ジョイスとユング

(プシケー第6号 1987)

 『フィネガンズ・ウェイク』に出てくる小学生たちの作文の題のひとつに『アニムスとアニマの共学は本当に望ましいか』というのがある。「アナマ・アナマバ・アナマバパ」なんていう言葉も出てくる。これらはジョイスがユングの心理学をいくばくか理解していたことを示しているが、じつは、このふたりの偉大な開拓者は、ほとんど袖擦り合う程度にしかすぎなかったとはいえ、一度は『ユリシーズ』をめぐって、一度はルチア・ジョイスをめぐって、「接触」しているのである。
 この小文はユング心理学を応用してジョイスの作品分析を試みるといった類のものではない。また、ユングの『ユリシーズ』論の検討でもない。私には『魅せられたサークル----ガートルード・スタインとその仲間たち』のジェイムズ・メロウ、あるいは『ニジンスキー』のリチャード・バックルのような大志も精力も持ちあわせていないが、ここ数年、精神分析を文化史の流れのなかに、とりわけ二十世紀初頭のヨーロッパの文化芸術的シーンのなかに置いてみるという作業に取り組んでいて、この小文もその作業の(ほんの小さな)一部であり、ジョイスとユングの(かすかな)触れ合いとそれを包んでいた雰囲気を多少なりとも描き出すことが目的である。

 『ユリシーズ』の最後のページには「トリエステ=チューリヒ=パリ」と書かれている。『失われた時を求めて』とともに今世紀の文学の方向を決定づけたこの作品はトリエステで着手され、チューリヒで書き継がれ、パリで書き上げられたのである。ジョイスが執筆に取り掛かったのは、一九一四年三月のこと。翌年ジョイス一家はスイスに移住した。第一次大戦中、スイスが芸術家たちの避難所だったことは周知の通りである。大戦終結後の一九年、後に述べるようにマコーミック夫人の援助を打ち切られたジョイスはトリエステに戻り、その翌年にはパリに居を移した。『ユリシーズ』は一九二二年二月二日、ジョイスの誕生日にパリで出版された。初版は一千部だった。
 ジェイムズ・オーガスタ(オーガスティン)・アロウイシャス・ジョイスは周知の通りダブリンで生まれたが、二十歳のとき、医学を志してパリに渡った。翌年、母が病気になったため、ダブリンに戻ったが、母は数カ月後に亡くなり、その翌年ふたたびアイルランドを離れた。チューリヒのベルリッツ語学スクールの教師になる予定だったのだが、手違いで職にありつけず、イタリア領パウラ(現在ユーゴスラヴィア領プーラ)にあるベルリッツ・スクールの教師になり、翌年、トリエステのベルリッツ・スクールに転任になった。ジョイスは外国人に英語を教えて生計を立てていたのである。翌一九〇六年にはローマに居を移し、銀行員になったが、一年足らずで辞め、トリエステのベルリッツ・スクールに戻った。が、これもすぐに辞め、個人教授に転じた。一九〇九年にはダブリンに戻って今度は映画館の経営に乗り出したが、すぐに飽きてトリエステに戻った。
 トリエステ滞在中、ジョイスはフロイトの『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある記憶』、ジョーンズの『「ハムレット」とオイディプス・コンプレックスの問題』、ユングの『個人の運命における父親の重要性』の三冊(いずれもドイツ語)を所有していたことがわかっている。ジョイスは彼から英語を習っていたユダヤ人富豪エットーレ・シュミッツから精神分析なるものを教えられたのだろうと考えられている。シュミッツは船体に塗る腐食防止用ペンキ製造会社を経営していたが、事業は大当たりし、ヨーロッパ中のシェアを握っていた。イタリア国内だけでなくイギリスのデットフォードにも工場をもっていたので、自分の英語に磨きをかけようと、ジョイスを個人教授に雇ったのである。じつはシュミッツはすでに匿名で二冊小説を出版していた。まるで反響がなかったために筆を折ってしまったのだが、それを読んだジョイスから誉められ、ふたたび筆をとる意欲が湧いてきたのだった(一九二四年、シュミッツが『ゼーノの告白』を出版した際、ジョイスは評論家に推薦してまわった)。ジョイスも自分の原稿をシュミッツに読んでもらい、感想を聞いて、意欲を掻きたてられたりしている。つまり、この人物はジョイスの人生においてきわめて重要な役割を演じたひとりなのである。『ユリシーズ』の主人公レオポルド・ブルームは、むろんジョイスの分身でもあるが、シュミッツとの共通点も多い。このシュミッツの甥エドワルド・ヴァイスはフロイトの弟子で、イタリアに精神分析を紹介した精神科医だったので、ヴァイス----シュミッツ----ジョイスという経路が想定される(これがジョイスと精神分析を結ぶ第一の糸)。後にチューリヒに移ったジョイスはオットカーロ・ヴァイスという親友を得るが、これはエドワルドの弟である。オットカーロはチューリヒ大学に留学していたが、兄からフロイトについていろいろ聞いていて、またユングとも面識があったので、精神分析をめぐってジョイスと盛んに議論したらしい(第二の糸)。
 また、トリエステでの教え子にパオロ・クッツイという弁護士がいた。彼はシュミッツからジョイスのことを聞き、一九一一年から一三年までジョイスの英語のレッスンを受けた。クッツイの回想によると、最初はベルリッツの教科書を使ったが、すぐにボズウェルの『サミュエル・ジョンスン伝』を読み始めたという。だがレッスンの大部分は会話というかフリー・ディスカッションで、二人はじつにさまざまなテーマについて議論したらしい。フロイトもそうしたテーマのひとつだったというが、「ナポリの哲学者」ヴィーコのほうがはるかに偉大だというのがジョイスの意見だったようだ(第三の糸)。
 そのヴィーコの哲学の影響がつよく見られるといわれる世紀の奇書『フィネガンズ・ウェイク』は題名の通り夜の物語であり、夜のことば、夢の言語で書かれている。作者ジョイスが精神分析に興味をもったのは当然といえようが、作家としてフロイトの還元主義的傾向に嫌悪をおぼえたことも当然だといえよう。
 その後チューリヒに移ったジョイスは、一九一八年二月、ある銀行の店長に呼ばれ、会いに行ってみると、こう言われた。「当行のお客様のなかに、あなたのお仕事にたいへん興味をもっているお方がおられまして、その方が、あなたが財政的にたいへん窮乏なさっていることを知って、援助したいと仰るのです。来月から毎月一千フランお受け取りになれます」。援助を申し出たのは、チューリヒに住むアメリカ人、ハロルド・マコーミック夫人であった。夫のマコーミックも大富豪だったが、イーディス・マコーミック自身もジョン・D・ロックフェラーSrの娘で、ジョイスだけでなく数多くの芸術家を援助していた(じつはジョイスは前年からロンドンに住む匿名の後援者から経済的援助を受けていた。これはのちに「エゴイスト」編集長ハリエット・ウィーヴァであることがわかったが、この援助はマコーミック夫人の場合と違ってジョイスの葬儀まで続いた)。
 いったいに今世紀初頭(に限らないが)の芸術を調べていると、じつに多くのパトロンたち(とくに女性)の名に出会う。たとえばバレエ史上最強のバレエ団であるバレエ・リュスは、ミシン王シンガーの娘であるエドモンド・ド・ポリニャック夫人をはじめ、パトロネスたちのおかげで活動を続けることができたのである。ココ・シャネルのように一代で富を築いた女性もいるが、多くは親から譲り受けた莫大な財産を自分の自由にすることができ、それを芸術家たちに注ぎ込んだのである。余談ながら、芸術家への援助が盛んでないわが国と比べてみると、富の集中の度合いが桁違いだということもあろうが、現在のたとえばアメリカにおけるようなさまざまな財団による芸術への援助をみてみれば、理由はたんにそれだけではなく、わが国の場合、富を文化によって社会に還元するという発想が根本的に欠けているように思われる。
 ところでジョイスに経済的援助を申し出たマコーミック夫人は、チューリヒでユングの分析を受けていた。一九一六年のチューリヒの心理学クラブの設立に尽力し、金銭的に援助したのはこのマコーミック夫人である。
 ハナは『評伝ユング』のなかで、心理学クラブの設立のいきさつについて次のように述べている----

 ユングのまわりに集まる人々の数が増すにつれて、何か共同の場を設けられないものかという問題が生じた。そうした個々の人々は大抵お互いを知ってさえいなかった。彼らは主として、全部が全部そうとはいえないとしても、ユングの弟子であったり患者であったので、当然のことながら、ユングの待合室で偶然出会う以外はまず会うことはなかった。にもかかわらず、彼らの心理学的な共通の関心では無意識において結ばれていたのである。何のために心理学を学んでいるのかという現実吟味の基地としての社会的な集まりを彼らが求めていることを、ユングはますます気づくようになった。彼は、少なくともその当時、分析以外には患者たちとの一切の社会的接触を避けていたフロイト派の分析家たちには反対であり、それで治療室や分析時間よりももっと外的生活に近い場での患者たちや彼らの反応を知ることのできる機会の必要性を感じはじめていた。[・・・・]ユングはまた心理学と同種の問題を有する人たちについての講義を準備して、そして、弟子たちや患者たちに講義をするための自分たちの能力を充分にためしてみるようにと激励した。(後藤・鳥山訳)

 ユング派の外側からみれば、こうしたクラブの活動の背景には、先に述べたようにスイスが大戦中に文化人・芸術家たちの避難所になっていたという事実があり、初期のクラブの雰囲気(われわれはそれを想像するしかないわけだが)にはチューリヒの一種祝祭的な雰囲気が影響をおよぼしていたに違いない。たしかにハナが言うように、「まだ国境が解放されていて往来も比較的容易であった平和な時よりも外国人の数は少なかった」かもしれないが、ハナが強調する戦時下の閉鎖状況ゆえの孤立感の裏面には、それゆえの独特の高揚感もあったとみるべきであろう。
 さて、ジョイスはマコーミック夫人の援助を受けながら精力的に『ユリシーズ』を執筆したが、一九一九年十月、夫人からの援助は突然打ち切られた。ジョイスは夫人に面会を申し込み、これが拒否されると、『ユリシーズ』の原稿の一部を送って、なんとか機嫌をとろうとしたが無駄であった。
 じつはそれに先立って、マコーミック夫人が「わたしが費用をもつからユングの分析を受けろ」と強く勧めたにもかかわらずジョイスが断ったので、夫人は腹を立てていた。もっとも、容易に想像がつくが、ジョイスにしてみれば、分析を受けるなど問題外であった。「このおれに分析を受けろとは何事だ」と息巻いていたに違いない。
 なぜ援助が打ち切られたのか判らず、ジョイスは、先に紹介したオットカーロ・ヴァイスがユングともマコーミック夫人とも面識があることを思い出し、きっとヴァイスが夫人に援助を打ち切るよう勧めたに違いないと判断し、まったくの濡衣だというヴァイスの言葉にも耳を貸さず、ヴァイスと絶好した(もっともジョイスは後年このことを後悔していたようである)。
 ユングが、分析を断られたことで機嫌を損ね、援助を打ち切るよう夫人に進言したという説もある。これはありうる話ではある。というのはユングはジョイスを、アルコールのおかげでなんとか正常を保っている潜在的分裂病者と見做し、ジョイスの飲酒の習慣を快く思っていなかったのである。決定版評伝『ジェイムズ・ジョイス』の著者リチャード・エルマンは、ユングが「狂信的反飲酒の伝統の中で育った」(アーネスト・ジョーンズ『フロイトの生涯』)ためにジョイスの飲酒の習慣を理解できなかったのだ、ジョイスのはいたって健康的な飲酒の習慣であったと弁護しているが、たぶんその通りだろう。が、いずれにせよ、ユングが進言したという証拠もない。
 結局のところ、マコーミック夫人がジョイスへの援助を打ち切った理由は判らないが、夫人の気紛れだろうと考えるのがいちばん事実に近いように思われる。彼女は移り気で有名だったのである。
 ちなみに、『ユリシーズ』第十五挿話に登場する、拍車のついたブーツをはき、長手袋をはめて乗馬鞭を振り回すマーヴィン・トールボイズ夫人のモデルはマコーミック夫人だろうといわれている。彼女は乗馬好きでも有名だったのである。

 ユングに『ユリシーズ----あるモノローグ』と題するエッセイがある。ユング全集の註によると、これが書かれた経緯については三つの相反する説がある。
(1)一九二七年に『ユリシーズ』の独訳版を出したチューリヒのライン出版社の編集長ダニエル・プロディ博士は、一九三〇年にミュンヘンで「作家の心理学」と題するユングの講演を聞き、その後、ユングと会ったときに、あなたは名前こそ出さなかったがジョイスのことを言っていたのではないかと訊いた。ユングは否定したが、ジョイスには興味があり、『ユリシーズ』も途中まで読んだ、と答えた。そこでプロディは、ライン出版社で文芸雑誌を出す計画があるのだが、その創刊号にジョイス論を書いてもらえないかと依頼した。ユングは承諾し、一ヶ月後、プロディに原稿を送った。プロディがそれをジョイスに送ったところ、”Niedrigerhangen”という返事がかえってきた。「出版して[ユングに]恥をかかせろ」という意味である(文字通りには「低く掲げよ」の意。フリードリヒ大王が、彼を攻撃したプラカードをみて、みんなに見えるよう低く掲げよと命令した、という故事による)。ジョイスの友人たちはプロディに掲載をとりやめるよう勧めたが、ユングは掲載を主張した。だが、そうこうしているうちにライン出版社で文芸雑誌を出すという話は流れ、プロディはユングに原稿を返した。ユングはそれを大幅に書き直し、『欧州評論』に発表した。
(2)プロディがユングに、『ユリシーズ』独訳第三版に序文を寄せてもらいたいと頼み、それに答えて書いたのがこのエッセイである。ユングはあるインタビューでそう語っている。
(3)ジョイスのある手紙によると、ライン出版社が、ジョイスの友人であったスチュアート・ギルバートによる『ユリシーズ』論の独訳に序文を寄せてもらいたいとユングに依頼した。
 ユング全集の註によると、このなかでもっとも信憑性のあるのは(1)だという。
 ユング自身、このエッセイは「主観的な、かつ気ままな見解表明の興味からのみ生まれたものと考えてほしい」と書いているが、じじつ、たとえばジョイスの理解にいくばくかでも役立つのではないかと期待して読んでも失望するだけだし、ジョイス研究者にとっても何の役にも立たない(わたしの知る限り、ジョイス研究者がユングのこのエッセイを論じたものとしてはただひとつ、臼井義隆「ユリシーズと時代精神」[鈴木幸夫編『ジョイスからジョイスへ』東京書籍]があるが、これはほとんど内容のない論文)。
 ユングはまずこの作品の退屈さを強調する。いわく----

 この小説は無からはじまって、無でおわるばかりではなく、完全な無からできてもいるのだ。[・・・・]一切は地獄のような空しさだ。まさに輝ける地獄の産物だ。[・・・・]まったく、なにも起こらない。なにも生じないのだ。[・・・・]絶望を心に抱きながら一三五頁まで読んだ。読みながら、二度も眠りこんでしまった。[・・・・]一三五頁まで読み進んだとき、ほんとうに熟睡してしまった。

 ほとんど悪態をついているといっていい。一九二二年に『ユリシーズ』が出版されたとき、ユングは早速買って読んだのだが----

 ろくに読まないうちに失望して、癪にさわって放り出してしまった。今日この本を読み返しても、当時と同じ退屈を感じる。[・・・・]もしもこの書物が何の反響もなく忘却の淵に沈んでしまったのなら、わたしは二度とこの本を取り出しはしなかったろう。[・・・・]大体において、それはおそるべき退屈を意味したのだ。[・・・・]つまり、わたしには否定的な印象しか与えなかったのだ。

 ユングはこのエッセイをジョイスに送ったが、そのとき添えた手紙に次のように書いている----

 わたしが『ユリシーズ』について書いたことに満足して頂けるかどうか分かりません。というのも、いかに退屈したかを書かずにはいられなかったからです。

 ヴァレリー・ラルボーは『ユリシーズ』が出版される前に、「文学に暗い、あるいはあまり文学に親しんでいない読者なら、三ページも読めば『ユリシーズ』を投げ出してしまうに違いない」と書いているが。今日でも事情は同じだろう。ある人びとは今世紀の最高傑作と呼び、ある人びとは退屈で読むに耐えないと貶す(実際には、読もうともしない人が圧倒的多数であるわけだが)。「文学に暗い」とはいえないまでも現代文学の実験に造詣が深かったわけではないユングが退屈したのも無理はない。が、それを活字にするということは、作品と作家にたいする批難を表明するということになる。ふつうなら、「この作品は死ぬほど退屈だ。しかしよく読んでみると・・・」と続くわけだが、ユングのこのエッセイの場合は、否定的トーンが最後まで完全に打ち消されることはないという印象を受ける。
 さらにユングはこう書いている----

 ふたたび目がさめたとき、私の頭ははっきりと冴えて、今度は、この本を後の方から読みはじめた。この読み方も普通の読み方同様にいけることがわかった。つまり、この本は、後からも読めるのだ。というのは、この本には、前も後も、上も下もないのである。すべてはもともとそうであったか、それとも、未来においてもそうでありうるのだろう。会話なども、後から読んでも同じように面白いのだ。どうせ、要領のえない会話なのだから。会話も全体としては、まったく要領をえていない。[・・・・]一つの文章の途中で読みやめてもかまわない。[・・・・]蛆虫を切断すると、頭に尾が生え、尾に頭が生えるというが、この蛆虫のような性格が、この書物全体にまといついている。

 ユングは洒落た言い回しをしたつもりであったのだろう。それが証拠に、蛆虫の譬喩から、この作品における「脳を抑圧した内臓思考」の指摘へと話を展開しているのだが、この内臓思考という分析はユングのオリジナルではない。ユングはわざわざ註を付して、各章ともある内臓あるいは感覚器官の属音によって指揮されているというスチュアート・ギルバートの説を紹介すると同時に、自分のほうがギルバートよりも先に思いついたのだと主張しているが、この特徴はヴァレリー・ラルボーが一九二二年にすでに指摘しており、文学者サークルではすでに常識であった。
 ジョイスは「前からも後からも読める」というユングの指摘がよほど頭に来たらしく、『フィネガンズ・ウェイク』のなかで揶揄している。エルマンの評伝から想像するに、「なにしろユングってやつは、『ユリシーズ』を後から読むようなやつだからな」といった調子で友人たちに向かってユングをけなしていたように想像される(少なくとも伝記を書いているエルマン自身はかなり頭にきているようだ)。
 ユングはその他、好意を抱いて理解しようとする教養ある読者を無視する態度、カトリックにたいする反逆、創造的破壊性、作品全体の混沌の背後にある高度の意識性=統括的知性、象徴的性格の欠如などを指摘するが、これらも取り立てて目新しい指摘ではない。
 ユングの基本的態度がはっきり示されているのは、精神分裂病的な性格を指摘した箇所である。

 これは精神病患者が書いた果てしない反故だ。精神病患者というものは、きれぎれの意識しか処理できなくて、そのために、完全な無判断と価値感の萎縮に陥る。その代償として、ときに感覚活動の高揚が現れる。正確無比な観察。知覚に対する写真のような記憶力。内部と外部に向けられた感覚の好奇心。回想的モティーフと苦悩の優位。主観的な心的現象と、客観的な現実との精神錯乱的な混淆。新しい造語法と、断片的な引用と、音声ならびに言語の運動から生じる連想と、唐突な移行と感覚の中断をともなう描写[・・・・]

 しかしユングが『ユリシーズ』を精神分裂症の産物として片づけているわけではない。ユングにいわせれば、分裂的傾向は時代の産物であり、現代の芸術家はその集合的潮流にしたがって分裂症的に世界に反応する他ないのである。こうした見方は彼の『ピカソ論』にも現れている。
 そもそもユングが関心を寄せたのは『ユリシーズ』そのものよりむしろ、この書物が同時代人たちにあたえている大きな影響であった。(『ユリシーズ』は初版以来十年間に十版を重ねた)。『ジェイムズ・ジョイスの世界』の著者ハッチンズ宛ての手紙で、ユングはこの作品が現代におけるひとつのメッセージであることを強調しているが、彼はこの作品のなかに何よりも「現代」(の病理)を見たのであった。
 とはいえ、いずれにせよこのエッセイは作品論ではなくあくまで感想文であって、現代の病についてそれ以上の分析がなされているわけではない。このエッセイを読む限り、ユングとジョイスは理解し合わぬまますれ違ったとしかいいようがない。
『ユリシーズ』をめぐっては結局、二人は実際に会見することはなかったが、その後、まったく別の事柄をめぐって二人は顔をあわせることになる。

 ジョイスの最愛の娘ルチアは一九〇七年にトリエステで生まれた。その名は眼の守護聖人サンタ・ルチアにちなむ(彼女が生まれた頃、ジョイスはリューマチ熱に苦しみ、以後しだいに眼の状態は悪化していった)。二十歳すぎまでバレリーナをめざしてレッスンに励んでいたが、体力的にむずかしいと判断して諦めた。その頃から精神に変調をきたしはじめ、ある晩レストランで、ジョイス一家の近くで食事していた女医が、もし自分の娘があんなふうに虚ろな眼をしていたら心配でたまらないでしょう、と感想を洩らしたという。次第に精神異常の徴候を見せるようになり、一九三二年には母親に腹を立て、椅子を投げつけるという、親にとってはショッキングな事件があった。
 彼女がサミュエル・ベケットに片思いし、振られたことはよく知られているが、母ノラは「ルチアに必要なのは魅力的な若い夫だ」と判断し(ルチア自身はもっと大胆に「わたしの問題は、セックスに飢えているってことよ」と言っていた)、娘の婿を探した。友人のポール・レオンが、失恋から立ち直ったばかりの義弟アレックス・ポニソフスキーを紹介し、アレックスとルチアはたびたび会うようになり、三月、アレックスは結婚を申し込み、受け入れられた。そこで正式な婚約式がおこなわれたが、その日、ルチアは緊張性のトランス状態に陥った。医者があれこれ注射した挙句やっと意識を取り戻したが、凶暴に暴れまわり、精神科医から「破瓜病」と診断され、数週間入院することになった。
 ジョイスは娘が精神病であることをどうしても認めようとせず、彼女の状態が悪化するにつれ、ますます溺愛するようになり、次々と医者を変えるいっぽう、装飾文字の作業を勧め、励ましのためにそれを使った本を出版したりしたが、ルチアの状態は悪化するいっぽうで、電話線を切るとか、ニオンの療養所では自分の病室に放火した。一九三四年、ジョイスは娘を有名なブルクヘルツリ病院に入院させ、次いで、キュスナハトのブラナー博士の個人病院に入院させ、ユングに診てもらうことにした。たとえ『ユリシーズ』の批評家としてはダメでも、医学上の奇蹟をおこなってくれるかもしれない、そう考えたのだろう(ユングはルチアの二十番目の医者であった)。
 それまでルチアは医者にたいしてほとんど口をきかなかったが、ユングにはすぐに打ち解けて、精神状態も安定し(たように見え)、体重も増えた。しかし、うまくコミュニケーションがとれたのは最初だけで、治療は捗らなかった。彼女はのちに、「あの太った物質主義的なスイス男がわたしの魂を支配しようとするなんて!」と語ったという。
 ジョイスとユングは何度も話し合った。「娘さんが書いた詩には分裂病の徴候が認められる」というユングの指摘に、ジョイスは、ユングの『ユリシーズ』評を思い出し、「いや、あれは新しい時代の文学を先取りしている。娘はいまだ理解されざる革新者なのだ」と主張した。ユングは、彼女のかばん語やネオロギスムが注目すべきものであることは認めたが、それらは行き当たりばったりで偶然の要素がつよいと反論した。ユングはのちにリチャード・エルマンのインタヴューに答えて、「あの二人はまるで川の底に向かっているようだった。一人は落ちて、もう一人は飛び込んで」と語っている。
 ユングはルチアと父親の関係に、一種の神秘的な同一視をみた。彼によれば、ルチアは父親のanima inspiratriceなのだ。パトリシア・ハッチンズに宛てた手紙に、ユングは次のように書いている----

 私のアニマ理論については多少なりとも御存じだと思いますが、ジョイスと彼の娘はその古典的好例です。彼女は父親にとってfenme inspiratriceでした。だからこそ彼は娘が精神異常と認定されることを頑なに拒んだのです。彼自身のアニマ、つまり無意識のこころは娘としっかりと同一視されていたので、娘が精神異常と認定されるのをみとめることは、彼自身が潜在的な精神病者であることを認めるも同然だったのです。彼がどうしても折れなかったのも、これで説明がつきます。彼の「心理学的」型は明らかに分裂病的です。ただし、ふつうの患者は分裂病的に話したり考えたりすることしかできないわけですが、ジョイスはそれとは違って、意図的にそういうふうに話したり考えたりし、しかも自分の才能すべてを注ぎ込んでそれを押し進めたのです。彼自身が境界を越えなかったのはそのためです。しかし娘のほうは境界を越えました。それは彼女が父親とは違って天才ではなく、ただの病人だったからです。

 ジョイスはユングの言うことにまったく耳を貸さなかったようだ。エルマンの評伝にしたがえば、ユングは、自分が何を言ってもジョイスがまったく無感動なので、この男は他者との間に情動的関係がもてないのだ、と推測したが、それは誤りであって、ジョイスはたんにユングと情動的関係をもとうとしなかっただけなのだ、という。いずれにせよ、ジョイスはこれ以上ルチアをキュスナハトに留めておいても仕方ないと判断し、ブラナー博士が引き止めるのを振り切って、チューリヒに部屋を借りて住まわせることにした。ユングはそれに賛成したという。ジョイスの手紙によると、ユングは彼にこう言ったという----わたし以外だれも彼女のことを理解できないだろう。なにしろ例外的な症例だから。少なくとも精神分析で治療できるような症例ではない。もし分析治療をおこなったら大変なことになり、彼女は二度と回復しないだろう・・・。
 その後のルチアに関する詳細は省くが、ジョイスが世を去るまで彼女はほとんど精神病院にいた。一時は凶暴性精神病者として拘束衣を着せられていた。ジョイスはそれでもひたすら回復を信じ、収入の大半を娘の治療に費やした。
 ジョイスは一九四一年、チューリヒの赤十字病院で死んだ。墓はチューリヒのフリュンテルン墓地にある。
 父の死を知らされたルチアは信じようとせず、「あのお馬鹿さんたら、地面の下で何してるのかしら。いつ出てくるつもりなのかしらね。あの人はいつでもわたしたちのことを見ている」と言ったという。彼女はその後も精神病院暮らしを続けた。彼女がすでに亡くなったのかどうか寡聞にして知らないが、エルマンがそのジョイス伝の改訂版(一九八二)を出した時点ではノーサンプトンの聖アンドルー病院で存命中であった。

<主要参考文献>
Joyce, James : Ulysses, Paris, 1922. ジョイス『ユリシーズ』丸谷・永川・高松訳、河出書房、一九六四。
---- : Finnegans Wake, London, 1939.
Ellmann, Richard : James Joyce, New York, 1959, 1982, 1983.
---- : The Consciousness of Joyce, New York, 1977.
Hutchins, Patricia : James Joyce's World, London, 1957.
丸谷才一編『現代作家論 ジェイムス・ジョイス』早川書房、一九七四。
Jung, C.G. : "Ulysses : A Monologue" , Collected Works of C. G. Jung, vol. 15. ユング『ユリシーズ---- 一つの独白』江野専次郎、ユング著作集、日本教文社、一九五五。
Hannah, Barbara : Jung, His Life and Work, New York, 1976. 
ハナ『評伝ユング』氈A後藤・鳥山訳、人文書院、一九八七。河合隼雄『ユングの生涯』第三文明社、一九七八。