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「個体発生は系統発生を繰り返す」/精神分析と反復説
(「現代思想」1987年6月号)
心理学者ダーウィン
ダーウィンとその進化論思想は生物学、医学から歴史学、宗教学、神学、哲学、文学に至るまでありとあらゆる分野に影響を及ぼさずにはおかなかったが、心理学および精神病理学もその例外ではなかった。アメリカの精神医学者ブロージンは一九六〇年にこう書いている──「精神科医をはじめ精神障害の研究者はチャールズ・ダーウィンの業績と進化論に敬意を表すべきであろう。もし彼の業績がなかったらわれわれの研究がいかなるものになっていたか想像もつかない」(1)。
そもそもダーウィン自身が卓抜した心理学者であった。ボウリングは今世紀の心理学の四天王として、フロイト、ヘルムホルツ、ジェイムズ、ダーウィンの名を挙げ、その四人のなかでもフロイトとダーウィンを最上位に置いている(2)。「ダーウィンは、進化論の理論家としての業績とともに、心理学者としての先駆的仕事によって、心理学の発展に大きな影響をあたえた」(3)のである。そればかりか、「ダーウィンの全思想体系の基底には心理学への関心があり」(4)、「彼が概括的な進化理論にまとめあげようとした主要なテーマは、それぞれ心理学上の一面を持っていた」(5)のである。
『種の起源』には人間およびその心についての記述はほとんどまったくない。その理由はしばしば彼の保守性あるいは「知的臆病」に帰せられるが、グルーバーによれば、「一八五九年には、彼は事実上、『人間の由来』やそれに続く『人と動物の感情の表現』の著述に必要な証拠や議論を整備する仕事をしてはいなかった」のであり、いっぽう「当時の時点からみれば、それ〔『種の起源』中の本能に関する一章〕は神の計画論によって論証された神の存在に対する、無作法で直接的な攻撃として読むことができた」のであり、折衷的態度は「来るべき彼の敵との衝突をやわらげようという願望から生じた」(6)のだ。
ダーウィンが人間を論じるのは『種の起源』(一九五九)の十年以上後に出版された『人間の由来』と『人間および動物における感情の表現』(この二冊はもとは一冊にまとめられるはずだった)においてであるが、彼はそれよりずっと以前、種の進化に関するノートをつけはじめてからちょうど一年後(一八三八・七・十五)に早くも、表紙に「Mノート」と記された、人間に関するノートをつけはじめている。このノート(および続きのNノート)は一九七四年に『ダーウィンの人間論』としてグルーバーによって出版されたが、それを読むとダーウィンの関心の幅の広さとその旺盛な観察意欲に驚かされる。
Mノートは形而上学のMであるが、Mノートの中程には次のように高らかと宣言されている──
人間の起源が証明されたいま、形而上学が栄えなければならぬ。ヒヒを理解する者はロックよりも形而上学に貢献するだろう(M、八四ページ)。
MおよびNノートで扱われるテーマはじつに多岐にわたるが、たとえば記憶について──
もしこのようにメロディーや言葉の記憶が、まったく意識にのぼることなく一生のあいだ眠っていることがあるとすると、きっと記憶が、ちょうど本能のように、意識されることなく世代から世代へと伝えられるとしても、それほど驚くべきことではないはずだ(M、七ページ)。
あるいは精神病理学について──
父にいわせると、健康な人と狂った人とはまったく程度の差にすぎない。だれでも時には狂うことがある、と(M、一三ページ)怒りの感情は、疲れているときにほとんど無意識のうちに湧きあがってくるものだが、これは狂気に似ている、と祖父は考えていた(M、一四ページ)。
あるいは人間の文明について──
人間の精神は動物の本能以上に完璧であるわけではない。したがってわれわれの起源はわれわれの悪しき情熱の起源だ! ヒヒの衣をまとった悪魔がわれわれの祖先なのだ!(M、一二三ページ)。
ある箇所では自分の夢を自分なりに分析したりしているが、その他、遺伝、環境、自由意志、美、想像力、音楽、詩、本能、知性、神の意志、思考、感情表現、白昼夢、幸福、情熱、道徳の起源、宗教と科学など、さまざまなテーマに関するメモが記されている。
Mノートの最後のページ(一八三八年十月初旬)には「赤ん坊の博物学」と記されている。今後の課題という意味で書かれたのであろうか。彼はすでに友人知人の子どもたちを観察していたが、三九年一月に結婚し、同年の十二月に長男ウィリアムが生まれると、本格的に乳児の観察に取り掛かり、生後三年間ずっと日記をつけ、その後次々に子どもが増えるにしたがって(十人生まれた)、その成長を比較研究した。じつは十九世紀後半には子どもの成長にたいする関心が急速に高まり、ダーウィンの観察精神はその流れにそったものだった(7)。イッポリト・テーヌが一八七六年に自分の娘の生後十八ヵ月間の成長報告をするまで、幼児に関する報告は、一七八七年に発表されたティーデマンのもの(これがヨーロッパで最初のものとされている)と一七九八年にイタールが発表した有名な『アヴェロンの野生児』以外はほどんど無かった(8)。一八七七年、テーヌの報告が、前年に創刊された『マインド』誌(世界最初の心理学雑誌のひとつ)に英訳掲載され、それに触発されたダーウィンは、四十年近く前の日記を引っ張り出してきて、同じ『マインド』に「幼児の伝記的スケッチ」を発表した。テーヌは、ダーウィン批判者マックス・ミューラーの説に触れている。言語学者ミューラーは、言語も思考(「発話されない言語」)もともに人間だけの特権であると主張したが、これにたいしてテーヌもダーウィンも人間と動物との間の連続性を強調している。サロウェイによれば(9)、ダーウィンの主張のなかでいちばん直接的にフロイトに影響をあたえたのは、子どもが示す恐怖のなかには遺伝によって受け継がれてきた太古の恐怖があるのではないかというダーウィンの主張である。アメリカのダーウィニスト心理学者スタンリー・ホールはこの考えを発展させて一九一四年に『恐怖の総合的発生論的研究』を出版するが、フロイトは『精神分析入門』のなかのフォビアについて論じた箇所で、ホールの説を引いたあとで、「チャールズ・ダーウィンは、自分を目がけて突進してきた蛇を見た時に、厚いガラス板で自分の身はまもられていることはよく承知していたにもかかわらず不安の情を仰えきれなかったと印象深く記載しています」(10)と述べ、「フォビアのこれらの内容の中には、スタンリー・ホールが強調したように、系統発生的な遺伝によって不安の対象となるのに適しているものが少なからず見出されます」(11)と結論づけている。
ダーウィン以後、児童心理学は急速に成長した(いうまでもなくピアジェはダーウィンの直線延長上にいる)。フロイトは一八九七年にフリースに宛てて、「最近は猫も杓子も児童心理学に熱をあげている。今日もまた新しい児童心理学の本が送られてきた。ボールドウィンのだ」(12)と書き送っているが、フロイト自身、いくつかのパイプを通じて、ダーウィンの心理学研究の影響をもろに受けていた。いくつかのパイプとは、フロイトが『性欲論三編』のなかで名を挙げているボールドウィン、グロース、サリー、プライヤーなどだが、その他とくに重要なのは『ダーウィンとダーウィン以後』全三巻の著者ジョージ・ジョン・ロマーニズである。
ダーウィンは死ぬ前に、心理学の分野における自分の未発表資料をごっそり若い友人ロマーニズに委ねたが、ロマーニズはそれを自分の著書『動物の知能の進化』(一八八三)、『人間の知能の発達』(一八八八)に取り入れた。フロイトは、おそらく一八九〇年代の初めに、後者を丹念に読んでいる(四三九ページのうち一一七ページに書き込みがあるという)。この『人間の知能の発達』のなかでとくに精神分析に影響をあたえたと思われる事項は幼児に感情が芽生える順序である。ロマーニズは細かいダイヤグラムを作成しているが、それによると性的情動は生まれてから七週間後に早くもあらわれる。驚きと恐怖はそれよりも早く生後三週間だが、恥や道徳感情はずっと遅く十五ヵ月後である。ロマーニズはこの性的情動の中身について詳しく述べてはいないが、これがフロイトの幼児性欲へのレール(の一本)を敷いたことは明らかだ(13)。
進化論と精神分析
フロイトの著作から、精神分析がダーウィンの影響をもろに受けていることを読みとることはさして困難ではない。後に述べるようにフロイトは著作のあちこちでそれを明言している。
何よりもフロイトの心理学は本能という生物学的概念にもとづいた心理学である。エレンベルガーによれば、「このタイプの心理学はガルとその追従者たちやJ・C・ザントルスといった若干の精神科医によってすでに明文化されていた。しかし、フロイトの本能論は、明らかにダーウィン由来である」(14)。
ただしここでダーウィンの影響というとき、このダーウィンは児童心理学のパイオニアとしてのダーウィンに限られるわけではないし、ダーウィン自身の思想と著作に限られるわけでもない。ダーウィンの大流行によって彼の祖父をはじめ進化論の先駆者たちの影が薄くなってしまい、いっさいの進化論に「ダーウィン」の名が冠せられ、その結果、ダーウィンは生きながらに伝説と化してしまったわけだが、ここでいうダーウィンもその意味でのダーウィンである。
※
一九七〇年、「フロイトが実際に所有していたダーウィンの著作は『人間の由来』だけだった」というジョーンズの記録を頼りにフロイトの蔵書を書斎を調査したルシール・リトゥヴォは、この本を発見できなかった代わりに、ダーウィンの著作を七冊──ヴィクトル・カールスによる独訳『人間の由来』、同じくカールスによる独訳『人間および動物における感情の表現』、一八七五年ロンドン版『虫媒における蘭のさまざまな工夫』、独訳ダーウィン全集第二巻『種の起源』、『植物界における他家および自家受粉の効果』、独訳ダーウィン全集第一巻『博物学者の世界旅行』、『飼育動物および栽培植物の変異』──見つけた。そのほとんどには署名あるいは日付が記入されていた(15)。
リトゥヴォによると、フロイトの著作にはダーウィンの名が二十回以上登場する。しかもダーウィンの名が否定的あるいは批判的に挙げられている例は皆無である(16)。フロイトにとってダーウィンは理想像のひとつだったのである。
たとえば『日常生活の精神病理学』では、不快な記憶は忘れやすいという事実について論じた箇所に、「偉大なダーウィンは、忘却には不快の動機が働いていることを洞察し、それから学問研究にたいする一つの『黄金律』を引き出している」という一節があり、その部分に付された註には、ダーウィンの自伝から次のような一節(これはジョーンズに教えられた)が引用され、「これは、ダーウィンの科学者としての良心や人間心理にたいする明敏な感受性を示すものであろう」と書き添えられている。
長年のあいだ、私は一つの黄金律にしたがったきた。すなわち、公にされた事実、あるいは新しい観察や意見が私の全体的な結論に反するような場合、私はすぐに、できるだけそのままの形でメモを取ることにしている。というのは、私は、そのような事実や意見は、私にとって有利な事実や意見より、はるかに忘れやすいことを経験から学んでいたからである(17)。
※
フロイトは『種の起源』が出版される三年前に生まれ(彼は文字通り進化論とともに成長したわけだ)、一八七三年にヴィーン大学医学部にすすんだ。『「素人による精神分析の問題」のためのあとがき』の頻繁に引用される一節によれば、「子どもの頃を考えてみると悩める人を助けたいという欲求があったという記憶はまったくない。()青年期に入って、私たちの住むこの世界の謎について幾許かなりとも理解したい、いやできるものなら自分でその解明に多少なりとも貢献したいという欲求を非常に強く感ずるようになった」(18)。そして、「その頃はやっていたダーウィンの学説がなにかしらこの世界を理解することをなみなみならず促進するものであることがはっきりしているもののようにみえて、私をいたくひきつけてしまった」(19)のだった。「ダーウィンの仕事がひきおこした興奮は、ヨーロッパのどの国でも七十年代に絶頂に達していた」(20)のである。
医学生フロイトにもっとも大きな影響力をおよぼした教授はカール・クラウスとエルンスト・ブリュッケであった。フロイトは初年度からクラウスの「生物学とダーウィン」の講義とブリュッケの「音声と言語の生理学」の講義をとっている(21)。ダーウィンがフロイトにあたえた影響に関して、ジョーンズはブリュッケの役割のほうを重要視しているが(22)、リトゥヴォはむしろクラウスの役割のほうが大きかったとする(23)。
カール・クラウスはダーウィンの支持者であったロイカルトのもとで動物学と比較解剖学、そして生物発生学をまなび、「個体発生は系統発生を繰り返す」というヘッケルのテーゼを叩き込まれた。クラウスの橈脚類(とくにケンミジンコ等)研究は、当時広く読まれ進化論の普及に貢献したフリッツ・ミューラー=デステロの『ダーウィンのために』を通じて、ダーウィン理論を裏付けるものとして高く評価され、ダーウィン理論に基づいたクラウスの『動物学教科書』は生前に十版を重ねた。
クラウスは、フロイトがヴィーン大学医学部に入学したその年に、動物学科の近代化をはかるため──つまりダーウィン理論に沿って作り変えるため──ゲッティンゲンからヴィーンに呼び寄せられた。
彼〔クラウス〕はことに海洋動物学に興味があり、一八七五年トリエステにこの種のものでは世界最初のものの一つである動物学実験所を設立することを許されていた。一年に二度、二、三人の学生を勉強と研究のために数週間トリエステにやる資金が彼の自由に任されていたのである。一八七六年三月、この奨学金を最初にあたえられた者の一人が若きフロイトであった。明らかに先生は彼のことをよく思っていたのである(24)。
このクラウスからフロイトは「個体発生は系統発生を繰り返す」いうテーゼを叩き込まれたのである。
じつはフォン・ベーアはダーウィンよりはるか以前(一八二八)にこのテーゼを否定していた。それにもとづいてブリュッケの師ヨハネス・ミューラーもその『生理学』第二版から反復説を削除したのだったが、ダーウィン以後、進化論者たちの手によって復活したのである。ラブジョイの言葉を借りれば──
〔もしダーウィンが〕フォン・ベーアの著作を読み検討していたら、あるいは発生反復説を生物進化の証拠の一つとするのを諦めていたかもしれない。いやもっとありそうな可能性としては、彼はたぶんそれに修正を加えるに留まったことだろう。もしダーウィンがそのいずれかをしていたなら、彼の後継者たちも同じことをしただろう。ところが彼は反復説を捨ても修正もしなかったので、この論は本来の形そのまま、一世紀近くにもわたって生物学に確固たる位置を占めることになったのである(25)。
反復説はあまりに魅力的であったため、生物学者たちはなかなか捨て去ることができなかったわけだが、とくにフロイトは反復説にたいする疑問が提出されるようになっても(ド・ビーアの『発生学と進化』が一九三〇年)、「個体発生は系統発生を繰り返す」というテーゼへの信仰を捨てなかった。
さてフロイトはブリュッケの生理学研究室に入るが、そこは医学におけるヘルムホルツ学派の牙城であった。「有機体の中には普遍的な物理・化学的な力以外にはいかなる力も働いていない。今日この力によっては説明し得ぬ場合においても物理・化学的方法によってそういう力の作用の様相と形成の特殊なものを見出すか、または、引力と斥力の力に還元し得て、かつ物質に内在する新しい力で、物理・化学的力とひとしい尊厳をもつものを想定せねばならぬ」(26)というのがブリュッケ、デュ・ボア・レーモン、ヘルムホルツ、カール・ルートヴィヒらの信念であった。ただ彼らは進化論に近い立場にいたにもかかわらず、進化論にたいしてはきわめて慎重で、ブリュッケの著書にも、その助手でありフロイトの同僚であったエクスナーやフライシュルの論文にも、ダーウィンの名はいっさい登場しないし、当時進化論の立場から問題にされていたようなテーマもいっさい扱われていない(27)。フロイトがこの研究室での研究をもとに発表した生物学論文には明らかに反復説の影響がみられるが、ブリュッケは厳しい教師であった反面、弟子たちがかならずしも自分と同じ考えでなくともそれをどうこういう教師ではなかった。
ブリュッケの研究室でフロイトが研究したのはヤツメウナギの脊髄神経細胞やザリガニの神経細胞であり、一見すると後年の精神分析とは縁が遠いように思われるが、ジョーンズの言葉を借りれば──
フロイトの心理学上の理論は彼がシャルコあるいはブロイアーと知り合ったころ、あるいはそれよりもっと後になってはじまるとしばしば考えられている。だがそれどころか、彼が自分の理論の基礎とした原則はブリュッケの影響下にあった医学生として学んだものであったのである。この影響からの解放はその原則を捨てることにあったのではなく、解剖学的な基礎を欠いていてもその原則を経験的に精神上の現実に応用できるようになることにあったのである(28)。
そしてもちろん当時は、ダーウィン説の流行により、下等動物と人間とは連続線上にあり、下等動物の研究は人間の研究に貢献するはずだ、と考えることは普通だったのであり、ギムナジウム時代からダーウィンの洗礼を受けていたフロイトの頭にそうした考えが無かったとは考えられない。
※
フロイトによるダーウィン引用のなかで時期的にもっとも早いものはブロイアーとの共著『ヒステリー研究』(一八九五)におけるそれである。「エミー・フォン・N夫人」の症例について論じた部分に次のような一節がある。
フォン・N夫人が示した顕著な運動現象の一部は、たんに感情の動きの表現にすぎないものであって、その意味するところは容易に知ることができた。たとえば恐怖の表現としては、両手をひろげ指を曲げて、前方につきだす動作をしたし、顔の表情その他などでも表現した。むろんこれは、この夫人の他の身振り、彼女の教育、彼女の素性などにふさわしいよりももっと活発でもっと自在な感情運動の表現である。彼女はヒステリー状態に陥っていない場合には、表現運動をするのに慎重で、ほとんど堅苦しいくらいだった。彼女の運動性症候の部分は、彼女の言い分によると苦痛に直接の関連をもっており、彼女が休みなく指をもてあそんだり(一八八八年)、あるいは両手をするあわせたり(一八八九年)したのは叫び声を立てないですまそうとするためであった。この動機づけは、表現運動を説明するダーウィンの原理の一つをまざまざと思いおこさせる。すなわちそれによってダーウィンが、たとえば犬が尻尾を振る動作などを説明した「興奮転動」の原理である。苦痛のある刺激を受けた時、叫び声を発するかわりに他の運動神経を用いるのは一般にわれわれがみんな行なうことである。歯科医のところで、頭と口をじっとさせておき、両手をそこにあげまいと心にきめると、その人は少なくとも足をばたばたさせるのである(29)。
フロイトが念頭においているのはいうまでもなくダーウィンの『人間および動物における感情の表現』(第三章)である。刺激が他の運動神経に転移するということは、患者の感情表現を観察する際に当座の関心箇所のみに関心を集中してはならないということであり、精神分析の方法が、普通なら見落としてしまうようなわずかな特徴に着目して複雑な問題を解いていくというシャーロック・ホームズの推理法と本質的に同じだということが思い出される(30)が、実際、ダーウィンの感情表現研究もホームズ流の鋭い観察による資料集積に基づいていたのである。
さて、『トーテムとタブー』で提出されたかの悪名高き仮説もまた、直接ダーウィンの仮説の延長線上にある。ダーウィンは『人間の由来』のなかでこう述べている──
〔〕自然状態において乱行がおこなわれるということはありえないと、はっきり結論してよかろう。〔〕男は大昔にはそれぞれ一人の妻、あるいは、男がもし強ければ何人かの妻といっしょに、小さな共同体のなかで生活していたもので、自分の妻を自分以外のすべての男たちにとられないように嫉妬深く守っていたのだという見方が、いちばん真実に近いのではなかろうか(31)。
フロイトは、このダーウィンの仮説を一歩すすめたアトキンソンの仮説、すなわち「兄弟たち若い一団は強制的に独身生活を守るか、もしくはせいぜい一人の捕虜の女と一妻多夫的関係を結ぶかして共同生活を送っていた〔〕が、時とともに強さをますと、くりかし集団攻撃を加えることによって、暴君の父親から妻も命も奪いとることになったのは、やむをえないことであった」という説、および「ふだん禁じられているトーテム動物を秘蹟的に殺して、みんなで食べてしまうことが、トーテム宗教の重要な特徴であった」とするロバートソン・スミスのトーテミズム論を援用し、さらにそこに、動物恐怖症はオイディプス・コンプレックスによるものであるという、「小さなハンス」の症例から得られた結論を加え、次のような「恐怖小説」(32)を語る。
ある日のこと、追放された兄弟たちが力をあわせ、父親を殺してその肉を食べてしまい、こうして父群にピレオドをうつにいたった。彼らは団結することによって、一人ひとりではどうしても不可能であったことをあえてすることになり、ついにこれを実現してしまう。〔〕暴力的な父は、兄弟のだれにとっても羨望と恐怖をともなう模範であった。そこで彼らは喰ってしまうという行為によって、父との一体化をなしとげたのである。父の強さの一部をそれぞれが物にしたわけである。おそらく人類最初の祭事であるトーテム饗宴は、この記憶すべき犯罪行為の反復であり、記念祭なのであろう。そしてこの犯罪行為から社会組織、道徳的制約、宗教など多くのものが始まったのである(33)。
むろんこれを証明できるはずもない。が、フロイトがこの説を発表したのは、「進化論によって世界や宗教を解明しようと猫も杓子も躍起になり、発見熱にうなされて、宗教史の発達の諸段階やら詳細な発達の図式の大胆な仮説が百出し、宗教の第一段階はアニミズムやトーテミズムであると無頓着に主張できる時代だった」(34)のである。ここに見られる原始人類の描写はダーウィンの著作のなかで頻繁に出会う、「原始人類はだっただろう」といった類の叙述にそっくりで、時代を感じさせる。その文脈から切り離してしまうと、なんともナンセンスだということになる。むろん事態はその後変化したが、フロイトはいわば時代の波には無頓着で、自説を曲げようとしなかった。
フロイトは『トーテムとタブー』において、宗教の起源はオイディプス・コンプレックスであるという説に歴史的裏付けをあたえようとした。その説はすでに出来上がっていた。彼はすでにレオナルド論のなかで、「精神分析は父親コンプレクスと神信心との密接な関係の存在を教えたし、また、人格神とは心理的には父親の高められた存在に他ならず、父親の権威が崩れるや否やいかに速やかに若者たちが信仰を失っていくとかを、日ごとわれわれに示している。かくてわれわれは両親コンプレクスの中に宗教的要求の根を認め知るのである」(35)と述べている。この背景に「個体発生は系統発生を繰り返す」というテーゼがあることはいうまでもない(しばしば指摘されるように、ここでは、オイディプス・コンプレックスは原父殺しの再演であるという仮説と、オイディプス・コンプレックスから宗教が生まれたとする仮説とが、循環論法になっている)。
精神分析学説のなかでもとくに批判の的となる、口唇期、肛門期という子どもの心的・性的発達段階も、また、固着、退行、初期印象への固執といった発達上の返説も、「個体発生は系統発生を繰り返す」というテーゼから出てきたものである。フロイト自身がはっきりそう述べている。たとえば──
自我の発達とリビドーの発達との両者を評価しようと思うならば、われわれは、まず前もってこれまでまだその価値があまり認められなかった一つの観点についてお話ししておかなければなりません。この両者は根本において、人類全体の非常に長い年代をへた、その原始時代からの発達の遺産であり、短縮された形でのそれの反復なのです。リビドーの発達にはこの系統発生的な由来がたやすくみられると私は考えたいのです。ある種の動物では、性器と口とは密接な関連をもっており、また他の種の動物では、性器が排泄器官と分離していませんし、さらに別の種属では、性器が運動器官と結びつけられているということを考えてみてください。このようなことについては、ベルシェのすぐれた著書の中に、興味深い記述がなされています(36)。
ここに出てくるベルシェとは、ヘッケルの反復説と腸祖動物説の普及にもっとも貢献した大ベストセラー『自然界の愛の生活』の著者である。
ベルシェはその性進化論において、まずヘッケルの原始ガストレア(腸祖動物)から出発する。ベルシェによれば、ガストレアの表皮が陥入して口、排泄腔、次いで生殖器ができた。もっとも原始的な愛の形は食べることであり、生殖とは二つの生体の合体だった。それがやがて不都合になり、局部に限定された性細胞の結合がおこなわれるようになる。はじめは肛門と肛門をくっつけていたが、やがてそれよりも効果をあげるため、ペニスとヴァギナができた。すなわち性の進化は生殖器官の局部化の過程である。だが人間でも原始動物時代の名残りがあり、生殖器以外でも全身いたるところで軽い快感が味わえるのはそのためである。ベルシェは人間の発達については詳しく論じていないが、幼児の行動もこうした生殖発生論的にみなければ理解できないと考えていた。フロイトはベルシェの幼児発達理論に性的要素を盛り込みさえすればよかったわけだが、そう考えていたのはフロイトだけではなく、世紀の変わり目には、幼児性欲を認めていた多くの研究者たちが、その説を生物発生説によって正当化しようとしていたのである。フロイトの初期の弟子のひとりシュテーケルもフロイトに会う以前からそうしたことを試みていたし、リビドーの発達段階説にもっとも大きな影響をあたえた弟子アブラハムはかつて発生説論者であった。精神分析にたいする批判者は、フロイトが幼児におけるセンシュアルなものとセクシュアルなものをいっしょくたにしていると批判するわけだが、反復説信者であったフロイトにすれば、原始動物において口は生殖器だったのであるから、幼児が乳を吸うときの快感は性的快感以外の何物でもない、そうとしか考えられなかったのである(37)。
また、フロイトは「固着」なる概念についても、ブリュッケの研究室でのヤツメウナギの研究を例に引いて説明している。彼がブリュッケからあたえられた課題は、アンモコエテス(ヤツメウナギ等)の脊髄に散在する大きい特殊な「ライスナー細胞」の性質を調べることであった。当時、下等脊椎動物の脊髄の神経細胞は両極であり、高等脊髄動物の場合はもっぱら単極であると考えられていた。フロイトはヤツメウナギの脊髄がその両方の神経細胞をもっていることを発見し、さらに、ライスナー細胞もまた神経細胞であるが、脊髄内にとどまっているのだ、ということを明らかにした。また、脊髄の表面、後部の神経根と表面の神経の間にライスナー細胞に似た細胞を発見し、これは中枢神経と表皮細胞の間の進化のリンクであると推論した。彼は『精神分析入門』のなかで、このヤツメウナギにおける発見について述べたあとで、「固着」について次のように説明している──
そこでわれわれはずばりと、性の欲求のある部分は最後の目標に到達しているのに、他のある部分が発達の比較的初期の段階にそのまま取り残されているということが、どの性の欲求にとっても可能なのだといいたいのです。〔〕部分欲求が初期の段階に停滞することが固着(すなわち欲動の固着)と呼ばれてしかるべきだということだけは、ここで確認しておきましょう(38)。
「退行」概念についても、フロイトはやはり生物発生説にもとづいて論じている。
彼は先に述べたように、「個体発生は系統発生を繰り返す」というテーゼに疑問が投じられるようになっても、このテーゼに疑いを抱かず、このテーゼが決定的に危うくなる前に世を去った。
※
フロイトは死ぬまで忠実なダーウィン崇拝者であった。
一九三八年六月二十八日、ナチスの手を逃れロンドンについて間もなく、死の前年のフロイトはアーノルド・ツヴァイクに宛てた手紙のなかで、自分がニュートンやダーウィンと並んで王立協会の名簿に名を列ねることができた悦びを素直に書き綴っている──
いちばん嬉しかったのは王立協会の秘書官二人の訪問を受けたことです。〔膀胱が〕また痛みだして外出できないので、王立協会の貴重な署名帳をもってきてくれたのです。ファクシミリ版を置いていってくれたので、もしあなたがここにいれば、アイザック・ニュートンからチャールズ・ダーウィンにいたる面々の署名をお見せすることができるのに。なんと素晴らしいお仲間たち!(39)。
註
(1) Brosin, p.373.
(2) Boring, p.743.
(3) グルーバー、三四八ページ。
(4) Ghiselin, p.964.
(5) グルーバー、三四八ページ。
(6) 同右、三六九ページ。
(7) Sulloway, p.244.
(8) グルーバー、三五六ページ。
(9) Sulloway, p.245.
(10) 『精神分析入門』、著作集1、三二八ページ。
(11) 同右、三三八ページ。
(12) Bonaparte et al p.228.
(13) Sulloway, pp.247-8
(14) エレンベルガー、上、二七五ページ。
(15) Ritvo, 1972, p.277.
(16) Ritvo, 1974, p.177.
(17) 『日常生活の精神病理学』、著作集4、一二九ページ。
(18) 『「素人による精神分析の問題」のためのあとがき』、著作集11、二三〇─一ページ。
(19) 『自己を語る』、著作集4、四二三ページ。
(20) ジョーンズ、四三ページ。
(21) 同右、四六ページ。
(22) 同右、四八ページ以下。
(23) Ritvo, 1972, p.278.
(24) ジョーンズ、四七ページ。
(25) Lovejoy, p.442.
(26) ジョーンズ、四八─九ページ
(27) Ritvo, 1972, p.278.
(28) 同右、五〇ページ。
(29) 『ヒステリー研究』、著作集7、六四─五ページ。
(30) このことについては、マイケル・シェパード『シャーロック・ホームズとフロイト』(富山訳、『へるめす』一九八七年二月、七七─九五ページ)に詳しい。
(31) 『人類の起源』、五二七ページ。
(32) Eliade, p.24.
(33) 『トーテムとタブー』、著作集3、二六五ページ。
(34) Kung, p.318.
(35) 『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』、著作集3、一三六ページ。
(36) サロウェイはこれらの概念の由来に関して、フロイトとその先行者との関係を丹念に調べあげている。以下の記述はこのサロウェイによる。また、本稿全体にわたってサロウェイの名著『フロイト』に多くを負っていることを明記しておく。
(37) 『精神分析入門』、著作集1、二九二─三ページ。
(38) 同右、二八〇─一ページ。
(39) Freud, E. (ed.), p.183.
引用文献
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Sulloway, Frank J: Freud, Biologist of the Mind, Beyond the
Psychoanalytic Legend, New York, 1979, 1983.
ダーウィン『人類の起源』、池田・伊谷訳、中央公論社、世界の名著50。
「フロイト著作集」、人文書院。
エレンベルガー『無意識の発見』木村・中井監訳、弘文堂。
グルーバー『ダーウィンの人間論』江上・月沢・山内訳、講談社。
ジョーンズ『フロイトの生涯』竹友・藤井訳、紀伊国屋書店。
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