ブルノンヴィルとバランシン
(新国立劇場「ラ・シルフィード」プログラム 2000/6)
 
 ブルノンヴィル・スタイルと聞いて、大方のバレエ・ファンがまず思い浮かべるのは、激しく華麗な脚さばきや軽快な跳躍だろう。グラン・ジュテ・アン・アヴァン・アン・アチチュード(大きく前方にジャンプし、両腕を大きく開いて片脚で着地する)、ロン・ド・ジャンブ・アン・レール・ソテ(空中で激しく膝を屈伸する)、アントルシャ(空中で何度も脚を交叉させる)、さまざまなバットゥリー(空中で脚を打ち合わせる)、幾種類ものピルエット(回転)、そして特徴的なポール・ド・ブラ(腕の運び)やエポールマン(肩のポーズ)。しかも個々のパ(ステップ)が、ほとんどプレパラシオン(準備体勢)なしに数珠繋ぎになっていて、観ている方も息を止めて見入ることになる。『ゼンツァーノの花祭り』、『コンセルヴァトワール』、『ナポリ』のパ・ド・シス、『ラ・シルフィード』第2幕のパ・ド・ドゥなど、ブルノンヴィル・スタイルの見本箱のような踊りを見ていると、濃いインクで「ブルノンヴィル」という署名がしるされているような印象すら受けるほどだ。
 ブルノンヴィルはその自伝『わが劇場人生』のなかで、自分のダンサーとしてのスタイルは、1830年頃(ベルリンでの活動の後)、1834年頃(パリでの活動の後)、1841年頃(やはりパリ訪問の後)と、3度にわたって大きく変わったと書いている。ブルノンヴィルはデンマークにいわば閉じこもって独自の様式を築いたと誤解している人も多いが、じつは彼は頻繁に外国に出かけてはさまざまな潮流を貪欲に吸収し、その中から独自の様式を打ち立てていった。彼のスタイルには当時のヨーロッパのさまざまな様式が流入しているのである。
 ブルノンヴィルが築いたテクニックは、やがてその弟子ペール・クリスチアン・ヨハンソンによって、ロシアに移植される。ヨハンソンは名ダンサーとして活躍した後、稀代の名教師として、マリウス・プティパのクラシック様式を教育面で支えることになる。20世紀になって確立するロシアのワガノワ・メソッドの底にはブルノンヴィル・スタイルがあるといっても過言ではない。
 だが、ブルノンヴィル・スタイルの特徴はテクニックの面に限られるわけではない。いやむしろ、この語は彼の作品の特徴を指す言葉である。ではその特徴とは何か。
 19世紀のバレエは、前世紀にジャン=ジョルジュ・ノヴェールの唱えたバレエ・ダクシオン(舞踊による演劇)という理念に基づいたロマンティック様式から、舞踊と演劇を分離したクラシック様式へと変化していったが、ブルノンヴィルは終生、舞踊は演劇的構造の枠内に組み込まれるべきだと考えていた。つまりマイムとダンスの融合をめざしたのである。だから彼の振り付けた個々のヴァリアシオンは比較的短い。1860年、ブルノンヴィルは「芸術的ヨーロッパ」というパリの雑誌に「ダンスと振付についての手紙」という公開書簡を連載したが、そのなかで当時の支配的なスタイルについて、「パ・ド・ドゥが作品そのものから乖離している」と苦言を呈しており(いや、ほとんど罵っており)、親友だったジュール・ペロー(ロマンティック・バレエの代表的コレオグラファー)をも槍玉にあげている(クヌード・ユルゲンセン『ブルノンヴィルの伝統』参照)。
 このようにブルノンヴィルはロマンティック・バレエの様式の擁護者であったが、台本をみると、ロマンティック・バレエの主流とは大きく隔たっていたことがわかる。一例を挙げると、彼の代表作『ナポリ』の第1幕と第3幕は港町の日常世界、第2幕は青の洞窟という幻想的な非日常的世界だ。すなわち、デンマークを代表する舞踊史家エリック・アシェングリーンが指摘するように、「家ー外ー家」という構成になっていて、『ラ・シルフィード』(*)や『ジゼル』のような2部構成とは対照的である。これまたアシェングリーンが指摘するように、ブルノンヴィルの作品の底にはデンマークのビーダーマイヤーの価値観が横たわっているのである(ビーダーマイヤーを一言で説明するのはむずかしいが、強いていえば「平穏なブルジョワ的家庭生活」である)。
 それを踏まえた上でふたたびブルノンヴィルの代表的な踊りを見ると、眼も鮮やかなテクニックの連続全体を貫いている理念が見えてくる。「調和」である。両腕でつくる大きな輪がそれを象徴的に表現しているが、後のロシア派に見られるような垂直・水平の両方向に突き進んでいくベクトルとは対照的である。
 このブルノンヴィル・スタイルは、比較的最近になるまで、ロンドン=パリ=ウィーン=ペテルブルク=モスクワを結ぶバレエの主流ネットワークには、あまり影響を与えなかったといえよう(ブルノンヴィル・スタイルに対する国際的評価が今日のような水準まで高まったのは1970年代である(*))。
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 ロシアにおいてクラシック様式を確立したマリウス・プティパは、先に述べたように、テクニック面ではヨハンソンを通してブルノンヴィルの遺産を継承しつつも、2つの面で、ブルノンヴィルがめざしたのとは逆の方向にむかった。
 第一に、台本は、ブルノンヴィルのような「リアリズム色の濃いロマン主義」とはおよそ反対の、夢幻的・おとぎ話的なものになった。
 第二に、ダンスとマイムが分離され、演劇的展開はマイムに任され、ストーリーとは直接無関係なディヴェルティスマンとグラン・パ・ド・ドゥが作品の中軸に据えられた。
 舞踊と演劇、ダンスとマイムの融合をめざしたロマンティック・バレエにおいても、この両要素間の均衡は不安定だった。ダンスはつねに演劇的枠を逸脱して独立しようという方向性をはらんでいるからである。ブルノンヴィルは生涯、その方向性に歯止めをかけようと努めたが、時代の流れはその反対方向へとすすみ、プティパにいたって、ダンスは演劇的枠内にあるように見えながら、じつは独立している、という形式が確立することになった。
 ここで取り上げるもう一人のコレオグラファー、ジョージ・バランシンは、そのマリウス・プティパの直系の後継者である。
 ふつう、バレエ史ではロマンティック・バレエ→クラシック・バレエ→バレエ・リュス→モダン・バレエというのが主流だと説明されるが、ティム・ショール『プティパからバランシンへ』が明快に論じているように、バレエ・リュスはその主流からの逸脱であり、プティパとバランシンはそれを飛び越えて直結している。
 ヨハンソンがロシア帝室舞踊学校に君臨していた間、ロシア・バレエの基本テクニックは、フランス派+デンマーク派であったが、19世紀末になるとエンリコ・チェケッティらの影響力によってフランス派+イタリア派となった。そこから、ロシア派としか呼びようのない様式が確立する。その中核がワガノワ・メソッドである。バランシンはこの伝統の中で育てられた。ウォルター・テリー『オン・ポワント』に引用されているバランシン自身の言葉によると、彼はトウ・シューズをはいた女性の脚に魅せられてバレエの道に入ったのだという。「トウ・シューズを履くことによって脚が長く見え、なんとも美しかった」。彼が少年のころは短い脚、小さな脚が主流だったが、彼は長い脚、大きな足が好きだったという。そのほうが表現力豊かだからだ。言葉は悪いが「足フェチ」がバランシンの出発点だったのである。
 バランシンは古典バレエの語彙を大きく拡大し、複雑化し、「現代化」したが、ポワント技法にはそれが最もよくあらわれている。バランシン作品では古典バレエよりもずっとポワントが多用され、彼の教育メソッドではコール・ド・バレエ全員がポワント技法を厳しく叩き込まれる。ポワントはもはやソリストの華麗なテクニックではなく、振付の基礎となっている。たとえば踵が床についた状態から爪先立ちになるとき(ルルヴェ)、ぽんと跳び上がるほうが楽だが、バランシンは足の甲を丸めるようにして爪先立ちになるというテクニック(ロール・アップ・ルルヴェ)をダンサーたちに要求した。『セレナーデ』(1934)には前者が、コンチェルト・バロッコ』(1941)には後者が用いられているが、スキ・ショーラー『バランシンのポワント技法』によると、それは前者の段階ではまだダンサーたちの脚力が弱かったからだという。
 このように、テクニックの面では、ブルノンヴィルからバランシンへは、ロシアを経て、確実に繋がっているが、作品様式はどうだろう。先に述べたように、プティパは舞踊と演劇を分離し、物語はダンスのための「口実」になってしまった。それに対する反発から、20世紀バレエは出発した。それは一方では、初期のフォーキンを筆頭に、演劇と舞踊の再統合をめざした。社会主義リアリズムの支配下で作られた『ロミオとジュリエット』のような劇バレエもこの流れに属する。
 バランシンはその逆に向かった。しょせん物語は口実にすぎないのだからという理由で、ストーリーを捨てたのである。「物語はいらない。男がいて、女がいる。そこには自然に物語が発生する」というバランシンの言葉は有名だ。つまり、プティパが定めた方向性を、バランシンはその極限まで押し進めてしまったのである。
 バレエは、舞踊と演劇の統合と分離という二つの極のあいだを揺れ動きながら発展してきた。ブルノンヴィルとバランシンは、100年という時間を隔てているだけでなく、それぞれこの対極に立って、向き合っているのである。



(*)周知の通り、ブルノンヴィルも『ラ・シルフィード』を振り付けているが、台本はタリオーニ版から借用したものである。

(*)ブルノンヴィルの作品はデンマーク・ロイヤル・バレエ団で忠実に継承されてきた、と一般には思われているが、かならずしもそうではない。たとえば有名な『ナポリ』の第2幕(青の洞窟)には、ブルノンヴィルの振付はほとんど残っていない。現在同バレエ団がレパートリーにしているブルノンヴィルの作品(10ほどある)はどれも、前世紀末にハンス・ベックが改訂した版にもとづいている。ハンス・ベックが改訂に着手したときすでに、オリジナルの振付のかなりの部分がわからなくなっていたという。