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バランシンとキーロフ・バレエ
(キーロフ・バレエ来日公演プログラム 2000/11)
最近、「キーロフのバランシン」が世界中の話題を集めている。話題になるのは当然だ。だって、バランシン作品は世界中の数多くのバレエ団によって上演されてはいるものの、ほとんどのバレエ・ファンにとっては、バランシンといえばNYCB(ニューヨーク・シティ・バレエ)であり、NYCBが「本物」であり「最高」だと思っている人が多いのではなかろうか。
どうしてキーロフはバランシンに取り組み始めたのか。そして、キーロフのバランシンはNYCBのバランシンと同じなのか違うのか、違うとしたらどう違うのか。
後者の問いについては、観客ひとりひとりに自分の目で確かめていただくほかない。ここではキーロフがバランシンを上演することの意味について考えてみたい。
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まず思い浮かぶことは、バランシンはもともとキーロフの出身者だということである。バランシンは「ウェスタン・シンフォニー」や「スターズ・アンド・ストライプス」の振付家であり、また数多くのブロードウェイ・ミュージカルやハリウッド映画を手がけている、「アメリカのバレエの生みの親」だ。だから私たちはバランシンを、ついアメリカとばかり結びつけて考えがちで、彼がキーロフの伝統が生んだアーティストであることを、ともすると忘れがちである。
バランシンは、バランチヴァーゼというその本名が示しているように、ルーツはグルジアだが、本人はペテルブルクっ子で、キーロフ・バレエの付属舞踊学校(当時はペトログラード演劇学校といった)で学び、卒業後、キーロフ・バレエ(当時はGATOBといった)に入団した。
キーロフの伝統といえば、それはマリウス・プティパの伝統である。バランシンがバレエ学校に入学したころ、プティパが死んでまだ数年しか経っていなかったから、まわりの大人たちはみんなプティパをじかに知っていた。バランシンはそうした雰囲気の中で、バレエ教育を受けた。しかも、キーロフの伝統を下から支えているワガノワ・メソッドによるバレエ・レッスンを受けたのである。
バランシンは学校時代から振付に手を染めていたが、キーロフ・バレエに入団したバランシンに決定的な影響をあたえたのは、フョードル・ロプホーフである。ロプホーフはさまざまな実験的な作品を発表して物議を醸した振付家だが、1923年、ベートーヴェンの第四交響曲を用いた抽象バレエ、「舞踊交響曲」を上演している。ロプホーフは1970年まで半世紀以上にわたってキーロフに貢献したアーティストで、キーロフの伝統の形成に大きく関わっている。
革命後の混乱期、「このままでは飢え死にするほかない」という危機感から、バランシンは仲間数人とともに西欧に公演旅行に出た。政府からは帰国命令が届いたが、彼らは祖国に帰るつもりはなかった。
パリで、バランシンはディアギレフに見出され、バレエ・リュスの最後期を代表する振付家となった。バランシンはいくつかの作品を振り付けているが、『ミューズを導くアポロ』で自分は振付に開眼した、とみずから語っている。
1929年にディアギレフが死んでバレエ・リュスが解散した後、バランシンはリンカーン・カーステインとの運命的な出会いによってアメリカにわたり、「アメリカのバレエ」を生み、育てる。カーステインの協力で、まず学校(スクール・オヴ・アメリカン・バレエ)をつくり、次にバレエ団(アメリカン・バレエ)をつくる。これが後にNYCBとなる。
アメリカの二大バレエ団、ABT(アメリカン・バレエ・シアター)とNYCBとは対照的である。どちらもロシア・バレエの流れを引くが、ABTは当初から「バレエの博物館」をめざし、スター主義をとって、世界のビッグ・スターを集めているが、NYCBはバランシン色一色に染められ、ほとんど古典は上演せず、ABTよりもずっと「アメリカ色」が強い。
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バレエ史の流れをごく大雑把にまとめると、19世紀前半にパリを中心に栄えたロマンティック・バレエ(「ジゼル」など)、19世紀末にロシアでプティパによって完成されたクラシック・バレエ(「眠れる森の美女」など)、20世紀初頭にバレエを蘇生させたディアギレフのバレエ・リュス、第二次大戦後、モダンダンスとの交わりによって発達したモダンバレエ(ベジャールなど)、というのが主流であった。
第二次大戦後のバレエは、ベジャールのような新ロマン主義バレエのほかに、旧ソ連で生まれ、イギリスに飛び火する劇バレエの伝統もある。この流れは19世紀のロマンティック・バレエへの回帰ともいえよう。
バランシンはどこに位置づけられるのか。彼のバレエは音楽の視覚化、すなわち「目で見る音楽」であり、物語(つまり演劇)を排した抽象バレエである。
その意味でバランシンの作品は、「眠れる森の美女」「ドン・キホーテ」「バヤデルカ」「海賊」といったプティパの作品とは対照的であるように見える。たしかにプティパの作品には物語がある。でも、よくみて見ると、その物語がダンスのための「口実」であることがわかる。
バレエというのは、純粋舞踊(つまり幾何学的・形式主義的舞踊)と演劇という二つの、ある意味ではまったく相容れない要素から成り立っている。ロマンティック・バレエはこの両者を融合させようとしたものであり、舞踊劇(バレエ・ダクシオン)である。
サン=レオンやその後継者であるプティパは、舞踊と演劇を分離した。プティパのバレエを見ていると、演劇的進行の合間に装飾品のようにダンスが挿入されているように見えるが、じつは話は逆で、重心はダンスの部分のほうにあるのだ。サン=レオンの「コッペリア」の終幕は、筋とはほとんど無関係のディヴェルティスマンになっているが、プティパはその形式をさらに発展させて、グラン・パ・ド・ドゥを全体の中心において、作品をつくった。
だからストーリーはどれも単純で子どもっぽい。振付家の関心はそこにはないからである。だとしたら、そんなものは取ってしまえばいい。バランシンはそう考えたのである。「『眠れる森の美女』においても、それに取りかかるときは、筋は重要ではありません」と、バランシンは語っている(『チャイコフスキー わが愛』)。
だとすると、バランシンこそがプティパの正統的な後継者だということになる(そして、その意味では、フォーサイスこそがバランシンの後継者だといえるのだが)。先に述べたように、キーロフの伝統とはプティパの築いた伝統である。だから、キーロフがバランシンを手がけるということは、じつに自然なことなわけである。
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