第四章 グリム童話の面白さ

4ーー性とエロティシズム

性的ほのめかしの扱われかた
 メルヘンに加筆してゆく際に、ヴィルヘルムがいちばん気をつかったのは、性をほのめかすような表現を一つ残らず丹念に削ることだった。次節で述べるように、彼は暴力や残虐性の表現には意外なほど寛容だった。いやそれどころか、類話がいくつもあるときには、いちばん残酷で暴力的なものを採用したほどだったが、性的なほのめかしにはこの上なく厳格だった。
 比較的よく知られている話のひとつ、「ラプンツェル」〔一二〕を見てみよう。ラプンツェルとは、最近では私たちもよくサラダで食べるちしゃ(傍点 ちしゃ)のことである。
 昔、ある夫婦がいた。長いこと子どもをほしがっていたが、ようやく妻が子どもを身ごもる。彼女は窓から、魔女の家の庭にはえているちしゃを見て、どうしても食べたくなる。夫が妻のためにちしゃを盗みにゆくが、魔女に見つかり、ちしゃをもらう代わりに子どもを引き渡すという約束をさせられる。
 妻が女の子を産むとすぐに魔女がやってきて、その子にラプンツェルという名をつけ、連れ去る。少女が十二歳になると、魔女は少女を森の中の塔にとじこめる。魔女は、塔に入るときには下に立って、「ラプンツェルや、おまえの髪をたらしておくれ」と呼ぶのだった。ラプンツェルは美しく長い髪をしていて、魔女の声を聞くと、編んだ髪をほどいて、窓からたらすのだった。
 二、三年経った頃、王子(王様)が塔のそばを通りかかり、ラプンツェルの歌に耳をかたむける。彼は、魔女が髪を伝わって塔に上がってゆく様子を盗み見て、自分も真似をしてみる。
 その後の部分を、初版と決定版とで比べてみると、ヴィルヘルムが婚前交渉やそれによる妊娠を「はしたない」と考えていたことがよくわかる。

「ラプンツェル」における書き換え

<初版>
はじめ、ラプンツェルはびっくりしました。でもすぐに若い王様がとても好きになったので、王様と約束をしました。毎日、王様が来たら引っ張りあげるという約束です。こうして二人はしばらくの間、たのしく陽気に過ごしました。魔女は何も気づきませんでしたが、ある日、ラプンツェルはうっかり言ってしまいました。「ねえ、ゴテルおばあさん、服がきつくなって着られなくなってしまったのはどうしてかしら」。

<決定版>
 王子が塔をあがってゆくと、ラプンツェルははじめひどくびっくりしました。それまで一度も男の人というものを見たことがなかったからです。けれども王子は打ち解けて、ラプンツェルと話をはじめました。そして、「ぼくはきみの歌につよく心を動かされて、じっとしていられなくなり、きみをこの目で見ずにはいられなくなったのだよ」と言いました。ラプンツェルはすっかり怖くなくなりました。王子から、ぼくの妻になってくれないかとたずねられると、ラプンツェルは王子をあらためてよく見ました。若くて美しい人でした。「この人はきっとあのゴテルおばあさんよりもわたしのことを可愛がってくれるだろう」と考えて、ラプンツェルは「ええ」と答え、王子の手に自分の手をかさねました。
 そしてこう言いました。「よろこんでお伴します。でも、どうしたら降りられるのか、わかりません。いらっしゃるたびに絹の糸を一束ずつもってきて下さい。それで梯子を編みます。梯子ができあがったら、それを伝って降りますから、あなたの馬に乗せて下さい」。
 梯子ができるまで、王子は毎晩来ることに決めました。昼間はおばあさんがやってくるからです。魔女は何も気づきませんでしたが、あるときラプンツェルがうっかり言ってしまいました。「ゴテルおばあさん、あなたのほうが王子さまよりもずっと重いのはどういうわけでしょう。王子さまは、あっという間にあがっていらっしゃるのに」。

 先に述べたように、『グリム童話集』が出版されると、さまざまな方面から、とくに他の童話集の編者(作者)たちから、批判の声があがった。その際、A・L・グリムや、フリードリヒ・リュースが槍玉にあげたのが、この「ラプンツェル」だった。リュースは、「しかるべき母親や乳母なら、ラプンツェルの物語を無垢な娘に向かって顔を赤らめずに話してやれるだろうか」と述べている。ヴィルヘルムはこうした指摘をすんなり受け入れ、書き換えることをしたのである。
 童話集の仕事は、最初のうちは兄のヤーコプのほうが主力であった。ヤーコプは「はじめから、いや後になってからも、メルヘン集の学問的性格を保持しようとしたし、それによる価値を強調しようとした」(レレケ)。だが、周囲はむしろ子ども向けの読み物を望んだ。ヴィルヘルムはそうした要望を受け入れ、童話集を子ども向けにするため、筆を加えていった。いっぽう、ヤーコプのほうは仕事から手を引くことになった。

嫌われた妊娠
 初版に収録されている「ハンスばか」は次のような一節からはじまる。「王様が一人娘の王女といっしょに楽しく暮らしておりました。ところが突然、王女が子どもを産みました。誰が父親なのか、誰も知りませんでした」。この話の主人公は、願った相手の女性を妊娠させる力をもっている。この話は初版には入れられたが、第二版以降は削除された。バジーレの『ペンタメローネ』に類話があるからというのが理由だったようだが、むしろヴィルヘルムが妊娠のモチーフを嫌ったと考えたほうが事実に近いだろう。
「腕ききの猟師」〔一一一〕では、主人公が城にしのびこむと、王女が横になって眠っている。だが、猟師は「はじめからしまいまで、お姫さまには触りませんでした」と書かれている。じつはもとの話では、主人公が城に入ってゆくと、王女が一糸まとわぬ姿で眠っている。そこで主人公はそのそばに身を横たえる。彼が立ち去った後、王女は妊娠し、悲嘆にくれ、父の王様は激怒する。これはグリム兄弟が「メルヘンおばあさん」として高く評価していたドロテア・フィーマンから聞いた話だが、結局、このもとの話は註に押し込められることになった。
 童話集の冒頭に置かれている「カエルの王様」〔一〕でも、ヴィルヘルムは検閲の朱筆をふるっている。草稿では、王女が金のまりを井戸に落とすと、カエルが出てきて、「いっしょに家に連れて帰ってくれるなら、金のまりを取ってあげましょう」と言う(間接話法で言われる)。カエルの要求は素朴で直截だ。カエルの言葉は決定版では次のように長いものになっている(直接話法)。「わたしを可愛がってくれ、あなたの仲間に、遊び友達にしてくれ、テーブルではとなりにすわらせ、あなたの金の皿から食べさせ、あなたのコップから飲ませ、あなたのベッドで眠らせると約束してくれるなら、下におりて、金のまりを取ってきてあげましょう」。
「遊び友達」という表現にはっきりあらわれているように、カエルと王女の関係は、男と女の関係から、子どもどうしの関係へと変えられている。そのことは、カエルが元の王子の姿に戻る場面にもあらわれている。

カエルが王子に戻る場面
<草稿>
 王女はカエルをつかみ、自分の部屋に連れていきました。そして腹立ちまぎれにカエルをつかみ、力いっぱいベッドのところの壁に投げつけました。でもカエルは壁にぶつかるとベッドの上に落ち、美しい若い王子の姿となって横たわっていました。王の娘はそのかたわらに身を横たえました。

<初版>(一八一二年)
 王女は二本の指でカエルをつかみ、階上にある自分の部屋に連れていきました。自分はベッドに入り、カエルを横に寝かせるかわりに、壁に向かってピシャッと投げつけました。「これでわたしもゆっくり休めるわ、いやらしいカエルめ」。
 ところがカエルは死んで落ちたのではなく、ベッドの上に落ちると、美しい若い王子の姿になっていました。彼は王女の大切な仲間となり、王女は約束した通り彼を大切にし、二人は満足していっしょに眠りました。

<第二版>(一八一九年)
 王女は、腹の中は煮えくりかえるような気持ちでしたが、二本の指でカエルをつかみ、階上の部屋に連れていきました。自分はベッドに入りましたが、カエルをベッドにあげるかわりに、力いっぱい壁に投げつけました。「これであんたもゆっくり休めるでしょうよ、いやなカエルめ」。
 ところが、下に落ちたのは死んだカエルではなく、生きている、美しく優しい目をした王の息子でした。これで彼は正式に、王女の父親の許しをえて、王女の大切な仲間に、夫になりました。二人は満足して眠りにつきました。

 草稿と初版では、カエルは王子の姿となってベッドの上に落ちてきて横たわるが、第二版以降では、床(という言葉は書かれていないが)に落ちる。しかも念入りに、王の許しをえて正式に夫になったという表現が加えられている。ヴィルヘルムは婚前交渉の匂いを徹底的に消し去りたかったのである。
 なお、王子を指すのに、草稿と初版では Prinz という外来語が用いられているが、第二版以降、ヴィルヘルムはこれを Konigssohn (文字通りには王の息子)というゲルマン的な語に変えている。もちろん、これはゲルマン民族の伝統的なメルヘンなのだという印象をつよめるためである。

「手なし娘」「千枚皮」の近親相姦
 ヴィルヘルムが必死に削りとろうとしたものが、妊娠の他にもう一つある。近親相姦である。
「手なし娘」〔三一〕の前半部分を見てみよう。貧しい粉ひきが、悪魔から「水車小屋の裏にあるものをくれると約束したら、おまえを金持ちにしてやる」と言われ、水車小屋の裏にはリンゴの木しかないと考えて、その通り約束する。だが、家に帰ってみると、水車小屋の裏にいたのは自分の娘だった。やがて悪魔が娘をひきとりにくるが、娘の両手が清められているために近づくことができず、粉ひきに娘の両手を切断しろと命じる。娘はけなげにも両手をさしだして、切り取らせる。
 結局、悪魔は娘を手に入れることができず、引き下がる。父親は娘に「おまえのおかげで金持ちになれた。おまえを一生大事にしてやる」と言うのだが、娘は「ここにはいられません」と言って、家を出てゆき、ここからまた別のストーリーが始まる。
 この話だと、どうして娘が家出するのか、その理由がよくわからない。この話を初版におさめたグリム兄弟も、そこが引っかかっていたようだ。その後、彼らはいくつかの類話に出会った。そのなかに一つ抜群にすばらしいものがあった、と彼らは述べている。その類話のストーリーは論理的に一貫しているので、彼らは初版の話をその類話に差し替えることにしたのだが、一つ大きな問題があった。というのも、その類話には悪魔は登場せず、娘は、悪魔的な父親に結婚を迫られ、それを拒んだために両手と両乳房を切り取られ、それで家出するのだ。グリム兄弟はこの近親相姦欲望の物語をそのまま童話集におさめる気にはなれず、冒頭の部分だけを削除し、右に述べたような悪魔との契約という話に置き換えたのだった。
 しかしグリム童話集には、父親の近親相姦欲望がそのまま描かれている話が一つだけあ
る。「千枚皮」〔六五〕である。金色の髪をした美しい后が、臨終の床で王に、「もし再婚するならば自分と同じくらい美しい、金色の髪の女性としてほしい」と言い残して死ぬ。その後、王は長いこと再婚など考えなかったが、側近たちに勧められ、花嫁を探すための使いが四方八方に派遣される。だが、后と同じくらい美しい女性は見つからない。

さて、この王様にはお姫さまが一人いました。亡くなった母親に負けないくらい美しく、同じような金色の髪をしていました。この方が大きくなってからのこと、王様はあるとき姫をつくづくごらんになって、何から何まで亡くなった后に似ていることを知り、急に激しい愛情を感じました。それで側近たちに言いました。「わたしは自分の姫と結婚する」。

 側近たちは「父親が自分の娘と結婚することは神に禁じられています。こういう罪からは何も良いことは生まれません。国が滅んでしまいます」と諌(いさ)めるが、王は決心を変えない。そこで王女は一計を案じて、城を抜け出す。そこから別のストーリーが始まる。
 王が新しい妻を迎え、王女がその継母にいじめられて城を出てゆく、というストーリーにすれば、父親の近親相姦欲望を表面に出さずにすんだわけだが、さすがのヴィルヘルムもそんな目茶苦茶な変更はできなかった。

父親の影
「手なし娘」と「千枚皮」の二例だけから、『グリム童話集』における近親相姦についてうんぬんするのはちょっと無理があるのではないか、と言われそうだが、メルヘン研究と精神分析学の両方を援用すると、『グリム童話集』のあちこちに父親の娘への近親相姦欲望が隠されている、あるいは姿を変えてあらわれていることが明らかになる。
 『グリム童話集』に登場するほとんどの父親は、なぜか影がうすく、どこか頼りない。ほとんど姿をあらわさない場合もある。それにたいして、邪悪な継母(じつは実の母親である)や魔女は大勢登場し、いわば大活躍している。グリム童話というと、意地悪な継母や魔女をまず思い浮かべる人も多いだろう。
 グリム兄弟は家父長的な考えの持ち主で、頼りがいのあるしっかりとした父親、おとなしいがしっかりした母親、すなおな子どもたちからなる家庭を理想的な家庭として思い描いていた。それからすると、『グリム童話集』に登場する父親の存在の希薄さは意外な感じがする。
 これには何か理由があると考えねばなるまい。
 十九世紀末にマリアン・コックスというイギリス人が世界中のシンデレラ物語を三百四十五集め、一冊にまとめて出版したが、そのうちの二百二十六話は、コックスが、(1)実の母親、継母、あるいはその連れ子によって主人公が虐待される話、(2)近親相姦欲望を示す父親(コックスはヴィクトリア朝人らしく、不自然な父親と呼んでいる)が登場する話、(3)娘から愛の言葉を聞きたがる(リア王のような)父親の話、の三つに分類した中のどれかに属する。内訳はといえば、(1)は百三十話、(2)は七十七話、(3)は十九話である。邪悪な継母が主人公をいじめる話は、娘にとって厄介な父親が登場する話と比べて、それほど多いわけではないことがわかる。さらに重要なことは、嫉妬深い母親と好色な父親が同時に一つの話に登場することはめったにないということである。
 精神分析学からすると、父親が娘に近親相姦欲望を抱くということは、娘の父親にたいする性的欲望の裏返し表現であり、継母(母親)にいじめられることは、娘の母親にたいする敵意が裏返しに表現されたものである。どちらのタイプの話も、女の子のエディプス的葛藤をあらわしているのである。アールネはそのことに直観的に気づいていたのか、主人公が継母にいじめられるシンデレラの物語と、娘が父親から結婚を迫られる「千枚皮」のもとの話である「金と銀と星の服」とを、同じ分類番号の下にまとめている(前者は510A、後者は510B)。
 だとすると、『グリム童話集』に大勢登場する意地悪な継母の背後には父親の影があるといえる。「白雪姫」に出てくる魔法の鏡の声を、ベッテルハイムは娘の声だと解釈したが、フェミニスト批評の名著『屋根裏の狂女』の著者ギルバートとグーバーは、「鏡の声の主はじつは父親なのだ。その家長の下す判定が、お后の、そしてすべての女の自己評価を決定しているのである」と書いている。

裸体描写
 ヴィルヘルムは、婚前交渉や妊娠、それに近親相姦の匂いには神経を尖らせたが、女性の裸体の描写、あるいは女性が一枚一枚服を脱いでゆくといった、いわばストリップ・ショー的な場面では検閲の手をゆるめた。いやむしろ、彼はそういった場面が好きだったのではないかとすら思われる。
「マリアの子ども」〔三〕の主人公は、嘘をついたために天国から下界へと追い払われ、荒野でたった一人で暮らさねばならなくなる。

しばらくすると服はぼろぼろになり、ちぎれたきれが次々と体から落ちました。それからまた太陽が照るようになると、少女は外に出て木の前にすわりました。長い髪がまるでマントのように四方から体を包みました。

 要するに彼女は裸で暮らすのである。それだけなら、とくにエロティックだというわけではないが、ここにエロティシズムの匂いが混じってくるのは、この裸の少女が、通りかかった王の性的欲望の対象となるからである。草稿では、彼女は天国で着ていたびろうどの服を脱がされるだけだが、初版ではそれがぼろになり、第二版以降は右のように裸になった。ヴィルヘルムが意識的に彼女を裸にしたことは否定できない。
「六羽の白鳥」〔四九〕の少女も、森でたった一人で暮らしているところを、狩人たちに見つかる。「こちらに降りてこい」という狩人たちに向かって、彼女はまず金のネックレスを、次にベルトを、その次に靴下どめを投げる。

そんなふうにして、身につけていたものを一つ一つ投げました。なくてもすむものは全部投げてしまい、肌着のほかは何ひとつ残らなくなりました。

 この場面を読んだ読者がエロスの匂いを嗅ぎとるとは限らないが(たいてい嗅ぎ取らないだろう)、嗅ぎとる読者がいたっておかしくない。いや、かならずいるはずだ。なぜそう断言できるかというと、これまでに出版された数多くの『グリム童話集』の挿絵の中には、この場面をエロティックに描いた挿絵があるからである。少なくともそうした挿絵を描いた画家は、読者の代表として、エロティックなものを感じとったわけである。

鼻と尻尾
「正直フェレナントと腹黒フェレナント」〔一二六〕に出てくる王妃は、グリム童話集の中ではいささか異色の女性で、強引な手段を用いて自分の欲しいものを手に入れる。彼女は自分の夫である王を好きになることができず、王の首を切ってしまい、別の若者と結婚する。王のことが好きになれなかった理由は、「王様には鼻がなかったから」と説明されている。
「キツネ奥様の婚礼」〔三八〕では、九本の尻尾をもったキツネが死んだふりをする。それでキツネの奥様は再婚しようとする。最初にやってきた若いキツネは「尻尾が一本しかない」という理由で追い払われる。その後、尻尾が二本のキツネ、三本のキツネ、というふうに次々に求婚者がおとずれ、尻尾が九本あるキツネがやってきたとき、奥様はそのキツネと結婚しようと決めるが、そのとき、死んだふりをしていた老キツネが起きて、妻と召使たちを追い出す。
「正直フェレナントと腹黒フェレナント」における鼻や、「キツネ奥様の婚礼」における九本の尻尾は、精神分析家からみれば明らかにペニスである。読者の中に、そういう解釈をする人がいてもおかしくない。とくに、尻尾を意味するドイツ語 Schwanz は、ペニスを指す俗語でもあるのだ。
 だが、少なくともグリム兄弟はそうしたニュアンスをまったく感じなかったらしい。ヤーコプは「キツネ奥様の婚礼」を自筆でしたため、恩師ザヴィニーの子どもたちに送り、「私のいちばん好きな話です。きわめて文学的です。子どもの頃から聞かされているせいかもしれません」と書き添えている(現代的感覚からすると、とても子ども向きの話とは思われないのだが)。
 社交界を経験していたヤーコプはまだしも、ヴィルヘルムは病弱でほとんど家にとじこもっていて、およそ世間を知らなかったから、妊娠のようなはっきりとわかるモチーフは必死で削ったが、微妙なほのめかしにはどうやら気づかなかったようだ。

グラマーな白雪姫
「マリアの子ども」との関連で、挿絵の問題に少し触れたが、読者の想像力がどれほど挿絵の影響を受けるかはあらためて強調するまでもないだろう。幼い頃に読んだ(あるいは見た)本の挿絵が一生忘れられないということだってある。アニメ化されたメルヘンについても同じことがいえる。
 ウォルト・ディズニーの「白雪姫」「シンデレラ」「眠れる森の美女」は誰もが知っているだろう。いずれも主人公は、すでに豊かなバストをした「お年頃」の少女として描かれている。
 だが、たとえば「白雪姫」を注意深く読んでみよう。以前は、后が「鏡よ、鏡、国じゅうでいちばん美しいのは誰?」と問いかけると、「お后さま、あなたさまが国じゅうでいちばん美しい」と答えていた鏡が、「お后さま、ここではあなたがいちばん美しい。でも白雪姫はあなたより千倍美しい」と答えるようになり、后を激怒させるのは、白雪姫が七歳のときである(小人の人数と同様に、七という数が強調されている)。だが、ほとんどの挿絵画家は、王子と結婚するという結末から判断して前半を解釈し、白雪姫をもっと年のいった少女として描いている。おかげで、私たちは彼女が七歳だったということをほとんど忘れてしまっている。
 挿絵画家が、ヴィルヘルムが気づかなかった、あるいは隠そうとしたエロティックな意味を引き出してしまうということは、よくあるわけである。
 反対に、たとえば主人公たちをみんな子どもとして描いた挿絵もあるし、最近では、キティちゃんのようなキャラクターに主人公を演じさせているものもある。こうした場合は、それこそヴィルヘルムのさらに先をいって、メルヘンの底にある(かもしれない)エロティックなものを徹底的に脱臭殺菌してしまっているわけである。