|
性イメージの行き違い
(イマーゴ 1990/1)
人はいかにして性交の方法を知るのだろうか。最初から知っているのだろうか、つまり性交の仕方は遺伝子情報に入っているのだろうか。それとも何かを見て覚えるのだろうか。このことに関する専門的な研究については何ひとつ知らない(そのような研究がなされているのかすら知らない)ので自信はないが、人間の本能は相当壊れているらしいから、たぶん本能的に知っているわけではなく、後天的におぼえるものだと思う。少なくともここではその前提から出発する。
ではどうやっておぼえるのか。ごく幼い頃に両親の性交を目撃して、無意識のうちにおぼえるのか。友人から聞いた話だが、あるとき、やっと歩けるようになったばかりの息子が同年輩の女の子と遊んでいるのを何気なく見ていたら、その男の子が「好き好き」と言いながら女の子を押し倒し、覆いかぶさってしっかり抱き締めたので(いわゆる正常位そっくりだったと友人はいう)、わが友人は仰天したという。そりゃ仰天するだろう。だが彼の話では、子どもに自分たち夫婦の性交を見られたおぼえはないという。家族三人で、いわゆる川の字で寝ていたが、セックスのときには子どもが目をさましていないかどうかに細心の注意を払っていたという。その子にどうしておとなの性交の真似ができたのか、そしてそれが「愛」と関係ある行為だということがどうして理解できたのだろうか、とわが友人はしきりに首をかしげていた。
この話を聞いたとき、私も一瞬愕然としてしまったのだが、あらためて考えてみれば、それほど不思議なことではないのかもしれない。つまり、わが友人の息子クンはペニスを引っ張り出して女の子の股に押しつけたわけではない。両親の愛撫をふんだんにあたえられていた息子クンにすれば、抱き締めることと愛情の関係はすでに明白であったろう。性交の最中でなくとも、両親が抱き合っているのを見て、あるいは見なくとも彼らの夫婦愛を感じとって、その真似をしてみせたのかもしれない。わが友人は息子クンの振る舞いをみて、とっさに性交を連想してしまったのではないか(じつはこの話はそれほど単純ではないのだが、あまりに込み入った話になるからやめておく)。
こうした話を聞くと、誰でもフロイトの「原光景」という概念を思い出すだろう。この概念をめぐるフロイトの思索の発展あるいは揺れはひじょうに込み入っているので詳述はさけるが、乱暴に単純化すると、誘惑理論(幼い頃に父親に性的ないたずらをされると、それが外傷となって後にヒステリーとなるという理論)からオイディプス理論(いたずらされたというのは本人の空想だという理論)への移行と平行して、原光景は「事実」だとする主張から、(ユングに批判されたこともあって)原光景もまた「原幻想」に属するものだと主張するようになる。いずれにせよフロイトは原光景を、神経症の原因となるような不安を生じさせるものとして重視している。もちろんこの場合、性交を知ったことが外傷になるわけではない。「原光景」は他人のセックスを覗き見するのとは違って、オイディプスの三角形からすれば、子どもにとって両親の性交は他人事ではない。しいていえば自分の恋人(だと本人が勝手に思っている人物)が別の男と寝ているところを目撃するのに近いといえようか。
もし両親の性交を空想するのだとしたら、その子はすでに性交を具体的に知っているはずだし、もし具体的に知らないうちに空想するのだとしたら最初から知っていたということになるが、私のフロイト読解の範囲ではそのあたりのことはよくわからない。
経験的に考えると、人が性交を具体的に知るのはかなり遅くになってからではなかろうか(もちろん個人差が大きいだろうが)。これが本稿における第二の前提。
昔は(どれくらい昔かは正確に知らないが)、女性は嫁入りの前の晩に母親から春画を見せられ、「嫁に行ったらこういうことをするんだよ」と教えられたというが、私は長いこと「本当にお嫁にゆくような年頃まで知らなかったのだろうか」と疑っていた。ところが最近、知り合いの女性から聞いたのだが、彼女は二十歳過ぎるまで自分に膣というものがあるということを知らなかったそうだ。彼女は高校生になってもまだ父親と風呂に入っていたというが、出産に関しても、二十代後半になってお産の写真を見るまで、「子どもはお腹から生まれるのよ。盲腸は手術する人としない人がいるから傷が残るけど、お産は誰でもすることだから傷が残らないようになっているのよ」という母親の言葉を信じていたそうである。
自分のことを振り返ってみると、挿入について知ったのは小学校の高学年のときだった。同級生が「おとなになったらチンポを女のあそこに入れるんだぜ」と教えてくれたのだった。その子は年上の少年から教わったと言っていた。よほど強烈な印象を受けたのだろう、同級生からその話を聞いた場所まで覚えている(近くの高校の運動場だった)。そのとき、「そんなはずはない。女の子の股の間にそんな大きな穴があいているはずがない」と思ったことまで覚えている。その後、中学にかけて、急速に性知識が増えていったようだ。というのも、中学一年のとき、手書きの回覧雑誌をつくることがクラス内で流行したことがあり(一回十円とかで貸し出すのだ)、同じクラスにいた四方田という少年が「月経少年(メンス・ボーイ)」という小説(というほどのものではないが)を書いて、みずから発行する回覧雑誌に掲載していた。主人公は男根と膣を両方もっていて、月夜の晩になると自家受精するという話だったように記憶している。ということはその頃には「挿入」は既知の事実になっていたということになる。
ずばりその光景を見せられた昔の嫁入り前夜の娘さんの場合とは違って、一般には、猥談とか、トイレの落書き、小説の性場面、親がもっていたエロ雑誌(『百万人の夜』とか)といった雑多な情報をもとにして、頭の中でぼんやりと性交とは何であるかを理解してゆくように思われるが、その性交の知識あるいはイメージは甚だ曖昧なものであって、それが更に、これから述べるような情報によって方向づけられてゆくのである(1)。これが第三の前提。が、その前にもう一点触れておかねばならないことがある。
小浜逸朗氏は「ポルノ批判の言説に寄せて」(「現代思想」八九年九月号)の中で、思春期の男には「エロスの問題がまず彼の器官的な問題としてやってきてしまう」「性器という、それ自体としてはどこにむかって使用することもできる一つの抽象的な器官(道具性)の問題としてそれはやってくる」と書いている。小浜氏の論文自体についてはいろいろ言いたいこともあるが、この部分に関してはほぼ正しいと思う。異性にたいする恋愛感情と性欲の問題は別々にやってきて、それが一体化するのはずっと後のことなのである。いやいつまでも一体化しないのが悲しい現状ではないかと思う。思春期より更にずっと遡って、一般にマスタベーションは、少なくとも男の場合、偶然になんらかの物理的刺激が性器に加わり、快感をおぼえることがきっかけになって始まるように思われるが、そのとき彼の頭にあるのは女性の裸体でも女性性器でもない。というより彼の頭の中はからっぽである。何かを考えてマスタベーションをするのではなく、たんにキモチイイからするのだ。それがやがて性的な行為へと変化してゆく。その背景にある身体的変化についてはよく知らないが、対象をもたない器官的快感が、セックスという、世間でキモチイイとされている事柄に集約され、取り込まれてゆくのではあるまいか。
ガヴィーノ・レッダの自伝小説『父----パードレ・パドローネ』には、親の言いつけで家族と離れ、小さい頃から山の中でたった独りで暮らし、羊の番をする少年たちが描かれているが、彼らは鶏や羊を「道具」に使う。タヴィアーニ兄弟監督の映画では鶏を抱えて喘いでいる少年たちの生臭く熱い息づかいがよく表現されていた。牧童が年頃になると、親方はボーナスとして年に一度、売春宿に連れてゆく。初めて売春宿に行った少年(青年)が「前足がなかった」という感想を抱いたというエピソードがある。
数年前にフランスでベストセラーになったノンフィクション小説(書かれている内容は事実か虚構か不明)『オロ(黄金)』は、主人公が南米の山脈にゴロツキを引き連れて金鉱を探しにゆく話だが、山の中で、ゴロツキの何人かは毎晩交代で年取った雌馬を「使う」(そのために足場をつくる)。親分である主人公がその雌馬を売却しようとしたところ、彼らが売らないでくれと泣いて頼むという場面がある。この場合には馬は人間の女性の代理と考えられようが、『父』の牧童たちはまだ女性を知らないわけだから、鶏や羊は人間の代理ではないといえよう。
くどくどと書いてきたが、結局、水路が初めからあってそれからエネルギーが湧いてくるというのではなく、エネルギーが溢れるようになってから水路があたえられると考えてよいだろう。その水路とは性交のイメージのことだが、これは情報として外からあたえられる。先に述べたようにさまざまな断片的な情報からぼんやりとしたイメージが組み立てられるのであるが、臨床家がつとに指摘しているところによれば、最近、かつてはそうした情熱の大きな部分を占めていた猥談が著しく減少しているという。おたく族はほんの一部だとしても、そうした種族を生み出す土壌はたしかにあるわけで、個々の少年少女がマスメディアと一対一の関係を結ぶ傾向が強くなっていることは確かだと思われる。このことを性交に関する情報について考えてみれば、マスメディアによる水路づくりが性のイメージをつくりあげる際にひじょうに大きな力をもってきているといえる。若年層の間では活字はほとんど影響力をもっていないと考えられるから、そのマスメディアとは具体的にはコミック、写真、ヴィデオ(日活ロマンポルノが廃れたように映画も影響力を失った)ということになろう。ヴィデオについては別の機会に論じるとして、ここではもっぱらコミックを取り上げる。
まず少女雑誌のコミック(図@A)。これは「セックスは愛の表現」という言説そのままの世界であるといえよう。男性を好きになって、最後に「結ばれる」というパターンである。少女漫画で描かれる性交場面の特徴は、まず例外なく下半身は描かれないということである。抱き合う二人は花に囲まれたりして、セックスは美しいものというメッセージを伝えている。愛し合っている二人が抱き合っている光景を想像しても、現実に下半身で起こっていることはあまり想像したくない、というのが少女の心境だろうと想像する。下半身はモヤモヤに包まれているのだ。
それにたいして、(対象読者の年齢層が高いので、性イメージ形成の過程をめぐる考察という本稿の趣旨から多少はずれるが)レディース・コミックになると、性交場面の描写においてはっきりと下半身も描かれる。(図BCD)。体位もいわゆる正常位に止まらず、ヴァラエティに富み、粘液すらも描かれる。そこだけを取り出してみると、男の読むポルノ漫画とひじょうにノリが似ている(違う点はストーリーが比較的しっかりしているということである。つまり、物語の中でセックスがそれなりの必然性をもっている)。もうひとつ、レディース・コミックの場合には結婚がたえずちらついている。かつてとは違い、セックスと結婚とが結びついているわけではけっしてないが、独身女性が結婚にいたる過程でセックスと出会う(相手はかならずしも結婚相手ではない)という設定が多い。
もうひとつ、少女向けの漫画の異端的ジャンルとして、ホモ漫画がある(図EFG)。メジャーな少女雑誌に比べればはるかに読者数は少ないと思われるが、つまり「一部」の少女が愛好していると考えてよいが、相当に大きな「一部」であって、一つのサブジャンルを形成していることは確かである。少女のホモ愛好という問題はたいへん興味深いテーマで、わずかながら評論もあるが、まだまだ探求しつくされていない。簡単には論じられないので、少女の性の発達の上でひじょうに重要な問題であるとだけ言っておこう。ただ、その方面のことはよく知らないという人のためにちょっとだけ触れておくと、漫画という枠からは多少はみ出すが、理論的指導者は栗本薫で、『アナザー・カントリー』がまるで聖書のように見なされている、という世界である。私がいくつかの雑誌の投稿漫画を見た限りでは、アマチュア少女漫画家たちは男女のセックスを描くときよりも男どうしのセックス場面を描くときのほうがはるかに大胆である(少女のホモ愛好が自分自身の性の成熟からの逃避から来ていると考えれば、当然ではあるが)。
次に少年雑誌のコミック(図HI)。少年漫画に初めて「女の裸」を導入したのは永井豪の『ハレンチ学園』(一九六八)だということになっている。その後、性的場面は増え続けてきた。少年漫画の最大のテーマは暴力だと思うが、それに次ぐのがセックスである。少年漫画における性描写の大きな特徴は、すでに『ハレンチ学園』にも見られるが、遊戯性である。現実にはとてもありえないような荒唐無稽なコンクールやらゲームが行われ、それがヌードを見せる口実となっている。ここではセックスは遊びであって、「セックスは愛の表現」などという言説とはおよそ無縁である。ただ、マイナーなロリコン・コミックや成人向けポルノ漫画、ましてやコミケで売られるヤオイ漫画と比べると、荒唐無稽で現実離れしているとはいえ、まだストーリー性がある。
七〇年代後半から急速に増え、今も健在なのがロリコン漫画と呼ばれるサブジャンルである。これはメジャーな少年雑誌の裏にあたるものであり、同時に成人向けポルノ漫画の少年版ともいえる。数年前、アニメ・ヴィデオ『くりいむ・れもん』シリーズが大当たりし、ファン・クラブができたり、セル画集が出たりしたが、あれもこのサブジャンルから生まれたものである。ここでも少年雑誌と同様にセックスは遊びであり、遊びとしてSM(バイブ、鞭打ち、放尿など)あり、レイプあり、レズあり、である(ちなみに男性向け漫画のレズと女性向け漫画のホモとは対称関係にはない。セックス場面の男性二人は見る女性にとって性の対象ではないが、レズビアンの女性二人は見る男性にとって性の対象である。つまり性的対象としての女性が二人いるにすぎない)。ロリコン漫画で描かれる少女は大雑把にいって二つに分類される。というか、いわゆるロリコン漫画に二種類あるといったほうがいいか。一方のグループ----これがロリコンものの主流だが----に属する漫画に登場する少女は、大体中学生か高校生として設定されており、ほとんどの場合、顔だけはあどけない少女だが、首から下は成熟した女性である、というより巨大なバストとヒップをもった、男性の性的空想における理想の女性像である(図JKL)。もう一方のグループに登場する少女は小学生以下で、まだ胸もほとんど膨らんでおらず、陰毛もないものと設定されている(図MN)。つまりこの二つの違いは、描かれている少女が第二次性徴の前か後かの違いである。両者はともにロリコンものと呼ばれているが、ひとまとめにするには違いが大きすぎるように思う(高校生コンクリート詰め殺人事件と連続幼女誘拐殺人事件の違いに相当する)。
漫画に類するものとして、俗にHソフトと呼ばれるパソコン用ゲーム・ソフトがある。これはコンピュータによる画像という点で漫画に近い(アダルト・ヴィデオとは違う(2))。たとえば、スーパーマリオと同じような仕組みで女の子を追い掛けるゲームがある。うまくいけば(?)その子をレイプすることができる。これはリアルタイム・ゲームだが、もっと多いのはクイズ形式などで画面の中の少女と会話を交わしながら遊ぶというもの。たとえば、いわゆるナンパゲームの一つ、『びゅーてぃふるどりーむ』『とわいらいと・げーむす』『ばとる・らばーす』の三巻からなる『ぴんきい・ぽんきい』(『くりいむ・れもん』もそうだが、横文字の平仮名表記と性イメージの結びつきに注目)では、町で美少女と出会い、その子の質問をクリアしながら喫茶店へ、バーへ、ホテルへと誘ってゆく。『ポッキー』というソフトは、ポッキー学園という、男女共学ながら壁をはさんで男子部と女子部が別れているという学校を舞台に、『男子選抜 女子パンティ争奪獲得杯』なるものを校長が発案するという、先に述べたような『ハレンチ学園』以来の少年H漫画のノリで、当然ながらプレイヤーは男子選抜メンバーの一人となって女子を追いかける。ポルノ漫画と同様の画像がふんだんに組み込まれている。
以上、ごく大雑把に若年層向けの漫画における性表現をみてきたが、女の子にあたえられる情報と男の子にあたえられる情報の差は歴然としている。少女向け漫画の多くはきわめて日常的(教養小説的)で、セックスが愛によって理由づけされているのにたいし、少年向け漫画は荒唐無稽な非現実の世界を描いており、そこではセックスはひたすら遊びであり、愛などとは無縁である。このようにまったく違う情報をあたえられて育った男女の関係が歪んでくるのは必然といえよう。
しかも性情報に初めて触れる年齢はどんどん若年齢化している(3)。第二次性徴をきっかけとして性にめざめるという図式は現代の子どもたちにはあてはまらない。性イメージの形成にとって、メディアによる性情報の供給は、一般に考えられているよりも大きな意味をもっている。
< 註 >
(1)ここでは二つのことに触れることができなかった。幼児のマスタベーション(男も女も赤ん坊のときからマスタベーションをする)とお医者さんごっこである。
(2)最近、体毛を剃っている、あるいはクリームで脱毛している男の子が急増している。陰毛を剃っている子もいるという。これは、コミック、アニメヴィデオ、パソコンソフトというジャンルの肥大化と関係があるのではないかと思う。そうしたジャンルでは少女の体毛が描かれることは絶対にない。また、アニメのキャラクターへの愛着とアイドル歌手への熱狂とは根を同じくしていると思われる。
(3)以前、ある小学校で、両親ともに働いていて昼間留守になる家に子どもたちが集まって(高学年になると学童保育がなくなるので)、年長の子がレンタルショップで借りてきたアダルトヴィデオやホラーヴィデオを見ていたことがわかり、問題になったそうだ。
|