|
キャロルのロシア旅行/『日記』を読む
(武蔵野女子大学紀要22号 1987)
はじめに
1867年の夏、ルイス・キャロルLewis Carroll あるいはチャールズ・ラトウィジ・ドジスンCharles Lutwidge Dodgeson (1832-98)は、生涯ただ一度の外国旅行に出かけた。1867年というと、リデルLiddell家の三姉妹を連れてボートでピクニックに出かけたあの'golden afternoon'から5年、『不思議の国のアリス』Alice's Adventure in Wonderlandの出版から2年後のことであり、『鏡の国のアリス』Through the Looking -Glassの構想を練りはじめた年である。
旅の間じゅう、ドジスンは日記をつけていた。ふだんの日記とは別のノートに。コリングウッドCollingwoodはそのキャロル伝のなかにこの日記を大いに引用しているが(1)、その後、日記はニュー・ジャージー、パイン・ヴァレーのパリッシュMorris L. Parrishなる人物の所有するところとなり、パリッシュは1928年にこれを私家版として66部だけ印刷したが(2)、その後、1935年に公刊された。この日記およびその他の資料に依りつつ、彼の足跡を辿ってみたい。
1
この旅には、ヘンリー・パリー・リドン Henry Parry Liddon という道連れがあった。リドンは、当時のドジスンのもっとも親密な友人のひとりで(3)、「説教にも巧みな人で、後にはセント・ポール教会聖堂参事会員となったのだが、・・・・私心のない、親切で飄々としたその人となりは、旅の伴侶にはまたとない人なのであった。彼は当時、クライスト・チャーチでドジスンとは特別研究生仲間という関係であった」(4)。また、旅行後のことになるが、キャロルが執筆をすすめていた『アリス』続編に、『鏡の国のアリス』Through the Looking-Glass という題名を提案したのは、このリドンである(5)。
さてドジスンは7月11日の日記にこうしるしている。
ロンドンよりパスポート受領。数日前よりリドンが同行してもよいと言っている。二人で行き先をモスクワに決めた。一度も英国を離れたことのない身には大胆な選択(6)。
ハドスンはあっさりと、「その[1867年の] 夏学期の終わりにたった一度だけ、彼は自分の国の外で休日を過ごす気になったのだった」(7)とだけ書いているが、実際、ドジスンがどうして外国に旅する気になったのか、どうしてロシアを目的地に選んだのか、よくわからない。ドジスンとリドンはモスクワでレオニード主教と会い、主教の手引きで大主教とも会見する。「この点ではドジスンとリドンには英国国教会からロシアのギリシア正教会の兄弟姉妹の安否を問うべく派遣された宗教使節の趣があったわけである」(8)が、そういう絡みがあったからモスクワに行くことになったのか、それともロシアに行くと決めたから、そういった用件が付け加わったのか、それもよくわからない(いずれにせよ、宗教使節の任はもっぱらリドンがひとりで担っていたのであり、ドジスンにはほとんどその自覚はなかったようだ)。
7月13日にドーバー海峡をわたったドジスンは、ブリュッセル、ケルン、ベルリン、ダンツィヒ、ケーニヒスベルクを経て、7月27日にペテルブルクに着いた。ペテルブルクに6晩泊まってモスクワへ行き、ニージニイ・ノブゴロドまで足をのばす。このニージニイ・ノヴゴロドがいわば折り返し地点で、ドジスンはその後、モスクワ、ペテルブルクを経て、ワルシャワに出、ブレスラウ、ドレスデン、ライプツィヒ、ギーセン、エムス、ビンゲンを経て、9月7日パリ着。13日の夜にそこを発って英国に帰った。ちょうど二ヶ月間の旅行であった(旅行の全日程を付表に掲げたので参照されたし)。
コリングウッドはドジスンの旅日記について、「旅の間じゅうドジスン氏は休まず日記をつけたが、それはべつに出版の意図があったわけではなく、むしろ後になって自分が見聞したことを思い出す手掛りになるだろうと考えてのことだった。しかし後年になって、ひょっとしたら私の印象や体験に他人が興味をもつかもしれない、と考えるようになった。ただし実際には、日記を公けにするための行動を何かひとつでも起こしたわけではない。たぶんそれでよかったのだ。旅行者の日記というものはいつでも、どんな案内書にも出ているような情報を書き連ねているものだから」(9)と述べている。ガッテニョJean Gattegnoはこのコリングウッドの意見に賛意を表し、「この40ページあまりの日記を読むとまさにそう感じる。ここにあるのは、立ち寄った場所[・・・・]一つ一つの直截な描写であり、それぞれの絵画的要素に力が置かれてはいるものの、とくに目立った特徴は何ひとつない」(10)と評している。たしかに、『アリス』や『スナーク狩り』の作者の日記なのだからさぞかし奇怪な日記であろうと期待して読む者は、かならずや失望するだろう(もっとも、そのような期待をすること自体、キャロル=ドジスンの二重三重の人格構造にあまりに無知なわけだが)。ハドスンは、「キャロルはごくごく当たり前の旅行者だったに過ぎない。この男、何でこう当たり前なのか、リドンはそう思っていたにちがいない」(11)と書いているが、実際、日記から察せられるのは、旅に出てはしゃぎ、あるいは慣れない土地で緊張して脅える、平凡この上ない旅行者の姿である。彼は行く先々の町で精力的に見物して歩き(「今日は一日歩きまわった」(12)、「ネフスキー大通りを端から端まで歩いた」(13)、「今日はたぶん全部で15、6マイルは歩いただろう」(14)、寺院の塔や丘にのぼっては町の眺望に感激し(「夕食後、『雀の丘』に出かけた。そこからは尖塔とドームの林が大パノラマのように見わたせ、正面には大きく湾曲するモスクワ川が見える。ナポレオンの軍隊が初めてこの町を見わたしたのも、この丘だ」(15))、食事がなかなかいけるとか貧弱だとか事細かにしるし(「その場所で、シチーというロシア風スープを初めて食べた。なかなかいける。ただ、なにか酸っぱいものが入っている。きっとロシア人の味覚には欠かせないのだろう」(16))、各地で土産物を買い込み、生まれて初めて寝台車に乗っては、座席が寝台に早変わりするさまに感激し、レストランのボーイの態度が悪いと言っては不平を並べている。
しかし、日記を繰り返し読むと当時のドジスンの姿が髣髴としてくるのは確かだし、いかにもキャロルらしいエピソードがまったく欠けているわけでもない。キャロルの人となりを知る上で、欠かせない1ページではあるのだ。
2
キャロルらしいエピソードといえば、彼が可愛い子ども(もちろん女の子)を見逃すはずもない。旅の初め頃、カレーからブリュッセルに向かう途中、リールで、ドジスンたちのコンパートメントに家族連れが乗り込んできた。彼はひっきりなしにおしゃべりする四歳の女の子をスケッチしたが、そのスケッチは、「当の女の子から、あれこれ(わたしが思うに、好意的に)批評された」(17)。その家族連れはトゥルネーで下車したが、別れ際に彼はその女の子にキスしてやった。
8月23日、ぺてるブルグの町をぶらついていたドジスンは、「美しい子どもの写真」を見つけた。日記には女の子とは書いてないが、もちろん男の子であるはずがない。大きいサイズの写真がなかったので、彼は小さいものを買い、それを引き伸ばすよう注文した。すると、大きなサイズのものもあるという。ただし、その子の父親がその写真を売り物にすることを許可していないと言われた。だがドジスンは諦めきれず、どうしても買いたい旨、メッセージにしたためて店に託した。3日後の9月26日、すなわちペテルブルグを出発する日、写真屋がホテルに、モデルになっている子どもの父親が売却に同意したといって、大きなサイズの写真をもってきた。もちろんドジスンはそれを買いとった。
また、帰国も近づいた8月30日、ブレスラウで、彼は女学校の校庭を見つけ、「写真をとるには絶好の場所」(18)だと思ったが、もちろん機械は持ってきていないので歯がゆい思いをした。
ただしロシアの女の子には失望したらしい。「概して醜く、例外的にきれいな子でもやっと人並み程度というロシアの子どもたちばかり見た後で、大きな瞳と繊細な顔立ちをしたドイツの子どもたちのところに帰ってきてほっとした」(19)と書いている。
また、キャロルらしいユーモアも垣間見え、7月22日にはこう書いている。
ホテルには緑の鸚鵡がとまり木にとまっていた。われわれが「ポールちゃん」と声をかけると首をかしげてちょっと考えこむのだが、口をきこうとはしない。ボーイがやってきて、その鸚鵡が黙っている理由を説明してくれた----"Er spricht nicht English : er spricht nicht Deutsch." どうやらこの哀れな鳥はメキシコ語しか話せないらしい! われわれはメキシコ語は知らないので、ただただ同情することしかできなかった(20)。
また、25日の日記にはこんな記述がある。
ケーニヒスベルクで一番多く売られているものは手袋と花火に違いない(というのも、どの店も半分はその二つに占領されているのだ)。とはいえ、手袋をせずに歩いている紳士を大勢見かけた。たぶん手袋は、花火に火をつけるときに手を守るためだけに使われるのであろう(21)。
さてドジスンは、とくにベルリン、ペテルブルグ、ドレスデン、パリで、絵を見るのにたっぷり時間を費やしているが、ドジスンの絵画好きを考えればこれは少しも不思議ではない。彼は十歳の頃すでにスケッチ・ブックを傍らに置いていたが(22)、その絵にたいする情熱は生涯さめることがなかった。彼は自分の本の挿絵画家たちに、相手を辟易させるほど煩く注文を出し、ためにテニエルJohn Tennielはなかなか『鏡の国のアリス』の仕事を引き受けなかったわけだが(23)、それもみな絵にたいする情熱ゆえのことであった。キャロル自身の絵は、ハドスンをして言わしむれば、「専門家の筆さばきとは言えないにせよ、並以上の画才は明らかである。そのスケッチは素朴な線だが気取りのない単純明快さを身上にしている。うち最良の数枚はアマチュア絵描きの傑作とも言うべく書いた人の人となりを見事ににじませていて、これはこれでユニークな価格がある」(24)。ロシアに旅する10年前にドジスンはラスキンJohn Ruskin の知己を得、自分のスケッチをどう思うかと尋ねたのだった。「大した画才がない。余りスケッチに時間をかけてもしようがないのではないか」というのがラスキンの意見だったが、ハドスンはこの批評について、「それ自体としては単純明快の批評だが、ドジスンの素人っぽい描線ににじむ骨太い空想力の煌めきを看破し、ほめ上げることのできる眼力をラスキンに期待するほうがおかしいのだ」(25)と述べている。
そのドジスン、ベルリンではヴァン・デル・ウェイデンの三枚折祭壇画に魅了され、日記に詳細に描写している。
マリアが泣いている絵では、その涙のひと粒ひと粒が半球(あるいはもう少し大きく)で描かれていて、それぞれに光の点と影が描かれている。床には本が置かれ、ページが少しめくられており、そこに留め金のひとつが垂れ下がり、その影がページの角を横切っている。影は全部合わせても1インチにみたないだろうが、画家は、ページとページの間のほんのわずかでも開いているところにはかならず入念に影をつけている(26)。
彼は、ペテルブルクではロシアの画家たちに興味を示している。また9月3日、ドレスデンにいたドジスンは、ライプツィヒに向けて出発する前に、コレッジオの『夜』を観るため、美術館に駆けつけている。パリではちょうど博覧会が開かれていたが、ドジスンは「ほとんどもっぱら絵しか観なかった」(27)。
ドジスンは旅行中に何度も劇場に足を運んでいるが、これまた芝居狂のドジスンにしてみれば当然といえよう。
彼は少年時代すでに人形芝居の人形と劇場をもっていて、その一座のために台本を書き、自分で上演して家族を楽しませたのだった。二十代になると、父親の反対にもかかわらず、ロンドンの劇場に足繁く通うようになる。キャロルは職業劇団のためには一本も戯曲を書かなかったが、その芝居熱は生涯冷めることがなかった。
さて7月25日、ケーニヒスベルク。
[観た芝居は]あらゆる点でじつに良かった。歌といくつかの演技がとても上出来だった。"Anno 66"という演し物だったが、ほんのところどころしか言葉がわからなかったので、筋はほとんどちんぷんかんぷん(28)。
ニージニイ・ノブゴロドでも、同行したウェアーズ Waresなる兄弟の若い方といっしょにニージニイ劇場に出かけた。
こんな質素な劇場は今までに見たことがない。内部の装飾といったら、壁が真白に塗られているというだけだ。ばかでかい劇場で、おまけに十分の一も埋まっていなかったので、じつに涼しくて気持ちよかった。台詞は全部ロシア語なので、まったくわからなかったが、休憩時間に小辞典を頼りにプログラムと格闘した結果、なんの話だかは朧げながらわかった。最初のそして最良の演し物は『アラジンと魔法のランプ』。演技は掛値なしに第一級、歌も踊りもなかなかだった。役者たちはドラマと他の役者たちに注意を集中していて、まったく客席のほうを見ない。こんなのは初めてだ。「アラジン」の役をやった「レンスキー」という俳優、それに別の芝居に出た「ソロニナ」という女優がいちばん良かった。他の演し物は、『コーチシナ』と『大尉の娘』だった(29)。
モスクワでは、今度はウェアーズ兄弟の上の方といっしょに、マールイ劇場に足を運び、『市長の結婚』と『女の秘密』を観たが、「『アラジン』ほど面白くなかった」(30)というのがドジスンの感想である。
帰途、ドレスデンでもひとりで劇場に行き、パリでも、ヴォードヴィル劇場で『バンヴィトン一家』と『ファンファン』を、オペラ・コミック座では『ミニョン』を観て感動している。
ただし、リドンはけっしてドジスンに同行しなかった。彼は「1852年の聖職叙任依頼、劇場に入ったこともなく、生ある限り入ることもないだろう」(31)と書くような人物だったのである。
しかしながら、旅の行く先々でドジスン、リドンの二人が真っ先に足を向けたのは教会である。日曜日にはもちろんミサに参列した。ともに聖職者であったのだから、当然といえば当然であろう。とはいえ、ドジスンはむろん宗教に無関心だったわけではないが、神に仕えているつもりもなかったようだ。彼は1861年に執事Deaconに任命されたが、クライスト・チャーチの研究生になるには、執事になることが必須条件だったので,彼はいわば仕方なしに----彼自身の言葉によれば「一種の実験材料として」(32)----執事職についたのだといってもよかろう。執事職は牧師になるための前段階のようなもので、実際、執事になってからドジスンは、クライスト・チャーチ学寮長のリデルから、牧師になるようにと要請されたが、結局、生涯牧師にはならなかった。のちに、「執事の任命を受けるべき年齢に達したとき、わたしはすでに数学の講師だった。それをやめて教会教区の仕事をやる気など毛頭なかったし、牧師になるのがわたしの義務だなどとはとても思えない」(33)と書いているし、自己紹介するたびに自分の名前をドードードジスンと発音しなければならなかった彼には、説教など苦痛以外の何物でもなかったであろう。
教会に関する日記の記述には、ミサのすすめ方がユニークだとか、説教の内容がなかなか興味深かったといった、いわば職業的関心があらわれているが、いっぽう純粋に観光客的な感想も多く、ユダヤ教のシナゴークやイスラム教のモスクを訪ねたこと(34)も、宗教的関心もあったではあろうが、とにかく珍しい物を見てやろうという旺盛な好奇心のあらわれと読めないこともない。
3
ドジスンの旅日記からは、言葉にたいする並はずれた関心と、言葉が通じないことにたいする恐怖感がありありと感じられ、私見によれば、その点をこの日記の最大の特徴とみるべきであろう。
ケーニヒスベルクからペテルブルクの車中で、「ドジスンはペテルブルクに15年住んでいるという英国紳士と知り合う(ちなみにドジスンは彼とチェスを3ゲームやり、3ゲームとも負けた)。その紳士から、ロシアではロシア語以外の言葉が話せる人はほとんどいないと聞かされて、ドジスンはお先真っ暗になった。
ロシア語の驚くほど長い単語の例として、彼は次のような言葉を書いてくれた----
3АЩИЩАЮЩИХСЯ
これをローマ字で書くとZashtsheeshtshayoushtsheekhsyaとなる。この驚嘆すべき単語は分詞の複数生格で、「自分を護る人たちの」という意味だそうだ(35)。
8月12日、ドジスンとリドンはモスクワ郊外の三位一体修道院で大主教と会見するが、大主教と対話したのはもっぱらリドンであって、ドジスンはまるで野次馬のように会見を眺めていたのだった。
大主教はもっぱらロシア語しか話せなかったので、彼とリドンの会話(じつに興味深いもので、一時間以上続いた)は、じつに変わったやり方ですすめられた。大主教がロシア語で意見を述べると、主教がそれを英語に通訳する。今度はリドンがフランス語で答え、主教がそれをロシア語で大主教に伝えるのだった。つまり、会話は最初から最後まで二人の間で交わされたというのに、三ヶ国語を必要としたのだ(36)!
なるほどこうした会話のやり方はユニークであり、日記にしるしておくに値するかもしれないが、a very original fashion といった表現を用いたり、最後にわざわざ感嘆符を付したところに、言葉にたいするキャロルのこだわりが感じられてならない。
8月15日、ドジスンとリドンは早起きして新エルサレム修道院へと出かける。日帰りの予定だったが、思ったよりはるかに時間がかかり、一泊することになった。その宿には、ロシア語以外の言葉が話せる者はひとりもいないのだった。ドジスンは、「まるでロビンソン・クルーソーになったような」(37)気分だったとしるしている。
また8月22日、クロンシュタットのマクスウィニーMacSwinneyなる人物の家を訪ねた際、マクスウィニーが先に出かけてしまい、リドンはコートを使用人に預けたのだが、使用人はロシア語しかわからないので、なかなかコートを返してもらえなかった。そのときのやりとりを、ドジスンはユーモアを交えて延々と日記にしるしている。リドンは手ぶり身ぶりで、コートを返してもらいたいという意思を伝えようとする。メイドは「わかった」という顔つきで部屋を出ていき・・・・洋服ブラシをもってくる。リドンは額に汗してジェスチャーを続ける。と、メイドはまた「わかった」という顔つきで出ていき、今度は大きなクッションと枕をもってきて、ベッドをつくるのだった。そこでドジスンは、絵を書くというアイデアを思いつき、なんとか窮地を脱したのだった。
われわれの文明の水準はいまや古代ニネヴェ人のレベルにまで落ちてしまったという屈辱感をいだいて、われわれはペテルブルクに帰ったのだった(38)。
日記のいたるところで出会うのだが、ドジスンは、ミサに出たら出たで、「言葉が違うのでまったく理解できなかった」と書き、芝居に行ったら行ったで、「台詞がまるでわからなかった」と書く。もちろん外国旅行の最大の障害は言葉が違うという問題であり、言葉が通じないことに不安を感じない人はない。しかし、われわれは外国に行くにあたって、言葉が通じないという事態を予想している。通じなくて当たり前だと覚悟していく、と言ってもよい。ところがドジスンの日記を読んでいると、言葉が通じないことがまったく意外な事実であるかのように、彼は驚き、うろたえているのである。
このような言葉にたいする興味、言葉が通じないことにたいする恐怖感に、言葉の魔術師キャロルの特徴を読み取ることは、あながち穿った見方ではないように思われる。
< おわりに >
ドジスンはその後二度と英国から外に出なかった。この旅行のことも一度も書かなかった(39)。彼はこの旅行から、「後々残る強烈な印象を受けたようには思えない。むしろこれを契機に、余り他には関心なく、ひたすら母なる英国を愛するアングロフィリアの性向に一層拍車がかかった節がある」(40)。その後、ドジスンはクライスト・チャーチの自室と、そこで生みだされた幻想の世界に遊ぶことで満足だったのである。
< 註 >
略語表
Russian Journal : Russian Journal and Other Selections from the Works of Lewis Carroll, Edited & Introduction by John Francis Macdemott, New York, 1935. 引用ページは、ドーパ社のリプリント(New York, 1977)による。とくに引用ページを示していない場合も、ドジスンの旅日記からの引用はすべてこれによる。
Diaries : The Diaries of Lewis Carroll, Edited. by R. L. Green, London, 1953. 引用はリプリント(Connecticut, 1971)による。
Letters : The Letters of Lewis Carroll, Edited. by Morton N. Cohen with the assistance of Roger Lancelyn Green, New York , 1979.
Collingwood : Stuart Dodgson Collingwood, The Life and Letters of Lewis Carroll (Rev. C. L. Dodgson), London, 1898.
Gattegno : Jean Gattegno, Lewis Carroll, une vie, Paris, 1974.
ハドスン:デレック・ハドスン『ルイス・キャロルの生涯』高山宏訳、東京図書、1976. 原書はDerek Hudson, Lewis Carrolle, London, 1954.
(1) Collingwood, pp. 111-126.
(2)See Williams, Madan, Green, Crutch, The Lewis Carroll Handbook, Kent & Connecticut, 1979, p. 213.
(3)Collingwood, p. 111. ドジスンが撮影したリドンの肖像は、たとえばCollingwood, p. 112あるいは、Letters, Facing p. 124にある。リドンもまた旅行中日記をつけていた。その抜粋は以下の文献に収録されている。J. O. Johnston, Life and Letters of Henry Parry Liddon, 1904.
(4)ハドスン、164ページ。
(5)キャロルは1868年には『アリス』続編をLooking-Glass Houseと呼んでいたらしい。1869年1月12日付のマクミラン社宛ての手紙では、Behind the Looking-Glass, and What Alice Saw There と呼ばれている。1870年6月25日の日記にはじめて、リドンの提案になるThrough the Looking Glassという題名が見える。
(6)Diaries, p. 261.
(7)ハドソン、164ページ。
(8)同上、166ページ。
(9)Collingwood, pp. 111-112.
(10)Gattegno, p. 243.
(11)ハドスン、167ページ。
(12)Russian Journal, p. 84.
(13)Ibid, p. 87.
(14)Ibid, p. 89.
(15)Ibid, p. 93.
(16)Ibid, p. 86.
(17)Ibid, p. 74.
(18)Ibid, p. 115.
(19)Ibid.
(20)Ibid, p. 83.
(21)Ibid, p. 85.
(22)ハドスン、40ページ参照
(23)キャロルにとって、挿絵抜きにしては『アリス』続編など考えられなかった。そこでまず、もちろんテニエルに依頼した。作家は『不思議の国』の挿絵にたいへん満足していたのである。だがテニエルのほうは、作家からさんざん煩く注文をつけられ、何度も書き直しさせられたため、うんざりしていて、きっぱり断った。テニエルは『アリス』二冊の挿絵によって後世に名を残すことができたのだから、われわれからみるとずいぶん傲慢だと思えるが、まあそれはともかくとして、テニエルに断られたキャロルは1867年にリチャード・ドイルを訪ね、挿絵を頼んだが、この話は一向に進展せず、翌年4月、キャロルは再度テニエルに依頼するが、またも断られ、ノエル・ペイトンに話をもちかけたが、「テニエルが最適任だよ」と正しい忠告をあたえられ、結局テニエルを拝み倒して引き受けてもらったのであった。ハドスン、177ー178ページ参照。
(24)ハドスン、40ページ。
(25)同上、101ページ。
(26)Russian Journal, pp. 78-79.
(27)Ibid, p. 119.
(28)Ibid, p. 84.
(29)Ibid, p. 97.
(30)Ibid, p. 98.
(31)ハドスン、164ページ。
(32)徒弟であり名付子であるウィルコックスW. M. Wilcox 宛ての1885年9月10日付の手紙(Letters, p. 603)。
(33)同上(Letters, pp. 602-603)。
(34)ドジスンは旅先から何通も手紙を出したにちがいないが、現在書簡集に収録されているのは、ニージニイ・ノヴゴロドから妹のルイザに出した手紙(Letters, 106)一通のみ、この手紙でも、また同日の日記でも、イスラム教の礼拝を見学したことが報告されている。
(35)Russian Journal, p. 85.
(36)Ibid, pp. 100-101.
(37)Ibid, p. 104.
(38)Ibid, p. 112.
(39)Gattegno, p. 246.
(40)ハドスン、168ページ。
< 付表 キャロルのロシア旅行全日程 >
7/12 (金) ロンドンに赴く。午後8時30分に発ち、ドーバーでリドンと合流。
7/13 (土) 9時前に乗船、「90分間の快適な旅」。カレーに上陸後、ブリュッセルまで「単調で退屈な旅」。
7/14 (日) 10時に、聖クデュール教会のミサに参列。午後は独りで町を見物。
7/15 (月) 9時40分に発ち、4時にケルン着。大聖堂を見物。
7/16 (火) いくつかの教会を見てまわる。使徒教会で結婚式を見物。7時15分の夜行にのり、ベルリンに向かう。
7/17 (水) 朝8時ベルリン着。市内見学。美術館をのぞく。夜、聖ペトロ教会(福音主義)のミサにでる。
7/18 (木) 美術館で一日じゅう絵を観てまわる。
7/19 (金) 6時30分に起きて、聖ニコラ教会へ行き、宮殿を見学してから、ふたたび美術館で時を過ごす。午後、シャルロッテンスブルクまで行って眺望を楽しみ、夕方、ユダヤ教のシナゴーグに行ってみる。
7/20 (土) ユダヤ教の礼拝を見物。午後はポツダムへ行く。
7/21 (日) リドンはドイツ語の、ドジスンは英語のミサに出る。10時15分の夜行で発つ。
7/22 (月) 朝10時ダンツィヒ着。聖堂を見学。
7/23 (火) 町中をぶらつき、何枚か写真を買う。11時39分の列車でケーニヒスベルクに向かい、7時に到着。
7/24 (水) リドンが体調をくずしたので、ひとりで町を散策。
7/25 (木)「歩きまわった日。ただし特筆すべきこと何もなし」。夕刻、ひとりで芝居を観にいく。
7/26 (金) 12時54分の汽車でペテルブルクに向かう。
7/27 (土) 午後5時30分にやっとペテルブルクに着く。じつに28時間半の旅。
7/28 (日) 大イサク寺院のミサに参列。午後はペテルブルク市内を見学。ネフスキー大通りを端から端まで歩き、ピョートル大帝の像を見る。
7/29 (月) ペテルブルク市内をまわる。勧工場 the markets に行ってみる。
7/30 (火) 一日中歩きまわる。「15、6マイル歩いたんじゃないだろうか。とにかくここでは距離が桁違いだ。まるで巨人の国を歩いているみたいな気になる」。ペトロ・パーヴロフクス要塞、ヴァシーリィ島まで足をのばす。
7/31 (水) エルミタージュ美術館を見学後、アレクサンドラ・ネフスキー修道院を見学、夕のミサにも参列。
8/1 (木) ペテルブルクまでの汽車で同席した英国人アレクサンダー・ムイール氏の友人。メリリーズ氏の案内で、船でペトロゴーフへ行く。
8/ 2(金) 午後2時30分の汽車でモスクワに向かう。
8/ 3(土) 朝8時モスクワ到着、市内を散策。
8/ 4 (日) 英国教会の牧師ペニー氏を訪ねる。
8/ 5 (月) 朝5時に起きて、6時からのペトロフスキー修道院のミサに参列。宮殿を見学した後、ペニー氏の案内でロシア結婚式を見学。
8/ 6 (火) イヴァン塔に登ってモスクワ市内を眺望し、ペニー氏の案内で市場をぶらついた後、午後5時30分の汽車でニージニイ・ノヴゴロドに向かう。
8/ 7 (水) 汽車が遅れ、昼頃に到着。定期市を見てまわり、タタール人のモスクを訪れる。夜、ニージニイ劇場で『アラジンと魔法のランプ』その他を鑑賞。
8/ 8 (木) 寺院を見学した後、ミニン塔にのばって眺望をたのしみ、午後3時の汽車でモスクワへの帰途につく。
(註)この項、原文では8月7日となっているが、明らかに8日の誤りである。
8/ 9 (金) 朝9時モスクワ着。シーモノス修道院の塔から、モスクワ市内の眺望を堪能する。夜、マールイ劇場に足を運ぶ。
8/10 (土) ペトロフスキー宮殿を見学した後、シーモノフ修道院のミサに出る。
8/11 (日) 朝、英国教会のミサに参列。リドンが説教する。ペニー牧師といっしょにレオニード主教を訪ね、1時間半ほど歓談。
8/12 (月) 「じつに面白い一日」。5時30分に起きて、レオニード主教、ペニー牧師とともに、汽車で三位一体修道院へ行き、ミサに参列した後、大主教に面会。
8/13 (火) 「水の祝福」の日。その儀式を見に出かける。開かれている市をぶらつき、動物園にも行く。
8/14 (水) 「レストラン・モスクワ」で純ロシア料理に舌鼓を打つ。
8/15 (木) 早起きして、新エルサレム修道院へ行く。日帰りの予定だったのが、思ったより時間がかかったため、近くのホテルに泊まる。
8/16 (金) 朝3時に起きて、モスクワに戻る。リドンは某司祭と長談義。
8/17 (土) 祭りのため、三位一体修道院へ行くが、レオニード主教に会えず、期待はずれ。
8/18 (日) 聖母被昇天教会のミサに出かけた後、英国教会に寄る。帰途、クレムリンに感激。
8/19 (月) 午後2時の汽車でペテルブルクに向かう。翌朝10時着。
8/20 (火) 少し休んで手紙を書いたりするというリドンを置いて、買い物に出かける。御者とひと悶着。
8/21 (水) エルミタージュでじっくり絵を見る。
8/22 (木) クロッシュタットへ行き、軍港と造兵廠を見学。
8/23 (金) 三位一体教会、受胎告知教会、アルメニア教会を見てまわる。
8/24 (土) アレクサンドル・ネフスキー修道院の夕のミサに感激。
8/25 (日) ポンチャーチン伯爵の案内でギリシア教会、アレクサンドル・ネフスキー修道院とその付属神学校を見学。
8/26 (月) 2時に汽車に乗り込み、ワルシャワに向かう。
8/27 (火) 午後6時ワルシャワ着。
8/28 (水) ワルシャワ市内を見学し、いくつか教会を見てまわる。「全体としてこの町は、今まで見たなかでもっとも騒々しく汚い町のひとつだ」
8/29 (木) 4時に起きてブレスラウに向かう。
8/30 (金) 市内の教会を見てまわる。
8/31 (土) 午後、ドレスデンに向かう。
9/ 1(日)カトリック教会のミサに参列。
9/ 2(月)午前中は美術館で過ごす。午後、市内を散策した後、単独で劇場に足を運ぶ。 9/3(火)ふたたび美術館へ行った後、午後、ライプツィヒに向かう。
9/4(水)ライプツィヒ市内をざっと見学した後、ギーセンに向かう。
9/5(木)昼頃、エムスに着く。のんびり市内を散策。
9/6(金)午前10時にエムスを発って、ラインを上がり、ビンゲンまで行く。
9/7(土)早朝に出発し、夜10時にパリ着。
9/8(日)チュイルリー公園、シャンゼリゼ、ブーローニュの森を散策。
9/9(月)パリで開かれていた博覧会を見学、ほとんど絵だけを見てまわる。夜、ヴォードヴィル劇場で観劇。
9/10(火)「多忙な一日」。市内を歩きまわり、写真を買いこむ。
9/11(水)ふたたび博覧会へ。
9/12(木)ショッピングの後、ふたたび博覧会へ。夜、オペラ・コミック座で『ミニョン』を鑑賞。
9/13(金)市内をぶらつき、買物。午後7時にカレーに向けて出発。夜中の2時に着く。一路、英国へ。
|