ダンスと1929年
(小島章司フラメンコ2000プログラム 2000/11)

 1929年、それは祝祭的でダイナミックな20年代から、抑圧的でスタティックな30年代への、曲がり角だった。30年代から第2次大戦へといたる長く暗い時代の中で、20年代は忘れられ、このカーニバル的な時代が「再発見」されるのは70年代後半になってからだ。1929年はその忘却の始まった、「崖っぷ」ちの年なのである。
 20年代の豊穣は、少ない紙数ではとても語り尽くせない。名前を羅列しただけで終わってしまうだろう。何しろ、シュルレアリスムも、ロシア・アヴァンギャルドも、シェーンベルクの12音階も、ロスト・ジェネレーションも『魔の山』も『偉大なギャツビー』も『チャタレー夫人の恋人』も、アル・カポネも、ルイーズ・ブルックスも、第1回アカデミー賞も、ミッキー・マウスも、みんな20年代なのだ。スペインでいえば、ロルカはいうにおよばず、スルアーガやソラーナが描いた「黒いスペイン」、あれが20年代だ。
 ダンスにとっても、1929年は大きな曲がり角だった。
 20年代、ロシアではゴレイゾフスキー、フォレッゲルらが先鋭的な実験をおこない、ドイツではノイエ・タンツが生まれたが、いずれもスターリンやヒットラーによって、あるいは圧殺され、あるいは屈服させられた。意味が少し違うが、最近ふたたび脚光を浴びているジョゼフィン・ベイカーがパリで「褐色のヴィーナス」として一世を風靡したのも20年代だ。アメリカでは20年代にモダン・ダンスがひとつの潮流として確立していった。
 しかし、1929年と聞いて、誰もがまず想起するのはセルゲイ・ディアギレフの死であろう。享年57歳。彼が生きていたらバレエ・リュスがその後も長く活動を続けられたのかどうか、それは疑問だが、少なくとも団員たちにとっては早すぎる死であった。ワンマン経営者を失った一座は一夜にして崩壊した。
 1909年にパリで歴史的公演を成功させてから、少なくとも第一次大戦まで、バレエ・リュスはヨーロッパの舞踊界を牽引していた。バレエ・リュスのおかげで、(ロシア以外では)ミュージック・ホールの演し物にすぎなかったバレエの地位が一気にあがった。
 バレエという言葉も、今日ではダンスの1ジャンルを指すにすぎないが、バレエ・リュスの時代にはもっと幅広い芸術を指していた。バレエ・リュス自体、1917年にローマで、ストラヴィンスキーの音楽と未来派のバルラのオブジェと照明だけの(つまり踊りのない)「バレエ」を上演しているが、バレエという語がいかに用いられていたかを示す好例は、フェルナン・レジェの実験的映画『バレエ・メカニーク』(1924)だろう。
 しかし、第一次大戦前は飛ぶ鳥を落とす勢いだったバレエ・リュスも、大戦後は明確な路線を定めることができず、上演作品リストを眺めると、祖国を捨てたロシア人たちが西欧を迷走していたことがよくわかる。題材をロシアのフォークロアに求めてみたり、18世紀に求めてみたり、風俗を取り入れたり(20年代は風俗の時代でもあった)、ギリシャ神話に目を向けたり、ロシア革命を扱ってみたり、まさに試行錯誤の連続であったが、このことはバレエの概念を拡大することにもなった。
 だが一方で、バレエという語は手垢にまみれてオーラを失い、代わって劇場舞踊としてのダンス(タンツ)という語が勢いを増し、ダダの作曲家シュールホフの『オゲラーラ』(1925)、『夢遊病者』(同)のような、タンツ・ミステリーとかタンツ・グロテスクと称された作品が次々につくられる。
 1929年を境に、そうした豊かな試みは少しずつ忘れられていくのだが(それに代わって古典バレエがじわじわと浸透していくことになるが、これは20世紀舞踊ではない)、じつは本当に忘れられたのではなく、20年代の狂騒と混沌の中にあったものが、その後の20世紀舞踊に霊感を注ぎ続けたのだということが、振り返ってみるとよくわかる。