ザビーナ・シュピールライン──フロイトとユングのはざまで
(「ユリイカ」1985年10月号)

 ザビーナ・シュピールラインは一八八五年に、南ロシアの、ドン河がアゾフ海にそそぐ河口に近いロストフ・ナ・ドヌの、裕福なユダヤ人家庭に生まれた。父親は実業家で、母親は当時としてはめずらしく大学教育を受けた女性だった。
 ザビーナは幼い頃から抜群の想像力を示し、自分だけの豊かなファンタジー世界をもっていたが、三歳の頃に初めて幻覚体験をしてから偏重をきたしはじめ、三歳から四歳にかけての頃、排便を限界まで我慢するようになり、やがて次のような方法をとるようになった。すなわち、片足の上にしゃがみ、かかとを肛門にぎゅっと押しあてたまま排便しようとするのだった。七歳になるとこの習慣はやみ、激しいマスターベーションに取って代わられた。また父親が弟のむきだしの尻を叩くのを見て性的な興奮をおぼえた。思春期になると、食事の最中にどうしても排便のことを考えてしまい、食卓についている他の人びともみんな排便しているのだという妄想にとらわれ、人といっしょに食事することができなくなった。
 やがて他人の顔を見ることがまったくできなくなり、いつでもうつむいていて、極度の鬱状態に陥ったかと思うと、突然に大笑いしたり、泣き叫んだりといった発作に襲われ、だれかに体を触られると、舌をベーっとだして拒否反応を示すのだった(1)。
 両親は、娘に医学を学ばせるため、そして同時に精神療法を受けさせるために、スイスのチューリヒに留学させた。
 一九〇四年の夏、サビーナはブルクヘルツリ病院に入院し、カール・グスタフ・ユング先生の治療を受けることになった。病状は急速に好転し、翌年の夏には退院することができた。彼女はさらに翌年までユングに個人的に分析を受ける一方で、チューリヒ大学の医学部に入学し、一九一一年に、ユングに手伝ってもらった論文『ある分裂病の症例の心理学的意味内容』によって学位を取得した。かつての分裂病患者が、いまや分裂病の研究と治療に取り組む精神病医となったのである(2)。

 さて、フロイトとユングの文通がはじまったのは一九〇六年四月(フロイト四十九歳、ユング三十歳)のことだが、同年十月、ユングはフロイトに宛てた二通目の手紙にこう書いている。
「わたしは、いちばん最近の体験に除反応をほどこさなくてはなりません。現在、あるヒステリー患者を、あなたの方法で治療中です。二十歳のロシア人女子学生で、病歴六年、厄介な症例です」(3)。
 ユングはこのあと、患者の病歴を述べ、最後にフロイトのコメントを求めている。この患者はいうまでもなく、シュピールラインである。
 除反応とは「主体が外傷的な出来事の記憶に結びついた情動から解放され、かくしてこの情動が病原的とならずにすみ、あるいは病原的であり続けたりすることがないようにさせる感情放出」(4)であるから、この言葉は、ユングが情動面でかなりきつい状態にあったことを物語っている。彼はまた「厄介な症例」だと書いているが、シュピールラインの症状は、ユングがブルクヘルツリ病院で診ていた他の患者と比べて、むしろ軽いほうだった。「いちばん最近の体験」というのも、彼がシュピールラインをすでに一年以上も治療していることを考えると、ちょっと変だ。じつは、ユングはこの患者との恋愛関係に悩んでいたのである。
 ちなみに、ユングにトーニ・ヴォルフという愛人がいたことはかねてから知られていたが、このシュピールラインとの関係はごく最近になってはじめて明らかになった(5)。いずれにせよ、ユングは女性患者にたいする影響力は抜群で、妻のエンマも「女性患者は一人のこらず夫に恋します」(6)と言っている。またユングの女性弟子のなかには、かつて彼の患者だったものも多い。ポール・スターンによれば、「女性の神経症患者にたいするユングの磁力たるや驚くべきものであった。ユングの秘密の一部は、誤解されている、あるいは誤解されていると感じている女性の訴えにつよく感情移入することにあった。この上なく鋭い、ほとんど『女性的な』感受性もまた、この特異なセックス・アピールを助長した。いずれにせよ、ユングの最初の、もっとも熱心な、もっとも狂信的な弟子たちはいずれも女性だった」(7)。

 ユングとシュピールラインがいつから恋仲になったのか、正確なことはわからないが、これが分析関係における転移の問題と密接に関わっているであろうことは疑いない。
 ユングはブルジョワの娘エンマとの結婚生活に「飽きて」いた。フロイトは四十代になって夫婦間の性生活もとだえてしまうと、あとは死のことばかり考えるようになったが、ユングは尽きることのない生命力の持ち主だったし、なにしろシュピールラインと知り合ったとき、まだ三十にもなっていなかった。ユングは彼女に「一夫多妻【ポリガミー】」を説き、「これはぼくとぼくの妻以外は読んだことがないのだよ」といって自分の日記をみせ、「ぼくはユダヤ人女性に弱いんだ。きみを見ていると、S・Wを思い出す」と打ち明けた。S・Wというのは、ユングの学位論文『いわゆるオカルト現象の心理学と病理学のために』に登場する少女霊媒で、ユングの従妹のへレーネ・プライスヴェルクである。ヘレーネはユダヤ人ではなかったが、夢遊状態では自分をユダヤ人であると称していた(8)。じつはユングはヘレーネにたいしても、冷酷な仕打ちをしたのだった(9)。ユングには、へレーネがシュピールラインの姿をかりてふたたび自分の前に姿をあらわしたように思われたのだった(10)。
 シュピールラインは日記に自分の苦悩を書きつけている。「彼の妻は法によって護られ、みんなから尊敬される。でも、このわたしはふしだらな恋人、情婦ma杯ress!と呼ばれるのだ。彼の妻は彼と連れ立ってどこにでも公然と姿を見せることができるが、わたしは暗い隅でこそこそとしていなければならない。わたしは、彼の腕に抱かれていたときだけ、何もかも忘れることができた」。
 二人の間にはどうやら肉体関係もあったらしい(11)。もし本当にあったのだとしたら、ユングは分析家として絶対に踏み越えてはならない一線を越えてしまったわけである。
 しかし、このへんで二人が共有した精神世界に眼を向けねばなるまい。ブルクヘルツリ病院で、分裂病患者の内的世界をなんとか理解しようと模索をつづけていたユングは、患者たちを既成のカテゴリーに無理矢理分類し、統計をとることばかりに精をだしていた同僚たちの間にあって、孤立感を味わっていた。と同時に彼は、幼児期の幻視体験の尾をいまだに引きずっていた。幼時の疑問にたいする解答はいまだに見出せないのだった。シュピールラインと出会い、分析関係に入ったとき、ユングは彼女に中に、自分にとってはひどく懐かしいものを見出したにちがいない。ヘレーネとの降霊会体験のなかでおぼろげながら形成されていったユング心理学の中心的概念は、シュピールラインとの恋愛体験のなかで、より明確なかたちをとりはじめた。厳密な考証は今後の課題であろうが、「ことによるとユングの中心的な概念のすべてが直接または間接にシュピールラインに負うものであるかもしれない」(12)。
 二人はヴァーグナーを愛し、ゲルマン神話について語り合った。シュピールラインは、ユングの子を産みたい、その子をジークフリートと名付けるのだ、と繰り返し日記にしるし、ユング本人にたいして何度もこの夢を訴えた。この願いは、恋人の子供がほしいという恋する女性に概してみられる願望であるだけでなく、その子をユダヤ民族とアーリア民族を繋ぐ架け橋としたいという神話的次元をもそなえていたのである。こうしたなかから生まれたシュピールラインの学位論文は、おそらくユングと彼女との合作というべきものだったにちがいない。当然ながら、それはユングからの夥しい引用に溢れていたが、いっぽうこの論文はユングの主著ともいうべき『変容の象徴』に繰り返し引用されることになる。またシュピールライン体験は、『変容と象徴』におけるジークフリート神話にも新たな光を投げかける。

 さて二人の関係はしだいに人びとの知るところとなり、だれか(おそらくはユングの妻)がこのことをザビーナの両親に手紙で知らせた。ザビーナの両親はユングに、「あなたは娘を救ってくれた恩人です。今になって娘の貞操を踏みにじるような真似をするべきではありません。どうか友情の範囲を超えることのないよう切にお願いします」と書きおくった。これにたいするユングの返事は、ユングを神と讃える人びとにとってはまことにショッキングな内容である。
「わたしは、自分の感情を背後に押しこめるのをやめたとき、彼女の医師から友人に変わりました。わたしは職業上の義務を感じていなかったので、それだけいっそう容易に医師としての役割をすてることができました。というのも、わたしは一度も報酬を要求しなかったのです。この報酬というものによって、医師に課せられる限界がはっきりと確立されるのです。男と女がいつまでも友情ある付き合いをつづけ、そこに何かそれ以上のものが付け加わることがない、などということがありえないことくらい、あなたにもおわかりでしょう。他方、医師と患者は、もっとも親密な事柄を、自分たちが望むあいだだけ、語り合うことができます。患者は、自分の求める愛情と関心をすべて医師が注いでくれることを期待するかもしれませんが、医師はその限界をわきまえていて、けっしてそれを乗り越えたりしません。というのも、彼は自分の労苦にたいして報酬をもらっているからです。そこで、わたしは提案したいと思います。もしあなたが、医師としての役割に厳密に徹することをわたしに望むのなら、わたしに、わたしの労苦にたいする適切な報酬として謝礼を支払うべきです。そうすればあなたは、わたしがいかなる状況においても医師としての義務を尊重することを無条件に確信することができます。他方、ご令嬢の友人としていえば、事は運命の手に委ねなくてはなりません。二人の友人が自分たちの望むままに振る舞うことを何人も妨げることはできないのですから。なお、わたしの謝礼は一回につき十フランです」
 要するにユングは、治療にたいする謝礼を受け取っていなかったのだから、二人が性的な関係にいたったことは別におかしなことではない、報酬を受け取っていたならこんなことにはならなかっただろう、といっているのである。まったく情けなくなるような釈明だが、これがユングの苦しまぎれの屁理屈であることは、シュピールラインの母親が謝礼として、金銭の代わりに贈り物を送りつづけていたという事実からも明らかである。
 ザビーナの母親はこのユングの返答に呆れて、すぐにチューリヒにとんできて、じかにユングに会った。ユングはこの頃、ブルクヘルツリ病院を辞めるが、それはこのスキャンダルと係わりがあってのことかもしれない。

 しだいにシュピールラインにたいするユングの熱はさめていった。シュピールラインは彼のあまりに破廉恥な振舞いに憤慨し、フロイトに「直訴」しようと思い、会見を申し込む。ただし彼女は復讐を意図したわけではない。ユングにたいする愛情は、おそらくは死ぬまで変わることがなかったのである。
 いっぽうユングもフロイトに、「数年前にわたしが最大限の努力をして重症の神経症から救いだしてやった女性患者が、考えられるかぎりの破壊的手段を用いてわたしの信頼と友情を裏切ったのです。わたしの子供が欲しいという彼女の願いをこのわたしが断念させたというただそれだけの理由で、彼女は世にも忌まわしいスキャンダルを惹き起こしたのです」(13)と書いて泣きつき、シュピールラインとの関係を打ち明ける。
 はじめのうちフロイトはユングに同情を示し、シュピールラインを冷たくあしらった。非ユダヤ人であるユングをなんとしても精神分析運動に引き入れたいと考えていたからである。心に深い傷を負ったまだ二十歳そこそこの女子学生が「先生」のひどい振舞いを切々と訴えているというのに、「先生」たちは手紙でこんなやりとりをしていた。
フロイト「わたしはシュピールラインにとぼけた手紙を書き、貴方の提案〔フロイトに会いたいということ〕は度を越した狂信者の提案のように思われると書いておきました」。
「わたしはシュピールライン嬢を納得させようと、いくらか好意的な文章で手紙を書いておきましたが、きょうその返事を受け取りました。その内容はじつにぎこちなく──彼女はドイツ人ではないのではありませんか──もしくはひじょうに抑制されていて、ほとんど意味不明でした」。
ユング「シュピールラインの件につきましては、ご厚情あふれるご助力をたまわり、心からお礼申し上げます。シュピールライン嬢はロシア人で、きっとそのために文章がぎこちないのでしょう」(14)。
 二人はグルになって、この若い娘を無視しようとしたのだ。だが、容易に想像がつくように、ユングにたいする愛情がさめてゆくにしたがって、フロイトはシュピールラインにたいする態度を変化させることになる。
  
 ユングはシュピールラインに会うのを避けるようになり、二人の「恋愛関係」は終わりを告げる。
 シュピールラインは学位論文を書き上げた後、ウィーンに移り、一九一一年十月に初めてフロイトに会った。ウィーン精神分析学協会に正式に入会し、フロイトのグループの会合に出席するようになったシュピールラインは、十一月二十五日に、フロイト、ランク、タウスク、シュテーケルらを前にして、『生成の原因としての破壊』と題する論文の一節を読んだ。この翌日、フロイトはユングに宛ててこう書いている、「昨日、シュピールライン嬢が自分の論文の一節を発表しそれにつづいて刺激的な討論が交わされました。彼女はなかなか素晴らしい。わたしは彼女のことがやっとわかってきました」(15)。
 これはひじょうに興味深い論文で(16)、シュピールラインはまず、どうして性本能はポジティヴな結果だけでなく、苦悩とか嫌悪といったネガティヴな結果をも生むのかという疑問を掲げる(この背後にユングとの苦しい恋愛体験があったことは容易に察することができる)。彼女は、それは性本能にたいする社会的抑圧によるのだという諸家の説をしりぞけ、人間の根底には生の本能と破壊本能とがあるのだという考えをうちだす。彼女はそれに生物学的根拠をあたえ(すなわち、生殖の瞬間、両性の性細胞は「破壊」され、合体して胚を形成する。人間の二大本能はこの事実に起因するというのだ)、さらに例証として神話における誕生と死について述べている(この論文は翌年の『精神分析学・精神病理学研究年報』に載った)。
 シュピールラインのいうこの破壊本能が、フロイトの「死の衝動」という概念に直接影響をあたえたことはほぼ間違いない。フロイトがこの概念をはじめて公けにしたのは、『快感原則の彼岸』(一九二〇)であるが、註においてフロイトはこう述べている。「ザビーナ・シュピール・ラインはすでにこの考え方をうちだしている。その論文は内容も思想も豊富だが、残念ながらわたしは完全には理解できない」(17)。
 いっぽうユングは『変容の象徴』の中の、「すべてを破壊する母親」「のみこむ母親」について述べた部分の註に、「この事実をもとに、わたしの弟子だったシュピールライン博士は死への衝動という思想を発展させた。これをのちにフロイトが採りいれた」と書いている(18)。実際、シュピールラインはその論文に、ユングの『リビドーの変容と象徴』から、「情動的欲望、すなわちリビドーは、二つの局相をもつ。つまりリビドーは、すべてを美化する、だがある種の状況のもとではすべてを破壊しうる力をあらわしているのである」という一節ではじまる、リビドーの破壊的側面を論じた部分を長く引用して、自分の考えがユングの思想にもとづいていることを明言している。ユングは死の本能あるいは衝動という言葉を用いないが、ユング──シュピールライン──フロイトという、死の衝動をめぐる線を引くことができよう。
 シュピールラインは、学位論文とこの破壊衝動についての論文を含め、三十一の論文を発表した。どれもほとんど歴史の埃の中に埋もれていたわけだが、今後、再評価がすすむことだろう(19)。おそらく彼女は、精神分析学創成期における開拓者のひとりとして歴史に名をとどめるべき人物である。

 彼女はその後ベルリンに移り、ユダヤ人医師と結婚し、女の子をもうけた。だが、ユングとの文通は続いていたこと、ユングをなおも愛しつづけていたこと、そして「ジークフリート」の夢をすてぬばかりか、それに託してフロイトとユングの仲を取り持とうと努力を続けたこと、は書きそえておかねばならない。
 一九二三年、シュピールラインは祖国に帰り、ロシア精神分析学協会に加入する。革命後のロシアでは精神分析運動がきわめてさかんで、たとえば精神分析によるすぐれた文学研究が数多く発表されている。シュピールラインは故郷ロストフに帰り、革命の理念にもとづき、子供のための施設をつくった。これが保育園のようなものだったのか、孤児院のようなものだったのかはわからない。いずれにせよ、スターリンは法律によって精神分析を禁じ、分析家は次々に粛清され、シュピールラインの施設も閉鎖を余儀なくされた。一九三七年まで、シュピールラインの名はロシアの精神分析家のリストに載っているが、それ以後の消息は不明である。粛清されたのか、それとも失意の日々を送るうちにまた分裂病を再発させ、死んでいったのか。


(1)  ここに粗述したシュピールラインの病歴は、ユングが一九〇七年にアムステルダムの第一回国際精神医学・神経学会で発表した論文「フロイトのヒステリー理論」による(The Collected Works of C. G. Jung, vol.4, pp.22-21.)。
(2)  分析医シュピールラインの教育分析を受けた者のなかに、ピアジェがいる。
(3)  The Freud/Jung Letters, The Correspondance between Sigmund Freud and C. G. Jung, ed. by W. McGuire, tr. by R. Manheim & R. F. C Hull, 1974, Princeton U.P., p.7. この往復書簡集は前半分しか邦訳されていないので、以下、原書より引用することにする。
(4)  ラプランシュ、ポンタリス『精神分析用語辞典』村上仁監訳、みすず書房、二三六ページ。
(5)  ローマ大学のユング派心理学者アルド・カロテヌートが、ふとしたきっかけから、シュピールラインの日記、ユングおよびフロイト宛ての手紙の草稿、そしてユングおよびフロイトからの手紙を発見し、次の著書で公表したのである。Aldo Carotenuto: Diario di una Segreta Simmetria, Sabina Spielrein tra Jung e Freud, 1980, Astrolabio. この本は、カロテヌートの論文、シュピールラインからユングへの手紙、シュピールラインからフロイトへの手紙、シュピールラインの日記からなる。英語版(A Secret Symmetry, Sabina Spielrein between Jung and Freud, 1982, Pantheon Books)ではこれに、フロイトからシュピールラインへの手紙が加えられている。仏語版(Sabina Spielrein,Entre Freud et Jung, 1981, Aubier Montaigne)は手紙、日記を年代順に配列し、かつシュピールラインの論文を三編(『幼児の精神の理解に寄せて』『生成の原因としての破壊』『幼児語〈パパ〉〈ママ〉の起源』)収録している。ユングからシュピールラインへの手紙は、ユングの遺族が公開を拒否した。本稿はそのほとんどの情報をこのカロテヌートの著書に依っている。したがって、逐一引用箇所を示すことは省略する。なお、ベッテルハイムがフロイト派の立場から、このカロテヌートの著書について、長い、ひじょうに面白い書評を書いている。Bruno Bettelheim: メScandal in the Familyモ, The New York Review of Books, 1983. ブルーノ・ベッテルハイム『家族のスキャンダル』山本真人訳、「みすず」一九八四年八、九月号。
(6)  The Freud/Jung Letters, p.465.
(7) Paul J. Stern: C. G. Jung: The Haunted Prophet, 1976, New York, p.63.
(8)  ユング『心霊現象の心理と病理』宇野他訳、法政大学出版局、四七ページ参照。
(9)  へレーネ・プライスヴェルクについては、種村季弘「影の女へレーネ/C・G・ユングの霊媒」『現代思想 臨時増刊・総特集=ユング』(一九七九)六二─七五ページ参照。
(10) Cf. The Freud/Jung Letters, p.229.
(11) シュピールラインがはっきり日記にそう書いているわけではない。シュピールラインの日記や手紙に用いられているpoetryという語について、カロテヌートは「われわれはユングとザビーナだけが知る隠喩的な意味を推測しなければならない。文学における同様の例はプルーストに見られる。スワンとオデットは、肉体的所有行為を表わすのにfaire cattleyaという隠喩を用いた」という註をつけている。ベッテルはイム(註5参照)は、「もしカロテヌートがpoetryという隠喩が性行為を表わしていると考えなかったとすれば、どうして隠喩の用いかたを説明するのに、よりにもよってこの例を選んだりするはずがあろうか」という。いずれにせよ、性行為があったというのは(現実性の高い)憶測にしかすぎない。
(12) ベッテルハイム『家族のスキャンダル』。註5参照。
(13) The Freud/Jung Letters, p.207. ただし、この時点ではユングはまだシュピールラインの名を挙げていない。
(14) The Freud/Jung Letters, p.230, 238, 240.
(15) The Freud/Jung Letters, p.469. これに先立って、十一月十二日にフロイトはユングに、「このあいだの会合で、シュピールライン嬢が初めて発言しました。彼女はとても知的で、理路整然としていました」と書いている。(The Freud/Jung Letters, p.458)
(16) 以下の粗述はカロテヌートの著書の仏語版による(註5参照)。
(17) フロイト『快感原則の彼岸』、人文書院版『フロイト著作集』第6巻、一八六ページ。
(18) ユング『変容の象徴』野村美紀子訳、筑摩書房、六六二ページ。
(19) とくに娘が生まれて以降の幼児研究は、メラニー・クラインの先駆として重要である。