センダックのいわゆる三部作について

(武蔵野女子大学文学部英米文学科紀要 1987)


 子どもの内的世界を描き出そうとする芸術家はだれしも、自分の内なる子どもからの声に耳をすまし、またそれに向かって必死に呼びかける。内なる子どもはたえず忘却の彼方に失われようとし、そこに到達する隘路はつねに埋没の危険に晒されている。われわれはすでにそうした角度からスティーヴン・スピルバーグの世界の解読を試みたが(1)、ここでは、「フロイト以降の作家・画家として[・・・・]これまでのイラストレーション芸術の実践者のだれにもまして、自身の内なる子どもに接するために非常に多くの時間と真剣な努力を注いできた」(2)、モーリス・センダック Maurice Sendak の作品世界に、作者自身が三部作と呼ぶ(3)三つの作品----『かいじゅうたちのいるところ』Where the Wild Things Are (1963), 『まよなかのだいどころ』In the Night Kitchen (1970), 『まどのそとの そのまたむこう』Outside Over There (1981)----を中心にして、いくつかの側面から光をあててみる。
 センダックの作品世界については、レインズ Selma G. Lanes がセンダックの全面的協力を得て制作した絵入り伝記がある(4)。センダック自身のことばが多く収録され、また伝記的研究にとっても第一資料であり、その他多くの資料も引用されていて、センダック研究には欠かせない非常に貴重な情報源であり、われわれもこの資料から多くの示唆を得た。ここではレインズが触れていない点や、われわれがレインズと意見をともにしない点に焦点を絞って論をすすめることになろう。



 『かいじゅうたちのいるところ』(以下『かいじゅうたち』と略す)は次のような書き出しではじまる----

 The night Max wore his wolf suit and made mischief of one kind and another
his mother called him "WILD THING!"
and Max said "I'LL EAT YOU UP!"
so he was sent to bed without eating anything
 
 マックスは狼のぬいぐるみを着て、いたずらをする。狼は、『赤ずきん』や『狼と七匹の子やぎ』を例に引くまでもなく、悪の象徴である。いうまでもなく接続詞"and"は行為の継起をも因果関係をも示しうるから、先の引用の一行目は、「狼のぬいぐるみを着て、それからいたずらをした」とも解せるし、「狼のぬいぐるみを着たために、いたずらをした」とも解せる。また、前者の解釈はさらに「いたずらをするために狼のぬいぐるみを着た」という解釈の可能性をも示唆する。いずれにせよ、この作品における狼といたずら mischief との密接な関係は明らかである。
 同時に、ここでは狼は別の意味をも狙っている。狼は文明と野生を媒介する動物イメージである。狼は野生動物であり、人里離れた山奥あるいは森のなかに住んでいるが、里にやってきては家畜を襲い、あるいは森のなかで旅人を襲うというふうに人間との接触をもつ。その意味で家畜(犬、猫、馬など)と野獣との中間に位置するものである(5)。『かいじゅうたち』では、マックスは狼になることによって怪獣たちの世界へと行くことになる。最初から二枚目の挿絵をみると、狼のぬいぐるみを着たマックスが犬を追いかけており、壁にはマックスが描いた怪獣の絵がかかっていて、「犬----狼----怪獣」というグラデーションがこの一枚の絵に収められていることがわかる。
 そのマックスを母親は「怪獣!」と呼ぶが、これは以上に述べたような意味でマックスがすでに怪獣たちの世界に近い存在になったことを意味しており、このあとでマックスが怪獣たちのところへ旅することを予感させる。
 それにたいしてマックスは「おまえを食べちゃうぞ」と言い返す。先の引用中、4行目のEAT と5行目の eating との関連は、読者がたとえ子どもであろうと、気づかぬはずはない。「食べる」ことはこの作品において非常に大きな意味をもっている。いや、レインズが指摘するように(6)、センダックの作品全体を通じて非常に大きなテーマとなっている。とりあえず『かいじゅうたち』に限っていうと、まず、幼児にとっては「食べる」ことがきわめて大きな意味をもっているというテーマを指摘することができる。マックスは母親にたいする怒りをきっかけにしてファンタジーの世界へと旅立つのだが、その怒りの原因の大半は夕食抜きに寝室に放り込まれたことである。幼児にとって、食事をもらえないということは厳罰に処せられることであり、空腹の幼児はその存在を脅かされるほどの恐怖をおぼえるのである。怪獣たちのいるところへ行き、怪獣たちの王になり、怪獣たちを自由に操ってドンチャン騒ぎをやらかしたあと、マックスは母親にされたのと同じことを怪獣たちにする----

"Now stop!" Max said and sent the wild things off to bed without supper.

 そして孤独になったマックスが家に帰ろうと決心するきっかけとなるのは、食事の匂いである----

Then all around from far away across the world
he smelled good things to eat
so he gave up being king of where the wild things are.

 そして自分の部屋に戻ると----

where he found his supper waiting for him
and it was still hot.
 
 この暖かい食事は母親の許しを象徴している。
 しかし『かいじゅうたち』における「食べる」ことの意味は、以上に述べたような、幼児にとっての「ものを食べる」ことの深刻な意味というだけにとどまらない。この作品は出版されるや否やたいへんな議論を呼んだが、否定論者の中心的主張は、ここに描かれた怪獣が子どもたちにあまりに大きな恐怖をあたえるというものだった。彼らがいわんとした恐怖とは、精神分析学者のいう、何かに食われる、あるいは呑み込まれることの恐怖である。怪獣たちは舟でやってきたマックスに向かって----

they roared their terrible roars and gnashed their terrible teeth and rolled their terrible eyes and showed their terrible claws

 ここでは "terrible" という語が四回繰り返して用いられている。マックスは魔法を使って怪獣たちを飼い馴らし、怪獣たちの王となるが、その支配力はけっして安定したものではなく、彼にとって怪獣たちはあくまで恐ろしいものであり、家に帰ろうとするマックスに向かって怪獣たちはこう叫ぶ----

we'll eat you up ・・・we love you so!

 そして先の引用とまったく同じ2行が繰り返される。この「何かに食われる、あるいは呑み込まれる」恐怖が幼児にとってかなり普遍的なものであることは、『狼と七匹の子やぎ』『ヘンゼルとグレーテル』『赤ずきん』といった、この恐怖を中心テーマとしたおとぎ話(7)が広く読まれ(聴かれ)ていることからもわかる。
 この「食べる」ことをさらに別の角度からみてみよう。相手を食べるということは愛情の原始的形態である。フロイトは次のようにいう、「愛は本能興奮の一部を器官快感の獲得によって自体愛的に満足させるという自我の能力に由来している。愛は根源的には自己愛的であるが、その後、拡大された自我に合体された対象へと移行し、さらには自我のほうから快感源泉となるような対象を求める運動の努力によって表現されるようになる。愛はのちの性本能の活動と密接に結びついており、性本能の統合が完成すると性的努力の全体と一致するようになる。愛するということの前段階は、暫定的には性的目標としてあらわれるが、一方、性本能のほうも複雑な発達経過をたどる。すなわち、その発達の最初に認められるのが、合体ないし『可愛くて食べてしまいたいということ』である。これも一種の愛であり、対象の分離存在を止揚することと一致し、アンビヴァレンツと命名されうるものである」(8)。この口唇段階の愛は、その後の肛門段階の愛のような相手にたいする加害あるいは抹殺の衝動ではなく、相手を自分のなかに取り込むこと、あるいは相手との合体への衝動を特徴とする。しかし合体への衝動は、自己破壊衝動であると同時に相手を破壊したいという衝動でもあるわけで、その意味ではこの口唇期愛は、フロイトがいうようにアンビヴァレンツである。「おまえを食べちゃうぞ」----それはマックスが母親にいうことばであり、また怪獣たちがマックスに向かっていうことばであるが、いずれも以上のような意味において捉えるべきであろう。



 さて、ここで取り上げる三部作の根底にあるテーマについて、作者自身は、「そのテーマとは、怒り、たいくつ、恐れ、ざ折感、ねたみなどのさまざまな感情を子どもたちがどのようにして克服し、彼らの生活の現実ととりくむかということです」(9)と明確に述べている。『かいじゅうたち』において、子どもが克服すべき感情は、母親にたいする怒りをいかに克服していくかという物語なのである。
 『かいじゅうたち』はこのテーマを、センダックが文章も挿絵もかいた二番目の作品『とおいところへいきたいな』 Very Far Away (1957) からそっくり受け継いでいる。『とおいところへいきたいな』の主人公マーチンは、母親に聞きたいことがあるのだが、母親は下の子の世話に夢中になっていて、マーチンの話相手になってくれない。それでマーチンはかっとなって荷物をまとめ、だれかが自分の疑問にかならず答えてくれるような「とおいところ」を探しに出かける。途中で、やはり自分にとってのユートピアを探している馬、雀、猫と出会い、いっしょに「とおいところ」(じつは「この町をぐるぐる回って角から二つ目の地下室」)へ行く。そのうちに馬、雀、猫と喧嘩別れし、ひとりばっちになってしまうのだが、その頃には母親にたいする怒りはさめていて、マーチンは一目散に家に向かって走っていく。
 この『とおいところへいきたいな』と『かいじゅうたち』との共通点は、どちらも主人公が母親にたいする怒りを克服する物語であるという点だけではない。マーチンもマックスも自分の怒りを、「旅」によって克服するのである。この「旅」こそ、この二作に限らず、センダックの作品世界の中心にあるテーマであり、彼が文章も挿絵もかいた第一作「ケニーのまど」 Kenny's Window (1956) にすでにみられる。主人公ケニーが夢の中で目をさますと、四本足のおんどりが七つの隠れた意味をもつ問いをだす。もし少年が正しい答えをみつけることができれば、太陽と月が同時に輝き、もう寝なさいとけっして言われることのない、魔法の庭に住むことができるという。少年は答えを求めて七つの旅に出かけ、正しい答えをすべて見つけて帰ってくる。
 センダックの世界における「旅」とは、いうまでもなく、現実世界とは異なるもうひとつの世界、ファンタジーの世界への旅である。その旅は、主人公たちが自分の直面した激情と折り合いをつけるための旅であり、彼らはかならずその感情を克服して現実、家庭内の現実へと帰ってくる。
 ただしその旅の性質は作品ごとに微妙に異なっている。『ケニーのまど』では、それが夢のなかであることが強調されており、いわばこの作品は夢による元型的世界への遡行であるといえる。が、ここでも主人公は、正しい答えをすべて発見したとき、「魔法の庭」にたいする興味を失い、現実へと帰ってくる。『とおいところへいきたいな』では、マーチンが家をでるまでは家庭内の現実であり、家をでた後は馬、雀、猫と語り合うというファンタジーであるが、それは物語の表層レベルでの相違であって、むしろ馬、雀、猫との世界は家庭の外の現実の譬喩と考えられる。「とおいところ」とは、マーチンにとっては「ぼくがきくことにだれかがちゃんと答えてくれる」ところであるが、雀にとっては「上品な人びとが住んでいる」ところであり、馬にとっては「馬が夢をみられる」ところであり、猫にとっては「猫が一日じゅう歌をうたっても『うるさい』と言われない」ところである。だから、一同ははじめは仲よく暮らしているが、一時間半経つと各々自己主張をはじめ、自分にとってのユートピアがかならずしも他者にとってはユートピアでないことを知り、喧嘩別れしてしまう。すなわちマーチンは家をでて、他者を発見するのであり、それによって母親が自分の疑問に答えてくれなかったことの背後にあるものを知ったのである。
『とおいところへいきたいな』では、旅立ちには、荷物をまとめて家をでるというふうに、いわばリアリスティックに描かれているが、マックスの旅立ちは、彼の寝室のなかに木がにょきにょきとはえてきて、部屋が森に変わるというふうに、ファンタジーによる自分の周囲の変化というかたちで見事に描かれている。その後、マックスは舟にのって怪獣たちのいる島めざして旅するわけだが、これはもちろんきわめて神話的な、いいかえればきわめて元型的なモチーフである。現実的視点にたてば、マックスの旅は、夕食抜きで寝室に放り込まれた彼が、夕闇のなかでうたた寝し、あるいは白昼夢に耽り、母親が運んできてくれた夕食の匂いで覚醒するということになるが、ここで重要なのは、作者が幼児のファンタジー構成能力を讃えているということである。怪獣たちがデフォルメされた「おとな」であることは一目瞭然である。作者自身が語っているところによれば、それは彼の幼年時代、週末ごとにブルックリンの彼の家におしかけてきたユダヤ人の親類たちの記憶を下敷きにしており、同時に、子どもの頃にみた映画『キングコング』の強烈な印象が潜在的記憶となって再浮上してきたものだというが(10)、そうしたことはわれわれにとってはあまり問題ではない。マックスはその能動的想像力によってみずからファンタジー世界を構築し、そのなかでおとなに復讐し、それによって母親にたいする怒りを発散させ、すっきりした気分で現実に戻ってくるのである。繰り返すが、センダックはこの作品において、幼児が意識的にはうまく処理できない激情を克服するためのファンタジーの力を描いているのである。



 先にのべた「食べる」ことのテーマは、『まよなかのだいどころ』(以下『だいどころ』と略す)にも明確にあらわれている。舞台は「台所」であり、そこではパン焼き職人たちがパンを焼いているのである。主人公ミッキーは粉のなかに落ち、職人たちに粉といっしょに練られ、オーヴンで焼かれる。そのままいけば、パンとなって人に食べられてしまうわけである。しかしここでは『かいじゅうたち』とは違って、他者との関係における食う食われるというテーマはあらわれていない。
 他者との関係という点についていえば、『かいじゅうたち』が母親にたいする怒りを克服する物語だったのにたいし、ミッキーは夜の台所に落下していく途中、「パパ、ママ!」と叫びながら、両親と接触することなく、両親の寝室のそばを通過していく。

HE (・・・)FELL (・・・)PAST (・・・)HIS MAMA & PAPA
SLEEPING TIGHT

 ミッキーの声は両親には届かず、両親は眼をさましてくれないのである。また、パン職人たちとミッキーの関係も希薄である。この作品の中心に据えられているのは、主人公の自己完結的な感情なのである。表層レベルでは、『だいどころ』は、夜の間にパン屋では何が起こっているのかという幼児(=作者)の疑問にたいする答えである(11)。だがそれよりもましてここで顕著なのは、幼児の身体感覚である。まず、ミッキーは落下していく途中で真裸になってしまう。裸になることの退行的意味については説明の必要はあるまい。そして彼はパンの練り粉のなかに落ちる。これは幼児の大好きな泥遊びを連想させる。さらに彼は粉をこねて飛行機をつくる。それから、ミルクのなかに入り、次のように歌う----

I'M IN THE MILK AND THE MILK'S IN ME.

 この合体感は、他者との合体感ではなく、生命の根源的混沌を示しているといえよう。あるいは子宮感覚といってよいかもしれない。ここまで退行したミッキーは、はればれとした気分になって「コケコッコー」と叫び、また眠りにつく。彼は現実世界のあらゆる社会的束縛、禁忌から解放され、思い切り自由に退行することを通じて、また現実との縒りを戻すのである。
 先にふれた「旅」のテーマという点についていえば、『かいじゅう』においてはその旅がファンタジーであることが強調されていたが、ここではむしろ夢の論理が強調されている。
 作者はこの作品について、「わたしのまんなかから生まれでたもので、それをしぼりだすのは地獄の苦しみだった。そうなんだよ。まさに分娩の痛さに通ずるものだろうと思うし、自分自身がそれほど子どもにかえることができるとは、とても思えなかった」(12)と述べているが、その挿絵が、一つ一つの細部について材源を指摘できるほど、あらゆる借物から成っている(13)のにたいし、物語のほうはきわめて借物的要素が少なく、いわば作者の退行実験の報告といった向きがある。



 『まどのそとの そのまたむこう』(以下『まどのそと』と略す)は、作者自身もいうとおり(14)、前の二作に比べてはるかに複雑なものとなっている。この作品の土台になっているのは、いうまでもなくグリム童話『ゴブリンたち』である。そのストーリイはこうだ----昔、一人の母親がいた。ゆりかごで眠っていたその子どもをゴブリンたちがさらってしまい、代わりに取り替え子を置いていった。その取り替え子は頭でっかちで、眼はどんより、することといったら飲んだり食べたりするばかり。悲しんだ母親が隣人に相談すると、その人はこう助言してくれた、「取り替え子を台所へ連れていき、炉端に寝かせ、炉に火を入れて、卵の殻二つで湯を沸かしなさい。そうすれば取り替え子は笑うだろう。笑ったら、あいつはおしまいだよ」。母親は言われた通りにした。卵の殻に水をいっぱい入れて火にかけると、愚鈍な取り替え子は「おれは西の森と同じくらい長い間生きてきたが、卵の殻で湯を沸かすなんぞ聞いたことがない」と言って笑いだした。するとゴブリンたちが本物の赤ん坊をかついでぞろぞろ現れ、子どもを炉端に置くと、取り替え子を連れていってしまった。
 センダックはこの話にかなり忠実に従っている。挿絵にはちゃんと卵の殻も描かれている。
 もっとも、『まどのそと』はあくまでセンダック版の『ゴブリンたち』であり、物語は異なっている。主人公は少女アイダである。じつは『まどのそと』では、登場人物全員が女性である(15)。この作品は、作者の----ユング心理学の用語を使えば----アニマの世界を描いたものであるといえよう。
 父親は船乗りで家庭を留守にしている。以下のことは、われわれの知る限り誰もまだ指摘していないのだが、アイダが妹(じつは取り替え子)を抱き締めるページと、氷でできた取り替え子が溶けていくのを見下ろしてアイダが激怒するページ、この両ページは見開きになっているわけだが、右側の挿絵では窓の外に海原をゆく帆船が見える。左側の挿絵では、その船は嵐にあって沈んでいる。これが窓の外の景色を描いたものでないことは、先行するページにおける窓の外の風景(森)と比較してみれば、明らかである。この船は、アイダが妹を抱き、母親といっしょに見送った船と同一である。父親は溺れて死んだのである。妹を取り返しに窓から飛び出したものの、後ろ向きに飛んだためにゴブリンたちのいる場所を見つけることができないでいるアイダの耳に、父親の助言が聞こえてくるが、父親が死んだという解釈にたてば、それは、父親の霊魂(いいかえれば、アイダの心理のなかの父親像)による助言だということになる。アイダが妹を取り戻して家に帰ると、父親からの手紙が届いているが、それは死ぬ前に書かれたのだと考えれば、この解釈と矛盾しない。
 むろんこれはひとつの解釈であって、決定的な証拠があるわけではない。ただ、ここで重要なのは、父親不在という状況、アイダが父親の役割をも担おうとしていること、そして彼女が自分の内に取り込んだ父親像の助けを借りて成長していくということである。ユング心理学を援用すれば、ここで父親はアイダのアニムスになっているといえよう。
 母親はといえば、彼女はぼんやり座っている。じつに存在感がうすい。これについては作者自身が、この物語は一瞬の間の出来事なのであり、「そのわずかな間に、たまたま母親が何かに気をとられていたとしても、それを冷淡だの、やれ無気力だのと決めつけていいものだろうか。いや、彼女はついうっかり気をそらしただけではなかろうか。ふつう、どんな母親だって、一日のうち、いつ何時、気をそらさないとも限らない・・・・で、その間に子どもに何事か起きる。運悪くというべきか。[・・・・]母親っていうものは、肝心のときには、あいにくと子どもに注意がいってないものだ。だがそのとき、子どもは自分でやってみる機会をあたえられているんだ。[・・・・]子どもはとにかく母親になりたいと思っている。このチャンスに母親なしでもやっていけるかどうか試したいという衝動もある。そう、そのとき、アイダは母親になりかわるのだ」(16)と述べている。実際、奪われた赤ん坊を取り返しに行くアイダは、母親の役割を演じているわけである。
 これは作者自身が告白していることだが(17)、この作品はグリム童話の書き換えであるが、問題は作者がどうしてこの取り替え子の話にこだわりつづけたかということである。作者は「それは自分でも説明できない」という。センダック自身にとっての取り替え子テーマの意味について、むろんわれわれも単一の答えを提示することはできない。ここではいくつかの面から、取り替え子の物語に光をあててみよう。
 子どもは、自分は現実の両親からではなくすばらしい両親から生まれたのだ、とか、自分は母親の秘められた恋愛の結果生まれたのであり、すばらしい父親の血をひいているのだ、とか、自分は嫡子だが兄弟は私生児だ、といった幻想をいだくことがある。両親との関係を想像上で変更するこの幻想を、フロイトは「家族小説 Familienroman」と呼んだが、反対に、親が子どもにたいし、この子は本当に自分の子だろうか、どこかで取り替えられたのではないか、という幻想をいだくことがある。出産直後の母親はとくにそうした不安にとらわれがちである。これが、取り替え子物語の心理的起源であるとも考えられる。
 以上のようなフロイト的仮説にたいして、以下のようなユング的仮説をたてることもできよう。それは「双子のテーマ」とでも呼びうるもので、現実の赤ん坊と取り替え子はじつは同一の人格の二つの部分なのだ、という考え方である。取り替え子は、ユング心理学の用語によれば、影 shadow である。なんらかのきっかけで、それまで抑圧されていた影の部分が表面に浮上する。それはつまり、母親の視点にたてば、それまで気づかなかった子どもの一面を発見するということであり、赤ん坊を主体とみなせば、自分で気づかずにいた影の部分を発見するということである。
 それに加え、『まどのそと』では、すでにコット Jonathan Cott が指摘しているが(18)、アイダと妹は実は同一人物ではないかという解釈も成り立つ。この解釈にたつと、『まどのそと』を、魂の試練と救済というグノーシス的な物語として読むことができよう(19)。



 『まどのそと』は、取り替え子物語がその中核になっているとはいえ、そこには、挿絵にたいするルンゲ、ブレイクの影響を別としても、その他のじつにさまざまな特徴を指摘することができよう。まず、見えるものと見えないものとの共存が強調されていることは、たとえば赤ん坊が誘拐される以前でもアイダの家族風景(現実)のなかにゴブリンたちが描かれていることや、その後の挿絵に、地上の現実世界と地下のゴブリンたちの世界が同時に描かれていることから、明らかである。また、見ることの意味の重大性も表現されている。アイダは魔法のホルンを吹いて赤ん坊をあやすが、赤ん坊を見ていなかったためにゴブリンたちに連れ去られてしまう。また赤ん坊を取り戻すために窓から飛び出したアイダは、父親の助言を受けるまで、後ろ向きに飛んでいたためにゴブリンたちのいる場所を発見できない。またイメージの面では、氷でできた取り替え子が溶ける場面や、ゴブリンたちが踊りながら川に入り溶けていく場面にみられる、溶けるイメージが特徴的である。
 そしてモーツァルトの、とくに『魔笛』の影響は無視できないが、ここでは触れない。
 最後に先に述べた「旅」のテーマの面から、『まどのそと』を前の二作と比較してみると、マックスやミッキーの「旅」が個人心理的事実として描かれていたのにたいし、アイダが旅する世界は個人的無意識の領域を超えて、きわめて元型的なイメージにみちており、作者はそれを描くために、民衆の想像力あるいは集合的無意識の世界に霊感をもとめたドイツ・ロマン派の世界を導入したのだといえよう。

付記 : 本文中に引用あるいは要約したセンダックの作品はいずれも、Harper & Row から出版されている。



(1)拙稿「スピルバーグと子ども」『シアネスト/映画の手帖』「スピルバーグ特集」青土社、1986年2月、55ー59ページ。
(2)Lanes, Selma. G., The Art of Maurice Sendak, New York, 1980. セルマ・G・レインズ『センダックの世界』渡辺茂男訳、岩波書店、1982、249ページ。
(3)レインズ、前掲書、227ページ。
(4)註(2)参照。
(5)山口昌男氏の示唆による。
(6)レインズ、前掲書、217ー8ページ。
(7)ここにあげたおとぎ話のテーマが「何かに呑みこまれる」ことだというのは、あくまで精神分析学者の解釈である。その解釈の問題点については、拙稿「赤ずきん症候群----おとぎ話のイデオロギー」『ユリイカ』1986年7月号、青土社、210ー25ページ参照。
(8)フロイト『本能とその運命』小此木啓吾訳、フロイト著作集(人文書院)第6巻、76ページ。
(9)レインズ、前掲書、227ページ。
(10)同上、87ー88ページ。
(11)同上、174ページ。
(12)同上、177ページ。
(13)同上、179ー185ページ。
(14)Cott, Jonathan, Pipers at the Gate of Dawn, New York, 1981, p. 60.
(15)Ibid., p. 78. 
(16)Ibid., p. 77ー78. 
(17)Ibid., p. 72. 
(18)Ibid., p. 77.