海外文学/その愛の表現をめぐって
 (国文学 1991/1)

 編集部から私にあたえられたテーマは「海外文学・その愛の表現をめぐって」という、思わず目の眩むような、茫漠としたものである。現代文学に的を絞れとのことであるが、それでも、海外文学とはつまり日本以外の文学すべてということだから、広大なテーマであることに変わりない。そのすべてをカバーしようとしたら、書名を挙げるだけで紙数が尽きてしまうだろうし、そもそも筆者にはそんなリストを作成できるだけの読書量はない。そこで、ここ一、二年さかんに翻訳されているアメリカの若い世代の作家のものに焦点を絞ることにしたが、それでも、以下に述べることはけっして全般的傾向などというものとは程遠いことをあらかじめお断わりしておく。

 ルージュモンいわく、「幸福な恋愛には波瀾がない。死にみちびく恋愛、いわば人生そのものから脅かされ、非難された恋愛にしか物語はないのだ。恋愛をたかめるものとしての西欧の抒情性は、官能の快楽でも、夫婦のみのりゆたかな平安でもない。みちたりた恋愛ではなくして、恋愛の情熱である。そして情熱は苦悩を意味する」。かくして「幸福な恋愛は、西欧文学の中では歴史をもたない」ということになる。だが、これは『トリスタンとイズー』とか『嵐が丘』のような、いわば不朽の恋愛文学とでも呼びうるようなものにのみあてはまることであって、実際には恋愛文学の幅はもっと広い。
 とはいえ、恋愛小説の主流が姦通小説、今風の言葉でいえば「不倫」小説であることには変わりない。いうまでもなく、姦通のヴォルテージが高まるためには夫婦という制度が強固でなければならない。いや、いったいに恋愛は反社会的なものである以上、社会の価値観が強固でないかぎり、激しい恋愛は、そして恋愛小説は生まれない。
 大雑把にいえば、一九六〇年代を境にしてアメリカ社会は根本から変わってしまった。古き良きアメリカは姿を消し、多様に分裂した社会に取って代わられた。そうした社会に大恋愛などがあるはずがない。少なくとも大恋愛小説は存在しえない。マキナニーの『ストーリー・オブ・マイ・ライフ』の主人公アリスンはいう、「あれ、あたし、愛なんて言った? さっさと石鹸で口を洗わなくちゃ」。

 アメリカの現代小説を読んでいると、結婚は離婚するためにあるのではないか、とか、結婚生活は浮気をするためにあるのではないかという気がしてくる。そんな中で、ジョン・アーヴィングの『一五八ポンドの結婚』は比較的「古典的」といえよう。これはある意味で姦通小説である。
 三十八歳の「僕」は大学で歴史を教えている。ウィーンで知り合った女性ウチと結婚し、息子が二人いる。同僚のセイヴァリンはドイツ語の準教授で、レスリング部のコーチをしている。彼もまたウィーンで知り合った女性イーディスと結婚し、娘が二人いる。倦怠期にあるこの二組の夫婦が、イーディスの提案で「夫婦交換」を始め、四人とも奔放なセックスを楽しむ。夫婦交換は参加者の合意にもとづいているわけだから、その限りにおいて姦通とはおよそ別物だが、どうしてもそこに愛憎がからんできて、姦通の様相を呈してくる。すなわち、「僕」はイーディスを愛するようになり、妻のウチはセイヴァリンを愛するようになる。
 そもそもイーディスが夫婦交換を提案したのは、以前浮気をしていた夫のセイヴァリンに復讐するためだった。それを知らされた「僕」は失望し、だまされたのだという被害者意識をもつようになる。結局、セイヴァリンたちは崩壊寸前までいくが、夫婦関係を修復しようと再出発する。いっぽう僕のほうは、セイヴァリンに心を許したとして、妻を傷つけようとする。妻はそんなエゴイスティックな「僕」に愛想をつかし、子どもを連れて出ていってしまう。
 アーヴィングの作品は、『ガープの世界』にしても『ホテル・ニューハンプシャー』にしても、かなり大きなテーマにじっくり取り組むが、この作品も、結婚の倫理に問いを投げかけている。ということは、ここでは結婚とか夫婦関係といったものがまだまったく無意味なものにはなっていないわけだが、他の多くの作家たちの場合には、夫婦も恋愛ももっと根拠の薄弱な刹那的なものになっている。

 カーヴァーとともにニューリアリズムの旗手と呼ばれるアン・ビーティは来日した際の講演で、「愛にたいして私はけっして悲観論者ではありません」と語ったというが、裏返せば、彼女の小説では愛がつねに悲観的に描かれている、少なくとも読者はそう読んでいるということである。実際、彼女の作品ではすべての男女関係が不安定だ。
 結婚生活は長続きしないのが当たり前のようになっている。『カード』という作品では、「私」と女友達のジョシーがレストランでおしゃべりをしているが、「シカゴからニューヨークに引っ越してくるあいだに、そしてフィリップ・ヌーヴェヴィルと一緒に暮らしはじめる直前に、ジョシーは結婚前の姓に戻っていた」し、「ネッドと私は離婚してからもう三年になる」。『ハイスクール』の語り手はある男性と「一年間一緒に暮らした」。『あなたが私を見つける所』の語り手の兄ハワードは、「六年間、オレゴンで青白い顔をした従順な女と暮らした。その反動で、次はフランシンという、もっと青白い顔をした医学生と結婚した。その結婚は一年もつづかず、ロスアンゼルスのブラインド・デイトで彼はケイトに会った。ちょうどそのとき、彼女の夫はデンマークに出張中だった」。この一節が強調しているのはハワードが移り気な男であることではなく、結婚の不安定性である。
 しかも結婚は長続きしないだけでなく、結婚生活そのものが不安定である。いわゆる不倫もめずらしくない。「ドゥルーの従兄のハワードは、ニューヨークで暮らしているとき、ある既婚女性と長いあいだ関係をもっていた」(『コニーアイランド』)。『あなたが私を見つける所』のハワードも、同僚の教え子である大学院生と束の間の恋をし、妹に「俺、ある女が好きになってしまったんだ」と打ち明ける。『今度はいつ会えるの?』のマーサも以前、結婚している男性と付き合っていた。みんなが、不倫をするために、あるいは離婚するために、結婚している。いや、結婚にかぎらず、男にとっても女にとっても恋は束の間のものにすぎず、現代に大文字の恋愛などもはや存在しないのだということを痛感させる。『あなたが私を見つける所』の語り手は、レストランで会った見知らぬ男のことが忘れられないでいる。右に名をあげたマーサは三十六歳の女性だが、「まだ一度も寝たことがないのに、彼女が真剣に愛せると確信を持てた初めての男」アーニーは、マーサより十五歳年下のロック・ギタリストだ。この恋が長続きしないだろうということは読者にもよくわかる。束の間の真の恋(それは錯覚かもしれないのだが)と、人生の一コマを短編小説によって固定しようとするビーティの方法意識とが、うまく重なり合っている。(ここで例に取り上げた作品はすべて『あなたが私を見つける所』[道下匡子訳、草思社]に収録されている。)

 ビーティの作品の主人公たちは、作者と同じくだいたい一九四〇年代半ばの生まれ、ちょうど日本の団塊の世代にあたる。激動の六〇年代に青春を過ごしている。ではもっと下の世代、アメリカの「新人類」の恋愛はどうなるのだろう。
 トム・レオポルドは、「八〇年代のサリンジャー」と呼ばれる作家の一人だ。年齢不詳だが、三十半ばだろうと言われている。そのレオポルドの『君がそこにいるように』(岸本佐和子訳、白水社)は、いわば裏返しの恋愛小説になっている。「僕」は役者の卵だ。以前、レベッカという女性と一緒に暮らしていた。「僕も彼女も二十一で、彼女のほうはすでに二年間の結婚生活と離婚を経験していた」。「僕は彼女の存在そのものに恋していた」。だが八カ月で破局がおとずれた。「レベッカとの別れはレンガでできた壁のようなもので、僕の加速度的にコントロールを失っていった人生は、その壁に激突してぐちゃぐちゃに潰れていた」。彼は精神分析家の助けでかろうじて立ち直った。いま、付き合っている女性がいるが、その女性のことをそれほど愛してはいない。その彼のところに、ある男から電話がかかってくる。その男は「メアリの長年のボーイフレンド」で、「メアリが僕の前につき合っていて、僕と別れたあとにまた戻っていった相手」だ。彼は、メアリが自殺したことを知らせるために電話をしてきたのだ。「あなたは気づいていないかもしれないけれど、あなたのせいなのだから」という遺言めいた手紙が届いたために、僕は自責の念に悩む。だが、メアリの死を知らせてきたボーイフレンドが、嫉妬にかられて、メアリの詩の最後の部分だけを送ってきたのだということがわかる。じつはメアリは僕を深く愛していたのだ。
 先に「裏返しの恋愛小説」と書いたのは、愛する相手がすでに死んでいて、しかもその女性は心を病んでいたからである。この小説は、そういう相手としか恋愛は成立しないのだと言わんとしているようだ。

 やはり「八〇年代のサリンジャー」と呼ばれるジェイ・マキナニーの『ストーリー・オブ・マイ・ライフ』(宮本美智子訳、新潮社)は、語り手アリスンとディーンという男性との恋の物語なのだが、私たちが恋愛小説と聞いて思い浮かべるものとはおよそ違っている。二人が初めて出会う場面にしても、こんな具合だ。「彼が自分の名前はディーン・チェイスンだって言ったので、あたしはアリスン・プールよ、って言った。これはちょっとしたもんよ---つまり、何かしっくりこない男だなって思うと、あたし、だいたい名前なんかウソっぱちしか言わないもんね」。「あたしの場合、いつもだと、男と出会うとものの三秒もしないうちに、彼のアレってどれぐらいの大きさだろうって想像しちゃうわけ」。「でも、とにかく、あたしはディーンと話したり彼の言葉を聞くのに夢中だったじゃない。だから、彼が長くてきゃしゃな手の持ち主だったことに気づくだけでも何時間もかかっちゃった、って感じよね。それでさ、彼と初めて寝た後、すぐさまディディに電話して言ったの、ほっそりした指は必ずしもあんたが考えてるようなもんじゃないよって」。
 この小説は全編これセックスとドラッグに明け暮れる。それでも、嫉妬のような、恋愛につきものの古典的な感情が登場しないわけではない。主人公は、「だいたいね、どうしてセックスを感情とすぐ結びつけなきゃいけないの? そんなの変だ。セックスなんて、夜になって、ただ肌と肌をこすりっこするだけの話じゃない?」と言いつつも、完全にドライにもなれない。「いったいあたしは何をしてるんだ? こんなの、あたしらしくないじゃない。だれか別人だ。あたしはもう三日間もすっかりのぼせあがったまま、やきもちやきの女房みたいなことをやっている」。
 こうした若い主人公が結婚や恋愛にたいする幻想を抱いていないのは親のせいだということが、暗に仄めかされている。アリスンの父親は五回も結婚し、いまはアリスンより一つ年下の愛人にベンツやコンドミニアムを買いあたえている。母親も、自分のボーイフレンドのことを話したくてアリスンに電話してくるような女性だ。こうした親をみて育った世代が、結婚や恋愛に幻想を抱くはずがないのだ。
 現代小説と恋愛小説の二つはたがいに相いれないものである。現代でも、たとえば初恋を描いた古典的な小説が書かれてはいるが、それはまさに昔と同じ----というか時代を越えた----テーマを追っているという意味で「現代」小説ではない。現代の恋愛小説とは恋愛の崩壊を描いた小説のことなのだ。