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レフ・イワーノフの生涯と仕事
(新国立劇場「くるみ割り人形」プログラム 2000/12)
『くるみ割り人形』は、第1幕をマリウス・プティパが、雪の場面から後をレフ・イワーノフが振り付けたとされている。プティパはマリインスキー劇場の主席振付家・バレエマスター、そしてイワーノフは第2バレエマスターであった。
イワーノフがどのような人物で、どのような生涯を送り、どんな作品を残したのか、詳しいことはわかっていない。資料が乏しいのである。彼は自分について書くことを好まなかったらしく、短い回想録がひとつ残されているだけだ(不思議なことに、そこでは『白鳥の湖』も『くるみ割り人形』もまったく言及されていない)。書簡も、マリインスキー劇場当局に宛てた事務的な手紙しか残されていない。その劇場の公式記録からも、詳しいことはまるでわからない。また、じつに不思議なことに、50年以上もいっしょに働いたプティパもイワーノフについてはほとんど言及していないし、チャイコフスキーが残した膨大な手紙の中にイワーノフの名は一度も出てこない。これはもう謎としかいいようがない。とはいえ、最近になって、ミシガン大学のローランド・ジョン・ワイリーによる研究のおかげで、イワーノフの生涯と作品を包んでいた霧がかなり晴れてきた。
幸福な学校時代
レフ・イワーノフは1834年にモスクワで生まれ、11歳のときにペテルブルクのマリインスキー劇場付属舞踊学校に入学した。じつに楽しい学校生活を送ったらしく、回想録では、生徒たちがどんなにいたずらをしたかを、自慢げに、懐かしそうに、語っている。
はやくから並外れた音楽の才能を示し、舞踊学校を辞めて音楽院に移るようにという勧めもあったが、結局はバレエの道を歩むことになった。それでも数曲のバレエ曲を残している。
ダンサーとして
16歳のときに初舞台を踏み、18歳で学校を卒業すると、マリインスキー劇場バレエ団に入り、瞬く間に人気ダンサーとなり、ペローやサン=レオンの作品で、ファニー・チェリート、アマリア・フェラリス、アデール・グランツォフ、マルファ・ムラヴィヨーワなど、名バレリーナたちのパートナーをつとめた。トップ・ダンサーの座にいたプティパが体調を崩すと、代役を任され、1862年、プティパが主席バレエ・マスターとなって舞台を去ると、彼に代わって第1男性舞踊手となった。60年代から70年代にかけて、イワーノフはマリインスキー劇場の中心的ダンサーで、プティパの『ドン・キホーテ』改訂版ペテルブルク初演(1871)ではバジルを踊っている。同じプティパの『バヤデルカ』初演(1877)でもソロルを踊ったが、ただしこれはマイムの役で、グラン・パ・ド・ドゥはパーヴェル・ゲルトが踊った。トップの座をゲルトに奪われたのである。とはいえ、イワーノフは1901年に67歳で世を去る前年まで舞台に立っていた。
今日、プティパやイワーノフが振付家として成功する以前に花形ダンサーであったことは、あまり関心を惹かないが、当時においても男性ダンサーはバレリーナの添え物的な存在で、舞台評でもほとんど言及されていない。観客や批評家の関心の的はあくまでバレリーナだったのである。
私生活
イワーノフは24歳のときに、同じバレエ・ダンサーのヴェーラ・リャードワと結婚した。彼女は有名な音楽一家、リャードフ家の一員である。バレエ・ダンサーとしても成功したが、その後オペレッタ歌手としてたいへんな人気を博した。妻が有名になるにつれ、夫婦関係は悪化し、イワーノフが35歳のときに二人は離婚している。その数ヶ月後、ヴェーラは病気で急死した。31歳だった。
1873年にモスクワからきたコリフェーと再婚したとき、イワーノフは42歳で、その後3人の子どもをもうけたが、晩年は持病に苦しめられ、そのせいで生活は苦しかったらしく、ドリーゴ、チェケッティ、プティパらに保証人になってもらい、何度もマリインスキー劇場から借金している。
振付家として
イワーノフは舞踊学校の教師もつとめたが、あまり熱心な教師ではなかったようだ。1882年には主席レジッスールになった。レジッスールの仕事はレパートリーを管理し、リハーサルを指揮することであったが、自身が告白しているように、彼は内気で、人に命令したり、人を指導したりするのが苦手だったため、この仕事がいやで堪らなかったらしい。ちなみに彼は回想録(これはダンサーたちを前にしたスピーチの原稿として書かれたらしい)の最後のほうで、「きみたちはいつも平気で遅刻してくるし、ちゃんと稽古しないし、後ろのほうにいるダンサーは手を抜くし・・・」と愚痴をこぼしている。
1885年、彼は第2バレエ・マスターに任命された。プティパの仕事が多すぎるので、彼の手伝いをする人間が必要だ、というのがその理由であったが、支配人フセヴォロジスキーはプティパが下り坂に差しかかったことを感じ取っていたのかもしれない。いずれにせよ、イワーノフのバレエ・マスター就任は画期的な出来事だった。というのも、バレエ・マスターとして初めてのロシア人だったからである。
主席バレエ・マスターと第2バレエ・マスター、つまりプティパとイワーノフがどういう地位関係にあったのかは定かではない。たんなる助手でなかったことは確かで、イワーノフも自作のバレエをいくつか上演している。変わり種は『ミカドの娘』(1897)で、おそらくギルバートとサリヴァンのサヴォイ・オペラ『ザ・ミカド』に触発されたのであろう、男性ダンサーはちょんまげ、女性は日本髪のかつらをつけている。
『くるみ割り人形』
『眠れる森の美女』の成功に気をよくしたフセヴォロジスキー(マリインスキー劇場支配人)が、同じチャイコフスキーとプティパのコンビで第二作を上演したいと考え、みずから台本を書き、衣裳や装置までデザインしたのが『くるみ割り人形』である。
だが、この台本には致命的な欠陥があった。第1幕には本格的なダンスがなく、第2幕はまったくストーリーが展開しない。おまけにマーシャがお菓子の国に行ったまま終わってしまう。
第1幕の振付を終わったところでプティパが病に倒れてしまった(うまく行きそうになかったので、仮病をつかったという説もある)。そこでイワーノフが残りの振付を任されたのだが、決められた台本通りに作らなければならず、自分の創作力を充分に発揮できるはずもなかった。それでも彼は職人芸を発揮してなんとかうまくまとめあげたのだっが。現在、イワーノフの振付がどの程度残っているのか、それはわからないが、少なくとも雪の場面は『白鳥の湖』の湖畔の場を思わせ、じつにイワーノフらしいと感じられる。
死後の評価
『白鳥の湖』第1幕第2場のような素晴らしい振付をほどこした人物が、どうしてこれほど作品数が少なく、しかも『白鳥の湖』以外には名作を残さなかったのだろうか。
この問いに対して、旧ソ連の舞踊史家たちは、こう考えたーープティパがイワーノフを冷遇し、奴隷のようにこき使い、才能を発揮するのを阻止したのだ、と。ワイリーにいわせれば、こうした見解はバイアスがかかっている。フランス人のプティパに対して、彼らは自分たちの同国人を持ち上げたかったのだ、と。ワイリーの研究のおかげで、いまやイワーノフにある程度の正当な評価を下すことは可能である。イワーノフ自身、「私にはプティパほどの才能はなかった」と書いているが、たしかにプティパほどスケールの大きな振付家ではなかった。だが、『白鳥の湖』第1幕第2場という珠玉の作品によって永遠にその名を記憶されることになったのである。
参考文献
Roland John Wiley, Tchaikovskyユs Ballets, Oxford, 1985; The Life and Ballets of Lev Ivanov, Oxford, 1997.
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