィハレフらの研究にもとづき、キーロフ・バレエが復元上演したことは記憶に新しい。
『眠れる森の美女』の大成功に気をよくしたフセヴォロジスキーは、同じスタッフによる『くるみ割り人形』の上演を計画した。チャイコフスキーは『眠れる森の美女』に勝る珠玉の名曲を書き上げた。しかし振付はプティパではなく、彼の助手をつとめていたレフ・イワノフが担当した。
そしてその翌年、チャイコフスキーが謎の急死を遂げた。
『眠れる森の美女』の17年前に、彼がモスクワのボリショイ劇場で『白鳥の湖』というバレエを上演したことは、フセヴォロジスキーやプティパも知っていた。『白鳥の湖』は数年間上演されたが、財政上の理由でボリショイ・バレエのレパートリーから外されてしまっていた。モスクワは首都ペテルブルクとは違って田舎町であり、そこのボリショイ・バレエ団もマリインスキー・バレエ団に比べると格段に水準が低かったので、フセヴォロジスキーとプティパは自分たちの手でその作品を蘇らせたいと考えたのである。だがその計画はチャイコフスキーの生前には実現せず、追悼演奏会で第二幕(湖畔の場)のみが上演され(振付はイワノフ)、翌1895年、全幕が上演された。冒頭のパーティの場面と舞踏会の場をプティパが、二つの湖畔の場面をイワノフが振り付けた。これを蘇演版、あるいはプティパ=イワノフ版と呼んでいるが、彼らは作曲家ドリゴといっしょに原曲を再検討し、かなりの曲を落とし、曲順を変え(いわゆる「黒鳥のパ・ド・ドゥ」は原曲では第一幕にある)、原曲にはない曲を加えた(たとえば黒鳥のパ・ド・ドゥの女性のヴァリアシオン)。
この蘇演版は大成功をおさめた。今日、世界中で上演されている『白鳥の湖』はすべてこの蘇演版にもとづいている。それで1995年には蘇演版初演100周年が祝われたわけである。だがその後、さまざまな振付家が、落とされた初演版の曲を復活させたり、曲順をさらに変えたりしたため、現在ではバレエ団の数だけ違ったヴァージョンがあるといわれるほどである。
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プーシキンからドストエフスキーに至る時代は、ロシア文学の「金の時代」と呼ばれる。それに対し、19世紀末から1920年代にかけて、ロシア文学は「銀の時代」を迎える。実験と前衛の時代であり、ロシア・ルネサンスとも呼ばれる。栄えたのは文学だけではなく、他の分野の芸術においても、才能あるアーティストが続出した。とくに1920年代にはロシア・アヴァンギャルドと呼ばれる一大芸術運動が起こった。
バレエの世界では、若い世代の振付家たちがプティパの壮大なクラシック・バレエに反旗を翻し、バレエの改革を試みた。その先頭に立ったのがミハイル・フォーキンである。だがフォーキンの改革はロシアではなく西欧で進められることになった。というのも、セルゲイ・ディアギレフというプロデューサーが、フォーキンを初め、パヴロワ、カルサヴィナ、ニジンスキーといったマリインスキー・バレエの優れたダンサーたちを引き連れて、パリに殴り込みをかけ、西欧に一大バレエ・ブームを引き起こしたのだが、このディアギレフ率いる「バレエ・リュス」は結局一度もロシアでは公演しなかったのである。
だがこのバレエ団は歴史上最も重要なバレエ団として、バレエの歴史を大きく変えた。今日世界じゅうでバレエが盛んなのも、このバレエ・リュスのおかげである。というのも、ロシアを除いて、世界の一流バレエ団はどこも、バレエ・リュス出身者が創立した(英国ロイヤル・バレエ、ニューヨーク・シティ・バレエなど)、あるいは復興した(パリ・オペラ座バレエなど)のである。
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いっぽうロシアでは、1920年代には前衛的・実験的作品が数多く作られたが、やがてスターリンによる前衛芸術弾圧が始まり、社会主義を讃える、民衆にわかりやすい作品しか上演されなくなった。そうした「社会主義宣伝バレエ」は一つも残っていない。幸い、19世紀の古典バレエはスターリン時代を生き延びることができた。
今回の来日公演の演目との関連でいうと、キーロフ・バレエがレパートリーにしているワイノーネン版『くるみ割り人形』は1934年に初演された。初演版では、主人公の女の子は子供が演じたが、ワイノーネン版では大人が演じ、彼女が最後に金平糖の精となって、王子に変身したくるみ割り人形と、グラン・パ・ド・ドゥを踊る。これ以後の版はすべてワイノーネン版の影響を受けているといっても過言ではない。
さて、先に述べたバレエ・リュスの後期に参加して『道化師』『鋼鉄の踊り』『放蕩息子』の曲を書いた作曲家プロコフィエフは、その後ソヴィエト・ロシアに戻った。若い頃は前衛的・実験的な作品を書いていたが、作品はしだいに古典主義的になっていった。彼がチャイコフスキーに対抗して書いた「三大バレエ」が、『ロミオとジュリエット』『シンデレラ』『石の花』である。とくに『ロミオとジュリエット』は古今のバレエ音楽のなかの最高傑作である、と私は断言したい。
『石の花』は題材がロシアの民話だということもあって、ロシア以外には広まらなかったが、『ロミオとジュリエット』と『シンデレラ』は外国の多くのバレエ団がレパートリーにしている。
とくにシェイクスピアの国イギリスでは、1956年に初めてボリショイ・バレエ団が訪れた際に『ロミオとジュリエット』が上演され、イギリスのバレエ関係者の心に深いトラウマを残した。「十八番(おはこ=ルビ)をとられた」感じがしたのだろう。ロイヤル・バレエの振付家たちがドラマティック・バレエの傑作を次々に生み出したのは、そのときに受けた衝撃のせいだと考えられる。今回の来日公演では、『ロミオとジュリエット』はオリジナルのラヴロフスキー版(*)で、『シンデレラ』はそれとは対照的にラトマンスキーによる新しい演出振付で上演される。
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第二次大戦時、レニングラードはじつに900日にわたってドイツ軍に包囲され、兵糧攻めにあい、80万人の犠牲者を出し、町の大半が破壊された。だが戦後、全国家的な復興事業により、この町は蘇った。
バレエに目を転じると、サンクト・ペテルブルクのキーロフ(マリインスキー)・バレエもモスクワのボリショイ・バレエも、クラシック・バレエの大本山として、いまなお世界のバレエ界の頂点に立っている。
(*)厳密にいうと1938年にチェコで初演されたプソッタ版が最初だが、これは成功せず、その後プロコフィエフとラヴロフスキーが大幅に改作したので、こちらをオリジナルと考えた方がいいだろう。
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