2009年4月の日記(↑時間軸)
 
4月13日(月)
 
 昨日はかみさんの実家の法事。かみさんの祖母の33回忌。私はこのおばあさんを直接には知らない。かみさんの実家の仏間に飾ってある写真でしか知らない。かみさんの従兄弟・従姉妹たちが全員集合した。
 結婚して最初はかみさんの実家から歩いて10分ほどのマンションに住んだ。そのマンションの同じ階にはかみさんのもうひとりの祖母が住んでいた。というより、そのマンションはその祖母の持ち物であった。結婚当初、かみさんは資生堂の「花椿」の編集部につとめていて、私は失業者みたいなものだったから、家にいることが多く、そのおばあさんとお付き合いする時間も多かった。おばあさんはよくおかずを届けてくれたし、私も自分でつくった料理を届けたりした。おばあさんは体が悪かったので、医者に行く手助けをしたりした。
 で、かみさんの実家の方面では、年寄りとよく付き合ってくれるお婿さんだと言われ、感謝されていたのだが、私にとってはごく自然なことだった。というのも、私と妹はほとんど祖母に育てられたようなものだからである。私が子どもの頃、父は病気をして長いこと入院していたり、会社が倒産したりしたので、母が日本舞踊を教えて家計を支え、食事はいつも祖母がつくってくれ、祖母と私と妹の3人で夕食をとるのが常だった。要するに「おばあちゃん子」だったのである。
 核家族化のせいで老人といっしょに暮らす機会がなかった人と、私のように年寄りに育てられた人間とでは、老人に対する態度がずいぶんと違うようだ。老人と暮らしたことのない人にとって、老人はきっと異星人みたいなものであろうと想像される。いまや日本の最大の問題は介護であるが、やっぱり大家族がいい、と私は思う。
 などと書くと、妹や弟たちから石をぶつけられるかもしれない。私の母は私の妹一家と同居し、かみさんの両親はかみさんの弟一家と同居している。私もかみさんも長男長女だが、われわれだけが勝手に鎌倉に住んでいるのである。妹弟のみなさん、お世話になっております。感謝しています。どちらの親も近いうちに介護が必要になるであろうが、ちゃんとやりますので、ご心配なく。
 
 先日、ローレンス・ヴァン・デル・ポスト原作の映画『ラスト・ウィンド』(原題 A Story Like the Wind)のことを書いた。そのビデオが届いたので、さっそく観る。大長編小説を2時間足らずの映画に短縮しているのだから仕方ないが、あらすじを追うだけの映画になってしまっている。
 主人公の少年少女の親たちは、彼らが摘発しようとしていた密猟者の一味に殺されたという話になっているが、原作では共産軍に殺されるのである。ヴァン・デル・ポストの他の作品、たとえば『フラミンゴの羽根』などでも、「悪」は共産軍である。
 大学院生の頃、最初にヴァン・デル・ポストの小説を読んだとき、そのあたりのことがよくわからなかったのだが、かつて、いやおそらく現在も、アフリカ各地には「共産軍」が軍事展開している。かつてはソ連軍が主流だったが、いまでは中国軍が主流を占めるようだ。その事実はいっさい報道されない。アフリカで起きていることは、部族どうしの争いだけではない。
 
 松本清張原作のテレビドラマ「駅路」を観る。石坂浩二、十朱幸代、役所広司、深津絵里というキャスト。原作は短編だから、筋はいささか単純だが、さすが脚本が向田邦子だけあって、じつに面白い。
 
 いうまいと思えど、きょうの忙しさかな。
 ニューヨークとパリにしばらく住むと言うと、みなさんが「うらやましい」とおっしゃるが、現状のままだと、外国暮らしをエンジョイするどころか、アパートから一歩も出ずに仕事に明け暮れることになるやもしれぬ。それじゃあ、サバティカルの意味がない。なんとかせねば。
 サバティカルとは何か。われわれ大学教師のすべき仕事は教育と研究と行政(大学運営)である。ふだんは教育と行政にほとんどの時間をとられてしまい、なかなかじっくりと研究にいそしむことができないので、数年に1回、教育と行政から解放されて研究に没頭する。ただしそれは自分の研究だけでなく、教育に還元できるようなことも身につけなければならない。簡単な例を挙げれば、英語を教えている先生が、最近の英語圏でどんな英語が話され、書かれているのかをまったく知らなければ、彼の英語教育には問題があるといわざるをえない。自分の英語力もブラッシュアップしなくてはならない。
 かなりの情報は日本にいても入手することができるが、やはり現地に行ってみると「目から鱗」ということも多々ある。だからサバティカルというのは絶対に必要なのである。
 というわけで、来年度以降の授業をさらに身のあるものにできるよう、懸命に勉強しなくてはならないわけであるが・・・
4月10日(金)
 
 5日の日曜日、東大で、私の恩師である川端香男里先生を囲む会がある。
 川端先生は東大を定年退官後、中部大学と川村学園大学におつとめだったのであるが(川村では副学長)、この春めでたく、すべての職から自由になられたのである。これから博士論文を執筆なさるそうだ。教え子が集まって、それをお祝いしたしだいである。
 川端先生は、私にいわせればレオナルド・ダ・ヴィンチみたいな先生で、ギリシア語、ラテン語、英語、フランス語、ロシア語などを操り、しかも「なんでも知っている」先生であった。
 私が卒業した文学部ロシア文学科というところは、学生を「放し飼い」にしておくという伝統があるらしく、私もとくに先生の指導を受けたという記憶はないが、後で他の先生から伺った話では、川端先生はいつも「沼野と鈴木は放っておいても自分でなんとかするだろう」と仰っていたそうである。
 私の場合は「放って置いても自分でなんとか」したかどうかは疑問だが、沼野氏は日本のロシア文学研究の代表的存在となっただけでなく、紛争後にできた「近代語近代文学科」を改組して、最近、野谷文昭さんや柴田元幸さんといっしょん「現代文芸論」という新しい学科を設立した。
 川端先生は教養学科フランス科の出身で、政府の給費留学生としてフランスに留学し、銀行でアルバイトしていたおかげで、後に「フランス商業文の書き方」という参考書を出しておられる。
 つまり「フランス系」の先生だったのであるが、私もフランス語は中学時代から勉強していたので、もし川端先生がいらっしゃらなかったら、ロシア文学をやめていたかもしれない(実際のところ、ほとんどやめたようなものではあるが、でも私のルーツはロシア文学である・それは今も変わらない)。
 川端先生との最初の出会いはよく憶えている。私が大学に入った当時、学生たちの誰もが雑誌「ユリイカ」を読んでいた。その頃、先生は「ユリイカ」に「薔薇と十字架」という評論を連載しておられた。「ユリイカ」に文章を載せる、というそれだけで、当時のわれわれ学生にとっては「アイドル」であったから、それだけの理由で川端先生の授業をとったのであった。「ユリイカ」で連載をしているというので、澁澤龍彦みたいな長髪の色男を想像していたのであるが、教壇にのぼったのは、髪がくるくると天然パーマの、温厚そうな先生だったので、思い描いていたイメージとの落差に衝撃を受けたのであった。
 ちなみに、香男里というお名前は、音で聞くと女性の名前かと思うのだが、ちゃんと男という字が入っているという絶妙なお名前である。ご存じの通り、故若桑みどり先生は妹さんである(だった)。ご兄弟は先生を含めて4人だが、みんな最後に「り」がつく。兄弟で韻を踏んでいるのである。
 
 ヴァン・デル・ポストの『風のような物語(A Story Like the Wind)』『遠く遙かな場所(A Far Off Place)』のことを書いたら、内田樹先生からメールを頂いた。いわく、「その映画の邦題は『サミー南へ行く』ではありませんか。だとしたら試写会で観ました」。先日書いたように、私は電車の中でヴァン・デル・ポスト原作の映画の広告を見たおぼえがあるので、たぶん試写会もおこなわれたはずである。たしかに『サミー南へ行く』も、親を失った少年がアフリカ大陸を旅する映画だったが、ヴァン・デル・ポスト原作の映画はこれとは違う。
 ネットで調べたら、日本でもビデオは出ていた。そのタイトルは『ラスト・ウィンドーー少年たちは砂漠を越えた』であった。
 アメリカではちゃんと公開されたのである。それがなぜ日本では公開されなかったのか、業界の人に裏話を聞かせてもらいたいものである。だれか知りませんか。
 ところで、『サミー南へ行く』を私が観たのかどうか、記憶にない。内田先生からのメールを読んだとき、すぐにアフリカ大陸を旅する少年の物語だったと思い出したのだから、この映画のことを知ってはいたのだが、ひょっとすると紹介記事を読んだだけかもしれないし、予告編を見ただけかもしれない。そういう、観たのか観ていないのか憶えていない、という映画は少なくない。夢だったのか現実だったのか、今となってはわからないということも少なくないが、それと似たようなもので、まことに記憶というものはあてにならないのである。
 
 この4月からサバティカルなのであるが、まだ日本をうろうろしている。出発前に片付けておかねばならない仕事がまだ片付かないのである。
 ひとは、やらなくてはならないことが多すぎると、どこから手を付けていいか、わからなくなり、全身が麻痺してしまう。これをかみさんは「アワワワ」状態と呼んでいる。まさにいま、夫婦して「アワワワ」状態である。夫婦とも、口から泡を吹いている。
 15年前にイギリスに移り住んだときも、かなり悲惨な状態だった。出発の前日になっても、なにかを探して横浜や藤沢のデパートを歩き回っていたことを憶えている。
 出発直前まで、娘は日本人学校に入れるつもりだった。予定は1年だったので(結局、1年半いた)、1年では英語はものにならないだろう、イギリスの学校ではいじめにあうであろう、という理由で、日本人学校に入れることにしたのである。
 だが、当時娘が通っていた小学校の校長先生と面会したとき、「何を馬鹿なことを言っているのですか。現地校に入れなさい」と一喝され、あわてて現地校を探し始めたのだった。校長先生(そのカトリック系の学校では「校長様」と呼んでいた)の一言でまさしく「目が覚めた」のであった。このことに関しては、その校長様に深く感謝している。
 どんな分野にも「世話人」というものがいるもので、ロンドンで娘をどの学校に入れたらいいか、まったくわからなかったわれわれは、その道の「専門家」のアドバイスを受けて、ロンドン北部のハムステッドという町(成城学園前、あるいは田園調布みたいなところ)にある女学校に入れることになった。
 いまでは英国園芸研究家として有名なY谷K子さんと、アーティストであるご主人がハムステッドに住んでいた。ロンドンに住んでいる間、何から何までこのY谷夫妻のお世話になったのだが、「この学校に入れるつもりなのだが」とファックスしたら(当時は電子メールがなかった)、Y谷さんはわざわざ見に行ってくれたのだ。だが、「ふつうの家しかない」という返事がかえってきた。
 実際に行ってみてわかったのだが、ふつうの家の中にある、小さな小さな学校だった。1学年に数人しかいない。でも、いい学校だった。
 娘をその小学校に通うとなると、近くに住まなくてはならないので、学校からの距離を考えて住まいを決めたのだった(ちなみに、イギリスの小学校は親の送り迎えが義務づけられている)。
 その住まいを探すために、Y谷さんは学校のスクール・バスの経路まで調べてくれた(学校から、あやしいやつと思われたそうだ)。
 
 「絶対に現地校に入れなさい」と言ってくださった校長先生には今も感謝しているが、そのお嬢さん学校はうちの娘には合わなかったらしく、結局、娘は中学は卒業したが、「もう我慢ならない」と言って、やめてしまい、他の高校を受験した。
 そもそも「馬鹿父」である私は、受験勉強なんかしないほうがいいと固く信じて、中高一貫教育の学校(できれば大学まであるところ)を探し、そこに入れたのだったが(たまたまその学校が家からいちばん近かったのだが)、娘はお嬢さん学校におとなしく通うタイプではなかった。
 
 前にも書いたけれど、娘が中学の時、全国的にルーズソックスが流行し、娘の学校でもその例に洩れなかったのだが、学校で禁止令が出た。それで他の生徒たちは学校を出てから隠れてルーズソックスにはきかえていたそうだが、学年でただひとり、娘だけはルーズソックスで通いとおした。このことに関してだけは、私は心から娘を誇りに思っている。
 自分の娘にそんな強靱な意志(反抗心)があるとは、まったく夢にも思わなかった。われわれ親も呼び出されたのだったが、私もかみさんもルーズソックスのどこかいけないのか理解できないタイプであったため、先生がたからは「反抗的な親だ」と思われたらしい。
 受験のない学校に入れたのだったが、結局、娘は小学校だけでなく、高校も大学も大学院も受験する羽目になった。そのおかげで、娘は給食というものを知らない。気の毒なのはかみさんで、小中高と12年間弁当を作り続けたのであった。今なら、私が作るんですけどね。
4月4日(土)
 
 多忙な生活を送られている機動戦士、じゃなかった企業戦士の方々からは笑われるかもしれないが、昨日はまことに忙しい一日であった。
 朝7時に起きて、朝食をとる暇もなく、タクシーに飛び乗って駅まで行き、ビザ申請のためにアメリカ大使館に行く。ビザ申請に関しては、ネットで多くの体験談を読み、とても参考になったので、私もまた自分の体験を記しておくしだい。
 当初、アメリカには3ヶ月滞在する予定だった。ご存じのように、アメリカの場合(EUも同じだが)、3ヶ月まではビザ無しで滞在できる(ただし現在は数日の観光旅行でも、たとえ行き先がグアムやハワイであっても、ESTAというものをネットで提出しなくてはならない)。
 だがその後、詳しい理由は省略するが、アメリカ滞在を5ヶ月に変更することになった。それでも最初は、3ヶ月経ったら一度カナダに出ればいいやと思っていたので、ビザを申請するつもりはなかった。ところが、大使館のHPをみてびっくり。おそらく9.11以降だろう、カナダおよびアメリカ近隣諸国に一度出ただけでは再入国は拒否される、とある。近隣諸国でなくても(たとえば日本に一時帰国した場合でも)再入国を拒否されることがあるという。再入国を拒否されるということは、アメリカの空港からそのまま日本に強制送還されるということである。よく知らないが、その旅費は自己負担であろう。そんな目には遭いたくないので、ビザを申請することになったのである。
 ふつう、われわれ大学教師はどこか外国の大学あるいは研究施設に客員研究員として受け入れてもらい、それによって身分が保証される。15年前、イギリスに滞在したときには、私は前半はロンドン大学、後半はサリー大学の客員研究員であった。イギリスの場合、面倒なことはなく、その大学からもらった書類を空港で見せれば、その場で1年間のビザを発給してくれた。
 アメリカの場合はそうはいかない。事前に受け入れ先大学から書類(たしかA-20といった)を送ってもらい、それをもって大使館にいってA-1ビザというものを申請する。
 A-1ビザの手続きには数カ月かかるから、今からではとうてい間に合わない。そもそも今回はどこの大学にも所属するつもりはないので、B-1ビザを申請することになった。
 まずネット上で申請書類を作成し、それをプリントアウトする。次に銀行ATMに行って、ペイジーというシステムで申請料金を支払う。次に領事面接の予約をして、申請書類とその領収証と写真をもって、大使館あるいは領事館に行くのである。
 写真は「背景が白」と指定されている。HPには「日本国内のほとんどの証明用スピード写真はOK」と書かれているが、じつはOKではない。ふつうのスピード写真の機械は背景が薄いグレーブルーである。これだと門前払いされる。そのために大使館敷地内にスピード写真機が設置されているのだが、あわててそこに駆け込む人を数人見かけた。どうして背景が薄いブルーではいけないのか、理由がわからない。
 とにかく、背景が白のスピード写真機を探す必要があるのだが、これがなかなか容易ではない。模造紙をもっていってスピード写真機の背面に貼った、という体験談をネットで読んだが、大学の中にある写真屋さんはそのへんを心得ていて(うちの学部は毎年大勢の学生をアメリカに送り出すので)、白バックの写真をすぐに撮ってくれた。他に心当たりがないので、かみさんもわざわざ法政大学に来て撮ったのであった。
 さあこれで準備万端、という心意気で大使館に向かう。入口でペットボトルなどを取り上げられ、次に携帯電話、電子辞書などを取り上げられたうえで、行列に並ぶ。
 数年前には、真冬でも屋外で1時間も2時間も待たされたそうである。「アメリカ大使館に爆弾を仕掛けてやる」と心に誓った人が大勢いたはずである。入国しようとする外国人にやたら厳しくすることは、テロリストを量産するようなものである。
 現在はちゃんと待合室がある。が、そこに入る手前で書類をチェックされる。準備万端だと思っていたのに、いきなり「書類の作り直しですね」といわれる。バーコードのプリントが不鮮明だというのである。あわてて近くのKinko's に走る。
 アメリカが世界一裕福な国なんだから、パソコンの2台や3台置いておいて下さってもよろしいんじゃないでしょうか。
 さて、教えてもらった Kinko's にはパソコンが2台しかない。1台は、すでに書き直しを命じられた家族連れが書類の作り直しに取り組んでいる。先刻、私たちの眼前で、「サイテー! まったく頭に来る」と息巻いて出て行った人たちである。
 もう1台はマックだったので、「ではマックを」と頼んだら、なんとこのマックは OS9 で、すぐにフリーズするという。なんでそんなもんを置いておくんだ? 別の店舗を教えてもらってタクシーで駆けつける。全部最初から申請書類を打ち直し、ふたたびタクシーをひろって大使館へ。
 今度は待合室まで到達できる。待合室は200人くらいの人でごった返している。椅子が足りず、数十人が立っている。ここで3時間ほど待たされる。そのあげく、面接は3分くらいで、あっけなく終わった。
 かみさんはかなり心配していた。というのも、A-1ビザと違ってB-1ビザの場合、妻というだけで自動的にビザがもらえるわけではないのだ。かみさんは前の晩に徹夜して自分の仕事を説明する英文レターを作成したのだが、親切な面接官にあたったおかげであろう、何一つ質問されなかった。
 そういえば、アメリカ大使館ではビザ申請に関する電話相談をやっているのだが、有料(18ドル)である。有料なのは仕方ないが、日本語と英語を選べるので、かみさんが日本語を選んだら、出てきたのは片言の日本語しかできないアメリカ人だったそうだ。金をとるんなら、ちゃんと日本語の話せる人を用意して欲しいものである。
 われわれは就労するわけではないから、数カ月アメリカに滞在すれば、アメリカで数百万円の金を使うことになる。もちろんインフラの恩恵も受けることになるが、差し引き勘定はアメリカにとって黒字になるはずである。つまり、いいお客さんではないか。だったら、もっと親切にしてくれてもいいと思うのだが。
 ちなみに、ビザ申請の手続きを代行してくれる旅行会社もある。だが、たとえばJTBの場合、料金は10万円である。
 
 寝不足だし、ビザ申請で疲れたのだが、そのあと世田谷パブリックシアターまで、夏木マリの「印象派neo」を観に行く。「印象派」というのは15年ほど前から彼女がやっている「自分がやりたいことをやる」という公演で、いわば彼女のライフワークであり、彼女の「こだわり」である。
 「印象派」はこれまでにも何回か観ているが、とくに今回はテーマが「赤ずきん」ということで、マリさんに頼まれて、「赤ずきん」に関する資料をごっそり貸したので、観ないわけにはいかない。
 
 ソウルのキム先生から電話。なんとこれから3ヶ月間、東京に滞在なさるとのこと。しかも三軒茶屋にアパートを見つけたというので、さっそくお目にかかる。私の『バレエ誕生』を韓国語に訳して下さった先生である。な、な、なんと、『バレリーナの肖像』もすでに翻訳済みとのこと。ありがたいことである。韓国からのお土産を山盛り頂く。
 
 夜は「忘れえぬロシア 国立トレチャコフ美術館展」のオープニング・セレモニーに出席するため、文化村ミュージアムへ。有名な絵がたくさん来ている。どれもリアリズム絵画の傑作である。アヴァンギャルド絵画よりもこちらのほうがずっと観客が多いことであろう。
 
 きょうは鎌倉も桜が満開。当然、ものすごい人出である。キム先生から頂いたキムチでチゲをつくる。これがこの冬最後の鍋となるであろう。
 思い出すと、ロンドンではほとんど和食を食べていた。めったに外食はしなかった。冬は毎週、家族3人で鍋をつついた。イギリスの魚屋(フィッシュモンガーという)は、情けないほど魚の種類が貧弱だが、さいわいタラとサケは豊富なので、よくたらちりにした。豆腐は森永の四角いパック入りの長期保存用豆腐を使ったり、ハウスの「本とうふ」を使った。これは家で作る豆腐である。
4月2日(木)
 
 娘は、きのう入社式だったというのに、きょうは会社に泊まりだそうだ。さすが新聞社。
 
 私はどんなに忙しいときでも、自分で食べるものは自分で作る、という習慣を崩さない。当然、仕事時間が削られるのだが、どうしても「あんパンかじって」というのができない。
 これはけっしてよいことではない、ということは自分でもわかっている。仕事をすべき時には、食事の時間を犠牲にしても、仕事をしなくてはいけない。でも、料理は私にとって一種の固着観念なのである。病気といわれても反論しない。
 というわけで、編集者のかたがたには本当に申し訳ないが、料理と食事の時間は断固として確保するのである。
 
 最近は八百屋にいってもほぼ一年じゅう同じような野菜を売っているが、その季節にしか食べられないというものも、もちろんある。今ならタラの芽、ふきのとう、タケノコなどである。
 昨日はタケノコを買ってきた。皮を何枚か剥いで、米ぬかをいれて茹でる。いつもはそのあと若竹煮にするのだが、今回は「もう待てない」状態だったので、そのまま刺身で酢味噌をつけて食べる。
 さばいたばかりだというシコイワシの刺身を買ってきたのだが(いくらなんでも、あれを自分でやるのは面倒くさい)、これがとてつもなく美味であった。しかし食卓を見渡すと、タケノコ、芹、ミョウガ、グリーンアスパラ、キャベツの塩もみと、植物ばかり。草食人間といわれても仕方がない。むかし、「タンパク質が足りないよ」というコマーシャルがあったが(知っている人は50以上だ)、まさにそれである。でも納豆を食べるから心配ないのだ。
 今日は新鮮なイワシがあったので、梅干しを入れて煮る。おお、美味。それに、薬味を5種類(大根おろし、ショウガ、ネギ、大葉、キュウリ)つくって、厚揚げを食す。アシタバを、もやし、タマネギ、エリンギといっしょに炒める。やっぱり野菜優勢である。体がかさかさしてきたような気もするが、気のせいか。
 
 ローレンス・ヴァン・デル・ポストという作家がいた。じつに美しい英語を書く作家である。チャールズ皇太子の名付け親・家庭教師としても知られていた。だから、ダイアナとの離婚騒動のときには、ヴァン・デル・ポストの影響が取りざたされたものである。
 最初に日本語に訳されたのはたぶん筑摩世界ノンフィクション全集(叢書?)に収録された「カラハリの失われた世界」のはず。だが、いちばん有名な作品はいうまでもなく『影の獄にて』であろう。大島渚監督、ビートたけし、坂本龍一、デビッド・ボウイ主演の映画『戦場のメリークリスマス』の原作である。ちなみに、いまウィキペディアをみて知ったのだが、この映画の撮影監督は成島東一郎だったのであった。知らなかった。
 坂本龍一作曲のテーマ音楽は典型的なミニマル・ミュージックで、同じ旋律の繰り返しだが、一生忘れられないメロディである。
 むかし、思索社という出版社がヴァン・デル・ポスト選集を出していて、私も翻訳者のひとりだったので、ヴァン・デル・ポストが来日したときに何度か会った。選集の監訳者はいまは亡き由良君美先生だったが、ヴァン・デル・ポストの旧友だったために、これまた故人である秋山さと子先生が半分翻訳を引き受けていた。私は秋山先生と共訳で『ユングとわれらの時代の物語』を訳すことになっていたのが、これがものすごい難物で、当時はほとんど歯が立たなかった。雑誌「ユリイカ」に1章だけ掲載したが、その後は遅々として進まなかった。そうこうしているうちに、選集が完結しないまま、思索社は倒産してしまった。数冊は出たのだが、古本屋に行ってもなかなか見つからないかもしれない。いまだにヴァン・デル・ポストと秋山先生には大きな借りがあるので、なんとか死ぬまでには訳したいと思い、いくつかの出版社に掛け合ったのだが、どうやらユング・ブームも去ったらしく、「出しましょう」と言ってくれる出版社はいまだにない。
 
 ヴァン・デル・ポストの作品に、『風のような物語』とその続編『遠く遙かな場所』という大長編小説がある。児童文学といってもいい。共産主義者らしき謎の軍隊に両親をはじめ一族を皆殺しにされた少年が、ブッシュマン(コイサン)の助けをかりてカラハリ砂漠を横断し、イギリス軍に事実を知らせるという物語である。
 むかしサンリオから翻訳が出ていた。前者を訳したのはこの3月まで私の同僚だった井坂先生、後者を訳したのは今もなお同僚である並木先生である。どうして翻訳家ではない法政の先生方が翻訳したかというと、サンリオの編集長が柄谷先生に翻訳者を紹介して欲しいと頼みにいって、柄谷先生が同僚を紹介したのである。
 じつはこの2冊の本の版権を取得するにあたって、シノプシス(梗概)を各アルバイトをしたのがこの私であった。2冊の長編小説を2週間で読んであらすじを書いたのだった。当時はまだ大学院生で、ひまだったから、2週間家に閉じこもって、朝から晩までこの本を読んでいた。アルバイト料は1冊1万円だった。
 その後、ウォルト・ディズニー・プロがこの作品を映画化した。日本でも宣伝していたのだが、公開直前になって突然、公開中止になった。理由は知らないが、そのとき、できあがった映画が公開されないこともあるのだということを知った。
 いや、その前からそうした事実については知っていたかもしれない。というのも、学生の時、ソルジェニーツィン原作の『イワン・デニーソヴィチの一日』が映画化され、試写会で見たのだが、結局、この映画も公開されなかった。スウェーデンかどこかの映画だったと思う。
 どちらが先だったか、たぶん後者のほうが先だったように思う。
 
 さて、ロンドンに住んでいたとき、ヴァン・デル・ポストの家を訪ねた。連絡すると、喜んで招待してくれた。ロンドンにはほとんど高層ビルというものがないのだが、彼は、数少ない高層ビルに住んでいたのでびっくりした。たしかチェルシー・タワーというマンションだった。ロンドンの住宅区域は高層ビルの建築が禁止されているのだが、戦後の一時期、その禁止が解かれ、いくつか高層マンションが建てられたのだ、とヴァン・デル・ポストが教えてくれた。
 来日時に会ってから11年が経っていたが、彼の変わりようにびっくりした。来日したときには、髪はすでに薄かったが、スタイルのいい、カッコいいおじさんだった。それが、足下のおぼつかない、腰の曲がった老人になっていた。当時すでに88歳だったのだから、当然なのだが、私はまだ老人というものにあまり慣れていなかったのであろう。
 お茶をご馳走になったのだが、彼は来日時の記念写真をどこかから出してきて、そこに写っている私を指さして、「これがきみだね」と言った。その通りだった。その写真には由良先生、秋山先生のほか、高山宏さんも写っていたはずである。
 彼を訪ねたとき、奥さんの作家インガレッド・ギファードもまだ存命で、いっしょに住んでいたが、すでにいわゆる恍惚老人になっていて、私がローレンスと話している最中に、ネグリジェのまま部屋に入ってきて、私の手を握り、「空から降ってくる。降ってくる」と懸命に訴える。「何が降ってくるんですか」ときいても、答えはない。そばでローレンスが「彼女のいうことはなかなか理解できないのだよ」と助け船を出してくれた。
 ローレンスとはいろいろな話をした。ほとんど忘れてしまったが、とくに印象に残っていることがひとつある。「私たち夫婦は二人とも作家なので、食事を作る時間はもったいないから、結婚するとき、メイドを雇うことに決めたんだ。それ以来ずっと食事はメイドに作ってもらってきた」という話である。なるほどと思った。でも、「私はいやだな」とも思った。
 私は95年に日本に帰ってきたが、ヴァン・デル・ポストが死去したのはその翌年のことだ。
4月1日(水)
 
 一昨日は娘の「最後の自由時間」というので、鎌倉中央公園まで散歩に行く。
 




 桃は満開だったが、桜はまだ1分咲き。この公園は、とくべつ美しい公園ではないが、もともと谷戸の農地だったので、ほんわかのんびりしている。小学生の実習用の水田があったりする。
 夜は、近隣でもっともおいしい焼肉屋、新×亭にいく。
 
 娘も4月1日より社会人である。一人前になるまでにどれくらいかかるのだろうか。娘は「会社に入りたてはすごく疲れるから、ふつうは親が掃除洗濯炊事をやってくれるもんだよ。私が社会人になったとたんに海外に行くなんて、私は親に捨てられた」と文句を言っているが、まあ娘の言う通りである。最初の1年くらい、毎朝しっかりした朝ご飯を作ってやり、掃除も洗濯もしてやりたいところだが、今年を逃すとあと数年は海外に出かけられないのだ。ごめんね。
 
 昨日はゼミ生に手伝ってもらって、研究室の冷蔵庫の霜取りをする。霜取りといっても、若い人は知らないであろう。むかしの冷蔵庫は定期的に霜取りをしなくてはならなかったのである。そうしないと、製氷室が氷だらけになってしまうのだ。研究室の冷蔵庫は10年前に買ったものだが、いちばん安いのを買ったので(お隣の先生もそのときまったく同じ冷蔵庫を買った。ふたりで顔を見合わせて笑ったものである)、定期的に霜取りをしなくてはならないのだが、霜取りをするには中身を全部出して電源を切らなくてはならない。ついつい面倒なものだから、かれこれ5年以上やっていなかったら、製氷室が氷で埋まってしまった。前回霜取りをしたときにはその氷が溶けて床が水浸しになってしまった。過ちを繰り返してはならないので、今回は段ボールで巨大な受け皿をつくり、それにビニールをはり、その中に土台を作って冷蔵庫を入れた。翌日行ってみると、受け皿はプールになっていたが、うまくいった。
 ここ数週間、大学に出るたびに研究室を少しずつ片付けているのだが(1年間不在になるので)、山のような書類、というかいまや紙くずがなかなか減らない。 

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