はじめに――グリム童話の新しい面白さ

 本書の目的は、グリム童話の面白さを大人の読者に知ってもらうことである。
 ただし、本書がこれから語ろうとするグリム童話の面白さは、「グリム童話の面白さ」と聞いたときに読者がおそらくイメージするであろうものとは、ちょっと違うのではないかと思う。
 ふつうメルヘン(昔話、おとぎ話)の面白さというとき、私たちはメルヘンを、古い時代から世代を超えて語り継がれてきた人類の文化遺産と捉えている。本書と同じ現代新書の相沢博『メルヘンの世界』のカバーには、「メルヘンは、長い歳月を通して磨きぬかれた美しい表現で、庶民の夢・心・知恵の結晶を私たちに語りかける」というキャッチフレーズが書かれている。確かにその通りである。私たちがメルヘンを面白いと思うのは、何よりもそれが「庶民の夢・心・知恵の結晶」だからである。
 グリム童話も長いこと、ゲルマン民族の文化遺産として、ほとんど神聖視されてきた。ドイツ人はそこから「ゲルマン的なるもの」を汲(く)み取ってきた。グリム兄弟が童話集を出版した意図もそこにあった。
 日本人の場合は、グリム童話を別にゲルマン民族の文化遺産として読んで(聞いて)きたわけではないが、「古くから伝わる外国の昔話」として読んできたことは確かだ。
 確かに『グリム童話集』の「核」をなす部分は、いつの時代かを特定することはむずかしいが、とにかく古い時代から語り継がれてきたものである。ここで「核」というのは、童話集に収録されている全二百話のうちのいくつかという意味ではなく、個々の話の「核」となる部分のことである。
 というのも、グリム兄弟は古くから伝わる話を集めてそのまま本にしたわけではない。彼らは口伝てに聞いた話だけでなく、書物からもメルヘンを集めているし、そうして集めた話にかなり手を加えているのである。つまり、彼らは『グリム童話集』の「編者」というより、実際には「作者」に近いのである。
 したがって、グリム兄弟(より正確には弟のヴィルヘルムのほう)が、自分たちの集めた話をなぜ、どんなふうに書き換えたか、つまり彼らがメルヘンに何を盛り込んだのかを調べてみれば、彼らの、そして彼らを取り巻いていた社会的・文化的環境の、道徳観・社会観が明らかになってくる。
 本書が語ろうとする「面白さ」とはそのことである。つまり、十九世紀ドイツのブルジョワジーの価値観を示すものとしても、グリム童話はじつに面白いのである。
 グリム童話の書き換え過程から浮かびあがってくる、十九世紀ブルジョワジーの価値観は、私たちの価値観からそれほど遠いところにあるわけではない。いや、彼らの価値観と私たちの価値観はほとんど同じだといってもいい。この価値観は現代までしぶとく生きのびてきたのだ。
 現在、私たちの価値観はさまざまな面で大きく変動している。この変動期にあって、新しい方向を探るためにも、十九世紀から現代にいたるまで綿々と生きのびてきたこの価値観が生まれつつあった頃に成立した『グリム童話集』を考察することによって、この価値観がどれほど私たちの心に染(し)みついているかを見極めることも、まんざらむだではあるまい。なぜなら、この価値観を私たちの心に植えつけるのに、グリム童話は大きな役割を演じてきたのであるから。
 私たちの多くは――いや、ほとんど全員は、と言ってもいいだろう――幼い頃にメルヘンを聞いて、あるいは絵本で読んで、あるいはディズニーの映画で観て、育った。メルヘンが子どもの心にあたえる衝撃は、測り知れないほど大きい。それが証拠に、私たちは幼い頃に聞いたメルヘンをほとんど一生忘れることがない。メルヘンにはさまざまなメッセージがこめられている。だとすると、私たちがそのメッセージの影響を受けていないはずがない。
 たとえば、「いつの日か、白馬にまたがったハンサムな王子さまが迎えにくる」という夢を抱いている若い女性は多い。若い女性が理想の男性を夢みるのは当然だとしても、その男性が「白馬にまたがった王子」としてイメージされるのは、メルヘンの影響を抜きにしては考えられない。さらに、そうした理想の男性を自分のほうから探しにゆくのだとは考えず、王子さまが迎えにくることを夢みるのは、やはりメルヘンの影響だろう。
 問題は、白馬の王子が迎えにくるというイメージが、太古の昔から伝えられた、人間の本質を象徴するイメージなのか、それとも、ほんの百五十年ほど前にメルヘンに盛り込まれたメッセージなのかということである。つまり、若い女性がこのような夢想に耽(ふけ)るという事実は、女性が本質的に受動的であることを意味しているのか、それとも、「女性は受動的に待つべきだ」というメッセージによって「洗脳」された結果なのか。
 ヴィルヘルム・グリムがなぜ、どんなふうにメルヘンを書き換えたのかを細かく見てゆくことによって、右のような疑問にたいする答えを見つけることができるだろう。

 以下、第一章では、「『グリム童話集』は本当に広く読まれているのだろうか」という問いから出発し、『グリム童話集』の比較的知られていない面を紹介した上で、グリム兄弟の生涯と、『グリム童話集』成立の背景について、ごく簡単に述べる。
 第二章では、いったん『グリム童話集』から離れ、メルヘン研究のためのさまざまな方法論を紹介する。つまり、メルヘンがいったいどういう研究方法によって蒐集・分類・分析・解釈されているか、ということである。もちろん、本書は民俗学とか説話分析といった学問の入門書ではない。ここでさまざまな研究方法を紹介するのは、多くの視点を身につけたほうが、(少なくとも大人としては)それだけ余計にメルヘンを楽しめるに違いないと思うからである。
 第三章では、グリム兄弟はドイツ各地をめぐって、文盲の農婦からじかにメルヘンを蒐集したという「神話」と、グリム兄弟は自分たちの蒐集したメルヘンにいっさい手を加えずに出版したという「神話」について論じる。
 第四章では、ヴィルヘルム・グリムがどのようにメルヘンを書き換えていったのかという問題を中心に、『グリム童話集』に見られる性とエロティシズム、暴力と残虐性、女性差別、子ども観など、つまり『グリム童話集』に盛り込まれたイデオロギーについて考察する。