標準版フロイト全集をめぐって
 (イマーゴ 1990/5 90/8)

 今日、フロイトの著作は、精神医学界を超えて、広く一般に読まれている。というより、精神医学界の外でむしろ読まれているといったほうが正確だろう。そして読者の間では、邦訳を別とすれば、原書の読者よりもいわゆる標準版の読者のほうがはるかに多いに違いない。どこの国でも事情は同じだろう(もちろんドイツ語圏は別として)。それは、一つには英語がいわば国際共通語になったためであり、いま一つには精神分析の中心地がウィーンでもドイツでもなくアメリカになったためであるが、それだけでなく、標準版が校訂・注釈などの点でもっとも「完璧」に近い版だということもある(標準版はドイツ語版全集の英訳ではない。つまり「もと」になっているドイツ語版全集があるわけではない)。というわけで、標準版は世界中に広く浸透することになり、私たちのフロイト理解に大きな影響をあたえている。
 本稿ではまず、ペリー・マイセルとウォルター・ケンドリックの編集した『ブルームズベリ/フロイト──ジェイムズ・ストレイチーと妻アリックスの往復書簡、一九二四─一九二五』(一九八五)に拠って、標準版の成立の背景にある興味深い事実を紹介しようと思う(実際、本稿の大半はこの本の要約にすぎない。が、この分厚い書簡集の邦訳を出版しようという奇特な出版社もないだろうから、この要約も無駄ではなかろう)。

 標準版(The Standard Edition of the Complete Psychological Works of Sigmund Freud)の訳者・総編集者はジェイムズ・ストレイチーである。共同編集者(コラボレイター)はフロイトの娘であり「後継者」であるアンナ・フロイト。協力者にはジェイムズの妻アリックス・ストレイチ−も名を連ねている。出版元のホガース社はいうまでもなくレナード・ウルフとヴァージニア・ウルフの夫妻が創立した出版社である。
 ジェイムズ・ストレイチーの名は、ユング全集の英訳者R・F・C・ハルと並び、標準版の編集・翻訳者として後世に名を残すことだろう。興味深いことに、彼は、かのリットン・ストレイチ−の弟であり、妻のアリックスともども、いわゆるブルームズベリ・グループの一員であった。
 ストレイチー家は古い由緒ある家柄で、シェイクスピアの『あらし』の題材となったのは、十六世紀のウィリアム・ストレイチーの書いた、バーミューダ沖での難破船の報告だそうだ。
 ジェイムズは十人兄弟の末っ子として一八八七年に生まれた。リットンとは七つ違いである。二人の間にマージョリーという女の子がいたが、リットンとジェイムズは終生たいへん仲が良かった。ただし、ジェイムズはリットンほど風変わりではなく、ずっと穏やかな少年だったようだ。リットンと同じく長い寄宿学校時代を経て、一九〇五年にケンブリッジ大学に入学したが、ケンブリッジにはレナード・ウルフやジョン・メイナード・ケインズがいて、いわゆるブルームズベリ・グループの原型がすでに出来上がっていた。リットンと違って、ジェイムズはケンブリッジを卒業した後はまったくのヘテロセクシュアルになるのだが、ケンブリッジでの学生生活はまさに『モーリス』の世界そのものだったようだ(フォースターもほぼ同時期にケンブリッジにいた)。ジェイムズといちばん親密な関係にあったのは、一九一五年にギリシアで病死することになる詩人ルパート・ブルックである。
 ジェイムズは、美術・音楽・舞踊には造詣が深かったが(ちなみに、ルパート・ブルックはディアギレフ・ファンとして有名だが、ジェイムズもブルックに劣らず、ディアギレフのバレエ・リュスの大ファンだった)、学業のほうはまるで駄目だった。将来の展望もまったくないまま、一九〇九年にケンブリッジを卒業すると、「スペクテイター」誌を編集していた従兄セントルー・ストレイチーの助手になり、書評を書いていたが、第一次世界大戦が勃発すると、反戦の意を表明して「スペクテイター」を辞めた。彼はリットンと同じく「良心的兵役拒否者」で、フェビアン協会にも入っていた。一九一六年に「アセニーアム(アテナイウム)」誌の劇評執筆者となったが、結局のところ、リットンと違って、ジェイムズは何を自分の生涯の仕事とするか決心がつかず、ディレッタントとしてじつに趣味的な生活を送っていたのである。精神分析を知るまでは。
 それは妻アリックスの場合も同じだった。

 アリックス・サージャント=フロレンスは、米国人ハリー・スミスと七歳年上の英国人メアリー・サージャントの娘として、一八九二年にアメリカで生まれた。音楽家だった父親は、アリックスが生後一ヵ月半のとき、水泳中に溺死し、母親メアリーはアリックスと長子のフィリップを抱えてイギリスに戻った。メアリーは裕福な家の出で、画家であり、また熱烈なフェミニストだった。彼女は息子と娘を芸術家にしようと、音楽や美術を必死に教えこんだ。アリックスは絵の才能に恵まれていたようだが、芸術家になろうという意欲が完全に欠如しており、母親の期待には応えなかった。彼女は小さい頃からフリルのついた服が嫌いで、人形遊びの代わりに人形を槍投げの標的にしていたという。ビーデイルズ校時代は、女子でただ一人、クリケット・チームに加わっていた。十代の後半から旺盛な知的関心を示すようになり、哲学・歴史・人類学の本を貪り読んだ。一九一一年にケンブリッジに入学し、ドイツ語・フランス語・イタリア語をマスターする。ケンブリッジ時代、彼女は知的活動に没頭したが、同時に精神に異常をきたしはじめた。どんなふうに異常だったのか、詳細は不明だが、おそらく思春期痩せ症とか拒食症と呼ばれるものだったと思われる。十代にはがっしりした体格で、「デブ」と呼ばれてさえいたのだが、大学に入ると菜食主義になってガリガリに痩せ、一時は学業を中断して兄のいたフライブルグで療養生活を送った。卒業後、菜食主義はやめたが、その後も一生、甘い物を目茶苦茶に食べたり絶食したりというのを繰り返していたらしく、晩年にいたるまで極端に痩せていた。またジェイムズと知り合うまで、異性関係はまったくなく、同性の友人たちとも肉体的な関係はなかったらしい。
 大学にいる間は知的活動に没頭していたアリックスも、卒業するとまた無気力状態に戻り、何もやる気が起こらずにぶらぶらしていたが、やがてブルームズベリ・グループに加わり、ジェイムズと付き合うようになる。ジェイムズにはノエル・オリヴィエという恋人がいて、二人の仲は仲間内では有名だったのだが、アリックスが猛烈にモーションをかけて、結局、ジェイムズとアリックスは一九二〇年に結婚する(ちなみに、当時のアリックスに関するおもな情報源はヴァージニア・ウルフの日記である)。なお、いささか奇妙な話ではあるが、ジェイムズとノエル・オリヴィエとの仲もほぼ終生続いたようである。

 さてジェイムズは以前から「心霊研究会」に関心を抱いていて、この協会への関心を通じて精神分析を知り、興味をかき立てられたらしい。この協会は一八八二年にケンブリッジで設立され、ウィリアム・ジェイムズも初期の会員の一人だった。ジェイムズ・ストレイチーは一九一〇年に、先に述べた「スペクテイター」誌で心霊研究会の活動について書いているが、一九一二年、フロイトはこの協会の機関誌「プロシーディングズ」に、英文の論文「精神分析における無意識についての覚書」を寄稿しており、(すでに心霊研究会の会員になっていた)ジェイムズはその頃から精神分析に本格的に興味をもつようになった。しばらくして、彼はアーネスト・ジョーンズを訪ね、どうしたら分析家になれるかと助言を求めた。後に述べるように、ジョーンズは非医師分析(レイ・アナリシス)にたいしては否定的だったので、当然、「分析家になるには、まず医師にならなくてはだめだ」と答えた。それでジェイムズは医学校に入ったが、医学の勉強は三週間しか続かなかった。
 いっぽうアリックスのほうはケンブリッジ時代からフロイトの著作に接していたらしく、ジェイムズはアリックスと付き合うようになってから、アリックスの影響で、分析家になりたいという夢をますます膨らませることになった。
 先に述べたように、ジェイムズとアリックスは一九二〇年に結婚したが、それ以前から同棲していて、結婚は、大陸旅行のためだった。つまり、パスポートなどの面で、結婚していないと面倒だったからだ。どうせヨーロッパに行くなら、ウィーンでフロイトの分析を受けたいと考え、ジェイムズはフロイトに手紙を出した。

 アーネスト・ジョーンズ博士からお聞き及びと存じますが、小生は出来ることならばウィーンに赴き、ぜひとも先生の分析を受けたいと考えております。ジョーンズ博士が説明して下さったと思いますが、小生がなぜ分析を受けたいかと申しますと、これまでの先生の御著書を通じて得た精神分析に関する理論的知識に、重要な経験的基盤をあたえたいのです。この目的のため、ウィーンに少なくとも一年は滞在する覚悟でおります。ジョーンズ博士から伺ったところ、先生は秋まではまったくお暇がないとのことでしたが、博士の勧めもあり、それ以後ならば受け入れて頂けるのかどうかをお尋ねしたく、厚かましくも筆をとった次第です。もっとも、財政的な問題が障害になるのではと心配しています。できることならば長期間にわたって分析を受けたいのですが、現在の財政状態からいって、一時間につき英国通貨で一ギニーは出せそうにないのです。
 こういった事情ですから、受け入れて頂けるのかどうか、わかりませんが、あえて書かせて頂くならば、先生からじかに精神分析を教えて頂けたなら、これほどの幸福はございません。

フロイトは五日後に返事をしたためている。

 拝啓
 あなたがドイツ語をお読みになれるかどうか分からないので、不得意ながら英語で書くことにいたします。乱文お許し下さい。
 お手紙にあった通り、秋までは余裕がありません。それに、二、三週間後には中断すると分かっていて分析を始めるのは好ましくないでしょう。
 あなたが率直に書いておられた障害は絶対的なものではありません。実際、戦前ならば障害にもならなかったでありましょう。しかし現在では、ご存じの通り、事態はひどく悪化してしまいました。私はすっかり貧しくなり、なんとか生計をたてるために必死に働いている有り様です。ですから、一ギニーでは患者はとるつもりはありません。しかし、弟子になりたい、分析家になりたいという場合は話は別です。もし現在でも一英国ポンドが六〇〇クローネ前後ならば、喜んでお迎えします。なるべく長期間分析をお受けになりたいとのこと、嬉しく存じます。ほとんどの人はこの条件を守っていません。
 九月末にウィーンに戻りますので、その折にまたご連絡頂きたいと存じます。
敬具
                                 フロイト

 ジェイムズとアリックスは八月の末にウィーンに赴き、住まいを見つけてから、バヴァリア、アルプス、ヴェネツィアを回って、九月末にウィーンに戻った。一九二〇年十月四日午前十一時。ジェイムズは第一回目の分析を受けた(分析が英語でおこなわれたのか、ドイツ語でおこなわれたのかは不明)。以後、二二年の六月までほぼ一年半にわたって、日曜日を除く毎日一時間ずつ、彼は分析を受けた。
 アリックスのほうは分析を受けるつもりはなかったのだが、シュターツオーパーで『神々の黄昏』を観ている最中に急に心臓が苦しくなり、心配になって、分析してくれるようフロイトに頼んでくれと夫に頼んだ。フロイトは、じゃあ試しに二、三週間やってみましょうと答えたのだが、じきにアリックスの症例に興味をもち、また、夫婦を平行して分析するという前代未聞の試みに魅せられ、アリックスの分析も続けた。だがアリックスは二二年の二月にインフルエンザに罹り(一時は生命も危なかった)、分析は中断してしまった。

 右に引いた手紙からも察せられるが、フロイトはストレイチー夫妻を喜んで迎えたと思われる。その理由はいくつか考えられる。
 第一に、フロイトは(いやフロイトに限らずウィーンの分析家たちは)外国人クライエントを受け入れることに積極的だった。それは一つには、安定した外貨が欲しかったためであり、いま一つには、その外国人が帰国後にその国で精神分析を広めてくれることを期待していたのである。
 第二に、フロイトは難無く英語を読みこなすことができたが、ジェイムズとアリックスが訪れる前に、すでにリットンの小説を読んでいた。後のことになるが、一九二八年のクリスマスに、フロイトはリットンから『エリザベスとエセックス』を送られ、その礼状に次のように書いている。

 この贈り物に心から御礼申し上げます。何もお返しできないのが残念です。私は老い、気が弱くなり、たぶんもう何も生み出せないでしょう。
 あなたがこれまでに出版なさった物はすべて知っていますし、どれも大変楽しく読ませて頂きました。しかしこの楽しさは本質的に美的な楽しみでした。この度はこれまでになく感動しました。それはあなたが更なる深みへと到達したからです。

 第三に、ジェイムズたちの祖国イギリスは、フロイトにとって特別の意味をもっていた。フロイトは「英国びいき」だったのである(フロイトは一九三八年、ナチの軍隊がウィーンに侵攻してきた数ヵ月後にロンドンに亡命したが、それ以前、学生のときに一度イギリスを訪れている)。貧しいフロイト一家がフライブルグからライプツィヒを経由してウィーンに移住したとき、父親の前妻の息子たち、エマヌエルとフィリップはイギリスに渡った。この移住の理由はよくわからない。例の贋金事件(『夢判断』に出てくるフロイトの叔父ヨーゼフが贋金を使った科で逮捕された事件。フロイトの父ヤコプも贋金づくり一味に関係していた)と関係があるという説もあるし、ヤコプが若い妻アマリアとフィリップの恋愛関係に気づき、二人を引き裂いたのだという説もある(このあたりに関してはマリアンネ・クリュルの『フロイトとその父』に詳しい)。いずれにせよ、幼いフロイトはイギリスに移住した異母兄たちを羨んでいた。一度ならず、イギリスに渡りたいと思っていたようである。その意味で、亡命先がロンドンだったことはフロイトにとっては幸せであった。
 というわけで、フロイトはストレイチー夫妻の中に憧れの英国を見たのだった。
 さて一九二二年六月、フロイトはジェイムズに「教育分析は完了した」と告げ、分析家の資格をあたえた。右に述べたようにアリックスの分析は中断したままだったが、アリックスにも分析家の資格を認めた。ただしアリックスには、引き続きベルリンのアブラハムの分析を受けるようにと助言した。それでアリックスは一九二四年から翌年にかけてベルリンに行き、アブラハムが世を去る直前まで、彼の分析を受けた。この期間に、イギリスのジェイムズとの間でほぼ毎日、手紙をやりとりした。二人の手紙は三四三通残っているが、そのうちの一八一通をまとめたのが本稿の冒頭に挙げた往復書簡集である。
 ちなみに、この書簡集は、「ロッピーとメイナードはまだ結婚できないでいるそうだ〔ロッピーはロシア・バレエ団のプリマ・バレリーナ、リディア・ロプホーヴァ(ロポコヴァ)。夫バロッキとの離婚の成立を待っていた。二五年にケインズと結婚〕」とか、「リットンはクロスワードに熱中して、一日中辞書を引きまくっている」とかいった記述もあって、ブルームズベリ・グループに興味のある者にとってもひじょうに面白い。
 二〇年代の文化に興味のある人にとっても面白い。アリックスのいた頃のベルリンはキャバレー全盛時代で、アリックスの手紙からはそうしたベルリンの雰囲気が偲ばれるし、ジェイムズの手紙にもアリックスの手紙にもロシア・バレエ団の感想が何度も書かれている。
 しかし何よりも興味深いのは、初期の精神分析運動の様子がよくわかることだ。アリックスがベルリンに滞在していた頃、ヨーロッパにおける精神分析運動の中心はウィーンよりむしろベルリンであり、アリックスの手紙には、ヴュルツブルクでの大会の模様が報告されているほか、彼女を分析していたアブラハムをはじめ、フランツ・アレグザンダー、サンドル・ラド、オットー・フェニヒェル、メラニー・クライン、へレーネ・ドイッチェ、アンナ・フロイト、ヴィルヘルム・ライヒ、ルー・アンドレアス=ザロメなど、さまざまな人びとが登場する。注目すべきは、当時の精神分析の雰囲気が、第二次大戦後のアメリカにおける状況とはずいぶん違うことである。

 ジェイムズとアリックスのライフワークはいうまでもなく標準版の編集・翻訳であるが、ここで、それ以外の彼らの業績に触れておくと、まず、二人ともフロイトから御墨付を頂戴した後、晩年にいたるまで積極的に分析活動をおこなった。分析家としてのジェイムズの最大の功績はウィニコットに教育分析をほどこしたことである(ウィニコットはジェイムズと同じくケンブリッジ出で、小児科医だったが、一九二四年、アリックスがベルリンでアブラハムの分析を受け始めた頃からほぼ十年間にわたってジェイムズの教育分析を受け、一九三二年からはジョーン・リヴィエールの分析を受けた)。ジェイムズはまた一九三〇年代に、「精神分析という治療行為の性質」「読書におけるいくつかの無意識的要因」など、いくつかの論文を発表している。アリックスは標準版の仕事が峠を越えた後、「戦争の無意識的動機」(一九五七)と「国民性の心理学」(一九六〇)という二つの論文を発表している。
 また二人はメラニー・クラインを全面的にバックアップし、クラインがイギリスに腰を落ち着けたのも、そこで独自の児童心理学を打ち立てたのも、ストレイチーの支援あったればこそだと言われている。クラインが英語で論文を書くようになるまで、その著作はアリックスが英訳している。アリックスはその他、アブラハムの論文集の翻訳、オットー・フェニヒェル論文集の英訳を監修しており、更には「精神分析用語完全索引」の作成という大変な仕事をなしとげている。
 ストレイチー夫妻はまた、イギリスにおける精神分析運動に深く関与していた。その運動の中心にいたのは言うまでもなくジョーンズである。ストレイチー夫妻がウィーンから帰ってきたとき、ジョーンズは自分の地位を脅かされるのではないかと深刻な不安に陥ったらしい。もしジェイムズが権力の座にたいしてあれほど無欲でなかったら、ストレイチーとジョーンズの間で激しい権力闘争が繰り広げられたにちがいない。実際、権力闘争こそなかったが、両者の間にはかなりの確執があった。その焦点となったのは非医師分析(素人分析)の問題である。この問題はいまだに決着がついていないと言ってもよい。この問題は、本稿の後半で述べる精神分析のアメリカ化・医学化の問題と深く関わっている。
 フロイトの弟子の中で医師でなかったのは、オットー・ランク、テオドール・ライク、ジョーン・リヴィエール、エラ・シャープ、アンナ・フロイトなどである。もちろんストレイチー夫妻も医師ではなかった。一九二六年春に、テオドール・ライクの患者が、有害な治療を受けたとしてライクを告発するという事件があったり、また同年秋、ニューヨーク州議会が非専門家による分析を違法とする法案を成立させたりしたため、非医師分析をめぐる問題が深刻化した(フロイトの「非医師分析の問題」が書かれたのはこの年である。彼は、非医師分析を禁止しようという傾向、すなわち彼自身の言葉によれば「精神分析学を精神医学の下女にしようという」傾向にたいして、つねに反対の意を表明していた)。もっとも強硬に非医師分析に反対したのは、A・A・ブリルを長とするアメリカ精神分析学協会であった。イギリスのジョーンズも同じ立場にいた(ジョーンズは『フロイトの生涯』の中で、非医師分析をめぐる紛争に関して詳しく書いているが、彼自身はフロイトと意見を異にしていたため、どうも歯切れがわるい)。一九二九年にオックスフォードで国際精神分析学会が開かれたときは、この問題をめぐって、あやうく学会が分裂するところであった。
 ストレイチー夫妻は医師ではなかったため、ジョーンズの画策にたいして耐えず不安をおぼえていたようである。

 ところで、先に述べたようにジェイムズもアリックスもブルームズベリ・グループの一員であった。グループと精神分析を繋ぐ環はストレイチー夫妻だけでなく、二〇年代にはヴァージニア・ウルフの弟エイドリアン・スティーヴンとその妻カリンが分析家になっている。リットン・ストレイチーはそこそこの関心を寄せ、『エリザベスとエセックス』(ジェイムズたちが分析を受けてから後にリットンが書いた唯一の長編)には明らかに、ジェイムズ夫妻を通して知った精神分析の知識が採り入れられている(先にも触れたが、フロイトはこの小説を絶賛している)。
 ブルームズベリと精神分析といえば、英文学者ならずとも、ヴァージニア・ウルフはどうだったんだろうという好奇心を抱かない人はないだろう。一九三九年、ウルフ夫妻はロンドンに亡命していたフロイトのもとを訪れたが、ヴァージニアは日記に「捩じれて縮んだよぼよぼの爺さん」「誰の目にも、間もなく火が消えるのがわかる」と書いている。彼女は以前から精神分析にたいして無関心、というよりむしろ反感を抱いていた。ジェイムズはよくアリックスに、「どうしてレナードはヴァージニアを説得して分析を受けさせないんだろう」と言っていたというが、アリックスはヴァージニアの態度に共感していたという。晩年、アリックスはこう回想している。

 ヴァージニアの想像力は、彼女の芸術的創造性を別としても、彼女の空想と──そして病と──密接に絡み合っていましたから、狂気を取り除いたら、創造力も失せてしまったかもしれません。
『ヴァージニア・ウルフ伝』の著者ベルは、「一九一四年五月に、レナードは〔〕『夢判断』を読んでいた。彼は非常な感銘を受けたが、もし彼がフロイトをもう二年前に呼んでいたら、ヴァージニアの医療の経歴も違っていたかもしれない」「しかし彼女の精神分析ができたかどうか、また精神分析が妥当な治療法となったかどうかは疑わしい」と書いている。ちなみに、神谷美恵子はヴァージニアの病について、「現代の精神医学では躁鬱病または非定型精神病と診断されるものであろう」と述べている。

 話は一九二〇年のウィーンに戻る。分析を始めてからまだ数週間しか経っていない頃、ストレイチー夫妻は突然フロイトから、書いたばかりの論文「子どもがぶたれている」の英訳を依頼された(これは夫妻共訳として「国際精神分析雑誌」に掲載された)。それからしばらくして、ジェイムズは『集団心理と自我分析』の英訳を頼まれ、これは一九二二年に国際精神分析出版社から出版された。そして次に、五つの重要な症例研究の英訳を依頼され、ストレイチー夫妻は以後五年間にわたってこの仕事に取り組むことになる(後に触れる全五巻の著作集に収録された。夫妻の往復書簡には、この症例集をめぐる翻訳の諸問題、ジョーンズの意見との対立や、フロイトへの照会などについて、書かれている)。
 ところで、ジェイムズ・ストレイチーがフロイトの英訳者として登場する以前、フロイトの著作を英語圏に広めるのにもっとも大きな貢献をしたのは先にも登場したA・A・ブリル(一八七四─一九四八)である。彼はアメリカにおける精神分析運動の初期の中心的な人物で、一九一一年にニューヨーク精神分析協会を創立している。彼はフロイトの著作を積極的に英訳しており、代表的なものだけを挙げても、『性欲論三編』(一九一〇)、『夢判断』(一九一三)、『日常生活の精神病理学』(一九一四)、『トーテムとタブー』(一九一八)などを手がけている。筆者はブリルの英訳を読んだことがないが、ブリルのドイツ語読解力にも英語表現力にも問題があるらしく、また勝手な書換えや「はしょり」が多すぎると言われる。『日常生活の精神病理学』では、ドイツ語の例を英語の例に置き換えたりしているようだが、ジェイムズは標準版の『日常生活』(アラン・タイソン訳)への前書きで、ブリルの訳について、ほとんど誰もフロイトの名すら知らない時代の翻訳だから仕方ないという意味のことを言っている。
 標準版の前触れとなったのは、アーネスト・ジョーンズとジョーン・リヴィエールが中心となって企画された全五巻の『フロイト著作集』である。これは、一九〇六年から二二年にかけて発行された全五巻の『神経症の理論に関する短い著作集』(Sammlung kleiner Schriften zur Neurosenlehre)に基づいたもので、ストレイチー夫妻をはじめ数人の翻訳者が参加しており、一九二四─二五年に最初の四巻が出、一九五〇年に第五巻が出た。先に挙げた、ストレイチー夫妻の手がけた翻訳はすべてこれに収録された。ただし、これは短い論文を集めたもので、一冊にまとまった著書(『夢判断』など)はブリルの翻訳があるからということで収録されていない。そこで、ブリルの訳したものを新たに訳し直し、この著作集に収録された論文と合わせて、「全集」をつくろうという話が当然ながら持ち上がったが、いくつか障害があった。
 まず版権の問題。フロイトは自分の著作の翻訳権に関しては、寛大というか、いい加減というか、気前よくあちこちに翻訳権を売り、そのために後々まで問題を残した。そのおかげで、「抑制、症状、不安」などは一九二〇年代から三〇年代にかけて、三種類の英訳が出るはめになった。標準版を発行するにはまず版権をクリアする必要があったが、これにはフロイトの息子エルンストが奔走し、問題を解決した。
財政の問題もあった。何しろ一大プロジェクトであるから相当な金がかかる。ジェイムズは標準版の序文でアメリカ精神分析協会に謝意を表しているが、ジョン・マレーとW・C・メニンガーの尽力で、アメリカ精神分析協会は、第一巻の出る数年前に、五〇〇セットを予約してくれたのだった。
 かくして標準版は一九五三年に第一巻が出て、十三年後の一九六六年に最後の第二十三巻が出た。その数ヵ月後の一九六七年四月にジェイムズは世を去った。第二十四巻(索引とビブリオグラフィ)は、かのノエル・オリヴィエの娘アンジェラ・リチャーズ(後にアンジェラ・リチャーズ・ハウス)の手によって、一九七四年に発行された。アリックスはその前年に世を去っている。(続く)