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ポルノグラフィーの何が問題か
(現代思想 1990/1)
性表現にまつわるさまざまな問題に興味を抱くようになったのはずいぶん前のことだが、ここ数年、フェミニストたちがポルノを問題にするようになってからはとくに(いや、たとえばアメリカのフェミニストの間でポルノをめぐる議論がさかんになったのは一九七〇年代前半のことだから、正確には、私がフェミニストのポルノ論に注目するようになってから、と言うべきだろう)、ポルノを扱った論文(その多くはアメリカのフェミニストによるもの)を読み漁ってきた。いずれ纏まったものを書こうと思っているのだが、まだ頭が混乱しているので、とりあえずスケッチめいたものを、思いつくまま乱雑に書かせて頂く。
ポルノを考える際にまず最初にぶちあたる問題は、ポルノとは何かという定義である。いろいろ考えてみたが、どうも厳密に定義することは不可能なようだ。しかし、何だか分からないものについて論じることはできないし、とくに論争になった場合、不要な誤解を生んで不便だ。だから定義はやはり必要だ。厳密に定義しようと思わなければいいのだ。明確な一線が引けなくとも、大体の輪郭がわかれば議論はできる。とりあえず、性行為およびそれに類するものの表現、そして欲望の対象として捉えた女性の身体の表現、というくらいに定義しておきたい。が、定義をめぐるいくつかの問題点を整理しておこう。
まず、作者ー作品ー観客(読者)という関係から見てみる。作者の意図(目的)からその作品がポルノかどうかを決めることはできない。作者の意図は作品から逆に推測する他ない。資料を紛失してしまったので、確かなことは言えないが、たしか以前、『プレイボーイ』誌が、ドゥワーキンの書いたエロティックな小説を取り上げて、男が書いたポルノ小説とどこが違うのかと揶揄していた。『プレイボーイ』の読みが正しかったのかどうかは忘れてしまったが、いずれにせよ、ポルノか否かは作者が誰であるかとは無関係である。
いっぽう、観客(読者)がポルノと見なす物がポルノだというわけにもいかない。ドナルド・キーンによると、三島由紀夫は生まれて初めて氷イチゴを見たときに「なんとエロティックな食べ物だ」と言ったそうだが、ミロのヴィナスに欲情する人間もいるし、新体操の大会の会場には、ストリップを見にゆくのと同じ動機できている観客がかならずいるそうだ。鍵穴に鍵を差し込むたびに性的なことを連想する人間もいる。だからといってミロのヴィナスや新体操や鍵穴をポルノと見なすわけにはいかない。
作品そのものから定義を引き出すこともできない。いま手元にある、いわゆるロリコン雑誌には、性器を露出している少女や水着の少女の写真に混ざって、運動会で走っている少女とか公園でブランコに乗っている少女のスナップ写真も数多く載っている。そうした写真を見て興奮する人間たちもいるのだ。それらの写真と、わが家のアルバムにある娘の写真とを比べてみても、写真そのものには何の違いもない。言うまでもなく、違うのは、かたや「ロリコン雑誌」かたや家族アルバムという、それが置かれている場所である。わが家のアルバムには赤ん坊の頃の娘が裸で日光浴している写真が何枚もあるが、幼児性愛者の手にわたればポルノと化す。要するに、コンテクストを抜きにしてポルノを語ることはできない。
「『女』をひとまとまりにして呼ぶことで個性を認めようとせず、女性を蔑視、差別した言葉・描写を総称してポルノグラフィと定義したい。男性が作り出した誤った女性のイメージ、女についての虚像。これがポルノグラフィだ」(船橋邦子{ポルノグラフィの政治学」)というフェミニストの意見もあるが、やはり女性の肉体、あるいは男女(同性の場合もあろうが)の性行為を表現したもの、という項目がないとちょっと不便だと思う(船橋氏もその前の箇所で「女の身体を”モノ化”し、女の人格から切り離した肉体の描写」をポルノグラフィと考えると述べている)。
アメリカのポルノ研究文献(とくにフェミニストの)を読んでいて頻繁に出会う言葉は暴力である。つまり、ポルノにおける暴力が大きな問題とされているのだ。「暴力的ポルノ」という呼称も定着している。グロリア・スタイネムは有名なエッセー「エロティカとポルノグラフィ」で、性平等的なものをエロティカ、性差別的なものをポルノグラフィと呼ぶ、と明快に述べている。ドゥワーキンのようにこの区別を認めないフェミニストもいるが、この区別はある程度有効であると思う。ただ取りあえず、エロティカもポルノグラフィもまとめてポルノグラフィと呼びたいので、スタイネムの言うエロティカを性平等的ポルノ、スタイネムの言うポルノグラフィを性差別的ポルノと呼ぶことにしたい。
性差別的ポルノは社会における全般的・構造的性差別の一つの現れである。したがってフェミニストが性差別的ポルノに反対するのは当然である。男のフェミニストはありえないという意見に私も賛成だが、男の中にも性差別に反対している人もいる。つまり、支配者の座が居心地が悪く、早くそこから降りたいとむずむずしている男たちである。私も、性差別には反対だし、暴力も嫌いだから、性差別的ポルノには批判的である。それはレイプがよくないというのと同じだ。
アメリカのフェミニズムの文献では「ポルノは理論、レイプはその実践」という表現によく出会うが、その通りであろう。一昨年、幾島幸子さんと二人で訳した『レイプ・男からの発言』の著者ベイネケは、レイプは女性にたいする「ポルノグラファイジング(ポルノグラフィ化すること)」と関係があると述べている。「この女とやりたい」と思って女性を見る男は、その女性をポルノグラフィ化しているのである。
このようにポルノと「見る」ことを切り離して考えることはできない。ポルノには写真やビデオだけでなく小説もあるけれど、ポルノ小説の本質はその性描写であって、それはもっぱら視覚に訴えることを目的として書かれている。また、右に述べたように、男がポルノを見るのと同じ視線で女性を見れば、その生身の女性もポルノになりうるわけである。小浜逸朗氏は「ポルノ批判の言説に寄せて」の中で、「性の磁場のあり方」は「本質的普遍的に『見るー見られる』という非対称的なあり方をしている。[・・・]非対称的であるということは、不平等であるということとは違う」と述べている。彼に言わせれば、ポルノに反対するフェミニストはこの非対称性を不平等と取り違えている。しかし私に言わせれば、小浜氏は現実にある不平等を非対称にすり替えて合理化しているにすぎない。男が「見る」、女は「見られる」という非対称的な関係は、本質的でも普遍的でもない。現在のところ男が見る権利を独占しているということにすぎない(したがって、少なくとも現在のところ、女性のナルシシズムなるものも男の視線から自由ではない)。性交の際に男は明かりをつけたがる、女は暗くしたがる、という一般的な傾向もまた、女は見ることを許されていないということの現われである。見たいのに禁じられているというのではなく、見たいという欲望をもつことを初めから禁じられているのだ。
先に名を挙げたベイネケは、「男性は、次のようなことをしてみるとよい」と述べた上で、ナンシー・ヘンリーの文章を引用している。「服装にじゅうぶん注意を払って、都会の通りを歩く。ズボンのチャックはちゃんとしまっているか、ワイシャツはたるんでいないか、ボタンはとまっているか、気を配る。まっすぐ前を見て歩き、男性がそばを通るたびに、目が合わないようにし、顔を無表情にする。たいていの女性はこのようにふるまっているのだ。ゆきずりの男性に、その気があるとみなされてしまったという経験は誰にもあるだろう。なるべくそのような目に遭わないようにするには、こうするのが一番なのだ」。
ふたたび小浜氏の文章を引用する。「例えば私が街を歩いて行く。すると朝シャンと枝毛のケアを入念に施した長い美しい黒髪をなびかせてボディコン・スーツに身を包んだセクシーな若い女が前を歩いていくのが目に付く。そういう女性を私のまなざしはたちまち見つけ出している。私は欲望を感じ、その形の良いお尻に触ってみたいとも思う。[・・・]最も初歩的な『見る(見える)』というこの半意志的行為において私のなかのエロスは、すでに自分の関係づけの可能性を探ろうとしている」。この一節は、小浜氏が視線の政治学にあまりに無自覚であることをよく示している。
小浜氏に言わせれば、ポルノは「男性のエロス的あり方に必然性を」もつと言う。「男の欲望の形態の一つの表現」はポルノという形をとり、「女性の欲望」は「必ずしもそのような形を取らない」と言う。たしかに現在、ポルノの消費者はもっぱら男で、女はあまりポルノに、とくにハード・コアと呼ばれるものには興味を示さない。しかし、現実がそうだからといって、それが本質的普遍的だなどということにはならない。小浜氏の言っているのはたんなる現状肯定に過ぎない。小浜氏のように、ポルノが男性に特有のものと考えれば、当然「女性が何らかの形で社会的主導権を握ったからといって、自分のエロス的欲望を男がやってきたような形で表現するとはとうてい考えられない」(小浜氏同論文)ということになる。私はそうは思わない。架空の社会のことを論じてもあまり意味がないと思うが、女が男を支配するようになれば欲望の対象として男を描くポルノが生産されるだろうと考えるのが自然だろう。その意味で、次のような岸田秀氏の意見に賛成だ。「一般に女は男ほどポルノグラフィに関心をもたないが、それは、性差別文化のため、一般に男が性行為の主導権を握っているので、性行為の意味づけを行なうのが男であるからであろう。女は、男が意味づけした性行為に応じていればいいのであって(応じなくてもいいが)、自分で性行為の意味づけをする権利または責任を与えられていない。だから女は、自分は何のために、どうして性行為をするのかという疑いに、男ほど囚われてはいないのだろう。しかし、女も性行為を積極的に求め、主導権をもつようになるにつれて、こうした事情も変わってゆくであろう」(「ポルノグラフィについて」)。ちなみに、「どうして人間はポルノを欲するのか」という問いにたいする岸田秀氏の答えは単純明快である。「それはわれわれにとって、性というものが本質的に不可解なものだからである」。したがって、「なぜ人間は他人の性器や性行為を見たがるのか、なぜポルノ小説を読み、ポルノ写真を見たがるのか、などの問題は、なぜ人間は性行為をしたがるのかという問題と同じである」。
ところで現在、ポルノにはいくつかの「使用法」がある。一つは現実の女性の代用である。ポルノ小説は「片手で読む小説」とも呼ばれるが、ポルノ写真・ビデオも同じ用途に使われている。以前、テレビの深夜番組に、裸のモデルが登場する「ティッシュ・タイム」なるものがあって、たいへんな視聴率を稼いでいた。ポルノは独身男性の友なのである。なぜそうなったかと言えば、一つには性を意識してから実際にセックスを体験するまでに相当年月が経っているからである。
ヴェリア・エルウィンという人類学者の報告によると、インドのムリアという部族では、毎晩、若い男女がゴトゥルと呼ばれる特別の家に集まり、歌い、踊り、さらには裸になり、男女がペアになってたがいに特殊なオイルを塗り合う。そのマッサージはやがて愛撫に変わり、ペッティングから性交へとすすんでゆく。若者たちは毎晩そのゴトゥルで夜を明かす。若者たちはゴトゥルに集まるので「非行」に走ることがなく、いっぽう親たちのプライバシーも守られる。ふつうは年上の女子が年下の男子をリードする。また若いペアは年上のペアを見習う。一晩あるいは数晩ごとに組合せが変わるので、「独占」も起きないし、仲間はずれもない。こうして若者たちは異性の体を隅々まで学び、どうすれば相手に快感を与えることができるか、そしてどうされると自分が快感を得られるかを学び、共に最高の快感が得られるようなセックスのテクニックを習得してゆく。ムリアでは、セックスは強い力であり、それを長いこと人間の内部に閉じ込めておくと悪いことが起きるので、若者はなるべく早くセックスを経験したほうが良い、と考えられている。その重要性に比べたら、若年妊娠など問題ではないのだ。年頃になると、若者たちは親が取り決めた相手と結婚するのだそうだ。
文明国の少年はと言えば、性を意識する年代は早い。とくに最近は、自分の身体の変化によって性を意識するようになるのではなく、つまり第二次性徴をきっかけとして性を意識するという図式はもはやあてはまらず、早い時期に、性情報--具体的にはポルノ--によって性を意識させられる。しかし、実際に女性とセックスするまでにはふつう何年もかかる。その間に彼は、自分のもやもやとした性衝動に、ポルノによって形をあたえてゆく。どんなふうにセックスのことを知ったかによって、その人間のその後の性生活は規定されると考えられるから、セックスの相手として現実の女性よりもポルノが先行したことによって、その人間は実際に女性と性交するようになってもポルノ的空想を手放せなくなる。
少女のことはよくわからないが、直接的な性衝動よりもロマンティックな恋愛感情のほうが発達してゆくようだ。そのために、セックスについては男性に合わせるという傾向があるようだ。これもまた、生理学的あるいは生物学的な差異ではなく、性に関して男が指導権を握っていることの現れと言えよう。
ポルノは性犯罪を助長するという説と、いやポルノは性犯罪を減少させるという説とがある。私は前者に与する者である。後者の説を主張する人びとがしばしば引き合いに出すのは、一九七〇年にアメリカの大統領の諮問機関「猥褻とポルノに関する委員会」が提出した七百ページに及ぶ報告書である。その報告書は、ポルノは性犯罪を抑制する安全弁の役割を果たしていると結論し、これによってアメリカでは全面的にポルノが解禁になったわけだが、この報告書については、提出された直後から数多くの疑問・批判が出されている。また北欧のようなポルノ解禁先進国において、女性にとって本当に性が開放されているのかということに関しても、あれこれ議論されている。とはいえ、すでに数多くの調査および実験室での実験が行なわれているようだが、ポルノが性犯罪を助長するという確固たる証拠があるわけではない。
周知の通り、法的規制あるいは表現の自由をめぐる論議もある。伝統的にリベラリストは表現の自由を根拠にポルノを擁護する傾向にあった。またポルノに反対する勢力内部にも、国家権力による規制には抵抗を示す人びとがいる。力関係が変わって、ポルノに反対する人びとがポルノショップを潰すことができるようになれば話は別だが、さしあたっては国家を利用してもいいではないかというのが私の立場である(私はドラッグにたいするわが国の厳しい規制を認める者でもある)。表現の自由と言ったって何から何まで自由というものではない。その自由の範囲に関して、時代に合った具体的かつ理論的な論議が必要であろう。アメリカでは、最近出版されたドナルド・ダウンズの『ポルノグラフィの新しい政治学』に見られるように、相当深い論議がなされているようだ。
もっとも「隠す」ことの是非については私の立場も揺れ動いている。現在のような状況でポルノを解禁することには反対である。「隠さずに全部見せてしまえば、みんなすぐに飽きる」というのは、アメリカの状況をみればわかるように、嘘である。女性の次には子どもが犠牲にされる。とはいえ、性表現全般にたいする法的規制、倫理的規制の強化にはもちろん反対だ。ヴィクトリア時代には、ピアノの脚にズボンをはかせるということが実際に行なわれたが、そんな時代に逆戻りするのは御免だ(ヴィクトリア時代にはしっかり「裏」があったわけだが)。ちなみに、ブス、ペチャパイ、といった女性に対する差別用語についても身体障害者にたいする差別をみればわかるように、言葉を規制すればするほど差別は深く潜行し、より陰湿になってゆくように思われる(多くの若者たちが障害者を「シンちゃん」と呼んでいることを最近知った)。
先に述べたように、女性が社会の指導権を握るようになれば、女性がポルノを生産するようになるだろうと思うが、問題は、男女平等の社会にもポルノが存在するかということである。社会における男女平等とは何かという問題があるが、それはひとまず措くとして、性平等的ポルノ、すなわちスタイネムの言うようなエロティカなるものが本当に存在するかという問題である。それは、男女平等のセックスというものがありうるかという問題でもある。
男の身体と女の身体とは非対称的である。性行為も非対称的である。男は凸であり女は凹だ。セックスは男性性器の女性性器への挿入であり、暴力であり、支配関係を示しているという考え方もある。それにしたがえば、あらゆるセックスはレイプだということになる。しかし男性性器の挿入とは言い換えれば女性性器が男性性器を包み込むことであって、この二つの間に上下関係はない。したがって、たとえセックスが非対称的であろうと、平等なセックスというものはありうるだろう。ただしこれについては漠然としたイメージしか浮かばない。ポルノに反対するフェミニストたちはよく「全人格的な交わりとしての豊かな性」という表現を用いるけれど、これは私にはひどく空々しく聞こえる。
問題はまだ尽きない。「物象化」、つまり女性をモノ化する、ということについても、闇雲に「悪い、差別だ」と批判するだけでは始まらない。物質的レベルを抜きにして人間が存在しえない以上、モノ化のない人間関係はありえない。外観は人格の現れなどではない。したがって物質レベルを離れた「人格」なるものとセックスできるはずがない。つまり、女性の全人格をまったく無視してモノとして扱うことは悪い。だから売春は悪い。これについては異論はないだろう。が、その反対、すなわち相手にたいする視線に「モノとして見る」要素がまったくないような関係のあり方というのもありえないように思われる。また男が女をモノとして見、女が男をモノとして見れば平等だ、というわけにはいかない。売春とは違って一方的支配関係ではないが、どうもそのあたりに最大の落とし穴が隠れているような気がする。
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