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『兵士の物語』とその時代
(パルコ劇場「兵士の物語」プログラム 2001/1)
私たちはつい先日、新しい世紀に足を踏み入れた。しかし、元旦に目が覚めたとき、世界がすっかり変わってしまったと感じた人はまさかいないだろう。ある日突然に時代が変わるはずもない。2001年1月1日は、2000年12月31日の翌日にすぎないのである。
文化的にみて20世紀と21世紀の境界線はどこにあるのか。それを確定するにはもう少し時間が必要だ。私たちはその境界線をすでに跨いでしまったのかもしれないし、境界線はまだ10年、20年先にあるのかもしれない。
どうしてこんなことを言い出したのかというと、ヨーロッパの19世紀と20世紀の境目は1900年あるいは1901年ではなかったということが、今になってみるとはっきりとわかるのである。19世紀と20世紀を分かつ境界線となったのは第一次世界大戦(1914-17)である。
それは文字通り、人類が初めて体験する世界戦争だった。それまで戦争というのは、戦士が戦場に行ってやるものだったが、第一次大戦はヨーロッパ中の人びとを残らず巻き込んだ。大戦中に作曲されたストラヴィンスキーの作品のタイトルが『兵士の物語』であったことも納得がゆく。
この大戦が19世紀ヨーロッパ文化を滅ぼしたのである。終戦後、シュテファン・ツヴァイクをはじめ、多くの人びとが、熱い郷愁の念をこめて、戦前の「古き良きヨーロッパ」を回想しているが、実際、第一次大戦前夜のヨーロッパは文化が爛熟し、人びとは浮かれていたようである。
その大戦前夜のヨーロッパで、芸術の中心を占めていたのがバレエである。20世紀初頭のパリやロンドンでは、バレエは好色な男性向けのエロティックな演芸になりさがっていた。ところが1909年、セルゲイ・ディアギレフの率いるロシアのバレエ・ダンサーたちがパリにやってきて、その高い芸術性と超絶技巧と異国情緒で、パリジャンたちを驚愕させ、狂喜させた。「バレエ・リュス」の誕生である。
このバレエ団には大勢のダンサー、画家、作曲家、詩人が参加したが、いちばんの「大物」といえば、ピカソとストラヴィンスキーであろう。それまで無名の若手作曲家だったストラヴィンスキーは、バレエ・リュスのために書いた『火の鳥』(1910)、『ペトルーシュカ』(1911)によって瞬く間に国際的名声を勝ち得て、1914年には不朽の名曲『春の祭典』によって一大スキャンダルを巻き起こしたのだった。
バレエ・リュスはヨーロッパ各地で公演し、各国でバレエ・ブームを巻き起こし、その影響はファッションや風俗にまで及んだが、発足してわずか数年後、彼らロシア人を二つの試練が待ち受けていた。ひとつは世界大戦、もうひとつはロシア革命である。
全面戦争によって、世の中はバレエどころではなくなってしまった。バレエ・リュスは国立バレエ団ではなく、純粋に商業バレエ団だったので、当然ながら公演しなければ経営が成り立たない。一座は一時的に解散し、ダンサーたちは戦火の及ばぬスペインで窮乏生活に耐えた。ストラヴィンスキーも、戦火の及ばぬスイスに居を定めたが、収入の道を断たれたことには変わりなかった。その窮乏生活から生まれたのが『兵士の物語』である。編成がごく小規模なのは、バレエ・リュスが公演できるような状態ではなかったからだ。
また一方、革命によって、彼らロシア人は「祖国」を失い、帰る場所がなくなってしまった。「難民」ともいうべき境遇におかれてしまったのである。ストラヴィンスキーがふたたび祖国の土地を踏むのは半世紀近く後のことである。バレエ・リュスを率いるディアギレフも、二度とロシアに帰ることなく1929年に急死し、ヴェネツィアに埋葬された(ストラヴィンスキーも同じ墓地に眠っている)。
きっとロシア人たちは異国の地で、祖国を、そしてそこで過ごした子ども時代を、懐かしく思い出していたにちがいない。だからストラヴィンスキーが『兵士の物語』の台本にロシア民話を選んだことも、じつに納得がゆくのである。
ストラヴィンスキーが『兵士の物語』を作曲していた頃、同じスイスにいた天才舞踏家ニジンスキーは、少数の観客の前で、第一次大戦によって露わになった人間の獣性をダンスで表現した。彼はかつてバレエ・リュスの花形ダンサーであり振付家であったが、そのとき以後、彼は二度と観客の前には姿を現さなかった。
『兵士の物語』の主人公が悪魔によってその運命を翻弄されるように、ヨーロッパを流浪していたロシア人たちも大戦によってその運命を翻弄されていたのである。
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