2ーー暴力と残虐性
メルヘンらしい「星の銀貨」
比較的よく知られている話だと思うが、「星の銀貨」〔一五三〕というメルヘンがある。
むかし、ひとりの小さな女の子がいました。お父さんもお母さんも死んでしまったうえ、とても貧しかったので、住む部屋も眠る寝床もなく、しまいには身にまとっている着物と、手に持っている一切れのパンのほか、何もなくなってしまいました。
頼りにする人もなくなったので、少女は神を頼って野原に出てゆく。そこで貧しい男に出会い、パンをあげ、さらに子どもに出会って、帽子を、次にチョッキを、次にスカートを、最後には下着もあげてしまい、裸になってしまう。
女の子がそうやって、もう何も身につけずに立っていると、突然、空から星がぱらぱらと落ちてきました。それは光る銀貨でした。下着をあげてしまったのに、女の子は新しい下着をつけていました。それは最上等のリンネルでできていました。女の子は銀貨を集めてポケットに入れ、一生お金持ちで暮らしました。
メルヘンらしいメルヘンといおうか、一般にメルヘンと聞いたときにイメージされるような話だ。しかし、『グリム童話集』には、これとはおよそ雰囲気を異にする血腥(なまぐさ)い残虐な話がたくさん並んでいる。この童話集にはあちこち血が飛び散っていると言っても過言ではないのである。
グリム版「血肉の華」
「血肉の華」というホラービデオをご存じだろうか。以前から一部のファンの間では話題になっていたが、一九八八年から翌年にかけて東京近郊で起きた連続幼女誘拐殺人事件の容疑者Mが所蔵していたということで一躍有名になった。
変質者が勤め帰りのOLを誘拐し、麻酔してベッドに縛りつけ、メスや鋸(のこぎり)で手足や首を切断してゆく。それだけのストーリーである。手足を切断してゆく過程が、特殊技術によってじつにリアルに描写されていて、気の弱い人はとても最後まで見通すことはできない。「本当に人間を切り刻んでいるのではないか」という疑惑すら生まれたくらいである。
ところが、大方の人が子ども向けの読み物だと思い込んでいる『グリム童話集』にも、「血肉の華」に劣らぬ残酷なシーンがあるのだ。
「盗賊のお婿さん」〔四〇〕を読んでみよう。粉屋の娘が婚約者の家に招かれる。ところが家はがらんどうで、地下室へ行くと老婆が一人すわっている。老婆は「かわいそうに、とんでもない所へ来たもんだ。おまえさんの結婚相手は人殺しなんだよ」と言って、娘を大きな樽の後ろに隠す。そこへ盗賊たちが帰ってくる。
盗賊たちは別の若い娘を引っ張ってきたのでした。酔っぱらっていて、娘が泣いてもわめいても耳をかしません。盗賊たちは娘に、葡萄酒をさかずきに三杯なみなみとついで飲ませました。白いのを一杯、赤いのを一杯、黄色いのを一杯。それを飲むと、娘の心臓は破裂しました。すると盗賊たちは娘の着ている物を剥ぎとり、テーブルの上に寝かせ、きれいな体を細切れにして、その上に塩をふりかけました。樽の後ろに隠れていた娘はがたがた震えました。盗賊の一人は、殺された娘の小さな指に金の指輪がはまっているのに気づきましたが、すぐには抜けなかったので、斧をとって指を切り落としました。すると、指が高くはねて樽の向こうに飛び、隠れていた娘の膝の上に落ちました。
こうした描写は、グリム童話集の中でけっして例外的なものではない。
「恋人ローラント」〔五六〕では、魔女が誤って自分の娘を殺してしまう場面が生々しく描写されている。魔女は「右に斧をもち、左手で、どちらの娘が前に寝ているかと、触ってみました。そして両手で斧をもち、自分の子どもの首を切って落としました」。翌朝、魔女が子どもの部屋に行ってみると、「自分の子どもが血の中に浮いていました」。
グリム版「青ひげ」ともいうべき「フィッチャーの鳥」〔四六〕でも、魔法使いが、さらってきた女の子に留守番をさせ、「あの部屋だけは覗いてはいけない」と厳命する。禁を破った女の子の見たものは、大きな血だらけの盥(たらい)と、その中にころがる細切れにされた人間の死体だった。
彼は娘を投げ倒し、髪の毛をつかんで引きずってゆき、台の上で首をちょん切り、手足を切り刻みました。娘の血が床を流れました。それから魔法使いは娘の体を、他の死体の入っている盥の中に投げ込みました。
「灰かぶり(シンデレラ)」〔二一〕でも、継母は実の娘を王子の妻にしようと、「お后になれば、足で歩く必要なんかないんだよ」と言いくるめ、上の娘の足の指を、そして下の娘のかかとを、ナイフで切りとる。しかも、「王子が娘の足を見下ろすと、血が足から湧き出て、白い靴下の上まで真っ赤に滲んでいました」という生々しい描写がなされている。
こうした文字通り血腥い描写に、ヴィルヘルムも、また読者も、不快感をもたなかったようだ。
人肉食の場面も
さて、右の「盗賊のお婿さん」に登場する盗賊たちは人食いだが、『グリム童話集』を読むと、一度ならず人肉食(カンニバリズム)に出会う。
ご存じの通り、「白雪姫」〔五三〕の継母(もとの話では実の母親)は狩人に、白雪姫を森に連れていって殺し、その証拠に白雪姫の肺と肝をもってこいと命じる。狩人は白雪姫を逃がし、通りかかった猪を殺して、その肺と肝をもって帰るが、女王はそれを白雪姫の肝だと思って食べる。
「ねずの木の話」〔四七〕では、継母が、自分の実の娘に全財産を継がせたいと思い、先妻の息子を殺そうと思い立つ。
彼女はリンゴの入った箱のフタを開け、息子に「一つ取りな」と言う。男の子が首を突っ込んだとき、思い切りフタをしめたので、男の子の頭が箱の中に落ちる。さらに継母は殺人を隠すため、子どもの頭を胴体の上にのせて、布を巻き付け、椅子に腰かけさせる。娘が兄に手を触れると、首がごろりと落ちる。
さらに継母は男の子の死体を細かく刻み、スープに入れて煮込む。帰宅した父親は、「今日の御馳走はとてもうまい。もっとくれ。おまえは手を出すな」と言って、骨をテーブルの下に投げつつ、スープをすっかりたいらげてしまう。
ちなみに、この場面は「かちかち山」を思い出させる。タヌキはばあさまを殺し、煮込む。そこへじいさまが帰ってくる。
「ばあさまや、腹へった腹へった。たぬき汁はできたか」
「おや、じいさま、おそかったなあ、たぬき汁ぁ煮えてるで食ってがんせ」
ばあさまに化けたたぬきは、ばばあ汁を出したそうな。じいさまがひと口食べているとなんともへんな味がする。
「ばあさま、ばあさま、なんたらおかしな味のたぬき汁だべ」
「そりゃあ年老ったたぬきだもの、屁臭い味すんだべや」
「んだべなあ」
首こかしげかしげ、じいさまはそれでも三膳三椀食べたそうな。
「ちった屁臭いども、うまかった、うまかった」
じいさまがそういうて、歯をせせっていると、たぬきはばば皮をべらりと脱いで、「やーはい、やーはい、ばばあ汁食ったじじい、ばんばぁ奥歯にひっついた、流しの下の骨を見ろ」と囃したてながら、ぼんぼり、ぼんぼり、山の奥さ逃げてしまった。
(松谷みよ子『日本の昔ばなし』講談社文庫)
先に触れたように、グリム童話集の「赤ずきん」〔二六〕にも、そのもととなったシャルル・ペローの「赤ずきん」にも、人肉食は描かれていないが、ペローの「赤ずきん」のもととなったと考えられる口承メルヘンでは、赤ずきんは狼に殺されたおばあさんの肉を食べ、血を飲む。
肉を食べ血を飲むことの意味
いったいこの人肉食をどう説明したらよいのだろうか。
「白雪姫」や「赤ずきん」の場合は、「呪術的食人」であると言うことができよう。すなわち、その人間の特質をわがものとするために食べるのである。継母の后は白雪姫の美貌を自分のものとするために姫の肺と肝を食べ、赤ずきんは前世代の遺産を継承するために祖母の肉を食べ、血を飲むのである。
では「ねずの木」〔四七〕激の場合はどうだろう。野村_(ひろし)氏は『グリム童話』(ちくまライブラリー)の中で、継母が男の子の死体を細かく刻むことについて、宗教学者エリアーデの次のような文章を引用しつつ、「骨からの復活」という考え方のあらわれであると述べている。
(骨からの復活という考え方は)狩猟文化に属するきわめて古代的な宗教思想である。骨は動物生命の根源を象徴する。ここから肉がたえず生じてくる鋳型なのだ。人間や動物が再生するのは骨からである。(……)つまりその骸骨は新しい肉が与えられて生命を取り戻すのである。
(エリアーデ『死と再生』堀一郎訳)
この解釈はある程度あたっているとは思うが、これだけでは、継母が男の子の死体を切り刻むことの説明にはなりえても、それを父親に食べさせることの説明にはならないように思われる。ここでは、「かちかち山」の場合と同じく、身内の者の肉を食べるという行為のおぞましさが強調されているのではなかろうか。フランスで恋人を殺して食べてしまったという日本人がいるが、彼はやはり(多数派が正常、少数派が異常という意味で)異常である。愛する者の肉を食べることは、ふつうの人間ならば死んでもやりたくないことだ。
「ねずの木」は、画家のオットー・ルンゲが採話したメルヘンであるが、これを収録したことは「残酷趣味」を示しているとしか筆者には考えられない。ただし、それはヴィルヘルム・グリムの個人的な趣味なのではない。後に述べるように、時代の趣味だと思われるのだ。
刑罰も惨酷嗜好
『グリム童話集』には、悪者が最後に罰を受けるという話が多い。たいていの場合、悪者はきわめて残酷な刑罰に処せられる。
「ホレおばさん」〔二四〕に出てくる怠け者の娘は、ホレおばさんから、大きなお釜一杯のどろどろのヤニをぶちまけられる。そのヤニは「娘にべったりくっついて、死ぬまでとれませんでした」。だが、これはまだいいほうだ。
「十二人の兄弟」〔九〕では、邪悪な継母は、煮えたぎる油と毒蛇が一杯入っている樽の中に入れられる(まったくの余談だが、煮えたぎる油と毒蛇がいっしょに入っていたら、毒蛇はみんな死んでいるはずだ、と誰かが――誰だか忘れてしまった――書いていた)。
「森の中の三人の小人」〔一三〕の邪悪な継母は、実の娘といっしょに、王の妻となった継娘をベッドから運びだして川に投げ込む。最後のところで、継母は王から、「ひとをベッドから運び出して川に投げ込むような人間は、どんな目にあわしてやったらいいだろう?」と質問され、「そんな悪者は、釘の打ちつけてある樽に入れて、山から川の中へころがすのが一番です」と答え、その通りの目にあう。
「兄さんと妹」〔一一〕は、幼い兄が妹に言う、「母さんが死んでから、ぼくたちには幸せなときが少しもない。継母はぼくたちをぶつし、そばにいけば蹴っ飛ばす」という有名なセリフで始まる話だが、この話の最後では、魔法使いの女が焼き殺され、その娘は森で獣に引き裂かれる。
「白雪姫」〔五三〕の后は、真っ赤に焼けた鉄の靴をはいて、死ぬまで踊り続けることになる。
「なでしこ」〔七六〕では、魔力をもった王子を奪い、その罪を后になすりつけた料理人が、四つ裂きにされる。
こうした残酷な刑罰には、悪事をはたらけば必ず罰せられるという倫理観があらわれているが、それだけなら、何もこれほど酷い罰をあたえなくともいいはずだ。野村_氏は、こうした残酷な刑罰が実際に行われていたことを強調し、グリム童話における残酷な刑罰は歴史的事実の反映だという結論を出している。それはその通りだろう。確かに、魔女裁判が盛んな頃にはさまざまな酷い刑罰・拷問の方法が考えだされ、実行された。
だが、こうした刑罰がかつて実際におこなわれていたということと、それがすでにおこなわれなくなっていた時代に、それを物語に取り入れる(あるいは、そのまま残す)ということとは、まったく別のことである。ここでも、筆者などは残酷への嗜好が感じられてならないのである。
ユダヤ人への偏見も
『グリム童話集』には、なんとも不気味で不愉快な暴力も多い。
「ふたりの旅職人〔一〇七〕では、陽気な仕立屋と陰気な靴屋がいっしょに旅をすることになる。森にさしかかったとき、仕立屋は二日分、靴屋は七日分のパンをもっていく。二日経っても彼らはまだ森を抜けられない。仕立屋はパンがなくなると空腹に悩まされるようになり、五日目には死にそうになる。それで靴屋にパンを恵んでくれと懇願する。
靴屋はパンを分けてやるが、その代わりに仕立屋の片目をくりぬく。七日目、ふたたび死にそうになった仕立屋に、靴屋はパンを恵んでやり、その代わりに仕立屋のもう一方の目をくりぬく。
結局、仕立屋はまた目が見えるようになり、幸せをつかみ、靴屋はカラスに目をえぐられる。
グリム兄弟のユダヤ人にたいする偏見を示すものとしてしばしば例に挙げられる「いばらの中のユダヤ人」〔一一〇〕では、ユダヤ人が、魔法のバイオリンによっていばらの中でさんざん踊らされ、傷だらけになり、血まみれになって、財布を盗まれる。彼は裁判官に訴えるが、ユダヤ人は高利貸しをして金を儲けるというだけの理由で死刑になる。
エスカレートする描写
ヴィルヘルムによるメルヘンの書き換えの一つの大きな特徴は、こうした残酷な描写をさらにどきつくしていったということである。
「ルンペルシュティルツヒェン」〔五五〕を見てみよう。ある粉屋にきれいな娘がいた。粉屋は、「この子は藁をつむいで金にします」と言って、王に娘を売り込む。王は娘を城に連れていき、藁を積んだ部屋にとじこめ、夜の間に藁を全部つむいで金にしないと殺す、と命じる。
途方にくれている娘の前に、小人があらわれる。小人は娘のネックレスと引き換えに、藁をつむいで金にする。二日目の晩は娘から指輪をもらう。三日目の晩、娘が「もうあげるものがない」というので、小人は「おまえが后になってから生まれた最初の子どもをくれ」と言う。娘は約束し、小人は藁をつむいで金にする。そのおかげで娘は王と結婚する。
最初の子どもが生まれると、小人が子どもを引き取りにくる。后があまりに嘆くので、小人は「三日待とう。それまでに私の名前がわかったら、子どもはあきらめよう」と言う。三日経って小人がやってくるが、后はすでに小人の名前を知っており、「ルンペルシュティルツヒェンでしょ」と答える。
草稿、初版、第二版を比べると、ヴィルヘルム・グリムが最後の場面をどぎつくしていったことがよくわかる。
<草稿>
それを聞くと小人は仰天し、悪魔が教えやがったなと言うと、スプーンに乗って窓から飛んでいきました。
<初版>
「悪魔が教えやがったな」と叫ぶと、小人は怒って飛び出していき、二度と帰ってきませんでした。
<第二版>
「悪魔が教えやがったな、悪魔が教えやがったな」と小人は叫び、かっとなって右足で地面をつよく踏んだので、腰まで土の中に埋まってしまいました。そこで今度は癇癪(かんしゃく)を起こし、左足を両手でつかんで、自分の体をまっぷたつに引き裂いてしまいました。
ペローの「サンドリヨン(シンデレラ)」では、最後の場面で、義理の姉たちはサンドリヨンの足もとに身を投げ出し、それまでのひどい仕打ちを詫(わ)びる。サンドリヨンはじつに寛大で、「喜んで許しますとも。どうかいつまでも私を好きでいてください」と言う。
グリムの「灰かぶり」〔二一〕の結末部分も、初版では、「継母と二人の高慢な姉さんは驚いて真っ青になりましたが、王子は灰かぶりを連れていってしまいました」というあっさりとした終わり方になっている。ところが第二版以降では、灰かぶりの義理の姉たちは鳩に両目をえぐられる。
現代との違い
ヴィルヘルム・グリムは、性的なほのめかしにひときわ敏感で、厳しく検閲の筆をふるったのに、人肉食とか、血みどろの場面とか、手足の切断とか、酷い刑罰などにたいしては、どうしてこんなに「寛大」だったのだろうか。
ヴィルヘルム個人に「残虐趣味」があったとは考えられない。それが証拠に、「ラプンツェル」を取り上げて、「こんなもの、赤面せずに無垢な娘に聞かせられるだろうか」と批判した批評家たちも、『グリム童話集』の各所にみられる残虐な場面については一言も触れていない。グリムの時代全体が、こうした残虐性を許容していたのである。
ヴィルヘルムがメルヘンをどのように書き換えていったかを一言でいえば、ブルジョワ階級の家庭、とくに子どもにふさわしいように書き換えたのだといえよう。ヴィルヘルムがメルヘンに盛り込んだブルジョワジーの社会観・道徳観はほとんどそのまま現代まで生
きのびた。
しかし、暴力や残虐性に関してだけは、グリムの時代と現代との間には大きな断絶があるといわねばならない。だからこそ、現代の子どもたちがふつう手にするグリム童話では、暴力的で残酷な場面が取り除かれているのだ。
グリム童話に関してはしばしば、とくに小さな子どもをもつ母親たちから、「こんな残酷な話をそのまま子どもに聞かせてよいのだろうか」という疑問が発せられる。これにたいしては、「残酷な場面はカットすべきだ」という意見や、「いや、グリム童話の残酷さは子どもに有害ではない。そのまま読ませて(聞かせて)もいいのではないか」という意見や、あるいは「グリム童話は原典をそのまま読ませる(聞かせる)べきだ。残酷な場面をカットすべきではない」という意見などがあるようだ。
残念ながら、筆者にはどの意見が正しいのか判断することができない。筆者に言えるのはせいぜい、残虐性にたいする許容度は時代とともに変化するものだから、「残酷な場面をカットすべきではない」という意見には賛成しかねる、ということくらいである。
筆者は、次の節で述べるような、『グリム童話集』にみられる女性差別をそのまま子どもに植えつけてはならないのではないか、という問題のほうがはるかに重要だという気がする。