| 2009年3月の日記(↑時間軸) |
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3月19日(木)
娘を連れて公園にいったときの写真がどうしても見えなかったのだが、あれこれいじっていたら、見えるようになった(→バックナンバー)。あれこれいじったおかげで直るというのは、原因がわからなくて困る。 下の追いコン写真は学生が送ってくれたもの。 一昨日は教授会。なんと4時間。その後さらに大学院の教授会があったのだが、腰痛に堪えかねて欠席させてもらう。 教授会が長引くときは、かならずそれなりの原因があるのだが、それをここで書くと差し障りがあるので、「トンチンカンなことを言い出す人がいるものだ」とだけ書いておく。 今日は恒例の「晶ゼミ卒業記念BBQ」。別名「お別れ会」。ゼミ生たちは「追いコン」と呼んでいる。一期生、二期生のころは温泉に行ったが、最近はわが家でBBQというのが習わしになっている。 BBQはいいのだが、天気がどうなるか、前の週から気が気でない。さいわい、これまで毎回、天気に恵まれている。ゼミ生たちの日頃の行いがいいからであろう。私の行いがいいはずないもの。 そういえば、わが家のBBQで唯一、雨に降られたのは内田樹先生や高橋源一郎さん、加藤典洋さんらをお招きしたときである。何月だったか忘れたが、そのときは異例の寒さで、ガレージの屋根の下で、震えながらBBQをしたのであった。出席者のひとりが「雨男」だったにちがいない。 さて、「開始は2時。3年生は11時に鎌倉駅に集合して必要な物をすべて買い込んで、わが家に来るように」と伝えたつもりだったのだが、「買い物をしたうえで11時にわが家に集合」というふうに学生たちには伝わってしまったらしく、学生たち、すなわち準備をする3年生たちは、その時間では遠方から行くのは難しいと判断し、前夜、藤沢に泊まり込んだそうだ。素直な子たちである。 毎年大変なのは火を起こすことである。冬を越し、その年最初のBBQとなるので、何もかもが湿気ている。着火剤を着火させるのに苦労するほどである。ところが今年は簡単に火が熾きた。それはよかったのだが、風が強いせいで、パーティが始まる前にどんどん炭が減っていき、冷や汗をかいた。それでもなんとかすべて焼くことができた。 毎年、肉は私が買うことにしている。学生に任せると、安い肉を買ってくるからである。 ビールとワインも提供することにしている。わが家にはつねにドイツ、フランス、オランダ、デンマーク、アメリカ、メキシコなどのビールがそろっているのだ(もらい物だけど)。 昔は私がひとりでせっせと焼いたものだが、最近は学生に任せることにしている。 会場設営と食材の下ごしらえのとき、つい「では男子は会場設営、女子はキッチンで下ごしらえ」と命じ、みずからがセクシストであることを暴露してしまった。男子の話では、女子よりも男子のほうがずっと料理が上手いそうだ。実際、手つきを見ていたら、その通りだった。逆にすればよかった。 毎年、3年生が4年生に記念品と寄せ書きを贈呈する。ただの記念品ではない。なかなか凝っている。昨年は名前入りの箸だったが、今年はやはり名前入りのUSBメモリだった。 私は3年生からハイテク・フォトフレーム、4年生からはなんとフェラガモのネクタイを頂いた。同時に頂いた3年生4年生合同の寄せ書きを読んで、うるうるとしてしまう。ありがとう、みなさん。 ![]() 先日、ある雑誌に、最近の大学では礼節が疎かにされている、学問の第一歩は教授に対する礼節である、という、ある意味ではひじょうに反動的なことを書いた。卒業式では「仰げば尊し」が歌われなくなった。たしかに教師が生徒にこの歌を歌わせるということはおかしな話ではあるが、「謝恩会」が「卒業記念パーティ」に名を変えたことには疑問を感じる。教師が学生の門出を祝うのは当然のことであるが、授業料を払っているのだから教授が学生に学問を教えるのは当たり前だ、という風潮が広まっているとしたら不幸なことだ。 その点、うちのゼミ生たちはじつに礼儀正しい。毎回、授業の後に「ありがとうございました」と頭を下げるのはうちのゼミ生くらいのものではなかろうか。 電車の中で、突然、「ポパーイ・ザ・セーラーマン」という歌を思い出した。「ポパイ」は子どもの頃、毎週見ていた(ウィキペディアによると、最高視聴率33.7%だったそうだから、ポパイを知らない子どもはいなかったのである)。ポパイがpop eye のことだと知ったのは中学に入ってからである。「目玉の松ちゃん」みたいなものか。若い人は知らないよね・・って、私だって2本くらいしか彼の映画は観たことはない。 ポパイはホウレンソウの缶詰を食べると超人的な力が出る。アメリカではホウレンソウの缶詰なるものを売っているそうだが、私自身は見たことがない。むろんテレビをみていた子ども時代も、見たことがなかったから、「ホウレンソウの缶詰」というのはなんとも遠い世界の食品に思われた。 私はてっきり、スポンサーがホウレンソウの缶詰会社だったのだろうと思っていたが、ウィキペディアによると、そうではないらしい。アニメの原作の漫画では缶詰ではなくただのホウレンソウだったらしいし、アニメになってからも、ホウレンソウの缶詰というものはなかったそうだ。ポパイですっかり人口に膾炙したために売り出されたという。 いずれにせよ、子どもの時以来ずっと、ホウレンソウの缶詰というのは、私にはなんとも想像しがたいものであった。気持ち悪いものの代名詞であったといってもいい。 でも、イギリスにいたときに、なるほどと納得した。イギリスのスーパーでは、じつに多種多様の野菜を売っていた。学生時代にイギリスに短期留学した頃には、八百屋にいってもほんの数種類の野菜しか売っていなかったものだが。 で、スーパーの野菜売り場では、それぞれの野菜に料理法が書かれていた。ロンドンはさまざまな人種が住んでいて、それぞれ食習慣が違うので、見たこともない、どうやって食べるのかわからない野菜がたくさんあったのである。 ホウレンソウの料理法をみて、思わず吹き出した。「30分茹でる」と書いてあるではないか。なるほどそれならベチョベチョになるであろう。 最近、はじめてスカイプなるものをダウンロードした。パソコンを使う無料のテレビ電話である。それ以来わが家では、私の仕事部屋とかみさんの仕事部屋はかなり離れているので、用事があるときはスカイプを使って話している。家庭内スカイプである。いかれた夫婦だといわれても否定はしない。 ![]() ご近所のマグノリア(木蓮)が満開。見事。下はご近所で飼われているニワトリ。 ![]() |
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3月16日(月)
娘が泊まりがけで帰ってきた。かみさんも私も山のような仕事を抱えて喘いでいるのだが、あまりに天気がいいので、3人で金沢自然公園まで散歩に行く。 娘はこの春、大学院の修士課程を終えて、某新聞の記者になる。 娘が大学に合格したときには、とくに驚かなかった。高校2年まではまったく勉強していなかったが、3年になったら自分で探してきた2つの予備校をはしごして、家でもよく勉強していた。ただし学校では全時間を通してずっと居眠りしていたそうで、次の授業になって、先生がかわっても、ぶっ通しで寝ていたこともあったそうな。先生にしてみたら、いやな生徒である。 しかし大学に入ってからは、娘が家で勉強しているのを、一度も見たことがない。大学2年のとき、ある朝突然に家出して以来、親とは同居していないことについては前に書いた。 たまに実家に帰ってきても、だいたい携帯メールをしているか、ソファに寝転がって、「セックス・アンド・ザ・シティ」を見ている。彼女は全巻もっていて、すでに全部通して10回以上見ている。 だから大学を卒業して、別の大学の院に合格したときには正直驚いた。さらに、修士論文が優秀賞を受賞したと聞いたときには、夫婦そろって、ただ驚いていた。娘の修士論文は、教授から出版を勧められているそうだ。 そういえば、むかし、この子には文才があるかもしれないと思ったことがある。小学校の4年生か5年生のころ、「パパ、これコピーしてくれる?」といって、紙束をもってきた。何かときくと、劇の台本だという。友人たちと「ピーター・パン」を上演することになったので、小説「ピーター・パンとウェンディ」を呼んで、短い芝居に脚色したのだという(そのせいか、イギリスにいったとき、最初にどこにいきたいかと聞いたら、娘はケンジントン公園のピーター・パンの銅像が見たいと答えたのだった)。 どうも大学院と自宅とでは、まったく別の仮面をかぶっているらしいので、娘が優秀な院生だったと聞かされても、容易には信じられない。家にいれば、とにかくごろごろしているだけなんだから。お腹が空けば、ただ「パパ、お腹空いた」というだけだし。 きょうも公園で、娘は幼児向けの遊具で夢中になって遊んでいた。4月からちゃんと社会人としてやっていけるのだろうか。親としてはひじょうに不安である。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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3月15日(日)
一昨日、ブリッジが突然とれてしまったので、かかりつけの歯医者に駆け込み、前回よりも強力な接着剤でつけてもらう。海外にいるときに突然とれてしまったらどうしたらいいだろうかと相談したら、アロンアルファか何かで接着してくださいとのこと。しかしアロンアルファだと、熱いものを食べると、とれてしまう。金属用強力接着剤のほうがいいのでは、と質問したところ、完全にくっついてしまって、治療の時にとれないと、それも困るのだそうだ。なるほど。 それにしても、私の歯はひどい有様である。前にも書いたが、口の中だけは立派なサイボーグである。 昨日は文化村のシアターコクーンまで、「 in-I (イン・アイ)」というパフォーマンスを観に行く。出演したのは振付家・ダンサーのアクラム・カーンと、ジュリエット・ビノシュ。 一言でいえば、ダンスとドラマをミックスしたようなものである。舞台には緊張感があった。また、パントマイムの部分には笑えるところがあった。たとえば二人が夫婦生活をおもしろおかしく演じ、男がトイレにいき、便座を上げて小用を足す。次に女がトイレに入り、気づかずに便器の上に直接すわってしまい、「げっ」と言ってお尻を拭く場面が繰り返される。これには笑ったが、特別面白いギャグというわけでもない。 このジャンル、つまりドラマとダンスをミックスした作品で、感動させてくれたものはこれまでにないように記憶する。ダンスとドラマの「つなぎ目」がスムーズでないのだ。しゃべっていて、突然、二人で踊り出す、その瞬間が妙に不自然なのである。 いちばん「つらかった」のはビノシュのダンスである。ダンサーでない人のダンスを観るのはなかなか苦痛である。 アクラム・カーンはギエムと共演したり、ビノシュと共演したり、おばさまたちに大変な人気のようだ。 正直なところをいえば、「なまビノシュ」を見るのがお目当てであったが、意外にオーラが貧しく、でっぷりした(胸とお尻が大きい)おばさんであった。ビノシュの代表作といえば、『トリコロール』の「青」とか『ショコラ』だろうか。カトリーヌ・ドヌーヴ、イザベル・アジャーニの後を継ぐ、フランスで最も有名な女優である。『ポンヌフの恋人』以来、彼女の出た映画はだいたい観ているが、あまり感心したことがない。『ポンヌフの恋人』の(私にいわせれば)いやな女のイメージがすごく強いせいかもしれない。ルイ・マル監督の『ダメージ』ではファンム・ファタールを演じていて、なかなかよいが、男を狂わせるほどの魅力にはいささか欠ける。 |
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3月11日(水)
まだ時差ボケが残っていて、朝起きるのがつらいし、へんな時間に睡魔に襲われる。 おまけに、ロシアから帰ってきたら、家の中が寒くて、風邪気味である。 ロシアから帰国した翌日の日曜は来客があり、浄妙寺の近くの「青砥」という日本料理店まで食事に行く。なかなか美味。 月曜は片付け物で一日が終わる。エスニック料理に目がないかみさんが数週間前から、揚げ魚のあんかけが食べたいと言っていたので、それを作る。イサキの腸をとって、身の両側に切れ目を入れ、塩胡椒をして、粉をまぶし、よく揚げる。タケノコ、ニンジン、サヤインゲン、ピーマン、シイタケ、エノキを千切りにし、炒めて片栗粉でとろみをつける。肝腎なのはナンプラーを使うことと、香菜をたっぷりのせること。 火曜は会議のため大学へ。 きょうは用事があって、かみさんと銀行へ。裏口から入って、小走りに番号札を取りに行く。私は気づかなかったのだが、少し遅れて入ったかみさんの目撃談によると、私が裏口から小走りに入った瞬間から数人の警備員があせって、私を背後から取り囲んでいたそうである。ダウンジャケットを着込んでいたせいであろうが、もしサングラスをしてマスクでもしていたら、非常ベルが鳴ったかもしれない。そういえばこの銀行は、預金高では全国で一二を争う有名な支店なのだが、お客さんの9割は後期高齢者なのであった。 夜、テレビで「エリザベス・サンダース・ホーム」のドキュメントをみる。若い人はこのホームのことも、これを作った澤田美喜のことも知らないかもしれない。私が若い頃も、批判的な視線のほうが多かったように記憶する。誰かから「あの人は黒人をクロンボと呼んでいる。じつは人種差別主義者なのだ」と聞いたのをよく憶えている。私もいわゆる「金持ちの道楽」だと思っていた。 澤田美喜は三菱の創業者、岩崎弥太郎の孫であるから、岩崎財閥の一員だが、戦後は財閥も財産を没収され、彼女はさんざん苦労して、大磯にあった岩崎家の別荘を国から買い戻し、施設を建設したのだそうだ。けっして「金持ちの道楽」などではなかったのだ。 ドキュメントによると、ホーム出身者たちは澤田のことを「ママちゃま」「ママちゃん」「ママ」と呼んで、心から慕っていた。これはジョゼフィン・ベイカーの「虹の家族」とはずいぶん違う。「虹の家族」出身者たちのベイカーに対する感情はアンビヴァレントである。ちなみにベイカーは澤田の施設から2人子どもを引き取っている。 もうひとつ、ホーム出身者たち(すべて「混血」だ)がじつにいい表情をしていることに驚かされた。めったに見られないような、いい表情だ。むろん出演したのは、人生でそれなりの成功をおさめた人たちだけである。犯罪者になった施設出身者も多いが、それにしても、なんだか久しぶりに「いい顔」をみたという気になった。 一昨日だったか、「英語でしゃべらナイト」にションー・レノンが出ていて、いいことを言っていた。どんどん「混血」がすすんで、みんなが「混血」になってしまえば、人種の差なんてなくなってしまうというのだ。日本はそういう理想からはおよそ遠い国だが、ロンドンやニューヨーク、あるいはロシアにいるとある種居心地がいいのは、それほど「よそ者」扱いされないからだ。ロンドンに1年半いて帰国した後、東京で電車に乗ってまわりを見渡し、みんなが同じ髪の色をして同じような顔をしているので、気分が悪くなった覚えがある。 |
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3月8日(日)
8日間ロシアに行っていた。 今回の行き先は、前半はサンクトペテルブルク、後半はカザン(タタールスタン共和国の首都)。前者は零下2-3度、後者は零下5度前後だった。この程度だととりわけ寒くはないが、道が凍っているので、歩くときは油断はできない。ご存じのように北国は暖房が完備していて、部屋の中は暑いくらいなので(ホテルの部屋の室温は34度に設定されていた)、ほとんど一日中汗をかいていた。寒さ対策よりも暖房対策が必要であることをあらためて痛感する。 往きの飛行機は、早めにチェックインして非常口横の座席をゲットしたのだが、隣りに巨大な男性がすわったため、かえって苦しい思いをする羽目になった。全体に空いていたので、早めに後ろのほうの座席を1列まるごとゲットして横になるべきであった。何しろまだ腰痛に苦しんでいる。 サンクトペテルブルクに行くのは4回目。ペテルブルクで何をしていたかというと、昼間は3カ所の史料保管所で資料を漁っていた。じつはいま、『ニジンスキー 神の道化』(1998)を全面的に書き直していて、そのための資料を探しに行ったのである。 夜は、1日はマリインスキー劇場で「マースレニツァ(謝肉祭)・バレエ・ガラ」を観る。マリインスキー・バレエの本体はモスクワに行っていて留守。そのため私が知っている若いダンサーはトカチェンコ、テリョーシキナ、ゴルプくらいのもの。後はシェーシナ、タラソワ、ニオラーゼという驚きの「おばさま」キャストであった。トリは世界各地に出没するマトヴィエンコ夫妻。本当によく稼ぐ人たちである。 知人が招待してくれて、ゲルギエフ指揮の『パルジファル』も観た(聴いた?)。どうして招待されたのかを詳しく書くと延々長くなってしまうので思い切り省略して書くと、早稲田の演劇学科を卒業していまは国家公務員になっている謎の美女がいて、その彼女の知人の知人の知人であるタタールスタン出身のバス歌手が、『パルジファル』に出演するというので、招いてくれたのである。特等席だったから、もし日本で聴いたら8万円くらいするであろう。 『パルジファル』の物語はよく知っているし、DVDで観たこともあるが、なにせオペラに関しては素人なので、ゲルギエフの『パルジファル』が他の演出とどう違うのかはよくわからない。上演時間は5時間半。最後まで観るとホテルに帰るのが12時をすぎてしまう。翌朝早く出発しなければならなかったので、2幕まで観てギブアップ。 だが、招待客用の出入り口でコートを着ているところに、なんと、汗びっしょりのゲルギエフが通りかかったのであった。面識はないが、私としては気まずかった。きっと彼は「こいつ、途中で帰りやがるのか」と思ったことであろう。いや、そんなことには慣れているかもしれない。ゲルギエフがこちらをじろりと見たのは気のせいだったのか。いや、気のせいであることを願おう。 到着した翌日だけ、昼間少し時間があったので、散歩がてら、ホテルのすぐ前にあるアレクサンドル・ネフスキー修道院の墓地にいく。ドストエフスキー、チャイコフスキー等々、有名な作家や作曲家の墓がずらりと並んでいる有名な墓地である。有名人の墓というだけなら、とくべつ観に行くこともないのだが、ここの墓はどれも彫刻が見物なのである。 チャイコフスキーの墓 ドストエフスキーの墓その後、エルミタージュ美術館まで出かける。数日前に熊川哲也の『放蕩息子』を観たが、レンブラントの『放蕩息子の帰還』はエルミタージュにあるのだということを、ロシアに着いてから思い出したのである。ついでに、マティスの有名な『ダンス』も観ようと思った。 ![]() ![]() ![]() ![]() エルミタージュを訪れるのは15年ぶりである。パリのルーヴルも広いが、ここも広い。一日や二日で全部を見るのは無理である。だから、目的の絵だけを見てさっさと出て・・・来ようとして、出口の脇にあるミュージアム・ショップを覗いたら、たくさん並んでいる絵葉書の中に、ランクレの『カマルゴ』があった。バレエ史の教科書にはかならず載っている有名な絵である。そうだ、この絵もエルミタージュにあるのだった、そういえば私は実物を観たことがない、この際ぜひ実物を観よう、と思って引き返す。 どこにあるのかは知らなかったが、18世紀フランス絵画であることだけは確かなので、それだけを頼りに探したが、見つからない。ロシアではどこでもそうなのだが、各所におばさん(あるいはおばあさん)がすわっている。そのおばさんにきいてみた。一人目は「それは3階だ」という。3階に行って聞いてみると、「それは2階だ」という。2階に戻ってまた別のおばさんにきいてみると、「その絵はここにはない。ルーヴルにある」という。でも諦めずに4人目のおばさんに聞いたら、「それは私の後ろにある」という。実際、そのおばさんがすわっている後ろにあった。小さいので、なかなか見つからなかったのである。 ![]() ちょうど1年前、モスクワに1週間いたとき、なんでも恐ろしく高いので呆れたが、サンクトのほうがやや安いようだ。いずれにせよ、昼は史料保管所の食堂と、ワガノワ・アカデミーの食堂で、バレエダンサーの卵たちとお昼を食べ、夜はホテルから出る元気がないので、ホテル内にあった24時間営業のビアホールで済ましたので、食費はあまりかからなかった。とくに昼食は300円くらいで済んだ。 ちなみに、泊まったのは、かつて国営ホテルだったモスクワ・ホテル。元国営ホテルはどこも設備がわるく、お湯が出なかったりするのだが、ここは最近リニューアルしたらしく、部屋はとてもきれいだったし、設備も文句なかった。 4日にカザンに移動。 ![]() カザンは初めてである。トルストイやレーニンがカザン大学で学んだことは知っていたが(ただし2人とも中退)、それ以上の知識はまったくない。11世紀につくられた街であるから、その古さは京都に迫る。モスクワよりも1世紀以上も古い。 じつは、今回はタタールスタン共和国文化省の招待ヴィザでロシアに行ったのであった。大げさにいえば、タタールスタン共和国の国賓だったのである(いや実際、大げさ)。 どうして招待されたのかというと、タタールスタン国立バレエを観に来ないかというお誘いがあったのである。といっても、私のような「小物」評論家のところに直接そんな招待が来るはずはないのであって、先に触れた「謎の美女」がすべてをお膳立てしてくれたのである。彼女は私と同じく「バレエの伝道師」で、「バレエのためなら」と、何から何まで手配してくれた。 だが、なかなかタイトなスケジュールであった。ホテルに荷物を置いて食事に出かけ、ホテルに帰ってくると、すでに人が待っている。その人と翌日の予定について話しているうちに、今度は別のお迎えが来る。劇場からのお迎えである。導かれるままに劇場(小さすぎず、大きすぎず、すばらしいオペラ・バレエ劇場である)にいき、コフトゥン振付の『スパルタクス』を観る。 ロシア・バレエ・ファンならばご存じであろうが、昨春、サンクトのミハイロフスキー劇場バレエ(芸術監督ルジマートフ)がコフトゥン振付の『スパルタクス』を初演し、話題になった(本物の虎が登場するそうだ)。 そして秋にはタタールスタン国立バレエが同じコフトゥン振付の同じ『スパルタクス』を初演した。しかし、この二つの版は演出も振付も異なるのだ。こんな例は今までにないのではあるまいか。 観て驚いた。まったく新しいタイプのバレエである。一言でいえば「エンタメ・バレエ」。オペラとミュージカルとキャバレーのショーとバレエを混ぜたようなものだ。じつに面白い。 ![]() ![]() 翌日は朝から劇場に行って、まずバレエのウローク(レッスン)を見学。教師は2年間名古屋で踊っていたという人である。ウロークを観れば、そのバレエ団のレベルがおおよそわかるものであるが、このバレエ団は非常にレベルが高い。目を見張るようなプロポーションやテクニックのダンサーがたくさんいる。 その後、『スパルタクス』のリハーサルを観てから、劇場総裁、バレエ芸術監督と会談。みなさん、歓待してくれる。 ホテルに帰ると、別のお迎えが待っていて、国立文化芸術大学までいき、何人もの教授に挨拶した後(ここでも熱烈歓迎された)、サイダーシという民族音楽舞踊アンサンブルのコンサートを見学。2年前に来日しているが、私は全然知らなかった。 民族舞踊も歌謡も、なんとも興味深いものであった。ダンスはいかにも中央アジアらしいものだったが、その音楽は私にはまったく中国音楽に聞こえる。おまけに歌は日本の演歌そっくり。 ホテルに帰ると、ふたたび劇場からのお迎えが待っていて、再度『スパルタクス』を観る。食事をする暇は無し。劇場のカフェにいくが、チョコレートしか売っていない。私は空腹時に甘い物を食べることができないので、仕方なく終演後にホテルで食べる。 翌朝早くホテルを出て帰途につく。まずはモスクワへ。モスクワでは6時間も待ち時間があったので、車をチャーターしておいたのだが、休日の前の金曜日だったので、道路という道路が大渋滞。モスクワ南部にあるドモジェドヴォ空港から2時間かけて市内にいき、食事をして今度は北の方にあるシェレメチェヴォ空港まで2時間かけて行ったので、いかに時間をつぶすか頭を悩ます必要はなかった。が、4時間も車の中にいたので、飛行機に乗る前から腰痛でふらふら。 なんの休日かというと、むろん3月8日の「女性の日」(国際婦人デー)である。この祝日の起源は1904年3月8日にニューヨークでおこなわれた婦人参政権要求デモであるが、ロシアの場合、1917年3月8日(旧暦では2月23日)におこなわれた女性デモに労働者たちが加わり、結果的に「2月(3月)革命」が起きたのであった。 でも、今では政治的な意味は失われ、もっぱら「女性を讃える日」になっている。この日ばかりは男たちは小遣いをはたいて女性に花を贈るので、女性たちはかなり前からこの日を楽しみにしている。日本でもこの日には毎年デモがあるが、あまり盛り上がらない。ロシアではまったく政治性を失っているのに、日本では労働組合とかサヨク系団体のデモがおこなわれるだけというのは皮肉である。 海外に出たときは、帰りの空港でパスポート・コントロールを通過すると、ほっと一息つける。 往きにしくじったので、帰りはしっかりいちばん後ろのほうの3席1列を確保したのであるが、途中からジャージをきたロシア人のお兄さんに「ここ、いいか?」と言われ、3席を二人で共有することになる。またもや横になることができなかった。「腰痛がひどいから横になりたいのだ」と言いたかったのだが、とても断ることはできなかった。それは下記のような理由による。 同じ飛行機に柔道のロシア・ナショナル・チームが乗り合わせていたのである。汗臭い、しかもうるさい(大声でひっきりなしにおしゃべりしていた)、クマみたいなお兄さんたちに囲まれ、落ち着かなかったことはいうまでもない。強化合宿で東京の講道館に行くんだそうだ。 |