3――童話集成立の背景
劣等感と民族意識
『グリム童話集』が初めて世に出たのは一八一二年のことだ。十八世紀後半から十九世紀にかけての時期は、ドイツ文化の一つの絶頂期であった。文学でいえばゲーテ、シラー、哲学でいえばカント、フィヒテ、音楽でいえばモーツァルト、ハイドン、ベートーヴェンの時代である。だが、その少し前まで、ドイツの文化はヨーロッパの他の国と比べてはるかに貧弱だった。それは国が何百もの群小国家に分裂していたせいでもあろうし、三十年戦争によって国土がすっかり荒廃してしまったせいでもあろう。
いずれにせよ、この文化的隆盛期を迎える直前のドイツの知識人は、「わが国の文化は遅れている」という民族的・文化的劣等感に悩まされていた。この劣等感は文化の隆盛を迎えてからも簡単には消え去らず、グリム兄弟もこの劣等感を抱えていた。
一七六〇年代末から八〇年代にかけて起こった、ヘルダーを指導者とし、若きゲーテを中心とした「シュトゥルム・ウント・ドラング」運動も、十九世紀前半に主流だった、理性と秩序を讃える新古典主義を排撃し、情熱・空想・個性を讃え、ドイツ独特の文化の創出を目標に掲げた。だが、フランス革命の生の現実に接するにつれ、革命的な方向性は急速に後景に退き、ゲーテ、シラーらは、民族性を超越した、より広い人間性の探求へと向かい、擬古典主義を確立した。
だが同時に、シュトゥルム・ウント・ドラングよりも過激なナショナリズム的傾向をもったロマン主義が勃興し、擬古典主義と共存することになった。国がナポレオンに占領されたために、ドイツ・ロマン派はドイツの国家体制の転覆へとは向かわず、民族意識の高揚をめざした。この民族意識・愛国精神が最大の動因となって、ゲルマン民族の歴史、神話、伝説、民話、民謡、ドイツ語などにたいする関心が高まった。『グリム童話集』も、そうした民族意識から生まれたのである。
もう一つのグリム童話
『グリム童話集』は突然変異のように生まれたわけではない。グリム兄弟の仕事は、ゲルマン民族の文化的遺産を発掘しようという、ロマン派によるいくつもの試みの一つだった。
シュトゥルム・ウント・ドラングの指導者であったヘルダーはすでに一七七〇年代に、文学の原点としての民謡の発掘調査を提唱し、『民謡集』(一七七八〜七九年)を出版していた。一七八二年にはムゼーウスが『ドイツ人の民間童話』を、一七八九年にはナウベルトが『ドイツ人の新しい民間童話』を出版している。
一八〇八年には、グリム兄弟と同姓の、だがまったく血縁関係はない、A・L・グリムが『子どもの童話』を出版している。今日、グリム兄弟の童話集が世界中で読まれているのにたいし、このもう一人のグリムによる童話集はすっかり忘れ去られてしまったが、十九世紀前半にはグリム兄弟の童話集にそれほどひけをとらぬ売れ行きを示した。最初の頃は両グリムを混同していた読者も多かったらしい。外国ではとくにその傾向が甚(はなは)だしかったようだ。
グリム兄弟とA・L・グリムとは、たがいに対抗意識を燃やしていた。グリム兄弟は童話集第一巻の序文に、「二、三年前に、同姓のA・L・グリムによって、子どもの童話という題でハイデルベルクで刊行された、あまり質のよくない童話集は、私たちとも、私たちの童話集とも、まったく共通性はない」と書いている(その後の版では削除された)。A・L・グリムも負けずにグリム兄弟の童話集をこきおろしたが、それについては後に触れることにしよう。
結局、グリム兄弟の童話集とA・L・グリムの童話集とは、「出発は、もひとりのグリムのほうが数歩さきんじ、初めは取り違えられたほどであり、生きているうちはともかく並存していたが、死後は大きな差ができ」(高橋健二)、やがてA・L・グリムのほうはほぼ完全に忘れられてしまった。
さて、一八一二年、グリム童話集が刊行される数ヵ月前に、いろいろな点で競争相手となるビュッシングの『民間伝説、メルヘン、聖者伝』が出ている。レレケはこのビュッシングの本の特徴について、次のように述べている。
ビュッシングは、グリム兄弟より以前に、民間伝承文学のジャンルである「伝説」「聖者伝」「メルヘン」を、かなり正確に区別し、実際に文章で証明している。そればかりか、これらの口伝え資料のなかに、古代ドイツの痕跡を確認しようとする意図を明言したことによって、また、話のことばを言語的に忠実に再現したことによって、グリムの理想を先取りしていたのである。彼の話の出自由来記録の正確さは模範的といえる。その点では、グリムの注釈書を凌いでいる。
『グリム童話集』が出版されたときには、右に挙げたような童話集がすでに本屋に並んでいたわけである。これらの童話集はそれぞれ成功をおさめていたので、グリム童話集が出版されたときには、童話集の市場がすでに拡大しつつあったわけである。
『少年の魔法の角笛』
わが国でも、とくにマーラーの歌曲を通じて、広く親しまれている『少年の魔法の角笛』は、『グリム童話集』と並び、ドイツ民族の文化遺産の宝庫としてこれまで神聖視されてきたが、この民謡・歌謡集が『グリム童話集』の「一つの重要なモデルになったことは疑う余地がない」(レレケ)。というのも、まず、編者のアルニムとブレンターノは、比較的古い芸術歌謡と、年代を特定できない、広く一般に流布している民謡を混合している。グリム童話集の場合も、口伝えのメルヘンと本から取ったメルヘンとが並んでいる。また、アルニムとブレンターノは、採集した民謡・歌謡を大幅に改作している(さらには自作の歌まで加えている)。グリム兄弟もまた、後に詳しく述べるように(というより、これが本書の主要なテーマであるが)、自分たちの集めたメルヘンに相当筆を加えている。そして、それによって両者とも、現代まで長生きすることになるスタイルを確立したのだった。
じつは、グリム兄弟はこの『少年の魔法の角笛』に少なからぬ貢献をしている(同姓のA・L・グリムも同じく貢献している)。そしてその貢献を通じて、童話集出版の計画が生まれ、現実化していったのである。
二つのメルヘンから
すでに述べたように(三一〜三二ページ)、グリム兄弟はマールブルク大学で、新進の法学助教授サヴィニーから多大な影響を受けた。法というものは民族固有の文化の中から内在的に発生するものであり、したがって法を研究するにはそれを生み出した民族の文化を研究しなければならない、というサヴィニーの主張に影響されて、グリム兄弟はドイツの古い文化、とくに文学に関心を寄せるようになり、その関心は、法の起源よりむしろ文学の起源のほうへと向かった。
一八〇六年、前年秋に『少年の魔法の角笛』第一巻を刊行していたブレンターノはサヴィニーに、「カッセルの図書館に、古い歌謡があるかどうかを調べて、私のためにそれを写してくれるような友人をご存じではありませんか」という手紙を送った。サヴィニーの妻はブレンターノの妹だった。その下の妹はアルニムの妻になったので、サヴィニーとブレンターノとアルニムは義兄弟の関係にあった。サヴィニーはヤーコプ・グリムを推薦し(ヤーコプはすでにブレンターノと面識があった)、ヤーコプも、すでに中世の歌謡の研究をすすめていたので(彼の最初の論文は『中世の職匠歌』である)、すぐに協力することにした。
細かい経緯は研究書にゆずるとして、童話集出版までの経過を大雑把に述べると、アルニムとブレンターノは『少年の魔法の角笛』の続編としてメルヘン集を計画し、メルヘンの蒐集に協力してくれるようグリム兄弟に依頼した。兄弟は快諾し、メルヘン採集に取りかかった。その際、グリム兄弟が模範としたのは、有名な画家オットー・ルンゲがアルニムたちに提供した二篇のメルヘン、「ねずの木」と「漁夫とその妻」であった。方言で書かれた二つのメルヘンは、そのまま『グリム童話集』に収録されている。レレケは、ルンゲの提供したこの二篇のメルヘンが、『グリム童話集』のスタイルを決定したと述べている。
さて、そのうちに、グリム兄弟自身が童話集を出版するという話になった。だが、ブレンターノは自分なりの童話集を出版したいと考えていたので、集めた話の原稿を貸してほしいと再三グリム兄弟に頼んだ(どうもブレンターノという男、いささか腹黒い男だったようで、グリム兄弟をうまく利用しようと考えていたふしがある)。それで一八一〇年、「私たちが集めた民族童話のすべてをお届けします。好きなように使って下さい。ついでの折に送り返して下さい」という手紙とともに、兄弟は気前よく四十九篇のメルヘンの原稿をブレンターノに送った。メルヘンは民族の共有財産であるから、誰もが自由に利用してよいのだ、と兄弟は考えていたのだ。
だが、ブレンターノがずぼらな性格であることを知っていたからか、わざと返さないのではないかと疑っていたからか、それとも、『少年の魔法の角笛』のときのように大幅に改作してしまうのではないかと恐れていたからか、写しはとっておいた。
出版時の状況
結局、ブレンターノはその原稿を公表もせず、返送もしなかった。グリム兄弟は手元にあった写しをもとに、一八一二年のクリスマスに、『子どもと家庭の童話』第一巻を出版した。この写しは印刷の過程で紛失してしまったので、兄弟が採集した話の原型がどのようなものであったのかは、わからなくなってしまった。
ブレンターノはその原稿をアルザスにあるトラピスト会のエーレンベルク修道院に置き忘れてきてしまい、そのことを誰にも話さなかった。それが前世紀末になって発見され、一九二四年に初めて出版された。その後、一九二七年、六四年に違う版で刊行されたが、もっとも完全なのは一九七五年に出版されたレレケによる校訂版で、今日、世界中のグリム童話研究者がこの版を使って、グリム童話の刊行された形と原型との比較研究をおこなっている。
売れ行きは捗々(はかばか)しくなかったが、地道に売れ続け、一八一五年には第二版を出版することができた。
先に述べたように、すでにいくつもの童話集が市場に出回っていたことは、市場開拓の面ではグリム兄弟にとって好条件であったが、反面、先行する他の童話集と差をつける必要があった。実際、『グリム童話集』には他の童話集との大きな違いがあった。他の童話集は、一つ一つの話が長く、ほとんど原型をとどめないくらい脚色されていた。それにたいして、『グリム童話集』は、個々の話が短くまとまっており、後に詳しく見るように、かなり改作されているとはいえ、他の童話集に比べればはるかに原型に近かった。
それでも初めの頃は、絶讃されるにはほど遠く、数多くの批判を浴びた。グリム兄弟がその童話集第一巻の序文でA・L・グリムの童話集に触れたことはすでに述べたが、そのA・L・グリムは、自分の『リーナの童話の本』(一八一六年)の序文で、次のようにグリム兄弟を攻撃した――ひどい文体だ。それはたぶん、昔話の理想的な語り手をあらゆる階層にあたって捜し出したのではなく、最初にたまたまひょっこりあらわれた子守女で間に合わせたためだろう。語り手の粗野な口調をそのまま用いたために、ほとんどどの物語も損なわれている。それに、学者と子どもという二人の主人に仕えようとして、かえってどちらの期待にも応えることができていない。子どもが手にとれる本とはとてもいえない、と。
このように、初期の批判は主に、文体が粗野すぎる、子ども向きではない、という点に向けられた。ブレンターノはアルニムに宛ててこう書き送っている。「子どもの洋服を展示しようとするときに、ボタンはちぎれているわ、汚れは染みついているわ、おまけにズボンからシャツがはみだしているわ、といった恰好でわざわざ展示せずとも、他に方法がありそうなものです」。
注目すべき批判は、先に挙げた『民間伝説、メルヘン、聖者伝』の編者ビュッシングによるものである。ビュッシングは、ずっと後に問題となる点を先取りして、「グリム童話集は全体的にイタリアとフランスの物語を素材としているために、それらの影響を色濃くとどめており、純粋にドイツのものとはいえない。グリム兄弟はそのことにまったく気づいていない」という趣旨のことを述べている。
ところで、グリム兄弟は童話集の出版で大儲けしようとは考えていなかったし、実際、それほど儲からなかったが、彼らの計画に金銭的な動機がなかったといえば嘘になる。兄弟は貧困にあえいでいたのである。だが、童話集の出版を引き受けたベルリンの出版者ゲオルク・ライマーは相当に悪質で、契約条件を明示しようとせず、ろくに印税を支払ってくれなかった。世事に疎(うと)かったグリム兄弟は、ライマーの口車にのって、第二版もライマーのところから出版したが、彼の態度があまりに不誠実なので、ついに兄弟もたまりかね、第三版はゲッティンゲンのディートリヒ書店から出版した(おかげで、かれこれ二十年ライマー書店につとめていた、グリム兄弟の弟フェルディナントは職を失った)。
最初の日本語訳
その後、一八四〇年に第四版、四三年には第五版、五〇〜五六年に第六版が出て、五七年の第七版がグリム生前最後の版となった(改訂はもっぱらヴィルヘルムの手によってなされたが、そのヴィルヘルムは一八五九年に世を去った)。
生前の諸版を整理しておこう。
初版(第一巻一八一二年、第二巻一八一五年) 一五六話
第二版(一八一九年) 一六一話(付・聖者伝九話)
第三版(一八三七年) 一六八話(付・聖者伝九話)
第四版(一八四〇年) 一七八話(付・聖者伝九話)
第五版(一八四三年) 一九四話(付・聖者伝九話)
第六版(一八五〇年) 二〇〇話(付・聖者伝一〇話)
第七版(一八五七年) 二〇〇話(付・聖者伝一〇話)
一八二五年には、五十の話だけをまとめた、いわゆる「小さい版」(いわば「普及版」)が出版され、こちらのほうは「大きい版」よりもはるかに売れ行きがよかった。この「小さい版」が出なかったら、『グリム童話集』はこれほど広く普及しなかったのではないかとすらいわれる。
版を重ねるごとに話の数が増えているが、途中で姿を消したものもある。ヴィルヘルムは二百という数にこだわったようだ。グリム兄弟は当初、口承メルヘンを集めることを意図したが、実際にはそれだけでは数が足りなかった。初期においても三分の一近くは本からとった話だったが、版を重ねるにつれ、話の数を増やすため、本から再録することがますます多くなった。
一八二〇年に、デンマークとオランダで抜粋の翻訳が出、二四年にはエドガー・テイラーによる英訳が、有名なクルックシャンクの挿絵入りで出版された。
グリム童話の最初の日本語訳は、明治二十年(一八八七年)に出た『西洋古事神仙叢話』だといわれている。訳者は桐南居士(管了法)である。「仙禽を遂ふて公子金城に入る」(「金の鳥」〔五七〕)「活殺自在の術」(「のんきもの」〔八一〕)「公女メーリーの節操」(「十二人の兄弟」〔九〕)など、十一のメルヘンが収録されているが、英語からの重訳で、グリムという名はしるされていない。昔話ということで、編者の名は重要でないと考えたのだろう。あるいは、これは翻訳というより翻案なので、その意味でグリムの名を挙げなかったのかもしれない。
明治時代の翻訳としては珍しいことではないが、この翻訳(翻案)をいま読んでみるとなかなか面白い。野次馬的な言い方だが、すごくおかしい。「灰かぶり」が「おすす」という名前に変わっており、そのおすすは着物に靴という珍妙な恰好で舞踏会に出かけてゆく。また、「悪魔」は「鬼神」と、「魔法」は「呪い」と訳されており、日本の昔話には魔法がなかったことを示している。
また、後に述べるように、ヴィルヘルムは童話の改作に際して、性的な事柄をほのめかす表現を神経質に削除したが、この翻案はその先をいっている。たとえば「忠実なヨハネス」〔六〕の、ヨハネスが王の花嫁の乳房から血を三滴吸い出して命を救う場面は、この翻案では、肩に針をさして悪血を三滴絞り出すことになっている。