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キーロフ・スタイルとは何か---再来日に寄せて
(キーロフ・バレエ団日本公演プログラム 1998/12)
キーロフという名前の由来についてしばしば質問されるので、まずはそのことから。キーロフはロシア革命の功労者で、その後、共産党の幹部になりスターリンと張り合うまでになったが、1934年に暗殺された。どうやらスターリンに消されたらしい。このキーロフ暗殺事件は歴史上たいへん有名である。なぜならこの事件を発端に、かのスターリンの大粛清が始まったのである。ちなみにキーロフというのは本名ではなく、出身地の地名である(ご存じかと思うが、レーニンもスターリンも本名ではない)。
ロシア帝室オペラ・バレエは18世紀末からペテルブルクのボリショイ劇場を本拠としていた(ボリショイ劇場というのは「大劇場」という意味)。1880年にマリインスキー劇場が完成し、オペラは1880年に、バレエは遅れて1886年にそこへ移った。マリインスキーというのは「マリヤの」という意味で、マリヤはロシア皇帝の妃の名。だから「マリンスキー」などと呼んでは絶対にいけない。マリンスポーツじゃあるまいし。
さて、1917年に革命が起きると国立マリインスキー劇場と改称し、1920年には「オペラとバレエのための国立アカデミー劇場」(略称「ガトフ」)と名を変えた。そして1935年にキーロフ劇場という名になった。キーロフ本人はその前年に暗殺されてしまったが、その名は後々まで残ったわけである。
キーロフの名は56年間にわたって使われたが、1991年に劇場の正式名称は(したがって歌劇団、バレエ団の名称も)マリインスキー劇場に戻った。しかし、その後も外国公演ではつねにキーロフの名を冠している。
キーロフ・バレエと聞いて、私が真っ先に思い浮かべるものは、あの美しいコール・ド・バレエである。『ジゼル』第2幕でも、『白鳥の湖』第2幕でも、すらりと背の高い、そして手足の長いダンサーたちがずらりと並んでいる。同じコール・ド・バレエでも、ボリショイ・バレエ団の場合はもっとたくましく、筋肉質だ。わるくいえば、ちょっとごつい。いわゆるレニングラード国立バレエ団では、一人ひとりが小柄で、愛らしい。だから親しみが湧く、というバレエ・ファンもいるが、西洋崇拝者である私は断言する--キーロフのコール・ド・バレエのスタイルは世界最高である、と。
いや、コール・ド・バレエだけではない。ソリストも、そして輝かしい伝統を築いてきたスターたちも、みんなスタイルが抜群だ。
もちろん、スタイルの良さはキーロフの魅力のごく一部にすぎない。キーロフの最大の魅力は、しゃれではないが、キーロフ・スタイルという、他とは画然と異なる独特の様式である。この様式をひとことでいえば、「雅(みやび)」である。「品(ひん)」と言ってもいい。同じことを指すのに、ロシアの舞踊学者クラソフスカヤは「貴族的」という表現を用いている。
「雅」とか「品」とか「貴族的」というのは、具体的にはどういうことか。それは、古典的な美を「崩さない」ということである。キーロフでは「やりすぎ」は許されない。荒っぽさも好まれない。超絶技巧を見せるときでも、けっして曲芸的になることなく、優雅に踊らなくてはならない。だからキーロフにおいては、キャラクター・ダンサーがダンスール・ノーブルよりも目立つことはない。舞台の上ではつねに、かっちりとした造形的・幾何学的な美が遵守される。
それを技術的に支えてきたのが、ワガノワ・メソッドである。ワガノワ・メソッドはワガノワによって発明されたのではなく、100年以上にわたる伝統の結晶なのである。
あらためていうまでもなく、クラシック・バレエはこのバレエ団で生まれたものである。その意味で、このバレエ団こそがクラシック・バレエの規範なのである。
もちろん、時代が変わればダンサーたちは世代交代し、スタイルは少しずつ変わっていく。しかし何よりも「美」を重んじるキーロフの伝統はそんな簡単には変わらない。いま、キーロフでは次々に若手が育っている。私は初めてヴィシニョーワを見たときの衝撃を忘れないし、前回の来日ではザハロワの完璧といってもいいほどの踊りに、本当に魂を奪われてしまった。
今回の来日でも、若々しいダンサーたちの中にキーロフの伝統美がまた新たな姿を見せるのを、私たちは自分の眼で確かめることができるだろう。
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