| 2009年2月の日記(↑時間軸) |
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2月26日(木)
月曜は、娘がくるというので、エビ、イカ、タコダンゴ、マッシュルーム、チンゲンサイ、細ネギなどを仕入れてきて、タイスキをつくる。病み上がりの(先週風邪で寝込んでいた)かみさんは講演で静岡まで出かけ、一日じゅう不在。 火曜は教授会。卒業認定などで、これから4月まで頻繁に教授会がある。 昨日はKバレエカンパニーの「放蕩息子」「ピーターラビットと仲間たち」を見るためにオーチャード・ホールへ。今回はかみさんもビアトリクス・ポターについての解説をプログラムに書いたので、かみさんもいっしょにいく。 熊川哲也が久しぶりに舞台に立ち、4年ぶりに「放蕩息子」を踊った。前回の「放蕩息子」について、私は新聞にこんなふうに書いた。 いまやわが国最高の公演回数を誇るバレエ団。今回の目玉は「放蕩息子」。今日のバレエ隆盛の基礎を築いた史上最強のバレエ団「バレエ・リュス」最後の作品。一九二九年に初演された。音楽はプロコフィエフ、美術はルオー、振付は抽象バレエの巨匠バランシン。 物語は新約聖書中の寓話にもとづく。家を飛び出して放蕩の限りを尽くし、一文無しになって帰ってきた息子。まじめに父に仕えていた兄(バレエでは姉)たちは反対するが、父親は末の息子を祝福する。 この寓話のこころは、親鸞の「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と同じく、信仰篤い人が救われるのは当たり前だが、悪人だって悔い改めれば救われるということ。 坊主頭の男たちがウンチング・スタイルで連なってムカデ歩きをするところなど、当時の観客は仰天したはずだが、今見ても新鮮。 熊川哲也がこの作品を選んだことは納得がいく。振付がじつにアクロバティックなのだ。バリシニコフの素晴らしい映像が残されているが、熊川は彼を超えた。バリシニコフの外向的で大げさな演技に比して、熊川の内省的で陰影に富む演技は、放蕩の空しさと悔恨をじつによく表していて、胸を打った。 彼を誘惑し、身ぐるみ剥いでしまう妖女サイレーンの役には、男を骨抜きにする魅力が求められるが、中村祥子は硬質でダイナミックな踊りで大役を見事にこなしていた。 今回のサイレーンは浅川紫織。熊川はというと、今回も踊りはすばらしいものだったが、正直なところ「膝は大丈夫だろうか」と、そればかりが気になってしまって、完全には集中できなかった。一度靱帯を切断してしまうと、跳躍するたびに不安がよぎるのではないだろうか。無理をしないで、末永く踊って欲しいものだ。だって彼を超えるダンサーは当分出そうにない。 「ピーターラビットと仲間たち」は「完全着ぐるみバレエ」である。見ていて心からハッピーになれる作品である。英国ロイヤル・バレエのドル箱バレエでもあるが、熊川のファンたちはこの作品にどの程度満足したのだろうか。会場に子どもの姿がほとんど見えなかったのは残念だが、S席1万8千円となると子ども連れだと3万6千円。なかなか子ども連れというわけにはいかないかもしれない。これが日本で見られるなんて、めったにないチャンスなのだが。 『ワーキング・ガール』(1988)を観る。3分の1くらい見たところで、むかし観たことを思いだした。80年代の秘書たちはみんな、あんな綿飴みたいな髪型をしていたのだろうか。メラニー・グリフィスは、ご存じの通り、かのティッピー・ヘドレンの娘である。この映画でアカデミー主演女優賞の候補になったが、私はどうも「ボディ・ダブル」のストリッパーのイメージが強くて、性的アピール過剰に見えてしまう。シガーニー・ウィーヴァーは辣腕ビジネス・ウーマンというより、「エイリアン」のリプリーを思い出してしまう。むかし自殺した「スーパーマン」の主演男優の気持ちがわからなくもない。 『アウェイ・フロム・ハー』(2006)を観る。ジュリー・クリスティの大ファンであるかみさんが前から観たがっていたのだが、65歳のクリスティはしわくちゃのお婆さんだが、なんとも美しいお婆さんである。前にも書いたように、私はロンドンの舞台で生のクリスティを観たというのがお宝体験である。この映画は、まだ27歳のサラ・ポーリー(「死ぬまでにしたい10のこと」「あなたになら言える秘密のこと」)の初監督作品。自分の故郷であるカナダのオンタリオ州で撮っている。出来はいまいち。 作品とは関係ないが、観ながら、私は終始「寒いところには絶対住みたくない」と思い続けていた。 |
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2月19日(木)
村上春樹がエルサレム賞を受賞し、その授賞式に出席するためにイスラエルに行き、スピーチをしたそうである。見事なスピーチである。そこで語られているように、イスラエルに行くべきかどうか、相当に悩んだであろう。 私は行く気がしない。イスラエルという国が存続する限り、パレスチナ紛争は解決しない。 国を失った人たちが自分たちの国を建設するというのは美しい話である。でも、そこに住んでいた人たちはどうすればいいのだ。血で築かれた国に平和が訪れるはずもない。 これはアメリカ合衆国にしても同じことである。何度も繰り返し書いているように、彼らは先住民との共存を選ばず、彼らを人間と見なさず、だまし、追い出し、殺して、自分たちの国を築いた。そのことを隠蔽し続けているから、ベトナム人を人間を見なさず、イラク人を人間扱いしないという状態が続くのである。抑圧されたものはかならず回帰するのである。いつか大統領が就任演説の中でこのことを明言するまで、誰も「アメリカによる平和」を信じない。 財務金融相が泥酔状態でしどろもどろの記者会見をして辞任した。これを政権の「末期症状」と言わずして何と言おう。私は年じゅう酔っぱらっているから、他人の酒の上の過ちに対してもたいへん寛容なのであるが、それにしても・・・ 昨日は横浜までハンブルク・バレエの『椿姫』を観に行く。現代の古典ともいうべき傑作中の傑作である。 『椿姫』が芝居で上演されることはまずない。もっぱらオペラを通じて知られている。ヴェルディの『ラ・トラヴィアータ』は最も集客力のあるオペラのひとつである。日本ではこのオペラも「椿姫」と訳されたため、私は大学に入るくらいまで、「トラヴィアータ」というのが椿姫という意味だと思い込んでいた。 ご存じの通り、主人公のモデルになったのはマリー・デュプレシーという実在の娼婦である。どうしてこの話はこんなに人気があるのか。そこには「聖なる娼婦」という古くからのイメージが重なっているからであろう。「聖娼婦」というイメージはマグダラのマリアに始まり、『罪と罰』のソーニャをはじめ、現代にいたるまで古今東西の文学にしばしば登場する。 簡単にいってしまえば、男の欲望が作り上げた理想的なイメージである。だから聖なる女性であっては困るのであり、娼婦でなくてはならないのである。 『サハラに舞う羽根』(2002)を観る。『薔薇荘にて』『矢の家』などで、もっぱら推理作家として紹介されていたメイスンの歴史冒険小説『4枚の羽根』の4度目か5度目の映画化。この小説が出たのは1902年。読んでいないが、この映画化に際して初めて日本語訳が出たらしい。イギリスの側から描いているから、当然ながら、植民地主義に対する批判的な視点はなく、現地(スーダン)の住民は「野蛮人」として描かれる。侵略戦争にすぎないのに、英雄だ、臆病者だと騒ぐのは空しく見える。 『バンガー・シスターズ』(2002)を観る。ゴールディ・ホーンとスーザン・サランドンとジェフリー・ラッシュの三人が主役。「よくある」ストーリーだが、うまい俳優が出ていて、台詞が面白ければ、面白い作品になるのは当たり前。それにしても、ゴールディ・ホーンがかわいい。この映画のとき、すでに57歳だが、めちゃかわいい。まあ、そう考えるのは私だけではないから、絶大な人気を保っているわけだが。 スーザン・サランドンはものすごい数の映画に出ている。アメリカ人にとって「好ましい」顔なのであろう。 ちなみにこのタイトルは「やりまん姉妹」という意味だそうだ。なんでもかんでもカタカナにするのは好きではないが、日本語版にそんなタイトルをつけるわけにもいかないであろう。 |
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2月17日(火)
バレエを観て号泣するのは久しぶりのことだ。ノイマイヤー率いるハンブルク・バレエの『人魚姫』(12日)である。いま思い出すだけでも、また涙がこみあげてくる。現在の世界最高レベルのバレエといっても過言ではなかろう。これを見逃したバレエ・ファンは一生涯悔やむべし。 前回バレエを観て号泣したのはいつだろうかと思い出してみると、10年ほど前だろうか、同じノイマイヤーの『椿姫』だ。そのときはジジ・ハイヤットというバレリーナの引退公演ということもあって、感動一入であった。カーテンコールのとき、ジジとノイマイヤーが抱き合って、しばらく泣いていたことを今でも思い出す。 それにしても、これほどまでに人の心を揺るがすバレエを創るなんて、おそるべしノイマイヤー。詳細は日経新聞を読まれたい。 金曜日(13日)は早稲田で博士論文指導。教師4人で、博論を書いている8人の研究成果発表をきく。懇親会を含めて9時間。終わったときには、もうへろへろである。 土曜日(14日)は、バレンタイン・デーとはおよそ縁がなく、新国までザハロワの『ライモンダ』を観に行く。ご存じのように、十字軍の時代の話である。でも、プロヴァンスが舞台なのに、サラセンのアブデラクマンが出てきたり(フランスまで攻めてきたのか?)、ハンガリー王が結婚式をとりしきったり(フランスまで出向いた?)、めちゃくちゃなストーリーである。いや、ストーリーはほとんどないといってもいい。 だが、クラシック様式が崩壊していくのがよくわかる、という意味では面白い。『眠れる森の美女』のときからすでにストーリーはどうでもよくなっていたのだが、ここでは、ストーリーはどうでもいいどころか、めちゃくちゃになっている。踊りさえ見せればいいということなのだ。 バレンタイン・デーというと、最近、男性から女性にチョコレートを贈る日に変えようという動きがあるらしい。ご存じかと思うが、女性から男性にプレゼントをするというのは日本独自の習慣で、欧米では女性が贈るとは決まっていない。チョコレートを贈るというのも日本だけの習慣である。チョコ好きの女性は多いが、チョコ好きの男性がそれほどいるとは思われない。チョコをもらっても、たいていの男性は対してうれしくないのであるから、逆にしたほうがもっとチョコが売れるであろう。 日曜は久しぶりにタイ風カレーをつくる。 月曜、すなわち昨日は出題者として入試に立ち会う。みんなでおしゃべりしながら待機していればいいので、試験監督よりもずっと気が楽だが、質問がくるたびに全員がとびあがる。「わ、きた!」という感じである。だが、出てくるのはきまってトンチンカンな質問である。答はいつでも「自分で考えなさい」。 2年前だったか、受験生から「これはスペルミスではないか」という質問が出た。そして実際、スペルがまちがっていた。正確にいうと、エルの小文字であるべきところがアイの大文字になっていたのである。質問した受験生は優れた校正者だったわけである。当然こちらはあわてて全会場に訂正文を配った。 そのとき、たまたま朝日新聞が取材に来ていて、記者はこの出来事に大喜びだったらしく(書くネタができた!)、次の新聞に克明な描写が掲載されたのであった。「受験生から質問が出て、教師あわてる」。 『いつか眠りにつく前に』(2007)を観る。『モンキーズ』などで有名なスーザン・マイノットのベストセラー小説の映画化である。まあ大衆小説といえば大衆小説にはちがいない。「女の人生」ものであるが、キャストがすごい。ヴァネッサ・レッドグレーヴ、グレン・クローズ、メリル・ストリープ、クレア・デインズ(この人、どこがいいのか、私にはまったく理解できない)。ハリウッドのメイクはすごい。メリル・ストリープが皺だらけのお婆さんになっている。 主役はヴァネッサ・レッドグレーヴ。その長女役をナターシャ・リチャードソン、つまりレッドグレーヴの実の娘が演じている。ヴァネッサ・レッドグレーヴはいかにもイギリス人という感じの女優だ。『裸足のイサドラ』もすばらしいが、すごいのはやはり『ジュリア』。ジェーン・フォンダが霞んでしまったほどだ。 『ブラックホーク・ダウン』(2001)を観る。忘れてしまった人もいるかもしれないが、クリントン政権がソマリアの部族間抗争に介入した1993年の事件を扱っている。あのときテレビで放映された、ソマリア人に引きずり回される米兵の姿はいまでも鮮明に記憶に残っている。リドリー・スコット監督だから、よくできているが、でも最初から終わりまでドンパチである。 『ママの遺したラヴソング』(2004)を観る。一言でいえば少女の成長ものである。主演はジョン・トラヴォルタと、ハリウッド一の美乳の持ち主といわれるスカーレット・ヨハンソン。彼女、たしかにバストは見事だが、顔は苦手である(『真珠の耳飾りの少女』はほとんどノーメイクで素晴らしかったが)。この映画を撮ったときにはまだ20歳だが、老けているので、設定の18歳の少女にはどうしても見えない。 トラヴォルタは大好きな俳優である。この作品でもじつにいい。 |
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2月11日(水)
読者のアイソさん、メール、とても楽しく拝読しました。お返事を出したのですが、戻ってきてしまったので、この場を借りてお礼を申し上げます。 先週の金曜日と昨日、モンテカルロ・バレエの「ラ・ベル」と「アルトロ・カント」を観に行く。モナコは何しろお金持ちの国で、その国の国立バレエだから、経済的にはかなり恵まれているようだが、それは別として、芸術監督のジャン=クリストフ・マイヨーは現代の最も才能あるコレオグラファーのひとりだ。作品はどれもとてもおしゃれだ。「ロミオとジュリエット」も「ラ・ベル」も「真夏の夜の夢」も傑作である。 このバレエ団にはベルニス・コピエテルスというスーパー・バレリーナがいるが、彼女もそろそろ40。体力の衰えは隠せない。 プリンシパルのなかに日本人がいる。小池ミモザだ。知人の娘さんなのだが、彼女は中学生の頃から175センチ以上あった。日本でバレエをやっていくことは難しいと思われたが、さっさとフランスのリヨン・オペラ座バレエ学校にいって、その後、このモンテカルロ・バレエで活躍している。いわゆる出世頭のひとりである。並んでも、ヨーロッパの女性ダンサーたちより大きい。今回、「ラ・ベル」ではリラの精を踊ったが、本拠地ではけっこう頻繁に主役を踊っているそうである。このまま順調にいけば、一座の看板スターになれるかもしれない。 「アルトロ・カント」はマイヨーの創作した現代バレエ。第1部のほうが面白かったが、第2部は、美術は面白いものの、踊りはいささか凡庸だった。 久しぶりにコッポラ=ルーカスの『アメリカン・グラフィティ』を観る。むかし観たときには全然気づかなかったが、カーレースのときの敵役で、ハリソン・フォードが出ているのに気がついた。 これまた久しぶりに『トータル・リコール』を観る。いまの視点で見ると、かなり残虐な場面が平気で出てくるのが目につく。これは時代というよりも、ヴァーホーヴェンの趣味かもしれない。それにしても、フィリップ・K・ディックの小説の映画化はどれも面白い。 シュワルツネガーの(贋の)妻役がすごい美人なので、身を乗り出してよく見たら、かの美女、シャロン・ストーンだった。これも昔観たときには気づかなかった。いや『氷の微笑』の2年前の映画だから、そもそも彼女のことを知らなかったのかもしれない。 やはり久しぶりに『ロリータ』を観る。新しいほうである。古いほうはジェイムズ・メイソンが主役で、メイソンはまじめくさっているから、もっと怖いが(彼が少女とセックスするというのは、想像が難しいのであるが)、新しいほうのジェレミー・アイアンズはどこか異常さを秘めている(ルイ・マルの『ダメージ』とか)。 『キリング・ミー・ソフトリー』を観る。ご存じのようにチェン・カイコーがハリウッドに進出して撮った映画だが、なんとまあ駄作。いちばんいけないのは、一時的な性の衝動に身を任すとろくなことにならない、という凡庸な教訓が底にあることだ。 『ミザリー』を観る。フィリップ・K・ディックとは対照的に、スティーヴン・キング原作の映画はどれも不満が残る。これは典型的B級。でも主役のキャシー・ベイツが迫真の演技。アカデミー主演女優賞をとったのも当然。彼女は、『フライド・グリーン・トマト』とか、『タイタニック』の「不沈のモリー・ブラウン」役が印象的だが、ずんぐりむっくりした、ある種のアメリカのおばさんの典型だ。ちなみに映画『不沈のモリー・ブラウン』の主役を演じたのはデビー・レイノルズだ。全然タイプがちがうが、実際はどんな顔をしていたのかというと、こんな顔だ。 ![]() 『モンスター』を観る。これまたB級であるが、主演女優がすごい。やはりアカデミー主演女優賞。それにしても、よくこんなにブスの女優がいたものだと感心して、クレジットをみて仰天。セクシー美人として有名なシャーリーズ・セロンではないか。彼女はどうしてもこの役を演じたくて10キロ太ったそうだが、10キロ太っただけで美人がブスに変身するとは思えない。ハリウッドにはブス・メイクというものがあって、どんな美人でもブスになれるのである。その反対は難しいかもしれないが。 |
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2月4日(水)
1日(日曜日)は国際文化学部創立10周年の記念イベントがあり、その後第一回目の同窓会が開かれる。先日のゼミ同窓会も出席率の高さに驚かされたが、学部全体の同窓会も出席率が高く、卒業生全体(1期生〜6期生)は1400名くらいだと思うが、300名以上の出席があった。先日も書いたが、みなさんまだ20代だから、若い。当たり前か。出席率の悪かったのは教師のほうである。恥ずべきことである。 火曜日は会議のため出勤。毎年書いているような気がするが、1月末から3月まで、学生は休みだが、われわれ教師はいつものようにお仕事がある。 きょうは久しぶりに朝からパソコンに向かって、締め切りの迫った原稿を次々に書いていく。 途中、かかりつけの医者にいく。月に一度行って、血圧の薬をもらうのである。前回血液検査をしてもらったが、あいかわらずγ-GTPと尿酸値が高い。明らかにアルコールのせいであるから、手の打ちようがない。酒をやめるわけにはいかない。 ついでなので、インフルエンザの予防接種をしてもらうことにする。医者は「今頃するんですか」と呆れていたが。たしかに、こういうものはシーズンの初めにするものであるが、遅くともしないよりはましであろう。 トヨタ、ソニー、パナソニック、日立、三菱自動車などが軒並み記者会見をして、赤字だから従業員を削減するという。その対応のワンパターンぶりには呆れる。トカゲの足切りみたいだ。一社くらい、「人員削減はしません。その代わり、社長以下全員の給与を引き下げます」という会社がないものかしら。給料を減らされるほうが、ゼロになるよりもずっとましだと思うのだが。ここにも誤った競争原理が働いているような気がする。 |