第一章 グリム童話とは何か

2――グリム兄弟とは誰か

幸福な幼年時代
 グリム兄弟の父親フィリップ・グリムは法律家だった。とにかく真面目な人で、順調に出世した。「正しく生きれば間違いなし」(Tute si recte vixeris)というのが彼の座右(ざゆう)の銘(めい)だった。母親ドロテアは文字通りの良妻賢母だった。二人の間には子どもが九人生まれたが、成人したのは六人だった。そのうちの長男ヤーコプ(一七八五〜一八六三年)と次男ヴィルヘルム(一七八六〜一八五九年)が、童話集を出版することになる「グリム兄弟」である。二人には、カール、フェルディナント、ルートヴィヒ、シャルロッテという四人の弟妹がいた。
 ヤーコプやヴィルヘルムが生まれた頃、一家はフランクフルトの近くにあるハーナウに住んでいたが、一七九一年、すなわちヤーコプが六歳、ヴィルヘルムが五歳のとき、一家はカッセル近郊のシュタイナウに移った。父親はそこの行政司法官という高い役職につき、町の名士となった。一家は大きな家に住み、使用人を何人もおいていた。グリム兄弟は裕福で幸福な幼年時代を送ったのである。
 ただ、不思議なことに、『グリム童話集』に収められた二百以上のメルヘンの中に、「子どもの頃に(たとえば母親から)聞いた」と注記されたものは一篇もない。グリム家では、母親が子どもたちにメルヘンを語って聞かせるという習慣はなかったようである。
 幸福な幼年時代は一七九六年に突然終わりを告げる。父親フィリップが肺炎で急逝したのである。四十四歳だった。とたんに一家は困窮することになり、葬儀が終わって間もなく、一家はそれまで住んでいた大きな家を引き払わねばならなかった。突然、収入がゼロになったので、一家は(子どもたちにとっての)祖父と伯母に全面的に頼らなくてはならなかった。
 長男ヤーコプは十一歳で家長の責務を引き受けるはめになった。彼が十一歳から十三歳にかけての頃に祖父や伯母に書き送った手紙が残っているが、それを読むと、ヤーコプ少年は、年齢からは想像もつかないくらいしっかりしている。
 ヤーコプもヴィルヘルムも祖父から、「しっかり勉強して、出世し、将来、富と名誉を手に入れて、お母さんを喜ばせなさい」と、耳にたこができるほど聞かされていたようだ。兄弟はたいへんな重荷を背負っていたのだ。

勉学と貧困と
 二人は、ヘッセン選帝侯夫人の女官長をつとめていた伯母の尽力で、カッセルの名門リュツェウム(古典語高等中学校)に入ることができたが、入学して間もなく、いわば父親代わりだった祖父が死に、家族全員の将来がヤーコプたちの双肩にどっとかかってきた。
 二人は同じ部屋に住み、同じ一つのベッドで寝起きし、同じように勉強した。彼らは学校で毎日六時間ずつ週六日正規の授業を受けるほかに、毎日四、五時間ずつ個人教授について勉強した。世の教育ママたちなら、「グリム兄弟の爪の垢を煎じて、うちの子に飲ませたい」と思わずにはいられないだろう。二人は、それぞれクラスの首席でリュツェウムを卒業し、マールブルク大学にすすんだ。
 社会的地位がそれほど高くなかったために、大学に入るには特別の許可が必要だった。また、大学に入ってからも、裕福な家の子弟たちがほとんど奨学金を得ていたというのに、彼らは自分で教育費を出せねばならなかった。
 大学時代も、二人はひたすら勉学に専念した。他の学生たちはビアホールで浮かれ騒いでいたが、グリム兄弟は着る物もろくに買えないので、そうした学生たちの集まりに加わることもできなかった。
 大学で、グリム兄弟は、新進気鋭の法学者で、歴史法学の創始者となる人物、サヴィニーの影響を受け、ドイツの古い文化に関心を抱くようになった。サヴィニーは、法の精神を理解するためには、ある民族が共有する慣習や言語の発展をたどり、その中に法の起源を探り、法の発展の背後にある歴史的コンテクストを探究しなければならない、と考えていた。
 皮肉なことに、グリム兄弟の関心は、法よりもむしろドイツの古い文学のほうへと向かい、一八〇六年、ヤーコプはついに法学をやめることにし、言語学者あるいは文学研究者をめざす決心をした。彼は大学を中途退学し、カッセルに引っ越していた家族のもとに帰り、一家を養うために、ヘッセン国陸軍省の書記補という職につき、仕事のかたわら研究を続けた。ヴィルヘルムはマールブルクに残って法学の学位を取得した。
 以後、ヤーコプは、母親と弟妹を養いながら研究を続けるという生活を送ることになる。一八一一年、ヤーコプは『古いドイツの職匠歌について』を、ヴィルヘルムは『古いデンマークの英雄歌、物語詩とメルヘン』を出版している。一八一二年には共著で『第八世紀の二つの最も古いドイツの詩、ヒルデブラントの歌、およびワイセンブルンの祈り』と、『子どもと家庭の童話』、すなわちグリム童話集の第一巻を出版している。
 生活は極度に貧しかった。一八一二年に、ヴィルヘルムは伯母に宛ててこんな手紙を書き送っている。

家族五人で三人分の食事を一日一回だけ食べるというありさまです。五時の夕食までお腹がもたないので、朝食のうちの何か一つを食べずに取りのけておくことにしています。ヤーコプはふつう朝食だけは食べますが、私たちはコーヒー一杯とミルクパンだけで済まします。砂糖はとても手がでないので、お茶は飲まなくなりました。それでも、破れていない下着や上着は交代で着なければなりません。

 こうした貧しい生活を送りながらも、二人は一九二九年までに、『ドイツ伝説集』(共著)、『ドイツ文法』『ドイツ法律古事誌』(ヤーコプ)、『ドイツ英雄伝説』(ヴィルヘルム)などを出版している。
 ヴィルヘルムは一八二五年に薬局の娘ドルトヒェン・ヴィルトと結婚した。彼は生涯、よき夫、よき父だったようだ。いっぽう、ヤーコプは生涯独身だった。俗っぽい言い方をすれば、彼は学問と結婚したのだ。

「ゲッティンゲン大学七教授追放事件」と『ドイツ語辞典』
 ヤーコプは一八三〇年に、ヴィルヘルムは一八三五年に、ゲッティンゲン大学の教授になった。当時この大学はヨーロッパにおける最高の学術機関の一つとされ、高名な学者たちが教壇に立っていた。だが、一八三七年には二人とも大学を去ることになる。
 この年、イギリスからエルンスト・アウグスト三世がやってきて、ハノーファー王位を継承した。彼は憲法を破棄し、議会を解散させ、ゲッティンゲンを含むハノーファー王国に絶対主義を復活させようと、「すべての公務員は、王個人にしもべとして仕えることを宣誓せよ」という布告を出した。
 王は名目上、ゲッティンゲン大学の学長だったので、グリム兄弟も王への忠誠を誓わねばならなかったが、彼らは他の著名な教授五人とともに、王にたいする抗議声明を発表し、即座に解雇された。これが「ゲッティンゲン大学七教授追放事件」である。彼らの姿勢は学生や知識人に広く支持されたが、このおかげでグリム兄弟は職を失い、ふたたび経済的苦境に陥った。
 この頃、兄弟は、主に経済的必要から、『ドイツ語辞典』の編纂に着手した。これは十九世紀最大の辞書編纂事業となる。二人は死ぬまでこの辞書の編纂に精力を注ぎ込むが、結局はFまでしかたどりつけなかった。この辞書が完成したのは、着手から百年以上もたった一九六一年のことである。
 一八四一年、兄弟はベルリンに招かれ、ベルリン大学で教えるかたわら、学士院会員として研究をすすめることができた。四四年から四五年にかけて、兄弟はアンデルセンの来訪を受けたり、アンデルセンを訪問したりしている。
 一八四八年の革命が起きると、ヤーコプは国民議会の議員に選ばれたが、革命的気運が衰退するとともに、政治からしりぞき、ふたたび研究に専念するようになった。
 一八五九年、子どもの頃から病弱だったヴィルヘルムが死んだ。ヴィルヘルムはヤーコプにとって「分身」のようなものだったから、ヤーコプがうちひしがれたことはいうまでもない。だが、六二年には『ドイツ語辞典』の第三巻を出版し、六三年に世を去った。

類まれな兄弟愛
 グリム兄弟はどんな人物だったのか。一言でいえば「まじめ」だった。彼らの生涯を詳しく追っても、人に不快感をあたえるような嫌な面というのがまったくない。彼らの伝記を読めば、誰だって彼らに好感をもつはずだ。ほとんど良いことずくめなのだ。これは皮肉でもなんでもない。
 まず、二人はとにかく仲のいい兄弟だった。中学校時代は文字通り一つのベッドで寝起きし、ちょっとでも離れていると手紙を交換しあった。大学時代の一八〇五年一月末、ヤーコプは師サヴィニーの助手としてパリに旅立ったが、ヴィルヘルムは兄を追いかけるように、二月二日、こんな手紙を書き送っている。

兄さんが行ってしまったとき、ぼくは胸が裂けるかと思った。我慢できなかった。ぼくが兄さんをどんなに愛しているか、きっと兄さんにはわからないだろう――。

兄の返事も、まるでラブレターのようだ。

もうけっして離れないようにしよう。どちらか一方をどこかへ連れて行こうとする人がいても、もう一人が断固拒否することにしよう。ぼくたちは共同生活に慣れているから、一人になっただけで死ぬほど悲しくなるんだ。

 どちらもしばしば引用される手紙だが、これを読むと、ヴィルヘルムが死んだときのヤーコプの悲しみはいかばかりだったかと思う。
 また、二人とも母親や弟妹への思いやりにあふれていた。つねに二人の念頭にあったのは、どうすれば家族に少しでも楽な暮らしをさせられるかということだった。
 そして、二人は貧困に負けなかった。彼らには「清貧」という言葉がぴったりだ。
 学者として優秀だったことはいうまでもない。その生涯にヤーコプは二十一冊、ヴィルヘルムは十四冊の著作を世に問うており、共著も八冊ある。二人は強靱(きょうじん)な意志と勤勉さによって、これだけの業績を残したのだった。
 また彼らは、たとえ大学教授の職を失っても専制支配には屈しまいという勇気の持ち主だった。
 グリム兄弟の超人的なエネルギーはどこから湧(わ)いてきたのだろうか。

二つのユートピア
 彼らのエネルギーの源泉となったのは、失われたユートピアへの熱い思いだったように思われる。そのユートピアは二つの面をもっていた。一つは彼らが過ごした牧歌的な幼年時代、いま一つは古き良きドイツである。この二つが重なりあって、グリム兄弟の「夢」を形成していた。
 十代の初めで父親を失ったことが、彼ら兄弟の一生を決定づけたようだ。父親の突然の死によって、一家は貧困のどん底に投げ込まれ、同時にそれまでの社会的地位を失った。そのために兄弟はさんざん苦労して学業をおさめなければならなかった。二人が類(たぐい)まれなほど仲がよかったのも、父親も家族も故郷も失ったことにたいする一種の補償作用だったのかもしれない。
 グリム兄弟が理想としてつねに心に思い描いていたのは、あたたかい家庭の一家団欒(だんらん)であった。ただしそれは、たんに彼らが早く父親をなくしたからだけではなく、時代の影響もあった。グリム兄弟が生きた時代は、「ビーダーマイヤー」時代と呼ばれる、現代と同じような家族ができあがりつつあった時代であり、家庭での団欒が尊重されるようになってきた時代だったのである。
 グリム兄弟が憧れたもう一つのユートピアは古き良きドイツ、いいかえればドイツ民族の統一であった。
 一九九〇年には、東西ドイツの統一が世界中の注目を集めた。現在もなお、統一ドイツの将来が世界中の人びとの関心を惹(ひ)いているが、ドイツの歴史をふりかえってみると、統一国家が存在したのはごく最近の短期間にすぎない。グリム兄弟が生きた時代も、「ドイツ」という統一国家はなかった。十九世紀の初めまで、一千年もの長きにわたって「神聖ローマ帝国」なるものが存在したことになっているが、三十年戦争を終結させたウェストファリア条約(一六四八年)以後、この帝国はいわば亡霊のようなものになり、実際には三百以上の小さな領邦国家が群立していた。この状態はグリム兄弟の時代までそのまま続いていた。
 そして一八〇六年にはドイツ全土がナポレオンの軍隊に占領された。若きグリム兄弟にとって、これはなんとも悲劇的・屈辱的な出来事だった。彼らだけでなく、多くの人びとが、「群小国家に分裂しているから、こんなみじめなことになったのだ」と考えた。ウィーン会議によってドイツ連邦が成立するが、ドイツ全土が統一されるのはまだずっと先のことだ。
 グリム兄弟は、師サヴィニーの影響もあって、ドイツ民族を統一するものは言語文化だという確信を抱くようになった。それで彼らは、他のロマン主義者たちと同じく、中世文化の発掘に専心した。童話集を含め、グリム兄弟の学問的活動のすべては、ドイツ民族の統一に貢献したいという熱情によって支えられていたといってもいいだろう。