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シブサワとタネムラ
(種村季弘のネオラビリントス4「幻想のエロス」解説 1998/11)
何事にも晩生[おくて=ルビ]であった私が「シブサワ」と「タネムラ」を知ったのは大学に入ってからのこと。昭和二七年生まれの私が大学に入ったのは、団塊の世代が勝手し放題をやった直後で、学内は荒廃し、校舎は落書きだらけ、おまけにデモだ、機動隊だ、ロックアウトだ、というお祭り騒ぎの残り火が消えておらず、秋になったら授業がなくなってしまった。高校時代は、舶来の「知」にはおよそ無関心で、西洋思想といったらサルトルどまり、構造主義の何たるかも知らずに大学に入ったとたん、四方八方から「知」が押し寄せてきた。「シブサワ、タネムラ」という呪文ともお題目ともつかぬ呟きが周囲から聞こえてきたのはその頃である。高校時代に耽読していた三島由紀夫との関連からシブサワは知っていたが、タネムラのほうは「誰?」という感じであった。とはいえ、死んでも自分の無知を知られたくない年頃のことゆえ、友人がその名を口にしても生返事をしておいて、書店に駆け込み、アルバイト代をはたいて必死に本を買い集め、いつの間にか書架には薔薇十字社とか出帆社とか牧神社の本が増殖し始め、本業と趣味の二分法に無縁な性格ゆえに、はたと気づいたときにはそうした書物によって人生の方向を決定されてしまっていた。やがて澁澤・種村という二大巨人は別格として、英文学の由良君美(ご多聞に洩れず、しばらくは女性だとかたく信じていた)や、偶然のきっかけから露文学を専攻することになったために川端香男里の知的洗礼を受けることとなり、その一方で、そうした「知」の巨人たちとは一線を画して、「軟派」を自称し、文学と文学的絵画(パンテユール・リテレール)にしか関心を示さぬ、ジョゼフ・ド・メーストルを彷彿とさせる生田耕作という孤高の巨人の押し掛け弟子にあいなった、というのがわが青春の軌跡である。と、大方の読者には興味のなさそうな個人的なことを書き連ねたのは、そうした知の巨人の中で、年を追うごとにその存在がますます巨大化し、『ナウシカ』の巨人戦士のごとき姿となって夢にまで出くるようになったのが種村季弘であったということを言いたいという、ただそれだけのためである。
澁澤と種村(敬称は省略させて頂く。巨人に敬称はふさわしくない)。世間一般では昔も今も澁澤の読者のほうが多いだろうが、とくに学生時代の私の周囲は、ドイツ派・フランス派と二分するなら後者のほうであったため、澁澤のほうがずっとポピュラーであった。だが、フランス語もドイツ語もろくにできないミーちゃんハーちゃんの間で圧倒的に澁澤のほうが人気のある理由はそれとは無縁だろう。考えられる理由の一つは澁澤のほうが「若い」ということだ。じつは私は長いこと、種村のほうがずっと年上だと信じていた。澁澤が「軽く」「ドライ」で「若々しい」のにたいし、種村のほうはどこか「重々しく」「湿って」いて、老人あるいは擬似老人の気配があった。その印象は今日も変わらず、今回、本巻に収録された文章の初出年代を一つ一つチェックして、執筆当時、著者が実際にはまだ非常に若かったことをあらためて思い知った。澁澤がきわめて「大衆的」、さらにいえば「ミーハー」っぽいのにたいし、種村のほうはずっと学問的で奥が深いという印象を受け、そのため気軽には読めない感じがしたということもある。本巻に収録された数々の文章を読み直し、似た主題を扱っている澁澤の文章を併せ読んでみて、そうした若い頃の印象が間違っていなかったことを確認した。澁澤の死後、一時的に澁澤ブームが巻き起こり、現在ではそれも沈静化したようだが、学生の知的水準が年を追うごとに低下の一途を辿っていることを考えれば、種村ブームの到来は期待できないといわざるをえない。美女の微笑から宇宙論へと飛躍できるような弾力ある知性の持ち主でないと、種村の文章を味わうことはむずかしい。
本書の読者であれば、澁澤のことを大衆的と言ったからといって、私が澁澤を貶めているなどと誤解する人はよもやいないだろう。澁澤の最大の特質の一つがその優れた大衆性であることは私などがあらためていうまでもないことである。また、これが種村季弘の著作集の解説だから種村を持ち上げているのだ、などと邪推する人もまあいないだろう。ちょうど今から十年前、雑誌「ユリイカ」の澁澤龍彦追悼号に小文を寄せたが、ここに書いていることはその一文の内容ととくに変わらない。
結局、澁澤・種村両者の違いは、前者はフランス的で後者はドイツ的、ということで片付けてしまいたい誘惑に駆られ、さらにそこに「ロマン主義」という言葉をもってくると、この分類はさらに説得力を増すように思われる。フランス的ロマン主義とドイツ的ロマン主義の違い。本巻に収録された文章を、澁澤の『ホモ・エロティクス』『エロティシズム』『エロスの解剖』『機械仕掛けのエロス』などと比べてみるがいい。たとえば、本巻の「シンデレラの靴」「靴に探される女」「ハイヒール、あるいは個性抹殺装置」などを、澁澤の「エロティック・シンボリズムについて」とか「童話のエロティシズム」と比べてみると、まず理論武装というか、早い話がタネ本に対する姿勢の違いがよくわかる。これらの文章に限らず、澁澤にとっていわゆるタネ本は玩具である。幼児が玩具店の前で道路の上に大の字に寝そべって、手足をばたつかせるように、面白い本を見つけた澁澤はぱっと飛びついて、幼児が我を忘れて遊ぶように、あるいは食通が珍味に舌鼓を打つように、いかにも楽しそうにその本で遊ぶ。そして、幼児が「このおもちゃ、面白いよ」と友達に自慢せずにはいられないように、「こんな面白い本を見つけたぞ」と、読者に紹介するのである。むろんタネ本を隠す低俗な学者など、この際問題外である。そしてまた、幼児が次から次へと新しい玩具に目移りして、ついさっきまで愛玩していたぬいぐるみを捨てて、新しいものに飛びつくように、澁澤も書物の森を渉猟しては戦利品を持ち帰り、これでもか、これでもか、と言わんばかりに気前よく読者に見せてくれる。とくに初期作品にはその傾向が強く、後には『私のプリニウス』のように、自分が玩具と一体化してしまって、玩具愛がほとんど自己愛と化している。
それに比べると、種村は冷静で、タネ本を見つけても、じっと堪えてその喜びをひた隠し、まずそのタネ本の出所を生み出した文脈を探り出した上で、周囲の本もしっかり押さえ、しかるのちにおもむろにタネ本を紹介するのだが、紹介に徹することはなく、つねに自分の宇宙の一部として扱い、そのタネ本の思想史的背景をもしっかり読者に教えてくれる。
澁澤にとってはエロティシズムという主題そのものからして玩具であり、タイトルが示しているように、それは「解剖」の対象であり、また「機械仕掛」である以上、時計を分解するように分析しうるものなのである。だが種村にとってエロティシズムはその機械の中の幽霊のごときもので、彼はひたすらエロティシズムのもつ「妖しさ」に牽引されていく。むろん澁澤にとってもエロスは「妖しい」ものだが、彼の場合は「エロスは妖しい」とひとこと言ってしまえばそれでおしまい。その点、種村はひたすらロマンティックである。
(以下、省略)
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