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愛と憎しみのアンビヴァレンツ/『ロミオとジュリエット』をめぐって
(法政大学教養部紀要 1986/2/1)
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愛がしばしば憎しみをともなうのは何故なのだろうか。フロイトFreudは『本能とその運命』のなかでこう述べている、「愛の成立の歴史や種々の関係の発達史的考察によって明らかになったことは、愛が非常にしばしば”アンビヴァレンツ”に、つまり同一の対象にたいする憎悪興奮をともなって現れるということである」(1)。アンビヴァレンツAmbivalenzなる語は、精神分裂病Schizophrenieと同じく、ブロイラーBleulerによって精神医学に導入された。ブロイラーはアンビヴァレンツを、(1)愛と憎しみのあいだの情緒的動揺、(2)行動を決定する際の意志の決断不能、(3)平気で矛盾した主張をする知的確信、の三つに分類したが、ここでわれわれが問題にしようとするのは(1)の意味におけるアンビヴァレンツである。フロイトもほとんどの場合にこの語を(1)の意味で用いている。
フロイトによれば、精神器官は、たとえそれが高度に発達したものであっても、原始生物と同様、恒常原理Konstanzprinzipに支配されており、刺激を、それが外界からもたらされたものにせよ、内部から生じたもの(本能)にせよ、最小限に抑えようとする。刺激は「不快」であり、刺激のない状態は「快」であり、したがって精神は快感原則Lustprinzipの支配下にあるといえる。
自我は精神生活のごく初期には本能充足的(自体愛的)であり、外界には無関心である。「自我と自我の快感源泉との関係」(2)である愛は、この自体愛に起源をもつ。もちろんこの場合、自我の輪郭は明確ではなく、すなわち主体と母親は明確に分離されておらず、したがって自体愛には母親を対象とする愛情関係も含まれる。
いっぽう憎しみは「刺激を供給する外界にたいして自己愛的自我が示す根源的な拒否から発生」(3)する。刺激を最小限にして恒常性を保とうとする自我は、刺激をもたらすものを「憎む」のである。したがって対象との関係において、憎しみのほうが愛よりも古い。
しかし愛と憎しみが最初から対立物として現れるわけではない。愛の最初の形態は合体Einverleibenである。「食べちゃいたいくらい可愛い」という状態だ。これは対象との分離を止揚することを目指すのであるから、やはりアンビヴァレンツであるといえる。ついで前性器的なサディズム的肛門体制の段階では、自我は、対象に危害をくわえるとか、対象を抹殺するとか、とにかく手段をえらばずに対象を所有しようとする。性器的体制の出現とともに、はじめて愛と憎しみが対立物として現れてくるのである。
フロイトによれば、愛と憎しみは根源的に共通のものから分裂して生じたものではなく、それぞれが別の起源をもつ。すなわち愛の起源は性本能Sexualtriebであり、憎しみの起源は自己保存本能Selbsterhaltungstriebである。
周知の通り、『本能とその運命』の段階におけるこの本能二元論は『快感原則の彼岸』にいたって、生の本能Lebenstriebと死の本能Todestriebのペアに置き換えられ、恒常原則は涅槃原則Nirvanaprinzipと呼ばれることになる。フロイトにいわせれば、生命は、生の本能と死の本能という「二つの傾向の闘争であり妥協」(4)である。したがって、愛は生の本能に、憎しみは死の本能に関連づけられ、性愛に見られるサディズムは、「本来、自我の自己愛的リビドーの影響によって、自我からはみ出して、対象に向かってはじめて現れる死の本能である」(5)と仮定される。
以上が愛と憎しみについてのフロイトの議論の概要であるが、ここでひとつ推測を提出しておきたい。すなわち、「二種類の本能の対立のかわりに、われわれは愛と憎しみの両極性をおくこともできよう」(6)「われわれは生の本能と死の本能の大きな対立から出発した。対象愛そのものにもこれと似た別の両極性が見出せる。すなわち愛(情愛)と憎(攻撃)との対立である」(7)「ある本能が(内容的に)その対極へと変換する例として、ただ一つ認められるのは愛から憎しみへの変形である」(8)といった表現から推定されるのは、フロイトが、二大本能論の例として愛と憎しみを挙げているというよりも、愛と憎しみの共存から二大本能を演繹している一面もあるのではないか、ということである。このことは次に述べるシュピールラインSpielrein、ユングJungの議論においても重要な問題となってあらわれるだろう。
シュピールラインの論文『生成の原因としての破壊』がフロイトの死衝動論の先駆であることはほぼ間違いないと思われる(9)。シュピールラインはこの論文の出発点として、生殖本能のような圧倒的要請にもとづいたものが、どうして、愛の悦びのような積極的効果だけでなく、同時に、不安、苦悩、憎悪といったネガティヴな効果を生みだすのか、という疑問を発する。そしてこの問いにたいし、まず、生物学的根拠をあたえる。すなわち生殖細胞は他の生殖細胞と結合することによって生殖行為を完遂するが、結合と同時にみずからは破壊され、解消される。高等な精神器官においても、このメカニズムがはたらいているのである。そしてシュピールラインは、生殖本能の根底には対立する二つの成分、すなわち生の本能と破壊本能がある、と結論する。
この論文が、ユングとの恋愛関係(というよりむしろ愛憎劇と呼んだほうが適切であろう)を通じてのシュピールライン自身の体験から生まれたものである(10)と同時に、ユングの『リビドーの変容と象徴』にもとづいたものであることは、シュピールラインがこのユングの著書から長々と引用していることからも明らかである。引用されている箇所は、リビドーの二側面について論じた部分である。そのごく一部を下に掲げる。
Le desir passionel, c'est-a-dire la libido, comporte deux aspects : il represente cette puissance qui embellit toute chose, mais qui peut aussi, en certaines circonstances, tout detruire. L'on fait souvent mine de ne pas bien comprendre en quio une telle puissance generatrice peut se reveler destructive : une femme qui s'abandonne a la passion aura tot fait de s'en apercevoir, particulierement dans le contexte culturel moderne.(11)
ユングはのちに『象徴と変容』において、「情念の残酷な母」「夫の通り道に親切にもツノマムシを置いておくイシス」「破壊し、呑み込む母」「死そのものである母」(12)、すなわち神話において太母神としてあらわれるグレートマザー元型について論じるが、その部分の註で、「この事実をもとに、わたしの弟子だったシュピールライン博士は死への衝動という思想を発展させた。これをのちにフロイトが採り入れた」(13)と述べている。
以上のように、フロイトのアンビヴァレンツ論を、シュピールラインを経てユングまで辿った理由は、ひとつには精神分析学がその創成期において、愛と憎しみのアンビヴァレンツを一つの重要な精神現象とし、その謎を解明するための理論的根拠として、リビドー論を展開していったということであり、いまひとつには、フロイトからユングまでアンビヴァレンツ論を遡ると、前オイディプス期における母親(=大地)との関係が重要な要素として浮かび上がってくるということである。これはシュピールラインの幼児研究からメラニー・クラインMelany Kleineへと受け継がれ、さらにはラカンLacanを経て、クリステヴァKristevaのアブジェクシオンabjection論へと繋がる。
この愛と憎しみのアンビヴァレンツが、不可解なものとして人の心をとらえていたことは疑いなく、したがって、文学の中にそれを見出すこともできるであろう。
以下、われわれは愛と憎しみのアンビヴァレンツが文学において重要な役割を演じている例として、ドストエフスキーDostoevskiの『白痴』とシェイクスピアShakespeareの『ロミオとジュリエット』をとりあげるが、ここでわれわれの研究の姿勢を明確化しておかねばなるまい。ここでわれわれが取り組もうとするのは、精神分析という研究手段を用いた文学作品研究ではない。また精神分析研究のために文学作品をその例証として用いるわけでもない。すなわち一方のために他方を利用するわけではない。精神分析学と文学とがそのような関係にあるとは考えないのである。われわれは、すでに別の場所でこの立場を提唱した(14)が、精神分析学と文学の両者を照射しうるような視座を設定する。それは両者のウロボロス的関係の中心あるいは外側である。
いまひとつここで明確にしておきたいと考えることは、以下に提示する作品解釈はけっして他の解釈を排斥するものではないということである。精神分析的文学研究の多くは、作品構造をエディプス的三角関係に押し込めることによって、作品の意義を引き下げてきたように思われる。だが同時に、他の分野からの方法論の導入をこばむ古典的な文学研究にたいしても、われわれは意義をとなえるものである。すなわち、優れた文学作品はいくつもの「誤読」を許容しうるものであり、一義的な解釈はやはりその作品の意義を引き下げてしまうものである。
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『白痴』はドストエフスキーの作品のうちでもっとも「ドラマチック」なもののひとつである。この作品が読む者にあたえる強烈な印象は、推理小説仕立ての『罪と罰』がもつ緊迫した雰囲気とは違い、なによりも登場人物相互の情動的関係に由来する。すなわち、ムイシキン、ラゴージン、ナスターシャ、アグラーヤ、ガーニャはたがいに他にたいして、通常とはおよそ異質な感情を抱いている。精神分析的にみると、ムイシキンとナスターシャの特殊な恋愛からレーベジェフとラゴージンのサディズム----マゾヒズム的な関係にいたるまで、すべての人物の自我および自我と自我の相互関係は、多かれ少なかれ性器期から前性器期へと退行している。ドストエフスキーは癇癪病質であったが、フロイトによれば、「癇癪発作は衝動解離の産物であり、その徴候である」(15)。そして衝動解離は、性器期から前性器期への退行の本質である。『白痴』はそのことを明確に示しているように思われる。
登場人物たちのそうした常軌を逸した感情を支配しているもののなかで、もっとも特徴的にあらわれているのが、愛と憎しみのアンビヴァレンツである。たとえば作者は、ガーニャがナスターシャにたいして抱いている感情を次のように描写する。
彼の心のなかでは、恋と憎しみとがあやしく絡み合っているかのようであった(16)。
だが、このアンビヴァレンツがもっとも顕著にあらわれているのが、ラゴージンとナスターシャの関係であることはいうまでもない。小説の冒頭近く、「ラゴージンはナスターシャと結婚するだろうか」とガーニャに訊かれて、ムイシキンはこう答える。
「そうですねえ、結婚するだけなら、明日にでもするかもしれませんね。でも、結婚したら、おそらく一週間もたたないうちに殺してしまうでしょう」(17)
ラゴージンの家での有名な対話において、ムイシキンはラゴージンに向かっていう。
「きみの恋は憎しみと少しも区別がつかない」(18)
その同じ会話のなかで、ラゴージン自身、ナスターシャの心中を察して、ムイシキンにこう語る。
「あの女がおれのところに来ようっていうのは、つまり、おれのうしろに白刃が待ち伏せているからなのさ」(19)
たとえどんなに鈍感な読者でも、このラゴージンの愛の異常性には強烈な印象を受けるはずである。ヴォルィンスキーVolynskyはラゴージンの愛について、「ナスターシャ・フィリッポヴナに対する彼の真にデモーニッシュな愛」「ナスターシャ・フィリッポヴナに対する彼の愛の表示はすべて、破壊的な邪悪さの性格を帯びることになる」「彼は自分に対する彼女の感情もむしろ憎悪に近いことを知っている」(20)と論じ、読者の印象を代弁しているが、精神分析の視点からみると、ラゴージンの自我は完全に性器期から前性器期へと退行しているのである。ラゴージンはナスターシャを散々打擲し、ついには彼女を所有するために、殺してしまう。これは先に述べたフロイトのいう前性器期的なアンビヴァレンツの好例であるといえよう。先に引用したムイシキンの言葉に表されているように、ラゴージンとナスターシャの関係において、愛と憎しみとは区別がつかないのである。ムイシキンの愛がこのラゴージンの愛の裏返しであることはいうまでもない(したがって、ムイシキンもナスターシャと正常な愛情関係をもつことはできない)が、そればかりでなくこの前性器的な対象関係が作品全体を支配しているところに、この作品のもつ独特のドラマ性があるのである。
シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』は、前性器的な対象関係、サディズム----マゾヒズム、同性愛といった、正常な発達をとげた自我の対象関係とはまったくかけはなれたものが作品全体を貫いている『白痴』の世界とは、およそ無縁であるように思われる。だが激しい恋愛によって動揺をきたした自我は、発達の前段階へと退行し、衝動は解離し、アンビヴァレンツが表面化する。静謐な美に貫かれた『ロミオとジュリエット』もまた、その運命から免れていない。
いわゆる「悲劇期」よりもずっと前に書かれたこの作品においてシェイクスピアが歌いあげようとしたのが「恋」であることについては、異論の余地はないであろう。「そのころ彼は生と、とくに愛と、熱烈な恋愛をしていた。彼は観衆にも愛と恋愛に陥ってもらいたかった。彼らに愛の力と美のすべてを示してやりたかった。そして彼はそのことを効果的にやる唯一の方法が悲劇的方法であることを知っていた」(21)というドーバー・ウィルソン J. Dover Wilson の指摘は正鵠をえているといえよう。ただし、この作品はたんなる悲劇ではない。シェイクスピアは恋を描くために、まっしぐらに死に向かう二人の純粋可憐な恋だけでなく、ジュリエットの乳母やマーキューシオの口を借りて、卑猥な言葉を連発する。それは当時の観客にたいするサーヴィスだったとしても、同時にそれは、シェイクスピアが、その崇高さと卑属さの両者をひっくるめて「恋」を歌おうとしたことをあらわしているともいえよう。
同時にこの作品は冒頭から結末まで、全編を通して「死」に彩られている。それはすでにプロローグにおいて示されている。
A pair of star-cross'd lovers take thier life,
Whose misadventur'd piteous overthrows
Doth with their death bury their parents' strife.
The fearful passage of their death-mark'd love
And..... (Prologue)(22)
ロミオとジュリエットの死が次のような二つの意味をもっていることについては、異論はないであろう。
第一に、二人はキャピュレット、モンタギュー両家の抗争の犠牲になったのである。この抗争はまず第一に、「老人」をあらわしている。登場人物が、キャピュレット、モンタギュー両家の家長たちに代表される老人たちと、主人公の二人を中心とする若者とに分かれていることは容易にみてとれる。ロミオとジュリエットを滅ぼすのはいうまでもなく前者である。
そしてこの抗争は第二に、「社会全体」を意味している。大公の宣告をつたえるロレンスに向かって、ロミオはこう嘆く。
There is no world without Verona walls
But purgatory torture, hell itself;
hence 'Banished' is banish'd from the world,
And world's exile is death. Then 'banished'
Is death, misterm'd Calling death 'banished'
Thou cut'st my head off with a golden axe
And smilest upon the stroke that murders me. (。, 3)
ヴェローナ以外の場所には生はないのだ(もちろんこのことは、どうしてロミオはジュリエットを連れて他の町に逃げなかったのかという素朴な疑問を否定し去るものではない。だが、ロレンスとの会話にあらわれているように、ロミオが女性的かつ小児的になっていることに注目する必要がある)。
そして両家の抗争が、すべての恋愛は不倫の恋である、とする美学にとっては欠くことのできないものであることはいうまでもない。ゆえにロミオとジュリエットの恋は、掟を破った恋の代名詞として語り継がれてきたわけである。
さて、二人の死の第二の意味は、ロレンスの次のような言葉にあらわれている。
She's not married that lives married long,
But she's best married that dies married young. (「,4)
ここに示されているのは、純粋な恋は結婚によって腐敗することよりも死を選ぶ、という恋愛美学である。
実際、ロミオとジュリエットは、近松浄瑠璃の「道行」のように、ひたすら死をめざしてつっぱしる。マフッドMahoodによれば、先に引用した序詞の一節、"The fearful passage of their death-mark'd love"の"death-mark'ed"は、"marked out for (or by) death : foredoomed" を意味しうるが、"passage"を、"a course of events" という意味だけではなく、"voyage"の意味にも解すると、"with death as their objective"という意味に解することもできる(23)。したがって、ロミオとジュリエットは死を余儀なくされたのではなく、みずから死を選んだと解することも可能になる。実際、二人は愛の純粋さを守り抜くために死に向かって突きすすんでいるかのように思われる。その背景にあるのは、先に述べたような、結婚によって腐敗するまいとする恋愛美学だけであろうか。先に論じたフロイトのアンビヴァレンツ論からみるならば、ここには愛と憎しみのアンビヴァレンツがあらわれているのではなかろうか。
第一幕第五場において、ジュリエットは自分が恋した男がモンタギューのロミオであることを乳母から聞き、こう嘆く。
My only love aprung from my only hate.(, 5)
この"hate"はまず何よりも、キャピュレット、モンタギュー両家の間の憎しみ、より限定すれば、モンタギュー家にたいする(親から植えつけられた)ジュリエットの憎しみであろう(24)。だが、それだけであろうか。ここにはロミオにたいするアンビヴァレンツな感情が示されているのではなかろうか。燃えるような恋の底にある憎悪が顔を見せているのではなかろうか。クリステヴァが指摘する"haine a l'origine meme de l'elan amoureux", "haine preexistant au voile de l'idealisation amoureuse" (25)を示しているのではなかろうか。 もちろん、ジュリエットが、この愛の底に潜む憎しみを意識しているとは思えない。彼女の意識においては、この"hate"は、先に述べたようなモンタギューにたいする憎しみである。この憎しみのほうが、ロミオにたいする無意識的な憎悪よりも耐えやすいから、ジュリエットの自我はモンタギューへの憎悪をはっきり意識化することによって、より恐ろしい、より根源的なこの無意識的な憎悪をいつまでも無意識中に抑圧しておこうとするだろう。
ロミオにたいする無意識的な憎しみは、当然ながら、ロミオの死を(もちろん意識的に)願うことになる。
Come gentle night, come loving black-brow'd night.
Give me my Romeo; and when I die
Take him and cut him out in little stars,
....... (。,2)
クリステヴァはこの一節をとらえ、大島渚の『愛のコリーダ』L'impire dessens の典雅版のようだと評している(26)が、この評はけっして突飛ではない。したがって、庭にいるロミオを見下ろして言うジュリエットの台詞----
O God, I have an illusion soul!
Methinks I see thee, now thou art so low,
As one dead in the bottom of a tomb. (。,5)
この台詞は、予感であるが、精神分析的にみれば、これは願望的予感であり、ジュリエットがロミオの死を願っていることを示している。ロミオにたいする恋に身を焼く少女がどうして相手の死を願うなどということがありうるのか、という質問が投じられるであろう。しかし、精神分析の立場に立つならば、自我が激しい恋によって動揺をきたした途端、性本能と死の本能とが解離し、憎悪が抑圧から放たれるのである。
したがって、精神分析的にいうならば、この作品は、"tragedy of Character" なのか、それとも"tragedy of Fate" なのか、という対立する疑問を越えたレベルで、人間本能の悲劇だということができる。この作品が死に彩られている、という表現を、精神分析流にいいかえるならば、この作品は死の本能によって彩られているのである。
註
引用文は原則として原文で掲げたが、ロシア語に限っては、日本語に訳した。人名に関しては、ロシア人名はローマナイズした。
(1)Freud, Sigmund, "Trieb und Triebschicksale", 1915, フロイト『本能とその運命』小此木啓吾訳、フロイト著作集(人文書院)、第6巻、77ページ。(以下、たんに『本能とその運命』と記す)。以下、フロイトからの引用に付したページ数は、この邦訳著作集第6巻のページ数である。
(2)『本能とその運命』、73ページ。
(3)『本能とその運命』、77ページ。
(4)Freud, Sigmund, "Das Ich und das Es" , 1923, フロイト『自我とエス』小此木啓吾訳、285ページ。(以下、『自我とエス』と表記)。
(5)Freud, Sigmund, "Jenseits der Lustprinzips", 1920, フロイト『快感原則の彼岸』小此木啓吾訳、186ページ。(以下、『快感原則の彼岸』と表記)。
(6)『自我とエス』、286ページ。
(7)『快感原則の彼岸』、185ページ。
(8)『本能とその運命』、72ページ。
(9)拙稿「ザビーナ・シュピールライン----フロイトとユングのはざまで」『ユリイカ』、青土社、1985年10月号参照。なお、フロイト自身は『快感原則の彼岸』において、「内容も思想もともに豊富であるが、遺憾ながら私には完全に理解しきれぬ業績の中で、ザビーナ・シュピールラインは、すでにこの思弁をことごとくこころみている。彼女は性的衝動のサディズム的要素を『破壊的』と名づけている」(186ページ)と述べている。
(10)ザビーナ・シュピールラインの名はこれまでほとんど歴史の埃に埋まっていたといっていい。最近になってようやく、精神分析の創成期における彼女の存在の大きさが再評価されるようになった。シュピールラインについて詳しくは、次の論文を参照のこと。Carotenuto, Aldo, Diario di una Segreta Simmetria: Sabina Spielrein tra Jung e Freud, Roma, Astrolabio, 1980.
(11)原文を入手できなかったので、ここでは、Carotenuto, Trombetta, Guibal, Nobecourt (ed), Sabina Spielrein : Entre Freud et Jung, Paris, Aubier Montagne, 1981.に収録されたシュピールラインの論文(Spielrein, Sabine, "Die Destruktion als Ursache des Werdens" in Jahrbuch fur psychoanalytische und psychopathologische Forschungen ; Jarbuch der Psychoanalyse, 4, 1912) のフランス語訳より引用。
(12)Jung, C. G., Symbole der Wandlung : Analyse des Vorspiels zu einer Schizophrenie. ユング『変容の象徴---精神分裂病の前駆症状』野村美紀子訳、筑摩書房、1985、501ページ。
(13)同上、662ページ。
(14)拙稿「ザミャーチン・神話・エントロピー」、『GS(たのしい知識)』創刊号、冬樹社、1984、178ー189ページ。
(15)『自我とエス』、286ページ。
(16) Dostoevsky, F. M., Idiot, Polnoe sobranie sotsinenii v tridtsati tomakh, tom vos'moi, Leningrad, Nauka, 1973, p. 43.
(17)Ibid., P. 32.
(18)Ibid., P. 177.
(19)Ibid., P. 179.
(20)Volynsky, A. L. Dostoevsky, S. Peterburg, 1909, ウオルィンスキイ『美の悲劇』大島かおり訳、みすず書房、132、134、141ページ。
(21)Wilson, J. Dover, Six Tragedies of Shakespeare, 1929, ウィルソン『シェイクスピアの六悲劇』橘・岡崎・増用訳、八潮出版社、25ページ。
(22)以下、『ロミオとジュリエット』からの引用は、次のテクストによる。Gibbons, B. (ed). Romeo and Juliet, London Mathuen (New Arden Edition of the Works of William Shakespeare). なお、ページ数を掲げる代わりに、引用の末尾に幕数と場数を掲げる。
(23)Mahood, M. M., Shakespeare's Wordplay, London, Methuen, 1957, 1968, p. 56.
(24)市河・嶺注釈『ロミオとジュリエット』、研究社、1964 はこの hate に次にような注釈を付している。"hate = object of hatred, enemy"
(25)Kristeva, Julia, Histories d'amour, Paris, Denoel, 1983, p. 213.
(26)Ibid., p. 214.
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