ソフィアの微笑/ソロヴィヨーフ『三度の邂逅』
 (ユリイカ 1983/6)

 五年前パリに旅した折、たまたま復活祭にぶつかった。日本にいるときは復活祭だろうとクリスマスだろうとけっして教会まで足を運んだりしないのに、そのときは是非ともミサに出ようと思い立ち、どこの教会にしようかと迷った挙句、正教のミサに参列してみようというたんなる好奇心から、夕刻、日本大使館の比較的近くにあるロシア教会へ行った。すでに会堂には人が溢れ、前庭にも大勢の人が集い、語らっていた。もちろん聞こえてくるのはロシア語ばかり。人を掻き分けるようにして堂の中に入ると、そこは暗く、人びとの熱気で息苦しいほどだった。さかんに焚かれる香が鼻をさし、その煙があたりの物の輪郭を不明瞭にしていた。あたりの壁一面に聖像画【イコン】が並び、正面の聖像障【イコノスタシス】の前に豪華な法衣を纏った僧侶たちが並んでいた。意味のわからぬ祈_に耳を傾けながら、私はロシアの神秘家ヴラジーミル・ソロヴィヨーフの有名な詩『三度【みたび】の邂逅【であい】』のことを想った。
 ソロヴィヨーフという名前を聞いて、ひとは何を想うだろう。『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャだろうか(1)。あるいは、かつて岩波文庫に入っていた『自然に於ける美・芸術の一般的意義・積極的美学への第一歩』だろうか。それとも、どこの古本屋の店先でもかならずといっていいほど見かける(少なくとも最近まで見かけた)『ソロヴィヨフ選集』の端本だろうか(2)。
 それはともかく、「永遠の女性」との三度の出会い、言いかえれば三度にわたるソフィア幻視(3)の体験を綴った長詩『三度の邂逅』は、のちにアレクサンドル・ブロークを通じて、ロシアのほとんどすべての象徴詩人に深刻な影響をあたえたのだった。パリのロシア教会で私が想ったのは「最初の出会い」である。
 一八六二年五月、キリスト昇天祭の日、九歳(4)のヴラジーミル少年はドイツ人の乳母に手をひかれ、家族ともども、高名な歴史学者であった父が教授をしていたモスクワ大学の礼拝堂のミサに出かけた。だが、仄暗い堂の中で、ごった返す会衆の間に立って、祈_を聞きながら、少年の頭を占めていたのは神のことではなく、想いを寄せていた同い年の少女のことだった。ヴラジーミルは彼女に愛を告白したのだが、答えは得られなかった。どうやら別の少年を愛しているらしい。決闘だ!──そう考えると、体じゅうの血がたぎった。と突然、教会の壁も聖像障も天井も一瞬のうちに消え失せ、僧侶たちも会衆も姿を消し、少年はただひとり蒼空の下に立っていた。あたり一面が瑠璃色(5)に変わり、祈_の声は遠ざかり、沈黙が支配していた。少年の眼の前に、この世ならぬ花を手にした瑠璃色の女性があらわれた。女神は妙なる微笑を浮かべ、少年に向かってうなずくと、一瞬のうちに姿を消した。それからどれくらい経ったのだろう。遠くで乳母の声がする。ヴラジーミルは全身から力が抜け、立っているのがやっとだった。あたりは闇に包まれていた。ゆっくりと現実感覚が戻ってきて、心配そうにのぞき込む乳母の顔が見えてきた。ミサはすでに終わっていた。
 ソロヴィヨーフが「瑠璃色の女性」に再会するのはその十三年後のことである。一八七四年に論文『西欧哲学の危機』によって学位を取得し、モスクワ大学哲学科助教授に就任したソロヴィヨーフは、翌七五年の春、ロンドンに留学した。ロンドンについてから半年近くたった十月のある日、彼はいつものように大英博物館の図書室で文献を漁っていた。彼はすべてに行きづまっていた。それでかの女性に訴えた──「あなたがここにいることはわかっているのです。あなたは幼い私の眼の前に姿をあらわして下さったではありませんか」。この言葉を心の中で発した瞬間、十三年前と同じように、あたりは一面瑠璃色でみたされ、眼の前にかの女神がふたたび現れた。が、それは顔だけだった。ソロヴィヨーフはせがむ──「私はあなたの全身を拝みたいのです。幼い私にたいしては、出し惜しみなどなさらなかったではありませんか。おとなになったからといって、どうして拒むのですか」。と、彼の内部で声が響いた──「エジプトへ行きなさい!」
 ソロヴィヨーフは取るものも取り合えず霧のロンドンをあとにする。パリ、ミラノを経てイタリア半島を南下し、英国汽船で地中海を渡る。カイロのホテルに宿をとった彼は、そこで約束された逢瀬を待った。ある夜、彼女の声が聞こえた──「私は砂漠にいます。そこへいらっしゃい」。ある晴れた朝、彼は徒歩で砂漠へと向かった。シルクハットにフロックコート姿の彼は、砂漠のベドゥイン人たちに悪魔と間違われ、あやうく殺されかけた。彼らはソロヴィヨーフの懐中時計を奪い、縛りあげ、遠くへ担いでいって、そこで縄を解き、去っていった。やがて砂漠に夜がおとずれる。山犬の遠吠えが聞こえる。気温は急激に降下していく。ソロヴィヨーフは砂に身を横たえ、満天の星を見あげていたが、「お眠り」という囁きが聞こえ、彼はぐっすり寝入った。ふと目ざめると、天も地も一面の瑠璃色に変わっていた。眼の前には緋袍を纏ったかの女神が立ち、瑠璃色の光にみちた瞳で彼を見つめていた。
 この三度の幻視体験をしるした『三度の邂逅』は死の二年前に書かれた。彼は最晩年になって(といってもソロヴィヨーフは四十七歳で亡くなったのであるが)、幼少時と青年期の神秘体験を詩にしたわけだが、じつはその年、彼はふたたびエジプトに旅したのである。目的はわからない。ただ、この折は「彼女」との出会いはなかったらしい。いずれにせよ、この三度の神秘体験は一生を通じて彼の「核」だったのである。

 ロンドン留学の目的のひとつは、心霊現象の研究だったらしい。ロンドンはヨーロッパにおける交霊術の中心地だったのである。七五年の一月、すなわちモスクワを発つ数ヵ月前に、やはり心霊現象に凝っていた親友に宛てた手紙にはこう書かれている──「真の形而上学を打ち立てるためには心霊現象が重要であり、不可欠でさえあるという確信を、ぼくはますます深めています」
 十九世紀における交霊術の流行については別の機会に述べたいと思うが、ごく簡単に触れておくならば、近代の交霊術は一八四八年にアメリカのニューヨーク州のある農家で叩音現象が起こったことから始まる。その家の娘ケート・フォックス(のちにフォックス=ジェンキン夫人)は霊との交信に成功し、叩く回数によるコードを取り決め、霊と話をすることができるようになった。以来、交霊術はまたたく間にアメリカ全土に広がり、イギリスに渡り、さらにヨーロッパ全土に蔓延することになる。ケート・フォックスと並んで有名だった霊媒はスコットランド生まれのダニエル・ダグラス・ヒュームで、彼が一八五八年にペテルブルグを訪れたことがきっかけとなって、ロシアでも交霊術が大流行した。なぜヒュームがロシアへ行ったかというと、彼はイタリアでロシア貴族の娘と婚約したのだが、ペテルブルグで式を挙げるという条件つきだったのである。この折にヒュームに同行したのがアレクサンドル・デュマである。フランスの作家のロシア見聞記として、テオフィル・ゴーチエのものと並んで有名なデュマの『ロシア紀行』には「ある交霊術家」という章があり、ヒュームの生い立ちや「奇跡」の数々が紹介されている。「読者は、たとえヒュームに会ったことはなくとも、その名前を聞いたことはおありだろう」と書かれていることからも、ヒュームの名が広く知れわたっていることがわかる。ユリ・ゲラーのことを考えれば、一世紀前に交霊術がどれほど流行したかは容易に想像がつく。ヒュームはその後六五年と七一年にロシアを再訪したが、そのたびに貴族たちが彼の滞在先に押し寄せ、皇帝はヒュームと貴賓として歓待した。正教会側では一切の交霊術会を禁止する令を出したのだが、貴族には適用されなかった。それでソロヴィヨーフがロンドンに留学する頃も、交霊術への熱はまだ冷めていなかったのである。
 ロンドンに着いたソロヴィヨーフは精力的に交霊術会や講演会に出席し、ヒュームやケート・フォックスにも会っているが、ほんの一、二ヵ月のうちに期待は失望に変わった。先と同じ親友に宛てた手紙には、こんな風に書かれている──「有名なウィリアムズの交霊術会に出ましたが、このフォックス主義者が巧妙な詐欺師であるどころか、まったく厚顔無恥であることがわかりました。彼はエジプトの闇をつくりましたが、他には何ひとつ奇跡を示しませんでした。闇の中を鈴がとんできてひたいにとまったので、それをつかまえたら、いっしょたたくましい男の手をつかみました」
 幼い頃から卓抜した霊的能力を示したといわれるソロヴィヨーフが交霊術に関心を寄せたことにはなんら不思議はないし、交霊術に幻滅したことも当然といえば当然であった。
 ところで、もちろんソロヴィヨーフは「心霊現象の研究」というテーマで留学を申請したわけではない。彼が申請したテーマは「インド哲学(6)、グノーシス哲学、中世哲学の研究」である。大英博物館の図書室でふたたびソフィアのヴィジョンをみたとき、ソロヴィヨーフが漁っていたのはグノーシス主義とカバラの文献だったのである。『三度の邂逅』にも「神秘的な力が、彼女に関する本を私のために選んでくれた」とある。ここから、彼の幻視とグノーシス派におけるソフィア像との間になにがしかの関係があったことがわかるし、また、エジプト行きにはグノーシス主義が絡んでいるのではないかという推測も成り立つ。というのも、かの女神の全身を拝みたいという願いだけでエジプトへとんでいったとは考えにくいのである。カイロに着いたソロヴィヨーフは、大英博物館と交霊術会以外にはほとんど出かけなかったロンドンでの生活とは打って変わって、精力的に史跡を見て回り、ピラミッドに登ったり、スフィンクスを見に行ったり、ナイル河で水浴したりしていたのである。また、「彼女」と再会することができた後で、母親への手紙に「ぼくは健康ですが、気分は沈んでいます。エジプトへ来た動機となった当のものを発見することはたぶん不可能だろうということがわかっているからです」と書いている。また、フランスへのロシア文学の紹介者として有名なメルキオル・ド・ヴォギュエは、かのレセップスのサロンで、砂漠から戻ったソロヴィヨーフと会い、そのときの印象を『両世界評論』に寄せた紀行文に書いているが、それによると──「エジプトの夏のうだるような暑さにもかかわらず、彼は黒いマントにシルクハットという姿だった。彼の話では、その恰好で、たった一人でスエズの砂漠のベドゥイン人の所へ行ったそうだ。ある種族を探し出すためだという。その種族ではカバラの秘儀と、ソロモン直系のフリーメーソンの伝承が守られつづけているというのだ。この種族が見つからなかったことは言うまでもない。結局、ベドゥイン人たちは彼の懐中時計を奪い、シルクハットを潰したのである(7)」。
 この奥義探求については他にまったく資料がないので、この探求と「彼女との再会」との関係はわれわれの側で再構成するしかないが、わが国のソロヴィヨーフの研究の第一人者である御子柴道夫氏の「彼が求めた奥義とは、幼時から彼に現れたあの〈彼女〉に名前を与えることではなかったのだろうか。より正確にいうと、その神秘的経験を幻に終わらせずに、理性の中で確固と位置づけ、自分一人の経験にとどめず、万人の理解できる体系もしくは事実にしようと望んだのではないか」という指摘は的を得ていると思う。

 ソロヴィヨーフの神秘体験が、ヒルデガルト・フォン・ビンゲン、ハインリヒ・ゾイゼ、ヤーコプ・ベーメといった神秘家のソフィア幻視と極似していることは事実である。ソロヴィヨーフ自身もこのことを認めている──「神秘主義者たちは、ぼく自身のイデーのいわば根拠を多くもっていますが、とくに新しい光はあたえてくれませんでした。()ソフィアの専門家を三人発見しました。ゲオルク・ギヒテル、ゴットフリート・アーノルト、ジョン・ポーデージです。三人とも、ぼくとほとんど同じ体験をしています。これはまったく興味深いことです。でも神智学に関しては三人ともきわめて貧弱です。ベーメに従っていますが、ベーメより劣ります。結局、パラケルスス、ベーメ、スウェーデンボリだけが本物なのです」。このようにソロヴィヨーフは、ヒルデガルトら中世の神秘家からベーメやその後継者たち(ギヒテル、アーノルトなど)を経て、スウェーデンボリをはじめとするイリュミニスムの時代の神秘家へと至るソフィア論の流れの中に自らを位置づけ(この流れはソロヴィヨーフを経てさらにベルジャーエフ、セルゲイ・ブルガーコフへと受け継がれる)、自らの神秘体験を核とする神智体系を打ち立てようとしたのである。ソロヴィヨーフの思想におけるソフィアが抽象的思弁の産物ではなく、実体験と深く結びついていることは、すでに繰返し強調されてきた(8)。それはよい。だが『神人論』や『ロシアと普遍教会』で展開されているソフィア論を見ると、それが(少なくとも表面的には)彼の幻視体験におけるソフィア像とずいぶん違っていることに、われわれは驚かされる。そこではソフィアは擬人的存在ではないし、ベーメにおけるような第四のペルソナでもない。したがって彼のソフィア論、さらには彼の神智体系を「彼女」との出会いと短絡的に結びつけることは、けっして豊かな実りをもたらさないであろう。それは結局、ソロヴィヨーフの全体像から「永遠の女性」との出会いのみを取り出し、その体系化を顧みないことにつながるのである。ソロヴィヨーフは『三度の邂逅』以外にも「永遠の女性」をうたった詩をいくつも残しているが、彼自身、その女神像を曲解されることを恐れていた(9)。しかしその不安は、彼の晩年および死後に現実のものとなるのである。
 ソロヴイヨーフは一九〇〇年七月に四十七年の生涯を閉じるが(10)、その年の三月、ニージニイ・ノーヴゴロドに住むアンナ・シュミットという未知の女性(オールド・ミスだったらしい)から、十六ページにも及ぶ手紙が届いた。それはいわばファン・レターで、そこには独特な終末論が述べられていた。その思想は、正教神学、カバラ、グノーシス主義、そしてソロヴィヨーフの思想のごった煮であったが、本による知識ではなく、彼女が自力でつくりあげたものだった。マコーフスキイによれば、「A・N・シュミットは長いあいだ自分の神智学の教えをひたすら隠し、『天啓』のときを待っていたのだった。ソロヴィヨーフのソフィア論に接したとき、その『天啓』がおとずれたのだった。彼女の妄想は、ぱっと燃えあがった」。シュミットによると、やがて旧約、新約につづく第三の約束があたえられ、ソフィア(神智、キリストの天上教会、世界霊魂。シュミットはこれをマーガレットと呼ぶ)とイエス=キリスト(彼女はラファエロと呼ぶ)との神秘的な結婚が成就される。ソロヴィヨーフは返事を書き、文通が始まる。一度は対面したが、やがてシュミットが「私はソフィア=マーガレットの肉化であり、あなたはキリスト=ラファエロだ。あなたの詩に登場する永遠の女性は私なのだ」と言い出したので、ソロヴィヨーフは仰天し、また会いたいというアンナの要望を死ぬまで拒みつづけた。その後、狂信の度を深めた彼女はメレシコーフスキイのサロンに出入りするようになり、ドブロリューボフとともに奇人として象徴派の詩人たちの関心を集めた。アンドレイ・ベールイは『世紀初頭』のなかで、「アンナ・シュミットの狂信ぶりは私の芸術家としての想像力をかきたてた。自分自身を世界霊魂の肉化であるとする彼女の妄想の途方もない図式に、私は衝撃を受けた。その見地に立って、私は、彼女の妄想に材料を提供したヴラジーミル・ソロヴィヨーフの詩を注意して読み返した」と書いている。

 シュミットの手紙は、その後のソロヴィヨーフ崇拝の前兆であったといえる。先に述べたように二十世紀ロシアの象徴派(とくに後期象徴派)の詩人たちのほとんどだれもがソロヴィヨーフの「永遠の女性」像の深刻な影響を蒙った。だが彼らの永遠の女性像とソロヴィヨーフのそれとの間にはすでにずれがあり、さらに彼らはそこからソロヴィヨーフのソフィア論へ、そして神智学へと踏み込んでゆくことができず、ソロヴィヨーフから離れてゆくことになる。
 象徴派のうちでもっとも詩人らしい詩人といえるアレクサンドル・ブロークの詩集『美しき淑女のうた』に及ぼしたソロヴィヨーフの影響については、どのブローク研究書でも論じられているが、ソロヴィヨーフの遠縁にあたるブロークにとって、一九〇一年の復活祭に母から贈られたソロヴィヨーフ詩集はまさに天啓であった。ブロークはそれ以前に何度も幻視を体験していたが、ソロヴィヨーフの「永遠の女性」に触れることによって、それまでの漠然とした幻に「意味」があたえられたのである。そしてブロークの場合、永遠の女性は現実の女性に重ね合わされる。その女性とは、周期律で有名なメンデレーエフの娘リュボーフィで、ブロークにとっては彼女の名前(リュボーフィは愛を意味する)も限りなく意味深長に思われるのだった。一九〇三年の夏には彼はリュボーフィと結婚するが、彼女を崇拝するあまり、禁欲を貫こうとし、一年以上ものあいだ新妻を抱こうとしなかった。友人のベールイもブロークの妻の中に「永遠の女性」を見、リュボーフィ崇拝に加わるが、永遠の女性と現実の女性との同一視が長く続くはずもない。やがて夫婦の間柄はしっくりいかなくなり(同時に、ベールイの崇拝は恋心に変わっていく)、ブロークは「真理は酒の中にあり【イン・ヴィーノ・ヴェリタス】」と書くようになるのである。

 ソロヴィヨーフは『三度の邂逅』にうたわれたソフィア幻視の体験を、自分の神智体系の中に取り込もうとしつづけたのだった。私たちは彼のなかに、近代における神秘主義者のひとつの形を見ることができよう。さしあたって私たちの課題は、ソロヴィヨーフの神秘体験の意味を多角的な視点から探ることだろう。『三度の邂逅』の中でもっとも謎めいた部分であるエジプト行きについては、まだわからないことが多すぎる。
 (たとえば御子柴氏のように)素手でソロヴィヨーフに取り組むことも一つの方法であろうが、できるだけ多様な視点を獲得することも一つのあり方であろう。本稿はそのほんの一端を示したにすぎない。放浪の神秘家スコロヴォロダ(11)やモスクワ薔薇十字団の創始者シュヴァルツ(12)などロシア神秘主義の伝統とのつながり、また、ソフィアの性の問題(処女と捉えるか、それとも両性具有と考えるか、あるいはユングのようにアニマと考えるか(13))など、興味あるテーマはいろいろあるだろう。私たちはやっと出発点に立ったところなのである。


(1) 多くの研究者が、アリョーシャの人物像にソロヴィヨーフの面影をみる。
(2) 田中耕太郎監修・御子柴道夫訳『ソロヴィヨフ選集』(東宣出版)は完結に至らなかった。現在、同じ訳者により『ソロヴィヨフ著作集』(刀水書房)が刊行中である。
(3) ソフィアは、ギリシア語で「智慧」の意であるが、人格化されたソフィアという概念は古代ギリシアにはなかったといわれる。神格化・人格化されたソフィアは後期ユダヤ伝承に由来するといわれ、グノーシス諸派の神話では重要な役割を演する。男性原理が支配するキリスト教の伝統においては、ソフィアは否定され、キリストあるいはマリアに吸収されるが、中世ごろから、いわば女性原理の復権として、処女ソフィア像を幻視した神秘家があらわれ、神秘思想の流れの中でソフィア論が受け継がれていく。
(4) ダンテがペアトリーチェに初めて会ったのも九歳のときのことである。
(5) 瑠璃色はソフィア幻視に特徴的な色で、ソロヴィヨーフは自分の神秘体験をうたった詩では、「瑠璃色」「薔薇と百合」など神秘思想の伝統に根ざした表現を用いている。
(6) ソロヴィヨーフの思想とインド哲学との関係は、まだほとんど論じられていないテーマである。いずれ、彼のブラヴァツキー論とからめて論じたいと思っている。
(7) この引用個所に先立つ部分に、ソロヴィヨーフの顔はキリストを思わせる、という有名な一節がある。
(8) たとえば、コジェヴニコフ「ヴラジーミル・ソロヴィヨーフの宗教的形而上学」第三章参照。
(9) ソロヴィヨーフは自分の「永遠の女性」像の落とし穴に気づいていた。詩集の序文にこう書いている──「読者を誘惑から守り、私自身を批難から守るために、是非とも以下のことを言っておきたい。(1)超感覚世界に肉体的・動物的人間関係を導入することはもっとも忌むべきことであり、全的破壊の原因である。(2)女性の本性それ自体、すなわち虚偽や悪、そして真実と善にたいする曖昧さ、無関心、無感覚を崇拝することは、おそるべき狂気であり、怠惰と弱さの原因である。(3)「永遠の女性」にたいする真の敬愛は、こうした痴愚とは一切無縁である。ところが、神を飾り、神の力によってわれわれを苦痛と死から救ってくれる真の美の啓示が、より完全で親密であればあるほど、その偽りのイメージとの区別がつきにくくなるのである」
(10) ちなみに、この町の聖ソフィア寺院には、ソフィア像が描かれた有名な聖像画がある。中央に、七つの柱をもつ玉座にすわる女性像(ソフィア)が描かれ、その左右に処女マリアと洗礼者ヨハネ、上方にキリストが描かれている。この寺院は重要な巡礼地だったので、民衆のソフィア信仰が推定される。正教会ではこのイコンをめぐって大論争がたたかわれたという。ソロヴィヨーフは何度かこのイコンを見に訪れた。「このすばらしい女性像は現実の、純粋で完全な人性です」と書いている。
(11) 十八世紀の神秘家スコヴォロダは、ソロヴィヨーフの母方の先祖にあたり、ソロヴィヨーフは幼い頃からスコヴォロダのことを聞かされていた。
(12) ソロヴィヨーフはロンドン留学に先立つ時期にシュヴァルツの著作を熱心に読んでいたという。ロシアの薔薇十字軍については、たとえばベルナーツキイ『エカテリーナ二世時代におけるロシアのフリーメーソン』第一章5参照。
(13) ユングのソフィア=アニマ論については、ユング『転移の心理学』第九章「魂の回帰」参照。