第四章 グリム童話の面白さ

5ーー『グリム童話集』のイデオロギー

キリスト教
 以上に述べてきたことの他にも、グリム兄弟はその童話集のそこかしこに、さまざまなイデオロギーを盛り込んだ。以下に、そのうちの二点ほどを指摘しておこう。
 まず、「星の銀貨」〔一五三〕を見てみよう。このメルヘンは、先に触れたように、草稿では短いメモだった(一三二ぺージ参照)。それをグリム兄弟は一篇のメルヘンに作り上げたのだった(一五九ページ参照)。親も家も失った貧しい少女が、最後には金持ちになるという話だ。
 少女は、父親も母親も、家も、寝床も失うが、「信心ぶかい、気立てのよい子でした」と書かれている。頼りにする人が世間にひとりもいなくなったので、少女は「神さまを頼って」野原に出てゆく。そこで貧しい男に会い、「神さまのお恵みがありますように」と言って、最後のパンを恵む。
 ヴィルヘルム・グリムは、このように少女の信仰心を強調することによって、彼女は信心深かったから幸福になれたのだ、といメッセージを盛り込んでいる。グリム童話集全体についていえば、ヴィルヘルムは、メルヘンが本来もっていた異教的な要素をできるだけ払拭し、そこにキリスト教信仰を盛り込んだといえる。

男女の役割分担
 次に、「白雪姫」〔五三〕の、小人たちと白雪姫が出会う場面を見てみよう。草稿と初版を比べてみると、ヴィルヘルムがここに何を盛り込もうとしたかがはっきりとわかる。

〈草稿〉
 翌朝、白雪姫が目をさますと、小人たちは、一体どうしてここに来たのかと姫にたずねました。そこで姫は、母親である后が姫ひとりを森に置き去りにして行ってしまったことを、洗いざらい話しました。小人たちは姫をあわれに思い、姫にこう言いました――ここにずっといなさい、わしらは鉱山に出かけるから、わしらのために食事を作ってくれ。ただし后には気をつけて、誰も家には入れないように、と。

〈初版〉
 白雪姫が目をさますと、小人たちは姫に、あなたは誰か、一体どうして家に入り込んだのか、とたずねました。そこで姫は、母親が自分を殺そうとしたこと、猟師が見逃してくれたこと、そしてまる一日走ってようやくこの家にたどりついたことを、話しました。小人たちは姫をあわれに思い、こう言いました。「もしあんたが、わしらのために家事を切り盛りしてくれ、料理、繕いもの、寝床の整頓、洗濯、編み物をやり、そして何もかもきちんと清潔にしておいてくれるなら、ここにいてもいいよ。そうすりゃ、あんたには何ひとつ不自由させない。夕方になって、わしらが帰ってきたら、食事できるようにしておいてくれ。昼間、わしらは山にいて、金を掘る。だからあんたは一人きりだ。お后には気をつけて、誰も家には入れないように」。

 ここには明らかに、「女の役目は家を守ること」というメッセージが盛り込まれている。男が外で働いている間、女は家の中をきれいに整え、食事をつくって、男の帰りを待つのだ。こうした考え方は、農民のものでも、貴族のものでもなかった。当時生まれつつあった労働者階級(プロレタリアート)のものでもなかった。プロレタリアートの家庭では、妻も子どもも働きに出なければならなかったのだ。「女は家を守るもの」という考え方は、十九世紀に勃興した市民階級(ブルジョワジー)の発想だったのである。
 つまり、白雪姫はグリム兄弟の時代に生まれた、新しいタイプのお姫様だったのだ。ウォルト・ディズニーはこのメッセージをさらに徹底させた。アメリカがまだ不況にあえいでいた一九三六年に、ディズニーの最初の長編アニメ映画として制作された「白雪姫と七人の小人」では、小人たちは、毎朝きまった時刻に目覚まし時計の音で起き、仕事に出かけてゆく労働者あるいはサラリーマンとして描かれ、白雪姫はその家をきちんと清潔に保つ処女=妻=母親として描かれている。
 いうまでもなく、この考え方は現代でもまだ生きている。欧米では、男女がどちらも外に出て働き、家事も分担するという生活スタイルがかなり一般に浸透したけれど、日本では、まだまだ「女は家にいろ」という意識がつよい。
 余談だが、先日、東京大学の学生数人と話をする機会があった。そのとき、彼らのほとんどが「結婚したら、やはり女性には家にいて、子育てに専念してもらいたい」と言っていたので、正直なところ唖然としてしまった。私の学生時代には、みんながもう少し男女平等的な考えをもっていたのだが。

現代へのメッセージ
 そろそろ、グリム兄弟がその童話集に盛り込んだものについて、いいかえると、私が本書の冒頭で述べた、『グリム童話集』の新しい面白さについて、結論めいたことを述べるべきだろう。
 私たちはふつう「メルヘン」なるものを、人びとが長い時間をかけて練り上げ、世代から世代へと語り継いできたお話、と理解している。そういうものだからこそ、現代においてもなお広く語られ、読まれているのだ、と思っている。そして、グリム童話こそ、そうしたメルヘンの代表だと考えている。
 しかし、これまで見てきたように、グリム童話は、古代から口伝てに継承されてきたメルヘンそのものではない。ほとんどグリム兄弟の創作といってもいいくらいなのである。したがって、グリム童話が今日もなお広く読まれていることは、それが「民衆の知恵の結晶」であることを意味しているというよりむしろ、グリム兄弟が、今日の私たちになおも訴える力をもったメルヘンを創出したということなのだ。そこに、グリム兄弟による童話集の編集=創作の意味がある。
 現代のもっとも重要なグリム研究者のひとり、ハインツ・レレケは次のようにいう。

『グリム童話集』の国際的大成功を可能ならしめたのは、「ドイツ的本質」への喜びといったようなものではなく、それぞれの国の社会史的、精神史的状況が、十九世紀初頭のドイツのそれと似ていたからなのである。(……)市民階級は、国境を越えて、グリムのお話が自分の道徳律や理想を代表しているかのように思い、従って教育的に利用できると思って、それらのお話が心地よく自分をも同化してくれると考える。市民的家庭意識、子どもを独立の人格として高く評価する全く新しい子ども観、程よく調整されたビーダーマイヤー風の世界観――それは十九世紀ヨーロッパのものであるが、二十世紀後半の日本の社会でも、ほぼ同じである――が、グリムのメルヘンを幾世代にもわたって熱狂的に受け容れるための、つねに重要な前提であったし、それは現在でもそうなのである。

 繰り返すが、グリム童話が今もなお広く愛されているということは、グリム兄弟がメルヘンに盛り込んだメッセージが現代にもあてはまるということである。
 一例を挙げよう。先にも触れたように、「赤ずきん」はレイプの寓話としても読むことができる。この話には「女の子がちょっとでも好奇心・冒険心をもつと、怖い目にあいますよ」というメッセージがこめられている。女の子たちは、幼いときにこのメッセージを吹き込まれることによって、「女は弱いものだ」という意識をもつようになり、受け身的な性格を身につけるようになる。
 しかし、性犯罪がなくならない――いや、むしろ増えている――以上、「男の甘い言葉に騙されてはいけない」というメッセージは、悲しいながら今も有効なのである。

社会とメルヘン
 グリム兄弟はその童話集に彼らの価値観を盛り込んだ。彼らの価値観とは、当時その地位を固めつつあったブルジョワ階級の社会観・道徳観である。
 そのことでグリム兄弟を非難してもはじまらない。彼らも「時代の子」であった。彼らは彼らなりに「誠意」をつくしたのだ。その誠意の結実が『グリム童話集』である。
 しかし、誠意の結実だからといって、それを受け入れなくてはならない、ということに
はならない。
 社会が変われば、人びとが好むメルヘンも変わり、グリム童話も読まれなくなるだろう、と楽観していればいいのだろうか。『グリム童話集』は、ブルジョワジーという階級の確立の結果であったと同時に、ブルジョワジーの生活様式を確立するための推進役をも果たし、今日まで、その生活様式の再生産に奉仕してきたのである。社会が変わればメルヘンも変わるというのは一面的な見方である。
 しかし一方、メルヘンが変われば社会が変わると考えるのも単純すぎる。速断は慎まなければならないが、現在までのところ、フェミニストによる創作メルヘンがグリム童話に取って代わる気配は見られない。
 ではどうすればよいのか、と問われても、私にはとても答えられない。今のところ、私たちにできることといったら、グリム童話を「古代から伝えられた民衆の知恵の結晶」としてだけ見ることをやめ、その中に、資本主義社会とか近代市民社会といった名前で呼ばれる何物かの「陰謀」を読み取りつつ、メルヘンを「楽しむ」ことくらいではなかろうか。