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フロイト──無意識の発見者──
(岩波講座・現代思想3「無意識の発見」、1993)
『夢判断』が上梓されたのは一八九九年一一月のことである。後に二〇世紀最大の遺産の一つとなるこの本も、最初はほとんど一般の関心を引かず、六年間に三五一部しか売れなかったという(1)。しかし、その一〇年後には国際精神分析学協会が創立され、フロイトの思想は国境を越えてその影響力を広げ、ついには今世紀最大の思想の一つとみなされるにいたった。事実、精神分析学はわれわれの人間観を一変させたといっていい。
ここでは、フロイト以前のさまざまな思想伝統が精神分析学にあたえた影響に言及しながら、無意識をめぐる力動論を中心に、フロイトがその独自の思想を発展させていった軌跡を辿ってみることにする。
一 無意識の発見
二〇世紀思想へのフロイトの貢献を一言で要約するならば、「無意識の発見」ということになろう。ただしこの「発見」という言葉にはすぐさま説明を加える必要がある。というのも、たとえばアイゼンクは次のように言う。
「フロイトより前に無意識の存在を想定し、詳述したひとは何百人もいます。いやそれどころか、心の問題を治療するときに、何らかの無意識の存在を念頭に置かない治療者は稀だったでしょう。〔〕フロイト以前に、多くの哲学者、心理学者、それに生理学者までもが無意識を想定した事実には疑問の余地がありません。フロイトが「無意識」を発見したと考えるのはナンセンスです」(2)。
たしかに「無意識」ということを言い出したのは何もフロイトが最初ではない。ピエール・ジャネのほうがフロイトよりも先に心理学に無意識を導入したと言われるが、それはとりあえず問題ではない。アイゼンクの指摘するとおり、フロイト以前においても無意識を想定しなかった心理学者のほうが稀だったと考えられる。しかし、今世紀の思想における最大の問題の一つとしての「無意識」が「フロイトの無意識」であることは誰しも否定できまい。
フロイトは、他からいっさい影響も受けずに孤立して独自の思想を発展させるといったタイプの思想家ではなく(そのような思想家が存在しうるとして)、むしろその正反対に、あらゆる思想を吸収して纏めあげるという卓抜した「綜合力」においてその独自性を発揮した思想家であった。エレンベルガーの言うように、「フロイトは大変な科学的、文学的教養を身につけた人物であって、当時の主要な文化的諸潮流が出会う交点に身を置いており、手当たり次第の多読家で、新しい考えの要点をすばやく把握してそれを取り入れ、それを独自の形にまとめ上げる才能をもっていた」。そして実際、「フロイトの諸学説のうち多くのものは彼以前から知られていたか、彼と同時代の一般的な考え方に属するものだった」(3)のである。フロイトは、古今のさまざまな思想を貪欲に吸収したことはむろんのこと、師や同僚の見解、さらには敵対者の考えすらをも積極的に取り入れた。患者から貴重な教えを得ることも珍しくなかったし、自分が徹底的に批判した弟子の意見を後になって自分の理論に取り入れるということも一度ならずあった。かくしてフロイトは、アイゼンクの言う「無意識の存在を想定し,詳述した」「何百人も」の人の見解を綜合し、一つの理論体系に纏めあげ、二〇世紀人に手渡してくれたのである(4)。
ここで一気に結論めいたことを言ってしまえば、デカルト自身の思想は神の問題が絡んでくるのでとりあえず措くとして、一九世紀まで西洋思想の主流であったデカルト主義は、主体を「コギト」という自我の反省行為にすべて吸収しようとした。言い換えれば、存在と意識とを同一視した。アイゼンクの言うように無意識論は多くの思想家によって準備されていたとはいえ、デカルト主義に痛打をあたえるほど強力な無意識論を提出したのはフロイトが最初であった。前世紀から今世紀にかけて、近代的自我なるものは次々に打撃を被ることになったが、言ってしまえばフロイトの無意識は、半世紀後のレヴィ=ストロースの「構造」、あるいはドーキンスの「遺伝子」と同じような役割を担っていたのである。
さて、フロイトにとって「無意識の仮定は必然的であり、正当であ」った。なぜなら、われわれが日常的に経験する「動機のわからない思いつき」や「操作のいきさつが隠されている思考の成果」、あるいは「健康者の失錯行為や夢」、患者の「精神症状とか強迫現象」などの心理的現象は、「意識にのぼらない他の作用を前提としないと説明できない」。「無意識をそこに挿入してみると、これらの意識されたはたらきは、はっきりした関連のもとに秩序づけることができる」(5)のである。このように無意識の仮定を要請したものは、心理現象にたいする決定論的あるいは因果論的な見方である。言い間違いや理由のわからない思いつきは、一般には偶然的なものと見なされる。だが精神分析学は、心理現象には偶然的なものはありえず、ある心理現象はそれに先行する心理過程がもたらした結果である、と考えるのである。だが、それは当然ながら意識だけでは説明することができないので、無意識の仮定が要請されるわけである。この決定性・因果性は、言い換えれば連続性である。
「一個の表象が──あるいは他のそれぞれの心的要素が──今私の意識の中に存在していて、次の瞬間には意識から消失してしまうということがありうる。そしてその表象は一定の時間が経ったのちにも、そっくりそのままの姿でふたたび浮かび上がってくることがある。それはわれわれの表現をもってすれば、記憶から浮かび上がってくるのであって、ある新しい知覚のもたらした結果としてではない。このような事実を考慮にいれると、その表象は一定の時間のあいだ、意識の中で潜在したままでいたにせよ、われわれの精神内に存在していた、という見解をとらざるをえなくなる」(6)。
この、われわれの精神内にあって、意識中ではないところ、それを無意識と呼ぼうというわけである。この決定論はあくまで遡及的(事後的)であって、ユングが提唱したような目的論的な決定論ではない(7)。すなわち、ベクトルはつねに結果から出発し(すなわち、ある現象を何かの結果と見なし)、原因へと向かう。
しかし、フロイトの無意識がこれだけのことだったならば、一九世紀末においても、とくに目新しいものではなかったはずである。ふたたびアイゼンクを引っ張ってくるまでもなく、このようなことを考えた人はそれまでにも大勢いただろう。フロイトの無意識論の独自性は、意識と無意識との力動的関係をめぐる理論体系を築いたことにある。心の中には意識(私が私だと思っているもの)とは別の部分(私の中にあるが、私自身にもなんだかよくわからないもの)があることに気づいた人は古来無数にいただろうが、フロイトはそうした「二重意識」(8)という観念を明確に斥けている。フロイトによれば、意識と無意識とは連続的に繋がっており、無意識の内容はすべて意識と関連づけられるのである。フロイトの課題はとりあえずは無意識の「力」を強調することであったが、いくら無意識(得体の知れぬ何か)の力が強大であっても、それを意識(私)と関連づけることが重要なのであって、その意味ではあくまで意識が主、無意識は従なのであった。この点で、無意識の中に(とくに集合的無意識の中に)意識にとって未知の積極的可能性を見出したユングとは大きく異なっている。
フロイトの無意識論は、エレンベルガーの言う第一次力動精神医学、すなわちメスメルからシャルコー、ベルネームにいたる催眠療法の伝統に多くを負っている(9)。メスメルは、後にヒステリーとか神経症とか呼ばれる類の病を、「磁気桶【バケ】」を用いて分利【クリーズ】(発作激発)を誘発させることによって治療した。「磁気桶」とは、中に「磁化」された水を入れた瓶や金属、石、ガラスなどの入った丸い容器で、その側面からは二〇本ほどの鉄棒が突き出している。患者たちは桶のまわりに陣どって、鉄棒を患部にあて、一本の紐でたがいに繋がれた。この「回路」の中を「動物磁気」が流れ、患者たちに分利を引き起こすのだった。弟子のピュイゼギュール侯爵は、楡の木がもつ治癒力への民間信仰を利用して、患者たちと木とを紐で結び、やはり集団催眠療法をおこなった。シャルコーは、催眠術によってヒステリー患者に人工的に発作を起こさせ、見学に来たパリの知識人や名士たちを喜ばせた。そして、その見世物のような講義に出席して感激したフロイトもまた、精神分析療法を始めるにあたって催眠術を用いたのだった。
催眠術師が被験者を催眠状態に誘導し、覚醒した後のある決められた時刻にある行為をするようにとの指示をあたえ、しかるのちに被験者を覚醒させる。被験者は催眠中のことを何一つ覚えていないが、定められた時刻になると術師から指示された行為を実行する。この後催眠暗示について、フロイトは「この現象には次のような説明を加えるより他にほとんど手がないのではあるまいか」という。すなわち、「行為の意図は被験者の心の中に潜在的形で、あるいは無意識的に存在していて、それが定められた瞬間になって意識されたのである」と。ただし、意識内に浮上したのは実行されるべき行為の表象だけであって、「その表象に結びついた他のすべての諸観念──指示、医師の影響、催眠状態の記憶はやはり依然として無意識のままだったのである」。フロイトによれば、ここまではたんに記述的理解である。一歩すすめて力動的理解をこころみるならば、ここにおいて重要な点は、指示された行為が現実に遂行されたのであるから、行為の観念がたんに意識の対象となっただけでなく、実際に「働きはじめた」ということである。その行為の動因は医師の指示であるから、指示の観念もまた働きはじめたということになる。すなわち指示の観念は「働きつづけながら、しかも同時に無意識だったのである」(10)。
フロイトは、こうした人工的な後催眠暗示のメカニズムはそっくりヒステリー患者に当てはまることを発見した。ヒステリー患者がある症候を呈しているとき、それにはなんらかの心理的原因があって、それが無意識中にとどまったまま、「働いている」のだと考えることができる。フロイトの同僚ブロイアーの患者であった有名なアンナ・Oは、コップから水を飲むことができなかった。その理由は自分にもわからなかったが、彼女は催眠状態で、かつて犬がコップから水を飲むのを見たこと、そしてそのとき強い嫌悪感を覚えたことを思い出した(11)。この心理的原因は、それまで無意識中にとどまりながら、どうしてもコップから水を飲むことができないという状態を引き起こしていたのである。
ここでフロイトは、無意識(Unbewusste)と前意識(Vorbewusste)とを区別する。心の中にありながら意識されない観念には、力の強いものと力の弱いものがある。力が弱いために意識内に浮上してこない観念は、しかるべき力を獲得すると意識化される。そうした観念が潜在している場所が前意識である。それにたいして、「強烈で、働きつづけているにもかかわらず、意識の面には近づかない観念」(12)もある。それが無意識的観念である。すなわちそうした観念が潜在している場所を無意識と考えるのである。その観念は、強烈な力をもっているにもかかわらず、どうして意識内に浮上してこないのか。それは本人がその観念を意識したくないからである(ただぢ、この「したくない」という気持ちは無意識的なもので、本人はそれを自覚していない)。かくして「抑圧」(Verdrangung)というメカニズムが仮定される。フロイトは抑圧理論について「これは確実に私自身が樹立したもの」であり、この理論こそが「精神分析という構築物を支える屋台骨に他ならない」(13)と述べている。
抑圧という観念はすでにヘルバルトの心理学に見られるというが、フロイトは抑圧を、ヒステリー患者の治療を通じて臨床的事実として認めたのだった。ヒステリーの語源は子宮を意味するギリシア語であるが、古代においては、生き物である子宮が体内を動き回って引き起こす病気だと考えられた。中世には悪魔の仕業と見なされた。一九世紀においては器因論が退き(ただし、脳の疾患とする見解は根強かった)、心因論が優勢になった。フロイトは、シャルコーの影響のもとで、ヒステリーを、特殊な病因と症候をもった一つの独立した心的疾患として定義することをめざした。
ヒステリー患者は、何かにたいする恐怖症に陥ったり、身体が麻痺したり、ひじょうにドラマチックな発作を呈したりする。たとえばヒステリー患者が、片手が痺れて動かないという症状を訴えたとき、それは抑圧された無意識的観念が、意識内に浮上することができないために、なんとか表に出ようとして、身体症状となってあらわれた、と考えられる。フロイトは次のような譬えを引いている。「歯科医のところで、頭と口をじっとさせておき、両手をそこにあげまいと心にきめると、その人は少なくとも足をばたばたさせる」(14)。このようにフロイトは、心の中の観念・情動はすべて力(エネルギー)をもっていると考え、それらの諸力の力動的関係として心のメカニズムを明らかにしようとしたのである。
この論文が収録されている書籍はまだ「生きている」ので、以下省略。註も省略。ここに掲載した部分は、は論文全体の約4分の1である。
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