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「すべての女は魔女である」ことについて/ゴーゴリ『ヴィイ』を読む
(「ユリイカ」1984/8)
「怖がったのがいけなかったんだ。怖がりさえしなければ、魔女はどうすることもできなかったんだよ。十字を切って、魔女の尻尾に唾を吐きかけるだけでよかったんだ。そうすりゃ何も起こりゃしなかったのさ。わしにはこういうことはみなわかっとる。なにしろ、このキーエフの市場に座っている女どもは、みな魔女なんだからな」
仮にロシアの妖怪ベスト・スリーを選ぶとしたら、バーバ・ヤガー、ルサールカ、ヴィイとなるだろうか。ただし前の二つが民衆の想像力から生まれ育ったのにたいし、ヴィイはひとりの作家によって生みだされ、同名の小説によって広く全世界に知れわたった妖怪である。だが、ヴィイは化け物としてよりもむしろ「見者」の代名詞として記憶されているかもしれない。もしそうだとしたら、それは詩人たちがヴィイをこの物語から切りはなし、「見者」の寓喩としてまつりあげたからであろう。たとえばマヤコーフスキイは長詩『戦争と世界』(一九一六)の中で次のようにうたう──
聞いてくれ!
ぼくのなかから
めくらのヴィイのように
時代が叫ぶ、
「永遠のまぶたを
あげてくれ
あげてくれ おれにむかって」(佐々洋子訳)
ヴィイはまた、マンデリシュタームの生涯最後の詩にも登場する。もっと身近な例を挙げると、埴谷雄高はその武田泰淳論の中で、泰淳をヴィイに譬えている──
彼と一時間話し合っている時間を分割してみると、五十九分五十五秒位うつむいていて五秒ぐらいこちらを向いている計算になる。彼はときたま、ほんの一瞬、ちらっとこちらを見るだけである。しかし、そのとき私が驚くことには、彼はその一瞬ですべてを見てしまう。()このように眼をふせた武田泰淳の姿勢から私はゴーゴリの『ヴィイ』を想いだすことが_々あった。()武田泰淳が眼鏡の向うから眼を上げてちらりと相手をみるとき、呪縛の円の中にかくれたもののこの発見者ヴィイの透視するするどい眼が何時も私の脳裡に思いだされてくるのだ。
以下に論じるのはこうした「見者」ヴィイではなく、妖怪ヴィイである。
※
およそ怪談とか怪奇小説のたぐいは、冒頭からいきなり化け物がでてきたりはしないのであって、一ページ目から妖気ただよう雰囲気の中へと読者をひきずりこむ場合もあるだろうが、たいていはごく何気ない日常から出発し、結末近くでクライマックスを迎えるものであり、その意味では比較的形式の安定したジャンルだといえるかもしれないが、ロシアにおける怪奇小説の最高傑作ではないかと(少なくともぼくには)思われるゴーゴリの『ヴィイ』もその例にもれず、物語はキーエフの神学校の、いうなればカーニバル的雰囲気の、陽気で滑稽でいささかグロテスクな描写ではじまる(1)。
文法級、修辞級、哲学級、神学級の生徒たちが、()ぶらぶらやってくる。〔文法級生たちの〕ポケットにはいつもありとあらゆるがらくたが詰めこまれている。例えば、骨片、羽根でこしらえた笛、食べかけの肉饅頭、ときには小雀まで幾羽か押しこまれていることもあり、その一匹がしんと静まり返った教室の中で不意にさえずり始めでもしようものなら、保護者の両手は焼けつくような定規のせっかんを食らったし、桜の枝の鞭をお見舞いされることもあった。修辞級生ともなると()服装はたいていちゃんと整っていたが、その代わり顔にはほろんどかならずといっていいくらい、なにかしら修辞上の比喩とでもいった飾りがくっついていた。つまり、片眼が額の陰にひっこんでいたり、唇の代わりに大きな袋があったり、あるいは、なにかしら別の特徴がついていたりするのである。()(哲学級生は)煙草と火酒の匂いをぷんぷんさせ、時にはずいぶん遠くまで匂うことがあるので、傍を通りかかった職人が、そのまま立ちどまって、猟犬のように、いつまでもくんくんとあたりの空気をかいでいたりするのだった。
夏休みになると学生たちは三々五々、旅をしながら故郷へ帰っていく。ハリャーワ、ホマー、チベリイの三人はそうした旅の途中のある夕暮れ、草原で道に迷い、闇夜をうろつき、やっとのことで部落を見つけると、ぼろ屋の門を叩き、出てきた老婆を拝みたおして泊めてもらう。三人は別々の場所をあてがわれ、われらが主人公ホマーは羊小屋をあてがわれる。彼が眠ろうとすると、老婆が入ってきて、彼につかみかかる。彼はもがくが、体が自由にならない。老婆が彼の背中にとびのると、彼は馬のような速さで空中を走りはじめる。へとへとになったホマーは必死に悪魔ばらいの呪文をとなえ、今度は自分が老婆の背中にまたがって、道端にあった薪で力一杯老婆をぶちのめす。地面にくずれおちた老婆をよく見ると、それは若い美女に変わっていた。ホマーはキーエフに逃げ帰る。
ほどなくして、キーエフ近郊の部落の長からホマーのところに迎えがやってくる。その長の娘がある日散歩からさんざんぶちのめされて帰ってきて、臨終の床で、キーエフの神学校生徒ホマー・ブルートに死後三日間にわたる祈_をたのんでくれと懇願したという。ホマーは、部落の長の使用人たちに強制的に連行される。亡骸をみると、それは彼がぶちのめした美しい娘であった。
最初の晩、死体が棺から起きあがる。ホマーは恐怖に震えながら自分のまわりに円を描き、悪魔祓いの呪文を唱える。死体は「歯と歯を打ち合わせ、死んだ眼を見開いた」が、ホマーの姿が見えないので怒り狂う。死体が棺に横たわると、棺がうなり声をたてて教会の中を飛びまわるのだった。
二日目の晩、またもや死体が起きあがり、呪文を唱える。と、「風が吹き起こり、教会中を吹きめぐって、沢山の鳥が羽根をばたばたさせているような、騒がしい音が聞こえてきた。教会の窓ガラスや鉄枠に羽根をばたばたぶつけ、金切声とともに鉄を爪でひっかくのが聞こえた。数知れぬ魔物どもが扉口を壊して、中に押し入ろうとしているらしかった」。夜が明けて教会から出てきたホマーの髪はなかば白髪になっていた。
そして三晩目、棺の鉄蓋をばりばりと破って起きあがった死体が呪文を唱えると、無数の魔物どもが扉や窓をぶち破って教会の中になだれこみ、あたりをとびまわってホマーを捜すが、彼は魔法の環に守られているので、その姿は魔物どもには見えない。と、死人の声が響きわたる──「ヴィイを連れてこい!」
間もなく重い足音が聞こえてきて、教会中に響きわたった。ちらと横目で見ると、なにやらずんぐりとして、頑丈な、脚が内側に曲がった人間が連れて来られるところだった。全身真っ黒な土にまみれている。筋ばった、頑丈な木の根さながらの、土のこびりついた手足が目についた。絶えずつまずきながら、重い足取りで歩んでくる。ながあーいまぶたが地面まで伸びていた。その顔が鉄であることに気づいて、ホマーはぎょっとした。化け物は両脇を抱えて連れてこられ、ホマーの立っている場所のすぐ真ん前に立った。
「おれのまぶたをあげてくれ。見えない!」とヴィイが地下に籠るような声で言った。魔物どもが一斉に駆け寄って、まぶたをあげようとした。《見るんじゃない!》──となにやら内心の声がホマーにささやいた。が、我慢できなくなって、見た。「ここにいる!」とヴィイが叫んで、鉄の指をホマーに向けた。彼は息絶えてどうと床に倒れ、恐怖のあまり魂は即座に身体から抜け出してしまった。
※
革命前のロシアには至るところに精霊というか魔物が住んでいた。家に住みつく霊(ドモヴォーイ)をはじめ、庭には庭霊(ドヴォロヴォーイ)、浴槽には浴槽霊(ヴァーンニク)、穀物倉には穀物倉霊(オヴィーンニク)、森には森霊(レーシイ)、野原には野霊(ポレヴォーイあるいはポレヴィーク)、湖や池や河には水霊(ヴォジャノーイ)が住んでいた。若い娘が水に溺れて死ぬとルサールカになった。ただしこれらの霊の性質はそれぞれ地方によって異なり、同じ名の霊であっても、善良なやつもいれば邪悪なやつもいたのであってルサールカにしても、北方のルサールカは、ライン河に住む姉妹と同じく、その美貌と妙なる歌声で旅人を水の中に引きずりこんだが、南方のそれは髪ふり乱し、屍のような蒼い顔に邪悪な眼をぎらぎらさせ、微塵の魅力ももちあわせていなかった。
こうした百鬼夜行のフォークロア世界が『ヴィイ』を生んだことはいうまでもない。神学生ホマーがキーエフに逃げ帰ったところを境に、前半部・後半部はそれぞれ次のような民話を下敷きにしていると考えられている。
(1) 若い農夫が草原で道に迷い、老婆の小屋に泊めてもらう。夜中に老婆が彼の部屋にやってきて、彼の背中にとびのって走らせるが、彼はやっとのことで老婆を振り落とし、すかさず老婆の背中にとびのって殺してしまう。
(2) 〔原因についてはヴァリエーションがあるが〕男が死んだ魔女のために三晩祈_するはめになり、毎夜、魔女(およびその仲間)が襲ってくるが、助言者から授けられた知恵のおかげで難を逃れる。
無論どちらの民話にもヴァリエーションがいくつもあるわけだが、概してハッピーエンドに終わるのが特徴であり、それが『ヴィイ』と民話とを隔てる点である。
『ヴィイ』には主人公を救う助言者がいない点を指摘する研究者もいる。ホマーが唱えた悪魔祓いの呪文は「生涯にわたって魔女や悪霊を見つづけたという、ある修道僧」から教わったものであるから、この修道僧を民話の助言者の一ヴァリエーションと考えることもできるが、ホマーは父親も母親も知らぬ孤独な青年であり、結局ホマーを救ってくれる者はいなかったのだし、たった一人で魔物どもと戦わねばならない彼の心細さと絶望感がひしひしと伝わってくるということは、ゴーゴリはホマーをそのようなものとして描いた(さらにいえば、みずからをホマーに投影した)ことを物語っている。
最初に『ヴィイ』を読んだとき、ぼくは魔女が自力で復讐をとげるのではなく、ヴィイの助けを借りるという点が気にかかったが、(2)の民話では場合によって最年長の魔女あるいは魔界の王が助っ人にやってくるということを後で知った。考えてみれば、この種の物語では主人公と悪霊の戦いの背後には此岸対彼岸、あるいは現実界対魔界という二大原理の対立があるのであって、主人公と悪霊の戦いはいわばその代理戦争として設定されているのである。
では助っ人にくる妖怪ヴィイと民間伝承との関係についてはどうか。ゴーゴリはみずから次のような註をつけている──
ヴィイは庶民の想像力の大いなる所産である。小ロシア人の間では地霊(グノム)の首領がこうした名で呼ばれ、そのまぶたは地面にまで及んでいる。この物語全体は民衆の言い伝えである。私は全くどこも変えようとは思わず、ほどんど聞いたままの素朴さで物語っている。(諫早勇一訳)
これはゴーゴリの文学的粉飾であり、ヴィイなる妖怪はゴーゴリの発明したものだ、というのが長いこと通説であった。先に、ロシアには下級霊どもがうようよいたと書いたが、地霊はウクライナにもロシアにもいなかったのである。その理由は、おそらくスラヴ人にとって大地が特別な神格だったためである。大地──母なる湿潤の大地──はキリスト教時代以前のスラヴ人にとっては最大の崇拝の対象であったが、その大地信仰はキリスト教時代になっても根強く残った。ロシアのグリムと呼ばれるアファナーシエフの『スラヴ諸族の詩的自然観』(一八六五─)によれば、「勇士たちは凶暴な龍を撃つとき、その血にまみれそうな危険に直面して次のように大地に願う。『おお、潤える母なる大地よ、四方に割れて龍の血を飲み干してくれ』──すると大地は割れて血の流れを飲みこんでしまうのである」。スミルノーフの『古代ロシアの聴問僧』(一九一三)によれば、一九〇一年の報告でも、ペチョーラ河畔の分離派教徒たちは正教の司祭には罪を告解せず、司祭の招きを拒否して、「われわれは神様と潤える大地に告白するのです」と答えたという。大地はあくまで聖なるもので、大地そのものが人格化されていたから、とても下級霊の住める場所ではなかったのである(2)。
だが有名なアファナーシエフの民話集には『イヴァン・ブィコーヴィチ』という、こんな話が収録されている──イヴァンは魔女につかまり、地底に連れていかれる。そこでは魔女の夫が鉄のベッドに寝ているが、彼は眉毛とまつ毛が異様に長く、眼を覆い隠していて、彼はイヴァンの姿を見るために、十二人の豪傑を呼び寄せ、鉄の熊手で眉毛とまつ毛をもちあげさせる。
しかし、この民話がヴィイの材源であることを証明することはおそらく不可能である。むしろ、アカデミー版ゴーゴリ十四巻全集の註でこの民話を紹介しているペトローフ自身も認めているように、この民話のルーツを辿ってみたら『ヴィイ』だったということになるかもしれない。
いっぽう栗原成郎氏の名著『スラヴ吸血鬼伝説考』によれば、ヴィイは「まったくのゴーゴリの想像というわけではなく、マケドニアやセルビアの民間信仰には知られており、その重いまぶたがあくとき、恐るべき凶眼によって一瞬のうちに人間や町を灰にしてしまう稲妻の神であった」という。しかしこのことがヴィイの材源研究にとってなんらかの意味をもちうるかというと、それは否定的である。文学作品の影響関係をさぐる際につねに問題になることだが、この場合も、仮に先行するヴィイ像があったとしても、果たしてゴーゴリがそれを知っていたかという問題が残る。
研究者たちはいまだにヴィイの財源にこだわっているらしいが、以上に述べたような理由から、今後ヴィイとフォークロアとの繋がりに関して「新発見」があらわれるとは思われない。
これにたいして、一九七六年になって、カーリンスキイがその『ニコライ・ゴーゴリの性的迷宮』のなかで、ヴィイのルーツはドイツ・ロマン派の作家フーケーの『ウンディーネ』にあるという仮説を提出した。ジュコーフスキイによる『ウンディーネ』のロシア語訳が出版されたのは一八三七年であり、いっぽうゴーゴリは一八三四年ごろに『ヴィイ』を書いたと考えられているのだが、カーリンスキイによれば、ジュコーフスキイが翻訳をすすめていた頃、彼とゴーゴリは親しく付き合っていたので、おそらくゴーゴリは彼からこの作品について聞いたにちがいないという。『ウンディーネ』の第四章で、騎士フルトブラントは森の中で「ちびで醜く、土色の顔をして、からだ全体と同じくらいの大きさの鼻をもった」地霊の親玉に出会う。この「地霊」は原作ではコーボルトだが、ジュコーフスキイのロシア語訳ではグノムとなっていた。また、そのすぐ後の部分ではコーボルトたちが金属の塵のついた尖った指先で騎士を指さす。類似点はそれだけではない。ホマーが魔女を背中に乗せて走っているとき、ふいに足もとの地面の中がまるで水中のように透けて見えるという個所があるが、『ウンディーネ』のやはり第四章には、地面が透けて見え、地中にいるコーボルトたちの遊ぶ姿が見えるという件がある。この仮説はひじょうに説得力があるように思われる。カーリンスキイの言い草ではないが、研究者たちはいままでどうしてこれほどの類似に気づかなかったのだろうか。
しかしながら、果たしてヴィイは本当にグノムなのかという問題もある。というのも、グノムというのはふつう小人であり、たしかにヴィイもprizemistyj(小柄でずんぐりした)と形容されているが、これは後に書きあらためられたのであって、初版ではispolinskogo
rosta(巨大な)、草稿ではvysokij(背の高い)と書かれており、「ゴーゴリの脳裏にヴィイに関する明確なイメージがなかったことは明らか」(3)である。結局、どこまでが借物でどこまでが創作なのかを確定することはどうも困難なようだ(4)。
ヴィイの登場に先立って暴れまわる化物たちについても材源探索はおそらく徒労におわるであろう。(因に、その場面では一匹の妖怪だけが詳しく描写されている──「壁一杯に立ちはだかっている、なにやら巨大な怪物が、髪の毛を森さながらに振り乱していた。髪の毛の網を透かして恐ろしい二つの眼がにらんでいた。眉をわずかに上に揚げている。その頭上には何か巨大な泡のようなものがあり、真ん中あたりから千個はあろうと思えるはさみや、さそりの針がさしのばされている。はさみや針には土くれがこびりついていた」──が、初版ではこの他に、「骨格が表面に出ていて、黒い肋骨を透かして、黄色い体が垣間見えている」化け物と、「杖のように細長く、全身が眼でできている」妖怪が登場した。これはベリンスキイその他の批判をあびて削除されたのである。)
※
現代イタリアの作家トマソ・ランドルフィに『ゴーゴリの妻』という佳品がある。これは架空伝記小説で、ゴーゴリがじつはゴム人形(要するにダッチワイフ)といっしょに暮らしていたという話である。一種の恐怖小説で、ぞっとするような結末が用意されているのだが、少しでもゴーゴリの実人生について知っているものにとっては、苦笑を誘われこそすれ、これはけっして出鱈目な発想ではない。ゴーゴリは生涯独身を通し、おそらくは死ぬまで童貞だったろうといわれる。彼はホモセクシュアルに逃げこむこともできず、死ぬまで「性の悩み」を抱えつづけ、こんな小説を書かれてもおかしくないような人生を送ったのだ。そして、すでに繰り返し指摘されているが、ゴーゴリにおける性の問題がもっと明確にあらわれているのが『ヴィイ』である。
『ヴィイ』にはあちらこちらに性的なイメージが見られる。まずパンと女性の肉体について。ゴーゴリの作品ではしばしばパンと女体のイメージが結びついてあらわれるが、それは『ヴィイ』にも見られる。冒頭で、市場でパンを売る女たちは先を争って神学校の生徒たちの袖をつかもうとする──「さあ、さあ、お若い旦那衆! こっちだよ!」「ほうれ、このあたしが焼いた品だよ!」またキーエフに逃げ帰ったホマーは若い後家を口説き、「小麦饅頭やら鶏肉」をたっぷりご馳走になる。さらに部落の長に「おまえさんはきっと、敬虔な暮らしと神様の御意にかなった行ないとで名を知られとるんじゃろ」と言われたホマーは「冗談じゃありませんよ、このわたしは、受難週間の木曜日にすらパン屋へ出かけるくらいなんですからね」と答える。これらのパンは性的な意味を担っている、などと言ったら研究者たちから猛烈に批判されるのかも知れないが、少なくともぼくはそう読んだ。
カーリンスキイによれば、泊めてくれと頼む神学生たちに老婆が言う、「入れてやろう。その代わりみんな別々に寝てもらうよ。一緒に寝られたんじゃ、わしの心が落ち着かんでな」という台詞は同性愛のことを言っているのだという。
しかし、なによりも、『ヴィイ』における性的なものが集中的にあらわれているのは、ホマーが魔女を背中に乗せて走る件【くだり】である。この部分が性的なものをほのめかしていることは明らかである。というより、ここで描かれているのは性行為そのものである。
小屋の中にいきなり老婆が入ってきたとき、ホマーは即座に老婆が性的な目的でやってきたのだと直感する。彼は心の中で、《うへえ、とんでもないよ、お婆ちゃん、いい年をして!》と思い、「ちょっと、お婆さんや、今は斎戒期でな。わしは金貨を千枚積まれても、精進を破りたくないよ」と言う。だが老婆は黙って彼に飛びかかり、「子猫のような敏捷さで」彼の背中に飛び乗り、「箒で脇腹を打つ」。と、彼は「馬のように跳ねて」走り出す。猫はゴーゴリにとって魔的なものの象徴であったが、これはゴーゴリに限らず、魔女が猫に姿を変えるという民間信仰は広くヨーロッパ中に知られていた。箒は魔女の飛行を思い出させるが、実際この件は魔女の飛行と密接な関わりをもっている。さらに馬はナイトメアを想起させるが、魔女の飛行と夢魔あるいは悪夢とは別物ではないのであって、「馬のように跳ねて」という表現がここにあらわれるのはむしろ当然といえる。
だが、これについてはもう少し説明を必要とするだろう。
一般にはもっぱらフロイトの伝記で有名なアーネスト・ジョーンズはその主著のひとつ『夢魔について』において、インクブス、スクブス、吸血鬼、人狼、悪魔、魔女といった民間信仰と悪夢の関係について論じ、さらに悪夢の語源および悪夢と馬のイメージの結びつき(ナイトメアのメアと雌馬とは語源がちがう)を考察しているが、その中で、サバトへ向かう魔女の飛行(Hexenfahrt)の特徴として、旅(travelling)、飛行(flying)、馬乗り(riding)の三つを挙げている。ジョーンズによれば、この三つはすべて「性的」である。なかでも、もっとも直接的に性交を象徴しているのは「馬乗り」である。魔女が男を馬に変え、それに乗ってサバトへ出かけるという言い伝えもある。だが、ぼくたちが魔女の飛行と聞いてすぐに想い浮かべるのは、魔女が箒に跨がって空を飛ぶ図だろう。ジョーンズによれば、箒はきわめて日常的な道具で、家事をする女性と結びつくと同時に、子供が馬のかわりに乗って遊ぶ道具でもある。魔女飛行図における箒が男根の象徴であることはいうまでもない(だから、穂先が前、柄が後ろというのが正しい図柄だ)。
『ヴィイ』において、「馬乗り」は中心的な性的イメージである。ホマーは三晩にわたる祈_に先立って、部落の長の使用人たちから、猟犬番のミキータが長の娘にとり殺されたという話を聞く──
「あるときお嬢さんが厩までやっていらした。ミキータ、あんたの上に足をのせさせてよ、とおっしゃるのだ。やつの方はもう馬鹿みたいに喜んで、足ばかりか、わたしの上におのんなさい、と言う。やつは馬鹿みたいに背を屈め、お嬢さんのむきだしの足を両手でつかむと、馬みたいに駆け出して、野っ原をぐんぐん遠ざかっていった。()半死半生のていで帰ってくると、そのときからというものすっかり痩せ細って、木っ端のようになっちまった。あるときみんなが厩へ行ってみると、ミキータの代わりに一山の灰と空っぽの木桶があるばかりじゃった。すっかり燃えつきていた。われとわが身を燃やしつくしたんじゃ」
そして二日目の夕刻、ホマーは使用人たちの遊びを見物する。それは「勝った者が負けたものに馬乗りになって乗りまわす権利を得る」というゲームである。
馬乗りが性交を意味するとしたら、男だけでやるこのゲームがホモセクシュアルを意味することはいうまでもない。「ホマーもこの遊びに加わろうとしてみたが、どうも興がのらない。なにか重苦しい考えが、釘のように頭の底にひっかかっているのだった」という一節に、ホモセクシュアルにもなれなかったゴーゴリの姿を見るカーリンスキイの解釈も的はずれではないだろう。
いま一度、夜の飛行の場面を読み直してみる。ホマーは背中に魔女を乗せて走りながら、「心臓の方によじのぼってくる、なにか悩ましい、不快な、それでいて甘美な感覚」を味わう。足もとを見ると、大地は海に変わり、そこを泳ぐルサールカが見える。
しなやかな、むっちりとした背と足がちらちらと見えた。()雲のようにふくよかな胸、釉薬をかけていない陶器のような、つやけしの胸が、その白い、しなやかで、たおやかな丸い隆起の縁を陽にきらめかせている。
こういう女体の描写はゴーゴリの作品としてはまったく例外的だが、このルサールカは背中に乗っている魔女と同一と考えていいだろう。この直後にオーガスムの描写がある──
あれはなんだ? 風か音楽か──鳴り響き、近づいてくるもの、なにやら耐え難いトレモロとなって心に食い入ってくる()玉のような汗がだうだうと流れた。彼はものぐるおしい、甘美な感覚を味わっていた。なにか刺し貫かれるような、うずくような、恐ろしい快楽だった。
彼は魔女と交わったのである。このオーガスムの後で、つまり射精を終えて、ホマーは「しらふ」に返り、呪文を唱える。老婆を背中に乗せて走り出したときすでにホマーは老婆が魔女であることに気づいたのだから、その時点で呪文を唱えることもできたはずである。彼は魔女が背中にとびのることを許し、すなわち魔女の誘いにのり、自分の欲望を処理してから、相手を捨てたのだ。その「過ち」は死によって報いられなくてはならない。ただしその過ちとは「捨てた」ことではなく、「交わった」ことであるから、仮にホマーが呪文を唱えて老婆をぶちのめさなくとも、やはり身を滅ぼさなくてはならなかったのである。それは、繰り返すが、女と交わったからである。ホマーはどうやら随分と「遊んで」いるようだし、キーエフに逃げ帰った彼はすぐに若い後家とねんごろになるわけだが、魔女との交わりとそれとは質を異にするのだ。老婆をぶちのめした瞬間を振り返ってみると──
婆さんはものすごい叫び声をあげた。はじめは腹立たしげな、おどすような叫び声だったが、やがて、だんだんと弱々しい、快い、澄んだ音色になり、さらにまた、かぼそい、ほとんど銀の小鈴が鳴るような音になって、心の奥深くおちこんでくるのだった。()眼の前に豊かな髪を振り乱した美女が横たわっていた。まつ毛が矢のように長く伸びている。白いむきだしの腕を両側に投げ出して、うめいていた。上目遣いの眼には涙が一杯たまっている。ホマーは()憐憫の情となんだか奇妙な興奮と臆病風、自分でもわけがわからね感情に襲われて、一目散にそこから逃げ出した。()自分を襲ってきたこの奇妙な、新しい感情はいったい何か、自分でもなんとしても見当がつきかねるのであった。
この「新しい感情」が恋でないとしたら何だろうか。祈_の最初の晩、ホマーは魔女の屍を見て、その美しさを讃える。
顔立ちのひとつひとつの特徴がこれほど際立った、しかもすべて調和のとれた美しさに仕上げられたことはかつてあるまい、と思われるほどだった。()雪か、銀をうちのべたような美しい、優しい顔は、ものを考えているみたいだった。眉は燦々たる真昼の中の夜さながら、ほっそりと、直ぐに、閉じられた眼の上に誇らしく張られている。まつ毛は頬まで矢のように伸びて、人知れぬ欲望の炎に燃えているようだった。唇は今にも笑みのこぼれそうなルビー
ホマーは魔女を「愛」したのである。女を愛した男の前に未来はない。ゴーゴリにとってはそうなのである。彼が「マザコン」だったからである。ゴーゴリは『女性』というエッセイの中で、「女性とは何か。神々の言葉である。女性は詩である。女性は思想である。われわれは現実への女性の投影にしかすぎない」と述べているが、これは彼の理想の女性像であっても「女性観」ではない。この理想の女性像を育てたのはもちろん母親への固着である。彼は理想の女性を崇拝するあまり、現実の女性と繋がりをもつことができなかった。女はすべて魔女であり、女と交わることは身を滅ぼすことを意味するのだ。
ホマーはどのようにして身を滅ぼしたであろうか。クライマックスを読み直してみよう──
「おれのまぶたをあげてくれ。見えない!」とヴィイが地下に籠るような声で言った。魔物どもが一斉に駆け寄って、まぶたをあげようとした。《見るんじゃない!》──となにやら内心の声が哲学級生にささやいた。が、我慢できなくなって、見た。「ここにいる!」とヴィイが叫んで、鉄の指をホマーに向けた。そこにいた限りの魔物がホマーに飛びかかった。彼は息絶えてどうと床に倒れ、恐怖のあまり魂は即座に身体から抜け出してしまった。
ここでは、決定的なのはホマーがヴィイを見たことである。決定版では削除されたが、初版では「我慢ができなくなって、見た」の後に、「二つの黒い弾丸が真っ直に彼を見つめていた」という一文があった。ゴーゴリはこの瞬間により深い象徴的意味をもたせるためにこの一文を削った、と考えていいだろう。
ここでは「見る」ことと「見られること」が表裏一体をなしている。これについて、レオン・スティルマンはその『ゴーゴリにおけるTすべてを見抜く眼U』の中で適切に述べている。「ホマーは自分自身の視線に裏切られる。ここでは『(相手を)見ない』ことが『(相手から)見えない』ことを意味する。恐ろしいものを見てはならない。誘惑は大きいが、それに屈してはならない。見てしまうと、こちらの姿が相手に見えてしまう。そうなったらもはや救いはないのだ」。したがって、もし仮にメドゥーサの系譜なるものがあったとしたら、ヴィイもそれに属することはいうまでもない。
いったいこのクライマックスにおける「見る」こと、「見られること」の意味、すなわちホマーを死に至らしめた恐怖の中身は何か。カーリンスキイはヴィイのまぶたをultra-phallicだと述べ、魔物たちによってあげられた両のまぶたとホマーをさす鉄の指を、ホマーに向けて勃起した三本の男根と解釈し、それが「三重の恐怖」を象徴しているという。第一は、同性愛の欲望の恐怖。第二はその欲望が女の復讐のために利用されたという恐怖。第三はそれが教会の中で行なわれるという_神の恐怖である。
だがここでは、「あらゆる悪夢の根源的要因は去勢恐怖である」という、先に触れたアーネスト・ジョーンズの説のほうが説得力があるように思う。ジョーンズの説が夢魔の民間信仰の研究にどの程度まで有効なのか、ぼくには知る由もないが、少なくともゴーゴリのような作家に関しては「使える」ように思われる。オランダの研究者ドリーセンはこのフロイト的な立場に立って、ヴィイは死んだ父親であり、彼が土をつけているのは墓の中からきたからであり、まぶたが垂れているのは死んでから年月が経つからである、と説明している(ただ、ヴィイが父親のイメージであるのはいいとしても、この説では魔女の正体を明らかにすることはできない。この魔女は母親でもあるだろうが、それだけであるはずがない)。
『ヴィイ』に登場する魔女について、どうも釈然としないことが一つある。それは、この魔女は若くて美しいのに、ホマーを誘惑する際にどうして老婆の姿であらわれたのか、という点である(魔女が若い美女だったことが不思議なのではない。ミシュレは「詩人は、なんの根拠もないくせに、魔女が醜く年寄りだと仮定する。多くの魔女は、まさしく若く美しかったがために命をおとしたのである」と書いているが、じっさい老いて醜い魔女というイメージはおそらくグリムあたりからきているのであって、魔女はふつうの女よりも若くて美しいか、老いて醜いか、どちらかだったのであり、ロシアでも、バーバ・ヤガーなどという魔女のチャンピオンみたいなのもいるが、王様の美しい娘が魔女だったという民話もある)。カーリンスキイは「自分にハンディキャップを課して(ホマーを滅ぼすという)仕事をより面白くするためだ」と説明しているが、いまひとつぴんとこない。
※
さて、ホマーが息絶えた瞬間、鶏の鳴き声が響きわたる。
それはもう二番鶏であった。一番鶏を魔物どもは聞きのがしたのだった。びっくりした悪霊どもはわれ先に窓や扉口へと殺到し、できるだけ早く逃げ出そうとしたが、時すでに遅かった。彼らはそのまま扉や窓にはりついたままになってしまった。
この魔物たちはいささか間抜けで滑稽だ。「あけたる戸わきの壁になまなましき血そそぎて血につたふ。されど屍も骨も見えず。月あかりに見れば、軒の端にものあり。ともし火を捧げて照し見るに、男の髪の髻【もとどり】ばかりかかりて、外には露ばかりのものもなし」という『吉備津の釜』の結びと比べると随分と雰囲気が違う。
この結末に関してかねがね疑問に思っていることが一つある。魔女やヴィイも教会に貼りついてしまったのかということである。ソヴィエト映画では、魔女は棺に戻るが、ヴィイについては、ぼくの記憶に間違いなければ不明のままだった。もしヴィイも貼りついてしまったとすると、彼の威厳も地に落ちてしまうような気がするが、ひょっとするとそうなのかもしれない。この物語はキーエフの神学校の鐘の音で始まり、エピローグではホマーの道連れだったチベリイが鐘撞きになっている。ゴーゴリはこの作品を一幕の人形芝居のように仕立てているのかもしれない。だとしたら、止まっていた人形たちが踊りだし、最後にまたぴたりと止まるという一幕のバレエのように、幕が下りるときには魔物たちの人形がならび、その中にヴィイの人形があってもおかしくないかもしれない。勿論これはただの空想である。専門家の説明を聞きたいと、かねがね思っている。
註
『ヴィイ』の本文、ヴァリアント、草稿については、アカデミー版十四巻全集(リプリント)を使用した。引用に際しては一部を除いて小平武氏による訳(河出書房版ゴーゴリ全集)を借用した。ただし細部を変えたところもある。
(1) ここにはゴーゴリの、ギムナジウム時代への郷愁があらわれているといわれる。
(2) ドストエーフスキイ研究者の井桁貞義氏は最近の論文で、十九世紀ロシアにおける大地信仰、それと聖母イメージとの関係、そしてソフィア像との結びつき、ドストエーフスキイの作品におけるその意味について論じている(「大地・聖母・ソフィア」『ドストエーフスキイ研究』創刊号)。
本文中のアファナーシェフ・スミルノーフからの引用はこの井桁論文に拠った。
(3) 諫早勇一「ゴーゴリの『ヴィイ』の材源をめぐって」『信州大学人文科学文集』一五号。
(4) ヴィイという名称はゴーゴリの造語だと考えられている。ペトローフはアカデミー版十四巻全集の註で、「ヴィイはウクライナ語でまぶたを意味する」と書いているが、ドリーセンはこれを誤りだとし、「ヴィイはゴーゴリがウクライナ語でまつ毛を意味するviyaという女性名詞を男性形に変化させて作ったものだ」と主張し、この説が一般に受け入れられている。たしかに『ヴィイ』では魔女のまつ毛が繰り返し描写されており、魔女をヴィイは魔界の代表者のペアと考えられるから、納得がいく。ただ、ひとつ気になるのだが、ゴーゴリ全集の註をつけている学者がウクライナ語を知らないということがあるのだろうか。
なおカーリンスキイはヴィイの語源に関して、『ウンディーネ』と関係を前提として、独自の仮説を提示している。
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