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理性崇拝に翳りがさすと<天使>があらわれる
(週刊読書人 1988/10/10)
ベンヤミンの「新しい天使」
ヴィム・ヴェンダースの『ベルリン・天使の詩』が、配給元の予想をはるかに上回る観客を動員しているそうである。ヒットの要因はいろいろ考えられる。天使が人間に恋をして天使を廃業するというストーリーは、たしかに『パリ・テキサス』の、男の身勝手は許されるが、女の自由は認められないという、あの反動的なストーリーに比べたらはるかにましだが、こうしたセイム・オールド・ストーリーに惹かれた素朴な観客がそんなに大勢いるとも思えない。とはいえ、最近では「人情話」が若者の間で受けるそうだから、こうした「ほのぼのとした」物語も愛されているのかもしれない。また、ロック・ミュージックとの関わりから、ベルリンに関心を抱いている若者は多い。それに、一館だけで上映するという作戦が功を奏したのかもしれないし、『天使の詩』という口にするのも恥ずかしい邦題が人を呼んだのかもしれない。こういう題名は伝統的に、汚れを知らぬ少年が幼くして白血病で死ぬといったお涙頂戴映画につけられていたものだ。この映画には実際に天使が登場するが、これまで、『悲しみの天使』とか『天使のささやき』とか、天使とはおよそ無縁な映画やポピュラー・ソングの邦題に天使という言葉が用いられている例は多い。ということは、天使という言葉には人を惹きつける力があるということだ。
この映画をめぐる浅田彰と島田雅彦の対談(「新潮」六月号)で、浅田がベンヤミンをもちだしているが、私もこの映画を最初に観たときに思ったのはベンヤミンのことだった。詳しくは知らないが、ヴェンダース自身もベンヤミンを意識しているのだろう。ベンヤミンは若い頃、『新しい天使』というタイトルの雑誌の刊行を計画していた。結局は実現しなかったのだが、彼が書いた予告にはこんな一節がある。「天使は毎瞬に新しく無数のむれをなして創出され、神のまえで讃歌をうたいおえると、存在をやめて、無のなかへ溶けこんでいく。そのようなアクチュアリティーこそが唯一の真実なものなのであり、この雑誌がそれをおびていることを、その名が意味してほしいと思う」(ベンヤミン著作集13『新しい天使』晶文社)。ベンヤミンが天使に惹かれたのはショーレムの影響だが、同時にベンヤミンの天使は、クレーがその生涯に五十点近く描いた天使の絵とも繋がりがある。四方田犬彦の『もうひとりの天使』(河出書房新社)のタイトルは、序文で四方田自身が書いているように、ベンヤミンの「新しい天使」を受けたものだ。あらためてまわりを見回してみると、最近、天使という言葉が目につかないでもない。ベイトソンの『天使のおそれ』(青土社)もその一例だし、そういえば中沢新一は『雪片曲線論』(青土社)の第二部に
la science angeliqueという題をつけている。
異教的な雰囲気を漂わせる
天使という言葉は、使者をあらわすギリシア語「アンゲロス」に由来し、「主の使い」としてすでに旧約聖書に登場するが、旧約と新約の間の時代にさかんにその存在について論じられたようだ。その後、ディオニシウス・アレオパギタが本格的な天使論の基礎を築き、トマスの天使論へと繋がってゆくが、その後は神学では天使論というのははやらず、その本質に関する論議も進展していないようである。
天使はきわめて異教的な雰囲気を漂わせている。そもそも、羽根がはえているその姿は古代ギリシアの勝利の女神像からきているといわれるが、いずれにせよ、キリスト教の枠内にとどまらず、天使はヨーロッパ精神史の一部を形成している。
ひとつは歴史を動かすものとしての天使である。先に挙げた対談で、浅田がやはりベンヤミンの破壊の天使、歴史の天使について述べている。破壊の天使は世界の調和的な見かけを破壊し、いっさいを廃墟にしてしまう。「廃墟の中にあって初めて、わずかな隙間から光が射し込んでいるのが見つかるかもしれない」。やがてベンヤミンの天使は、歴史の天使へと変わってゆく。歴史の天使は「いつも過去を振り返る。そこには廃墟がうずたかく積み重なっていて、それ以外のものは何もない。それをじっと見つめながら、天使は、そこからわき上がってくる死者たちの声をすくい上げようとする」。『ベルリン』でヴェンダースがベルリンの街、というか廃墟を撮ろうと考えたときに想い描いた天使は、この歴史の背後にいる天使だっただろう。この映画の天使は「失業中」だ。ただ、あらゆる人のあらゆる想念、あらゆる雑念が、天使の耳に入ってくる。天使はそのいっさいを吸収し、ただひたすら人びとを見下ろしている。歴史に手を貸すことはもはやできないでいる。
天使的性愛の系譜が歴然と
さて、いまひとつ重要なのは天使と性との関わりである。フーコーの『性の歴史』第四巻は、アンジェリズムとでも呼ぶべきこの天使的性の伝統を論じることになっていたという。かなりの量の原稿が残っているそうだから、いずれ刊行されるかもしれない。
最近出たゾラ『アンドロギュヌスの神話』(平凡社)にもあるように、天使は両性具有的である。バルザックの『セラフィタ』のように、男の前には女性として現れ、女の前には男性として現れるが、あくまで現実の男性女性としてではなく、霊的な愛の対象としてである。ロシアの象徴詩人ブリューソフの小説『炎の天使』は、少女が、子供の頃に毎日彼女の部屋を訪れた天使を探して遍歴するという物語だが、このようにヨーロッパには天使的性愛の系譜が歴然としてある。アヴィラのテレジアのエクスタシー体験も、ダンテとベアトリーチェも、ソフィアを幻視した一連の人々も、はたまたルイス・キャロルの少女愛も、この系譜におさまるだろう。
そして何よりも、天使はダイモーンである。理性崇拝に翳りがさすと、天使があらわれる。天使はあらゆるものから自由であり、何物からも束縛を受けない。天使は二元論を超越する。天使とは、理性ゆえに盲目となった者に光をもたらす者である。ポストモダンの時代にひとが天使と対話しはじめることは少しも不思議ではないのだ。
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