1 グリム兄弟は誰から話を聞いたのか
ドイツの昔話とグリム童話
『グリム童話集』の成立に関しては、長いこと、次のように信じられていた――グリム兄弟はドイツ各地の農家を訪ねて歩き、古くからドイツに伝わる民話を、教養のない「農家のおばあさん」たちの口からじかに聞いて、それを書きとめ、いっさい手を加えずに(つまりアレンジしたりせずに)出版したのだ、したがってこの童話集に収録されている話はどれも純粋にドイツの昔話である、と。
『昔話の型』で有名なアールネも、一九一三年にこう書いている。「グリム童話集がそれ以前の類似の蒐集と違うのは、民間の物語が民衆の口から語られるままの形式で、故意に改変することなしに、保存されているという点にある」。
研究者は別として、今でもそう信じている人は多い。だがじつは、右に述べたようなことはすべて「神話」なのである。
その神話は、大きく二つの神話に分けることができよう。すなわち、庶民の代表のような農家のおばあさんから話を採集したという、取材源に関する神話と、グリム兄弟はいっさい加筆していないという、編集・出版にまつわる神話である。この二つの神話をともに解体することによって、第三の神話、すなわちグリム童話は純粋にドイツの昔話であるという神話は、自然に解体するはずである。
取材源をめぐる神話
ここではまず、取材源に関する神話について述べることにしよう。
今日、もし研究者が口承の昔話を採集して出版するとしたら、いつ、どこで、誰から(性別、年齢、職業、教育の程度)、その話を聞いたのかを必ず書き添えるだろう。だが、グリム童話集に収録された個々の話には、そうしたデータは添えられていない。注に、ヘッセンとかカッセルといった地方名が書かれているだけである。
これをどう解釈したらよいのか。グリム兄弟の時代には、民話採集に関する方法論的な意識がまだ薄く、いいかえれば、いわゆる学問的手続きがまだ確立しておらず、そのために彼らは詳しいデータを付記する必要性を感じなかったのだとも考えられるが、むしろ、グリム兄弟には自分たちの採集した話の出所を明らかにできない事情があったと解釈すべきなのではなかろうか。
フィーマンおばさん
グリム兄弟は、右に述べたように、話を提供した人物たちの名前を明記していないが、例外が一人だけいる。兄弟はその人物について、『子どもの家庭の童話』初版第二巻の序文で次のように書いている。
いくつか重なった幸運のひとつは、カッセル近郊のツヴェールン村の農婦と知り合ったことだ。この婦人を通して、私たちはここに出版の運びとなった話の大部分、および第一巻に付け足したいくつかを手に入れることができた。したがってこれらの話は生粋のヘッセンの話と見なすことができる。この婦人はいまだにたくましく、五十をちょっと出たくらいで、フィーマンという名である。がっちりした体つきをして、目元のすずしい陽気な顔は、若い頃はさぞきれいだったことだろう。フィーマンは昔の話をいくつもしっかり覚えていた。自分のこの才能は誰にでもあるものではない、ちっとも話の覚えられない人がたくさんいる、と彼女はよく言う。フィーマンはていねいに、自信をもって、ずばぬけて生き生きと、楽しんで話す。最初は思いどおりのびのびと話すが、頼まれると次は彼女が自分でゆっくりだと思うペースで繰り返してくれるので、ちょっと慣れれば書き取ることができる。このようにしてだいぶ逐語的に書き取ったので、よもやその信頼性を疑われるようなはずはない。
語り手のイメージ
私たちは、昔話というのは、読み書きのできない、教養のないおばあさんが、日本ならばさしずめ囲炉裏端で、子どもたちに話して聞かせるものだというイメージを抱いている。読み書きができないということは、書物を通してではなく、口伝えで話を覚えたということである。おまけに、読み書きのできない人は文字に頼らないせいで記憶力がいい。教養がないということは、自分の聞いた話を自分でアレンジしたり、余計なものを付け加えたりしないということを意味する。
右の序文で、フィーマンは、そうしたイメージにぴったりの、メルヘンの理想的な語り手として描かれている。この一節は、グリム童話はこういう話し手によって語られた昔話を集めたものなのだ、という神話を読者の間に広めるのに大いに貢献した。実際、フィーマンおばさんは、グリム兄弟に昔話を提供したもっとも重要な語り手として、読者たちから長いこと親しまれていた(兄弟は童話集第二版に、弟ルートヴィヒ・グリムの描いたフィーマンの肖像画をのせた)。
ところが、後になって、驚くべき事実が明らかになった。ドロテア・フィーマンは生粋のドイツ人ではなく、フランスから逃れてきたユグノー(新教徒)の子孫で、ふだん使う言葉はフランス語だった。要するにフランス系ドイツ人だったのである。しかも、教育のない農婦なんかではなく、読み書きができ、ペローの童話も読んで知っているような、ある程度教養のある中産階級の婦人であった。
架空の「マリーおばあさん」
このフィーマンおばさんを例外として、グリム兄弟は話の取材源を明らかにしなかったが、世紀末に、ヴィルヘルムの息子ヘルマン・グリムによって、グリム兄弟が所有していた童話集の初版が公表された。それには個々の話について、誰から聞いたのかがメモされていた。
その中に「マリー」という名があった。ヘルマンはこの「マリー」について次のように証言した――このマリーは、太陽薬局(ヘルマンの母親、すなわちヴィルヘルムの妻ドロテアの実家)に住んでいた戦争未亡人のマリーおばあさんのことで、彼女は昔話をたくさん知っていた、と。
この話がもとになって、この「マリーおばあさん」は、フィーマンおばさんと並んで、グリムに昔話を提供したもっとも重要な語り手である、ということになった。一九五九年になってもまだ、ショーフという学者は次のように書いている。
当時、ヴィルト家の薬局には六十二歳の家政婦がいて、「マリーおばあさん」の名で知られていた。(……)彼女は、グリム兄弟にとって、もっとも古い語り手であり、ツヴェールン村のメルヘンおばあさんに優るとも劣らぬ尊敬を受ける資格がある。ツヴェールン村のフィーマンおばあさんが第二巻にとって重要であるのと同様に、「マリーおばあさん」は第一巻にとって重要なのである。
一九七五年になって、現代のグリム学の最高権威ともいうべきハインツ・レレケが、この「マリー」が「マリーおばあさん」ではなく、マリー・ハッセンプフルークという、中産階級の家に育った教養ある若い女性であることを、鮮やかに証明してみせた。マリー・ハッセンプフルークの母親は、ドロテア・フィーマンと同じくフランスのユグノーの子孫で、ハッセンプフルーク家ではフランス語が話されていた。「マリーおばあさん」というのは架空の人物だったのである。
どうしてグリム兄弟は取材源を明らかにしなかったのかという問題に戻ろう。『一つだけ余計なおとぎ話』の著者ジョン・エリスは、グリム兄弟が取材源を隠したのは次の四つの事実がばれるのを恐れたからだと主張している。その四点について検討してみよう。
話を提供した人びと
(1)「語り手の多くは、中産階級の家庭出身の、読み書きのできる、教養ある女性たちだった。したがって、彼女たちが語って聞かせた話は、口から口へと語り継がれてきた昔話ではなく、本で読んだ話かもしれない」。
たしかに、グリム兄弟に話を提供した人びとのなかに「老いた文盲の農婦」はいない。多くの語り手は教養階級の出身だった。たとえば、「フィッチャーの鳥」〔四六〕、「めっけどり」〔五一〕、「三枚の羽」〔六三〕など五話を提供したフリーデリケ・マンネルは牧師の娘で、「フランス語を自由に操り、非常に文学的教養の高い、若い淑女だった」(レレケ)。
カッセルの町の、グリム家の近くにあった薬局の夫人ドロテア・ヴィルトとその娘たちも、「いっしょに暮らしたネコとネズミ」〔二〕や「マリアの子ども」〔三〕を提供したが、ヴィルト夫人の父親はスイス出身の解剖学教授、母親は有名な言語学者の娘だった。
また、先に触れたマリー・ハッセンプフルークとその妹たちは、話の提供者としてもっとも重要なグループで、「いばら姫」〔五〇〕、「盗賊のお婿さん」〔四〇〕、「赤ずきん」〔二六〕などを伝えたが、この姉妹の父親はヘッセン選帝侯国の高級官僚だった。
(2)「兄弟は、ドイツ各地を回って話を集めたのではなく、もっぱら親しい友人や知人たちから話を聞いたのだった」。
右に、メルヘン提供者として、グリム家の近所にあった薬局のヴィルト夫人とその娘たちの名を挙げたが、ヴィルヘルムの妻となったドルトヒェンは、その娘たちの一人だった。また、グリム兄弟の妹ロッテは、右に名を挙げたハッセンプフルーク姉妹の兄弟と結婚した。このように、ヴィルト家の女性たちもハッセンプフルーク家の女性たちも、文字通りグリム兄弟の身内だったわけである。
なお、グリム童話集の注釈では、このハッセンプフルーク姉妹から仕入れた話には、「ヘッセンから」「ハーナウから」「マイン河地方から」といったふうに、違った地名が掲げられている。これについて、レレケは「ハッセンプフルークの姉妹が、幼児期に聞いた話を思い出して語った場合と、ヘッセンのカッセルに来てから知ったレパートリーとを指しているのではないか」と、好意的な解釈をしているが、エリスははっきり、少しでも多くの場所にメルヘン蒐集に出かけたという印象をあたえるための細工だ、と述べている。
また兄弟は、右に名を挙げたフリーデリケ・マンネルや、「名づけ親の死に神」〔四四〕を提供したヴィルヘミーネ・フォン・シュヴェアトツェルからは、口伝てではなく、手紙によって、メルヘンを受け取っている。
学問的価値と嘘
こうした点については、レレケも「グリム兄弟は、メルヘンを求めて田舎を回ることは一度もしなかったし、単純素朴な人びとのところへ行くことさえしなかった。兄弟はほとんどいつも、メルヘン提供者に、自分のところへ来てもらっていた。そうするうちに、上流階級の、雄弁な、教養ある、若い女性たちに出会ったのである」と述べている。
はっきりいって、グリム兄弟は、メルヘン蒐集者としては相当怠慢だったのである。すでに述べたように(四九ページ)、A・L・グリムもそのことを非難している。
レレケは「このことはグリム兄弟の内気さから来るものと説明できる」と述べているが、とてもそうとは思えない。では、グリム兄弟はどうして農村に出かけていって、「老いた文盲の農婦」を捜し出そうとしなかったのだろうか。
グリムの専門家ではない筆者の勝手な推測だが、それは一つには、兄弟が経済的に困っていて、とてもそれだけの調査旅行をする余裕がなかったからだろう。兄弟には童話集の編集に専念するだけの余裕はなかった。生活費を稼がなければならなかったし、また同時に他の研究もすすめていたのである。
もう一つの理由は、兄弟には、理想的なメルヘンの語り手を捜し出するつもりなど最初からなかった、ということである。つまり、兄弟の仕事の目的は、メルヘンを、民衆の間で語り継がれてきたそのままの形で記録するという、学術調査ではなかった。最初から彼らの念頭にあったのは「出版」である。(とくにブルジョワ階級の)読者に広く受け入れられるような「読み物」をつくること、それが彼らの目的だったのである。それならば、時間と費用をかけて広くドイツ中をまわり、メルヘンの理想の語り手を捜し出す必要はないわけである。このことについては、グリム兄弟によるメルヘンの書き換えについて述べる際に、ふたたび論じることにする。
ただ、童話集を学問的価値の高いものにしようという心づもりが兄弟になかったわけではない。実際、童話集は学問的価値の高いものになっており、グリム兄弟がメルヘン研究の歴史に一時代を画したことは否定できない。だが、その学問的価値はこれまで一般に誤解されてきた。というのも、童話集に学問的価値をあたえているのは、文献学的な研究、すなわち本による知識である。それは具体的には注釈に盛り込まれている。ところが、グリム兄弟がメルヘン蒐集者としても画期的であったかのように、少なくとも一般には誤解されてきたように思われる。
この点からすると、「メルヘンおばあさん」の神話をつくりあげたことは、やはり責められてしかるべきだろう。学者としての対面を保つために嘘をついた、と言われても仕方のないところである。
フランス起源の話
(3)「ドロテア・フィーマンやハッセンプフルーク家の女性たちは、ユグノーの血を引いていた。ということは、彼女たちの話はフランスの昔話かもしれない。となると、生粋のドイツの昔話を集めたとはいえなくなる」。
ハッセンプフルーク姉妹はグリム兄弟に「赤ずきん」「青ひげ」「長靴をはいた猫」など、ペローの童話を語っている。兄弟がそれに気づかなかったはずがない。「しかし、それへの対応処置として、グリム兄弟は、のちに、(一言一句、余りにペローに似ているからという理由で)『長靴をはいた猫』を除去し、フランス語の混じりものを注釈の中へ押し込んだ(たとえば五番)だけであった」(レレケ)。それだけでなく、たとえば「赤ずきん」の結末には「狼と七匹の子やぎ」の結末を継ぎ足している。
フランス起源のメルヘンを除いてしまうと、メルヘンの数が大幅に減ってしまう。兄弟はそのことを恐れたのだ。そして「公けには、グリム兄弟はそのことに一度も言及しなかった」(レレケ)。ゲルマン民族の遺産を広く一般に(とくにブルジョワジーに)知らしめるというのが至上目的であったから、フランスのものをフランスのものと明記するわけにはいかなかったのである。
このことも「メルヘンおばあさん」の神話をつくりあげた一つの理由であったと思われる。生粋のドイツ人のおばあさんが語った話となれば、たとえフランスに同じ話があったとしても、「ああ、ドイツと同じ話があるんだな」で済むわけである。そして、このことはメルヘン研究に後々まで問題を残すことになる。
(4)「語り手の多くは若い女性だった。これでは、昔話は農家のおばあさんが語り継ぐものだというイメージと合わない」。
これについては、もはや説明の必要はないだろう。一例だけあげれば、マリー・ハッセンプフルークは、グリム兄弟にメルヘンを語ったとき、まだ二十歳そこそこだった。
グリム童話とナチス
グリム兄弟は右の四つの事実を隠蔽(いんぺい)するためにメルヘンの提供者たちの名を明らかにしなかったのだというエリスの主張はそのまま認めざるをえない。彼らが「嘘をついた」ことは事実である。取材源を明記しないという消極的な嘘だけでなく、「メルヘンおばあさん」の虚像を広めるという積極的な嘘もついた。
だがこの「嘘」は個人的な利益のためについた嘘ではない。すでに述べたように、童話集の出版へとグリム兄弟を駆り立てたものは、人びとの(とくにブルジョワジーの)ナショナリズムを高揚させたいという願いであった。いや、童話集の編集だけでなく、兄弟の学問的な仕事のすべてが、この願いに支えられていた。そのためには、『グリム童話集』に収録されたメルヘンはどうしても生粋のドイツ民族の伝承メルヘンでなければならなかった。レレケがいうように、「公衆に対しては、このメルヘン集は、いわば無名の民族精神を代表すべきものだった。個々の提供者や、話を入手した経緯は、その民族精神の陰にひっこんでいるべきものだった」のである。
だがその先、すなわちグリム兄弟がナショナリズムのために嘘をついたことをどう評価するかは、評価する側の立場によって異なるだろう。以下に述べることとも関連するが、ドイツのメルヘン研究者たち(だけでなく学者・知識人全般)は、その点でグリム兄弟を讃えてきた。
だが、このナショナリズムが十九世紀ドイツの諸領邦国家の保守反動政治と結びついたこと、そしてさらにはナチスへと繋がる面をもっていたことは否定できない。実際、第二次世界大戦終結後、「グリム童話がナチスを生んだのだ」という主張がなされた。これはあまりに極端な、一面的な見方だが、ナチスを育むような要素が『グリム童話集』にまったくないわけではないし、ナチスがグリム童話を政治的に利用したことも事実である。このことを忘れてはならない。
レレケ論文の衝撃
右のことと関連して、グリムの専門家ではない筆者などにとってはじつに興味深い、ある事実について触れておこう。
小澤俊夫氏は、先に挙げた、「マリー」の正体を明らかにしたレレケの論文について、「長年グリムのメルヒェン集についていわれてきた、ドイツ精神の顕現である、という性格づけを、根本からみなおしたもので、ドイツにおけるグリム研究に、革命的衝撃を与えたものである」と述べているが、まさしくその通りで、このレレケの論文が発表されて以来、世界的な規模でグリム童話の見直しが活発になった。
だが、このレレケの論文は、「推理小説を読むように面白い」といった類の論文ではなく、むしろ易しい算数の問題を解くような感がある。「こんなこと、どうして今までわからなかったのかしら」と思いたくなるのである。レレケは新しい資料を発掘したわけではない。彼以前のグリム学者たちも、レレケと同じだけの材料を手にしていたのだ。にもかかわらず、ヘルマン・グリムによってヴィルヘルムのメモが公表されてから、レレケが「マリーおばあさん」がじつはマリー・ハッセンプフルークであることを明らかにするまで、何十年もかかったのである。
「マリーおばあさん」のフィクションをつくりあげたのはヘルマン・グリムだが、いくらヴィルヘルムの息子の証言だからといって、疑ってはいけないという法はない。確かにマリア・ミューラーという老人は実在したが、ちょっと調べてみれば、彼女がヘルマンの生まれる前に他所へ引っ越ししていたことくらいすぐにわかったはずだ。それに、「マリーおばあさん」が昔話の理想的な語り手だったとしたら、グリム兄弟が、ドロテア・フィーマンだけを紹介して、「マリーおばあさん」のことには一言も触れていないというのは、誰が考えてもおかしいではないか。
レレケ以前のグリム学者たちがみんな無能だったとは考えられない。だとすると、彼らの心の中には、グリム兄弟が言っていることに疑いをさしはさんではいけないという、精神分析でいうところの「禁止」がはたらいていたとしか考えられない。あるいは、「マリーおばあさん」が実在してほしいという願望を抱いていたとしか考えられないのである。
グリム愛好家たちの願い
なぜ、そうした心のメカニズムが働いたのだろうか。その理由はナショナリズムであると考えられる。ドイツの学者たちにとって、グリム童話は世界に誇るゲルマン民族の宝だった。したがって、その宝は、無学な農婦によって語られた、純粋にドイツの民話でなければならなかったのである。
しかし、ドイツの学者の場合はそれでいいとして、外国の学者はどうなのか。たとえば、『グリム兄弟』(新潮選書)の著者、高橋健二氏は、レレケの論文が出たあとでも、「彼女(マリー・ハッセンプフルーク)や妹たちは、なんと言っても、ドイツで生れ育ったのであるから、ひたすらフランス的な話だったとは言えない。そもそもメルヒェンは国境を越えたものである」と述べている。まるで、問題を逸らそうとしているかのようだ。
レレケの論文を日本に紹介した小澤俊夫氏ですら、「この発見をみて、グリムのメルヒェンが純ドイツ的なのか、フランス的なのかという二者択一にのみ興味を奪われたら、それは浅薄なことである」と釘をさしており、問題を矮小化(わいしょうか)しようとしているかのような印象をあたえる。
また高橋氏は、童話の提供者たちについて、次のように言っている。
(グリムは昔話を「教化されない人びとの文学」と言っているが)女性の童話提供者は必ずしも、教養のない人ではない。中にはずいぶん高い教養の人がいる。前述の「教化されない」ということばは、教養がないという意味より、童心を失わない、という意味に解する方が適当であろう。だが、兄弟は、ヤーコプのいわゆる教化されない人びとの自然の文学を主体にしようとした。しかし実際はそうはならなかった。
論旨が混乱しているが、要するに高橋氏は、童話の提供者たちの正体が明らかになったとしても、グリム童話の価値が下がるわけではない、と言いたいようである。
高橋氏がグリムを擁護したがる理由は、本書の筆者のような門外漢にはよくわかる。それは、すでに述べたように、グリム兄弟が、学者としても市民としても「良心的な」「立派な」人物だったからである。
先に述べたように、兄弟は裕福な家庭に生まれたが、父親が早く世を去ったために、長男・次男として一家を支えなければならず、一つのベッドに寝起きするといった苦労を重ねながら学校を卒業した。やっと大学教授になったかと思ったら、「ゲッティンゲン七教授追放事件」では国王の暴挙に抗議して職を失い、さらに苦労を重ねながら、ともに十指にあまる著書を出版し、さらには、百二十三年後にやっと完結したという全十六巻三十二冊の『ドイツ語辞典』の編集に取り組んだのだった。
グリムを尊敬する学者たちにとっては、こんな立派な学者が、エリスのいうような「腹黒い嘘つき」であってはならないのだ。それに、仲のいい兄弟が力を合わせて童話集を編んだという話はじつにメルヘン的である。高橋健二氏はグリム兄弟について、「この上なく感動的で、人類の歴史の中でも最も創造的で美しい人間関係といえよう」と述べている。グリム童話に関心を寄せる人びとの心のなかには、そうしたイメージを壊したくないという無意識的な願望があるのではなかろうか。
以上に述べたように、ナショナリズムと、グリム兄弟にたいする尊敬の念によって、グリム童話の提供者たちをめぐる神話が温存されてきたのだといえる。このことについては後でふたたび触れることにして、もう一つの神話、すなわち、グリム兄弟は自分たちの採集した話にいっさい手を加えなかったという神話を検討することにしよう。