人間にとって時間とは
 (LIFE SCIENCE 1992/5)

伸びたり縮んだりする時間
 物理的な時間の流れは一定であるはずなのに、私たちは同じ長さの時間を、あるときは長く(遅く)、あるときは短く(速く)感じる。「一日千秋の思い」という言葉がある一方で、「光陰矢のごとし」という表現もある。
 わが人生を振り返ってみると、子ども時代は毎日がとても長く、時間がゆったり流れていたような気がする(もちろん、今から振り返ってみればの話であって、子どものときにそんなふうに感じていたわけではない)。それが、年齢とともに時間の流れが速くなり、二十代のときはまだ一年ごとの計画が立てられたのに、今ではもう三カ年、五カ年計画でないと仕事の見通しが立たない。また、若いときは五年後のことなんて霧の中に霞んでいたのに、今ではかなりの現実感をもって十年後のことをイメージすることができる。人生を仮に七十年としても、心理的時間からみると、折り返しは三十五歳ではなく、二十五歳くらいなのかもしれない。
 別の例を挙げよう。同じ九十分でも、入学試験を受けている受験生にとっては、悲しいほど速く過ぎてゆくだろうし、一方、退屈な教授の講義を聴いている大学生にとってはとてつもなく長く感じられることだろう。また、私たちは文字通り「時を忘れる」こともある。なにかに熱中していて、ふと時計を見ると、ほんの三十分くらいだろうと思っていたのが、実際には三時間経っていたという経験は、誰にでもあるだろう。浦島太郎の話は、人間のそうした時間感覚を描いているのだともいえよう。
 このように、私たち人間の心にとって、時間の流れは一定ではない。時間は速くなったり遅くなったり、つまり伸びたり縮んだりするのである。

異界の時間
 右に挙げたような例を一通りみてみると、私たちが時間を長い(遅い)とか短い(速い)とか感じるのは、そのときに私たちが置かれている状況のせいだということがわかる。嫌なことは早く終わってほしいし、楽しみは早く来てほしいと思うものだ。状況が異なるということを、もう一歩すすめると、世界が異なるということになる。つまり、世界が異なると、そこに流れている時間の速さも異なるという経験を、私たちはもっている。
 先にも例に挙げた浦島太郎の話は、このことを物語っているのだともいえる。竜宮城と現世とでは、時間の速さが違っていたわけである。
 竜宮城まで行かずとも、たとえば、夢の中で私たちが感じる時間は、覚醒時の時間とはずいぶん違っている。夢の中ではとくにふだんと異なる時間を生きているという意識はないが、目覚めた後に夢を振り返ってみると、自分が夢の中でどれくらいの時間を過ごしたのか、よくわからない。時には、何年間にもわたる長編物語を見た(生きた)ような気がすることもある。
 夢だけでなく、映画鑑賞や読書体験でも、私たちは日常とは違う時間を体験する。二時間の映画を観ながら、登場人物たちといっしょに何十年にもわたる時間を生きることもあれば、反対に、ある一日のことを描いた小説を、何日もかけて読むということだってある。極端な話、主人公が死ぬ瞬間に感じたことがえんえん何百ページにもわたって描写してあって、それを読むのに一週間かかるということもある。私たちは一週間かけて、小説の中の「一瞬」を生きたというわけだ。

過去・現在・未来
 以上、私たちの心理状況に応じて時間は長くなったり遅くなったりするということを述べてきたが、今度は、過去・現在・未来という私たちがごく当たり前のこととして日常的に用いている区分けに目を向けてみよう。というのも、この区分けも、私たちが思っているほど「当たり前」のものではないようなのである。
 ユング派の心理学者フォン・フランツの『時間』(平凡社)によると、北米インディアンのホピ族の言語には過去・現在・未来という概念がないそうだ。彼等の宇宙は二つの基本的要素からなるという。一つは、すでに現れている「(より)客観的なもの」、いま一つは、今まさに現れつつある「(より)主観的なもの」である。前者は、言い換えると具体的なもののことで、それはすでに現れているので、過去に属している。後者は内的なイメージや表現、予想、感情などで、こちらは今あらわれつつある途上にあり、したがって、より未来に傾斜している。現在は、何かが現れかかるのを止めたとき、またはまさに現れようとする瀬戸際の、剃刀の刃のようなものだ。ホピ族にとっては、時間の連続的な流れというのはなく、たがいに微妙に区別される多くの出来事があるだけなのだという。
 未来は次々に現在となり、現在はどんどん過去になってゆく、という私たちが日常抱いている感覚とは異なる時間感覚をもった人びとは他にも多くいるようである。
 民族・文化による違いというとすぐに思いだされるのは、円環的時間と一定進行的(歴史的)時間の対立である。つまり、ギリシア文明・インド文明(をはじめ、多くの未開文明)では、時間はぐるぐる円環するものだと考えられていたが、キリスト教文明においては時間は始まり(天地創造)から終わり(最後の審判)に向かって一回限り進行するものだと考えられた。
 だが、ここで言われている時間は、現代の宇宙論における、宇宙(時間)には始まりがあったのか、終わりがあるのか、といった議論における時間と同様、私たちにとっては「大きすぎる時間」なので、ここでは深入りしないことにして、もっと身近な、つまり自分の生にとってもっとも重要な意味をもつ時間感覚に話を限定することにしよう。
 日本を代表する精神医学者のひとり、木村敏氏はその名著『時間と自己』(中公新書)において、いわゆる精神障害者の時間体験について、ひじょうに興味深い説を立てている。木村氏の説はすでに広汎な影響をおよぼしており、たとえば、浅田彰氏は現代日本の経済状況の分析に際して木村氏の説を援用しているが(「広告批評」)、以下、簡単に木村説を紹介したい。

前夜祭的意識
 精神分裂病という病気がある。どういう病気かを一言でいうのはむずかしい。原因については、遺伝によるのか環境によるのか、いまだに不明である。基本的な症状は「自己が確実でなくなる」ことで、はっきりした臨床症状としては、たとえば「させられ体験」というのがある。自分は自分の意志で行動しているのではなく、他人の意志に操られているのだという体験である。他人や神の命令の声が聞こえてくることもある(幻聴)。反対に「つつぬけ体験」というのもあって、これは、自分の考えや感情がひとりでに周囲の人に伝わってしまい、秘密が保てないという体験である。
 分裂病者はいつも「未来を先取りしながら、現在よりも一歩先を生きようとしている」という。つまり、つねに現在を、現在の自己を否定しようとし、未来に憧れる(と同時に未来を恐れる)。彼らは「現実の所与の世界によりも、より多く兆候の世界に生きている」のである。だから日常生活では何かにつけ性急で、待つのが苦手である。ただし分裂病者にとっての未来は単なる将来ということではなく、まさに「未知なるもの」である。こうした分裂病者の未来先取り的な意識を、木村氏は「アンテ・フェストゥム的(前夜祭的)時間意識」と呼んでいる。

後夜祭的意識
 これにたいして、鬱病者はまったく違う時間意識をもつという。分裂病は青年期に発病することが多いが、鬱病は中年以降の病気で、症状としては、気持ちが沈む、仕事をしようとしても気力が出ないし体が動かない、たえず苛々して落ち着かない、人生にたいして絶望感を抱く、などがある。重症になると、罪悪妄想(自分は取り返しのつかない重罪を犯してしまった)、心気妄想(自分は不治の病にかかってしまった)、貧困妄想(わが家の経済状態は壊滅的だ)といった「三大妄想」が出現するという。鬱病者の病前症状は、異常なほどの几帳面さである。自分の納得がゆくまできちんと仕事をするので社会的評価が高かったりするのだが、生活秩序が変化して自分の思い通りにいかなくなると発病する。
 鬱病者にとっての時間は、自分自身に遅れをとらないように、取り返しのつかない事態に陥らないように、これまでの住み慣れた秩序の外に出ないでおく、というきわめて保守的な時間である。分裂病者にとって、未来は圧倒的に未知なるものであり、過去も現在も、それぞれ「過ぎ去った未知なる未来」「まだ来ていない未知なる未来」として、未知性に深く侵食されている。これにたいし、鬱病者は未知なる未来を見ようとしない。彼らにとってのあるべき未来とは「これまでのつつがない延長」にすぎない。だから万に一つの崩壊の可能性を恐れて、石橋を叩いてわたる。
 また鬱病者にとっての過去は、けっして過ぎ去って帰らぬものではなく、つねに現在の奥深くに蓄積されている。いわば彼らの過去は「現在完了」的なのである。こうした鬱病者の時間意識を、木村氏は「ポスト・フェストゥム的(後夜祭的)意識」と名づけている。

祝祭的時間
 木村氏が「イントラ・フェストゥム的(祭りの最中的)意識」と名づけるものは、氏のいう「第三の狂気」の意識であるが、右の二つと同一平面上に並列される概念ではない。これは特定の精神病と結びつくものではなく、さまざまな精神病の急性発作症状や癲癇の発作のときに体験されるものである。そこにおいてはいわば「いま」が永遠の広がりとなって時間が停止してしまう。この型の意識においては、現在が過去や未来にたいして圧倒的に優位に立つのである。
 これは躁病にも見られる。現存在分析で有名なビンスヴァンガーによると、躁病者の言語においては「動詞が減少していき、残っている動詞もほとんど現在形のみで、過去形はわずかに残っているものの、未来形はだんだん少なくなっていく。このことから如実に示されるように、患者はほとんど完全に現在に生きており、まだいくぶんかは過去にも生きているものの、未来へと向かって生きるということはなくなってしまう」のである。
 いわゆる正常人も、愛の恍惚とか、死との直面とか、自然との一体感という形で、こうした体験をもつ。

「こと」としての時間
 以上、精神病理的な事態における時間体験の異常さに関する木村氏の考察を紹介したが、じつはこれには重要な前提があって、それを抜きにしては木村氏の時間論はほとんど意味がなくなる。すなわち、まず『時間と自己』というタイトルが示しているように、時間体験は自己のありかたと密接な関わりがあるということである。そしてその前提となるのは、時間は「もの」ではなく「こと」だということである。
 一例を挙げれば、本稿の最初のほうで、私たちのごく日常的な時間意識について述べた。読み直して頂ければわかるが、そこでは便宜上、時間は「もの」のように扱われている。だが、時間は「もの」ではない。すなわち、人間の意識と切り離して客観的に観察できるような客体ではない。時間はよく川の流れに譬えられるが、この二つはまったく「ありかた」が違うのだ。だが、このことをもっと詳しく説明するには「もの」と「こと」との違いを説明しなければならない。ここではそれはとてもできないので、興味をもった方には直接に木村氏の著書を読んで頂きたい。
 さて右に紹介したような、いわゆる精神病者の時間体験ガ、私たちのような、自分を一応正常人とみなしている人間にとって、どのような意味をもつかはあらためて言うまでもないだろう。純粋な正常人などいない。私たちは誰しも、ある程度は分裂病的であり、鬱病的であり、躁病的である。いくつものガードによって、なんとか正常な生活が営めているにすぎない。だとすれば、精神病者たちの時間意識が私たちの時間意識から掛け離れているはずもない。私たちが考えている過去・現在・未来という区分も、あくまで「便宜的」なものにすぎず、当然ながらその境界は曖昧である。いや、境界なるものも便宜的な概念にすぎない。
 時間とは何かについて定義を下すことは不可能で。そもそも定義を下すためには時間を「もの」として扱わねばならない。では時間について考えることができないのかといったら、そんなことはない。私たちの意識について、私たちの「自己」なるもの(これもじつは「もの」ではないのだが)について考えることが、時間について考えることである。私たちにとって、時間とは、時間体験、時間意識に他ならない。そして時間体験・時間意識は、「自己」と表裏一体をなしているのである。