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外典・人形愛序説
(is 56号 1992)
<人形との出会い>
生まれ落ちたばかりの人間は、ユング流にいえばウロボロス的世界の中で生きている。「分断された身体」(ラカン)が徐々に自己像へと集約してゆくのと平行して、幼児はカオスから少しずつ抜け出してゆくが、しばらくの間、ウロボロスは幼児のすぐそばにいて、出来たての幼児の自我を脅かす。それはむろん目には見えない。だが、見えないものほど恐ろしいものがあるだろうか(スティーヴン・キングをはじめ、ホラー作家たちがしきりに奇怪な物を生み出そうとするのは、なんとか恐怖に形をあたえ、飼い慣らしたいがために他ならない)。そこで幼児はたとえば「お化け」を発明する。お化けは恐怖の対象であると同時に友達になりうる(そうでなければ幼児のお化け好きは説明できない。つまりオバQがどうしてお化けでなければいけないのか理解できない)、というより幼児は恐怖の対象をなんとか友達として抱き込もうとするのだ。
次いで幼児は「想像上の友達」を発明=発見する。それは(大人の)目に見えないこともある。つまり文字通り幼児の想像世界の中にだけいて、幼児と交歓することもある。
H君は赤ちゃんのときは、お母さんの他にはほとんど誰とも言葉を交わさずに、大事に、静かに育てられました。さて、幼稚園に入るころになって、突然お母さんは気がついたのですが、H君はまだ、ほとんど言葉を知らなかったのです。・・・字は比較的早く覚えたのですが、なかなか他の人とお話ができません。・・・
しかしお母さんがいろいろと頼んで、やっと近所の幼稚園に入れてもらうことになりました。ところが、今度、困るのは幼稚園の先生の番でした。・・・二年目に入ったときに、H君の傍にあらわれたのが、想像上のお友だちです。そのお友だちは「おいそが
氏」と言いました。・・・「おいそが氏」はいつもH君といっしょにいました。最初、先生はH君がなにを言っているのだかよくわからなかったのですが、H君は、おいそが氏がいないとなにもしないのです。そこで先生が、「H君、ほら、おいそが氏も靴箱にちゃんとお靴を入れているよ」と言いながら横のほうを見ると、H君もそっちを眺めながら、言われた通りにするのです。(秋山さとこ 『子どもの深層』)
このように、想像上の友達は幼児の空想世界内だけに存在することもあるけれど、たいていは現実の対象に投影される。石とかビー玉に投影され、それが子どもの宝物になることもある。だが、想像上の友達のチャンピオンはなんといっても人形である。
だから幼児の想像世界では人形は「生きて」いる。ホフマンの『くるみ割り人形』に見られるような、人形が動き出すというファンタジーは、幼児にとってはごく自然なものだ。アンデルセンの『すずの兵隊』もその種の話だ。もっとも最近ではスピールバーグの「グレムリン」や「E.T.」がある。これまで無数に描かれてきた異星人たちも、私たちにとってはまず何よりも人形に他ならない。「E.T.」の大ヒットは、想像上の友達が動きだしたらいいのにという願望がいかに普遍的なものであるかを証明した。
<小人幻想>
ところで、人形は小さい。それは子どもの視点が大人よりずっと低く、子どもの目はもっぱら小さい物に引きつけられるからだ。別役実がどこかで書いていた。幼い娘を広い野原に連れ出し、「広いだろう」といって青空を示し、ふと下を見たら、娘はしゃがんで蟻を見つめていたという。だが、小さなものへの関心は幼児だけのものではない。
想像上の友達は自己の分身、もう一人の自分でもある。ETという名は主人公の少年の名ELIOTを縮めたものだ。女の子はよく自分がママになって、人形に自分の役をやらせ、ちょうどママに叱られたときと同じ言葉で、人形を叱る。
だとすれば、人形愛は小人幻想と表裏一体といえる。ここでいう小人幻想とは、自分が小人になったことを夢想することである。「親指小僧」「一寸法師」の類の昔話が広く世界中に伝わることは周知の通り。アンデルセンにも「親指姫」がある。
小人に変身した瞬間、日常の世界は「不思議の国」に変わる。戸棚は高層ビルとなり、恐竜のような巨大怪獣に変身した猫やゴキブリから逃げまどわなくてはならず、さらには自分の涙で溺れるはめになる。
この幻想はもちろん現代にも生きている。ハロルド・シェクターはその『体内の蛇』で、ジャック・アーノルド監督の映画「縮みゆく人間」(一九五七)を詳しく分析し、このSF映画が「親指小僧」というフォークロアの現代版であることを鮮やかに検証している。そういえば「ミクロの決死圏」というのもあった。もっと身近なところでは「スプーンおばさん」というのもあった。自分が小さくならずとも、まわりが大きくなれば状況は同じだから、「ジャックと豆の木」みたいに巨人が登場する話も同じ幻想に由来すると考えていいだろう。ゴジラやキングコングに追い回されるというのも同類だ。
小さくなったのも自分なら、小さくなった自分をはるか上方から見下ろすのも自分だ。その二つの自分はつねに入れ替わりうる。つまり、小人幻想は巨人幻想の裏返しである。ガリバーは小人国にも巨人国にも行く。アリスもまた小人になったり巨人になったりする。怪獣映画を観るとき、子どもたちはビルの谷間を逃げまどいながら、同時に怪獣になってビルを片っ端から壊していくのだ。さらに彼らは、銀幕の中でビルを破壊する怪獣と、自分の手の中にあるゴム製の怪獣とが同じものであることをよく知っている。
「森の中の三人の小人」「ルンペルシュティルツヒェン」など、小人の出てくる昔話は枚挙にいとまがない。小人とは動く人形以外の何物であろうか。
<人の形>
当たり前の話だが、人形は人間の形をしている、つまり外見は人間だ。ならば、皮を一枚ひん剥いてみなければ、それが人間か人形かを識別することはできない。
人間は、ピュグマリオンから始まってマダム・タッソーの蝋人形館にいたるまで、人間そっくりの人形をつくることに情熱を燃やしてきた。現在のマネキン人形の製作者たちもそうした情熱につき動かされてきたことだろう。功なり名を遂げ、自分の胸像を飾りたくなる人は珍しくないが、自分そっくりの蝋人形をひそかに部屋に飾っている人もいる。
だが、早晩、外見だけでは飽き足らなくなる。先に述べたように、人形を動かしたくなる。ピュグマリオンの場合には、神が石像を人間にしてくれた。だが神が死んでしまった後は、人間がそれをやるほかない。最初は機械仕掛けだ。ホフマンの『砂男』、それをもとにしたサン=レオン、ニュイッテルのバレエ「コッペリア」、リラダンの『未来のイヴ』。フランス世紀末の女性作家ラシルドの『ヴィーナス氏』のヒロイン、ラウールは死んだ恋人ジャックの髪や体毛や歯を使って、蝋人形をつくり、あるときは女として、あるときは男装して、人形を愛撫する。
大理石のエロス像に守護された、法螺貝の形の寝台の上には、透明なゴムの皮膚におおわれた蝋人形が横たわっていた。赤い髪、金色の睫毛、金色の胸のうぶ毛は、本物である。口を飾っている歯も、手足の爪も、遺骸から剥ぎとられたものだ。・・・夜になると、喪服姿の女が、時には黒い服の若い男が、この扉をあける。その女も男も、寝台のそばへ来てひざまずく。蝋人形のすばらしい形を長いこと見つめてから、それを抱きしめ、唇に接吻する。腹の内部に取りつけられたバネが、口に連結していて、口を動かし、同時に、股を開かせるのだった。
一方、もっと生化学的に、いわば人間という素材を用いて人形をつくろうという夢想も、人間は古くから抱いてきた。錬金術師たちがつくろうとしたホムンクルスを前史として、フランケンシュタインのつくった人造人間はサイボーグの元祖となった。『メアリ・シェリーーとフランケンシュタイン』のモネット・ヴァカンが強調するように、人造人間の誕生は、メアリが先駆的フェミニストの娘であり、十八歳の若さですでに出産を、そして子どもの死を経験していたことと無縁ではなく、やはりヴァカンのいうように、現代の遺伝子操作・クローニング・人口授精の問題へと直結している。
また、この人間製造の夢がユートピアという病と結びついて、『素晴らしき新世界』のボカノフスキー法なる人間製造術を生み出した。
一方、人間が意図的に人間=人形を製造するのではなく、われわれの知らぬところで何者かが人形(ひとがた)をつくってしまうかもしれない。つまり、われわれが人間だと思っていたものが、じつは人形かもしれない。こうした恐怖もまた繰り返し描かれてきた。
『砂男』のナタニエルはオリンピアが自動人形だと知って錯乱してしまったが、それと同じ恐怖・戦慄・疑心暗鬼がSFではさかんに描かれてきた。「ターミネーター2」が描いているのはサイボーグの一つの理想だろう。そこでは未来社会からやってきたサイボーグが自由自在に姿を変える。「ブレードランナー」には、人間とサイボーグを識別する装置が登場する。
だが人間そっくりの人形は人間ではないのだろうか。「羊たちの沈黙」の連続殺人犯のように皮を剥ぐのが趣味という人間でなければ、他人の皮膚の内側を覗く機会はまずないし、必要もない。「猿の惑星」の主人公は人間の女よりも雌猿のほうを愛し、「ブレードランナー」の主人公は最後にサイボーグと結ばれた。人間か人形の違いよりも、自分の欲しい物と欲しくない物との違いのほうが大きいのだ。
<眠れる美女>
反対に人間を人形にしてしまうこともできよう。いちばん手っとり早いのは眠らせてしまうことだ。かのホラービデオ「血肉の華」の主人公は、誘拐した女性を眠らせ、いわばいったん人形にしてから、マネキンのように手足を解体していく。人間は解体できないが、人形ならできるのだ。
白雪姫は眠り姫は、王子が迎えにくるまで眠りつづける。心理学者はこれを、少女から成熟した女性への成長に必要な期間と解釈する。その通りだろう。だが一方、これらの眠りは男の願望のあらわれでもあろう。それが証拠に、十九世紀のグリム版では眠り姫は王子の接吻で目覚め、十七世紀のペロー版ではもっと上品に王子がひざまずいただけで姫は目覚めるが、ペロー版のもとになったと考えられるバジーレの「日と月とターリア」(十六世紀)や、さらにその原型となったらしい『ペルセフォレの物語』(十四世紀)では、姫は眠っている間に強姦される。
(王は)梯子をのぼり、中に入って、部屋という部屋を隅から隅までみてまわり、最後に大広間でターリアを見つけた。彼女は魔法にかかっているようだったが、王にはただ眠っているように見えた。声をかけてみたが、びくともしない。大声で声をかけながら美しさに見惚れているうちに、王は血が熱く体内をめぐるのを感じた。そこで王は彼女を腕に抱え、ベッドに運んで思いを遂げた。王は彼女をそのままベッドに残し、王国に帰った。王としてなすべき職務に追われるうちに、この出来事のことはまったく忘れてしまった。(『王と月とターリア』)
周知の通り、これが川端康成の小説では、老人が眠っている少女と添い寝するという構図になる。
なにもわからなく眠らせられた娘はいのちの時間を停止してはゐないまでも喪失して、底のない底に沈められてゐるのではないか。生きた人形などといふものはないから、生きた人形になってゐるのではないが、もう男でなくなった老人に恥づかしい思ひをさせないための、生きたおもちやにつくられている。いや、おもちやではなく、さういう老人たちにとつては、いのちそのものなのかもしれない。(『眠れる美女』)
現代の作家なら、少女を眠らせたりせずに、頭のてっぺんから足の先まですっぽりラバーで包んでしまうことだろう。
男が女をモノとして見ていることの証拠、などと言って話をつまらなくしてしまいたくないが、人形の究極的な面白さは人間とは結局のところ何なのかが問われることだろう。人間はコトであり、人形はモノである、とひとまず言ってしまえば、一瞬わかったような気になるが、人間はコトであると同時にモノでもあるし、人形もまたコトになりうる。モノとコトを物理的に区別することが困難なように、人間と人形の間に一線を画すことも困難だ。
<子ども=人形>
「子どもができる」とも、「子どもをつくる」ともいう。子どもはできるものなのか、つくるものなのか。できるものならば、つくるのは神だろう。つくるならば、もちろんつくるのは人間だ。いずれにせよ、生まれてしまえば後は同じだ。育てるとはつくることだからだ。古来、人間とは成人のことだった。それが証拠に、いつの時代も哲学者が「人間」といえば、それは成人のことだった。子どもはつねに人間という範疇から外されてきたのだ。では子どもは何だったのか。中身はおよそ人間とは思われないが、いちおう外側は人間のかたちをしている。つまり人形だ。となると、女の子が子育てごっこに使う人形は、実際の赤ん坊の代理とか練習台ではなく、つまり女の子は育児の練習をしているのではなく、むしろ人形遊びと実際の子育てとが似たようなものなのだ。
赤ん坊という人形はやがて人間になる。だが、放っておいても人間になるわけではなく、おとなが育てる、つまり人間につくりあげるのだ。つまり子育ては、人造人間をつくるという古来の夢をいちばん手っとり早く実現する方法でもあったのである。
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