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幼女にすがりついた「幼児的自我」
(朝日ジャーナル 1990/4/13)
去る三月三〇日に、連続幼女誘拐殺人事件の初公判が開かれた。いま筆者の手元に検察側の冒頭陳述書と弁護側の意見書があるが、それぞれの中で描かれた犯人像はかなり異なっている。
結論的にいえば、検察側は被告が「他の思惑を気にせずに思うまま女性の性器を見たり、触ったりしたい」という欲望にもとづいて意図的に誘拐したのであり、明らかに殺意はあったと主張する。それにたいして弁護側は、誘拐の犯意も殺意もなかったと主張する。したがって、裁判では今後、殺意の有無が議論の焦点となるだろう。
また検察側の冒頭陳述書、弁護側の意見書には、これまで明らかにされていなかった新事実がいくつか見受けられ、注目に値する。その新事実とはまず、宮崎被告が祖父の遺骨の一部を食べたことと、祖父復活の儀式をおこなったことである。意見書はその儀式について次のように述べている。
「本件各犯行の後に、自分の部屋で部屋の中にロープで円を作り、その真ん中にわら人形(約五〇くらいで悪魔の象徴としている)を置き、これに撮ったビデオがある場合には備え、部屋を真っ暗にして、頭にはちまきをしてろうそくを数本つけ、黒っぽい服装をして手を上げたり下げたり円の周りを廻る、その際『祈りを聞き届けたまえ』(じいさまを生き返らせる、じいさまと話をする)と祈りながら、約一分間くらい行った」
また祖父の遺骨を食べた動機については、「骨を食べれば心とからだに残り、自分がいちばん祖父を可愛がることができるため」と述べている。
殺したのも愛情表現
父親と疎遠であった宮崎被告が祖父になついていたことや、祖父の死が一連の幼女誘拐殺人のいわば引き金となったことなどについては、すでに被告の逮捕直後から、事件に論評を加えた人びとによって繰り返し指摘されていた。この新事実によってそうした人びとの推論がさらに確証されたといえよう。
そうした論評の中には、祖父との交流が宮崎にとって唯一の人間的な触れ合いだったというものも見受けられたが、祖父との交流もいわゆる対人関係ではなく、祖父は青年のいわば歪んだ自我を支える唯一のものとして、青年の自我の一部だったといったほうがいい。ただし儀式の話は、宮崎被告の後からの(意識的か無意識的かわからないが)創作だという可能性も否定できないと筆者は思う。
二つ目の新事実は、幼女の遺体の一部と遺体の両手首を食べ、血を飲んだことである。そうした行動の動機について、意見書は次のように述べている。
まず幼女の遺骨を焼いた動機については、「寒い思いをして骨になったので暖かい思いをさせたい」と、また遺体を切断した動機については、「テレビで見た『改造人間』の改造手術をしてみたい、加えて、手の中を見たいということにあった」と述べている。つまり、常識では二七歳の青年が考えることとは到底思えないような幼稚な動機にもとづいた行動だったことを強調している。被告の自我は幼児的自我に退行していたのだという主張である。
弁護側の意見書を読んで驚いたのは、「母胎回帰願望」という言葉が繰り返し用いられていることだ。まるで精神分析家が書いた文章のように。
意見書によれば、宮崎被告にとっては自分の部屋もビデオの映像世界も母胎であった。彼は母胎の中で生きていたが、祖父の死によってその世界が崩壊し、「たった一人でいる被害者と出会ったとき、被害者の中に孤絶した自分の姿を発見すると同時に、幼児期、さらに母胎回帰の志向性に導かれて、被害者と一体となって母胎の中にいるような甘い世界に浸ろうとした」が、「被害者が泣き出したりするなどしたため、浸っていた世界が破られようとし、加えて、自分を大勢の人間がとり囲んでいて襲ってくるという恐怖心に捕らわれ、『救いの願望』と愛情表現の中で被害者(幼女)にすがりついた。気がついたら被害者は横たわっていた」(傍点引用者)。
このすぐ後に、すでに有名になった夢の話がくる。「被告人は、本件事件後、四人の女の子が野原で楽しそうに遊んでおり、それを見ている自分に向かって『ありがとう』とお礼を言う夢を見ている」。殺したのも、バラバラに切断したのも、食べたのも、すべて愛情表現だったのだから、少女たちは感謝しているはずだ、という理屈だ。
これは藤原新也氏の指摘(三月三一日付『朝日新聞』)をまつまでもなく、相手の自我についてはいっさい考えない者の「幼児的倒錯愛」である。新聞報道によると、拘置所内の宮崎被告は、「なぜ自分が社会から指弾されるかわからない様子」だそうだが、もしそうだとしたら、どうしようもなく自我の退行した不気味な存在としかいいようがない。
ただ、彼がなぜ幼女ばかりを狙ったのかについては、意見書を読んでも明らかでない。藤原新也氏は「幼児と幼児のたわむれの世界」と述べているが、たとえ自我が幼児期に退行しても、母親的存在にしがみつくことだってあるはずだ。
メディア=母の肥大
宮崎被告は自分が成人女性から拒否されるであろうことをよく知っていた(その意識の根本にあったのは両手の障害だと、検察側も弁護側も主張しているが、これについては身体障害者からなんらかの意見が出されるにちがいない)。幼女なら自分を受け入れてくれるはずだと思い込んだのである。そして幼女から拒否反応を示されたとたん、いとも簡単に殺してしまい、死体をもてあそんだ。死体ならば彼を拒否しないからだ。どういう相手ならば自分の思い通りになるかをしっかり計算していたといってもいい。
宮崎被告は逮捕直後から、マスコミによって、また某精神医学者によって、すでに何度も死刑を宣告されてきたが、実際の裁判は始まったばかりだ。
おそらくは長期間にわたるであろうその裁判の過程で、弁護側の描き出す「『救いの願望』と愛情表現の中で被害者(幼女)にすがりついた」犯人像と、検察の冒頭陳述書にある鬼のような犯人像、すなわち犯行の発覚をおそれて幼女の白骨化した頭部から髪の毛をむしりとり、歯を抜き取り、ビニール袋に入れたまま頭蓋骨を叩き割った犯人像とが真っ向からぶつかりあい、刑事責任能力の有無をめぐって論争が繰り広げられることだろう。
つまり、覚醒剤中毒による錯乱状態を認めるのと同じように、宮崎被告のような退行した幼児的自我状態なるものを認めるか否かが、最大の問題となることは間違いない。
われわれの望むべきは、この事件の異常性・特異性が裁判の過程で少しでも多く解明されることである。筆者には、殺された幼女たちとちょうど同年配の娘がいる。そうした立場からすると、この事件についてはこれ以上あまり考えたくないし、宮崎被告のような人間は一刻も早く地上から消えてほしいという気持ちが大きいが、筆者がこの事件に関して何度か公の立場で発言してきたのは、被告を一つの特異例として片づけることなく、また同時に、ホラー・ビデオばかり見るからこういう犯罪が起きるのだという短絡志向に陥ることなく、この事件の異常さを「解明」しなければ、今後もまた同様の事件が起きる可能性があると思うからである。
というのも、この事件が、家庭における父親の不在、メディアという母なるものの肥大化、コミュニケーションの欠如といった現代社会の抱える病と無関係だとはどうしても思えないのである。
最後にひとつ、裁判の過程でおそらくは取り上げられないであろう問題を一つ指摘しておきたい。それは宮崎被告の犯行があくまで女にたいする男の犯行であり、すなわち「性犯罪」であって、その背景には現代の、いろいろな点で歪んだ性関係(とくに青少年の間に見られるモノ的なセックス認識)があるということである。
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