2008年12月の日記(↑時間軸)
 
12月31日(水)
 
 年末になって、イスラエルがまたガザ空爆などという極悪非道なことをやっている。ならず者国家としてはイスラエルの右に出るものはない。イスラエルという国が存続する限り、こうした血も涙もない人殺しは終わらないであろう。ユダヤ人が改心して博愛主義者になる可能性はきわめて低いし。

 大富亮さんが発行している「チェチェン・ニュース」も、暗いニュースを運んでくる。引用しよう。
 
 よりによってクリスマスイブに入ってきたひどいニュース。2000年に、チェチェンで18歳のエリザ・クンガーエワさんを強姦・絞殺して、2003年に10年の実刑判決を受けて受刑中だった元戦車連隊のブダーノフ大佐が、「深く反省している」ために、刑期途中で釈放されることになった。これは、刑務所のあるウリヤノフスクの裁判所の決定によるもので、軍の執拗な釈放要求の結果だと思う。
 
 一昨日は大学で院生の論文を添削し、たっぷりお説教をしたあと、いつもお世話になっている「ダンスマガジン」のH君にイタリア料理をご馳走する。イタリア料理といっても、リストランテではなく、飯田橋の駅前にあるトラットリーアである。若い男の子たちが3人ほどでやっている店だが、味がよい。
 小豆島産の新オリーヴというのが夢のようにうまかった。小豆島のオリーヴというのはイタリア産やスペイン産よりもはるかにうまい。手のかけ方が違うのであろう。オリーヴをつまんでいるだけで、ワインの2本くらいは軽くあいてしまう。
 あれやこれやとバレエの話をしているうちに、あっというまに数時間が過ぎてしまう。
 
 昨日は一日かけて200枚弱の年賀状を書く。ふだんキーボードでしか字を書かないものだから、肩がバリバリに凝り、肘は腱鞘炎寸前である。
 私は「しきたり」に忠実な人間であるが、いわゆる喪中ハガキというのは廃止したらいかがであろうかと思う。身内に不幸があったとしても、それは旧年のことであり、それはそれとして新年はめでたく迎えたらいいのではないか、と勝手なことを考える。
 
12月29日(月)
 
 大学は正月休みに入っているのだが、修論を書いている院生からSOSが入り、面談のために大学に出かける。
 
 溝口健二の『赤線地帯』(1956)を観る。溝口健二は感心したことがない。評価の高い『雨月物語』もとくに面白いとは思わない。『赤線地帯』は、若尾文子と京マチ子のファンであるかみさんが借りてきたのである。
 若尾文子はかの有名な『十代の性典』で一躍有名になり、「性典女優」と呼ばれたせいで、この映画はいまだにビデオになっていない。封印されたままなのである。彼女は160本以上の映画に出ているが、その多くは私の子ども時代だから、リアルタイムで覚えているのは『越前竹人形』や『卍』くらいからである。これらだって、近所の映画館にかかっていたのを覚えているというだけであって、小学生が『卍』を観に行くわけにはいかない。じつは同級生の悪ガキが連れ立って観に行き、「チンコが立っちまったよ」と言っていたのを今でもよく覚えている。
 当時、映画館の外には上映中の映画のスチール(ロビーカード)が並んでいたので、どんな映画かはおよそ想像がつくのであった。小学生が『卍』のスチールを眺めていたりすると、大人から叱られたものであるが、なぜか『卍』のスチールはいまでも覚えている。
 『赤線地帯』では若尾文子も京マチ子もものすごいオーラを放っていて、感心する。若い頃の三益愛子を初めて観たような気がする。若いといっても、もうおばさんなのだが、おばあさんの三益愛子しか記憶にないのである。当たり前だが、川口晶にじつによく似ている(って、逆か)。
 『赤線地帯』は売春禁止法の施行前後の話である。舞台は吉原。いまのソープランドの原型である。といっても、ソープランドというものには行ったことがないのだが、知人にソープランド愛好家がいて、どんな様子かは聞いて知っている。「ひとりの女性を、不特定多数の男性と共有するのが、どうして平気なのか」という別の友人の質問に、彼がこう答えたのを今でもよく覚えている。「美空ひばりショーが1万円で観られるのは、2000人も入る大きなホールでやるからだ。ひとりで聞こうと思ったら2000万円かかるのだ」
 
 恩師の一人である作家の著作権代理人になっている関係で、私のもとに日本文芸家協会ニュースが送られてくる。著作権管理に関係のあることが書かれているといけないので、毎回いちおう目を通すことにしている。私が所属している学部には、リービ英雄、川村湊、島田雅彦など、文芸家協会の理事が何人もいる。私も入会を勧められたことがあるが、どこにも所属していない文筆家であれば、協会に入ると文芸美術国保に入れるので、年2万円の会費を払ってもお釣りが来るかも知れないが、私の場合、入っても何かメリットがあるとは思えないので、いまだに入っていない。入らない理由はもうひとつある。文芸家協会と私とでは、著作権に対する考え方がずいぶん違うからだ。
 日本文芸家協会ニュースをみていると、この協会がいちばん熱心に取り組んでいるのだが「著作権を守ること」であることがよくわかる。最近よく話題になるのはインターネットの検索エンジンである。協会ニュースによると、書籍紹介サイトでは本の中身の20%程度を公開しているそうで、協会はそれを違法だと訴えている。
 いうまでもないが、著作権と公共圏とは根本的に対立する。文芸家協会が著作権保護に熱心なのは、ひとつには本があまり売れず、作家の収入が減っているからである。文芸書が飛ぶように売れて、作家が軒並み富豪になっていたら、著作権のことなどをうるさく言い立てないであろう。だが、収入が減ったから著作権を守ろうというのは本末転倒である。そもそも小説を書いて生活が成り立つという前提じたいが間違っている。
 著作権についてうるさく言い立てるのは、著作をひとつのビジネスとして確立しようとしているからである。でも、もしビジネスだとしたら、本が売れないのは作者がビジネスに失敗したということであり、保護されるべきことではない。
12月28日(日)
 
 まだ正月前だというのに、鎌倉には観光客が押し寄せていて、駅前はあいもかわらずごった返している。不景気にもかかわらず(のせいで?)世の中には暇な人がたくさんいるらしい。
 
 先日、新聞を開いて目を疑った。文部科学省が「高校の英語の授業は英語で」という方針を打ち出したという。ばからしいにも程がある。
 英文科の教師をしていた経験もあるから、高校の先生がたの英語力はだいたい想像がつく(むろんピンキリだろうが)。彼らが英語で授業ができるわけがない。
 大学だって、もし英語で授業すべしとなったら、多くの先生がパニックに陥ることであろう。
 が、百歩譲って、できるとしよう。
 でも、どうしてそんなことをする必要があるのだろうか。
 
 話は飛ぶが(この話、前に書いたことがあると思うが、いつだったかは忘れてしまった)、20年ほど前、ジュリア・クリステヴァが来日し、お茶の水の日仏会館で講演会があったので、出かけていった。その来日時のことを、『はじめての構造主義』の橋爪大三郎は、「なかなか美人で素敵な写真うつりなので、しばらく前に来日したとき、さっそく講演をのぞきに行ってみた。なんだかクリステヴァのお母さんみたいな人がいるなあ、と思ったら、本人だった」と書いている。私はといえば、「かっこいいおばさんだなあ」と感動していた。
 で、講演が始まったのだが、事前の案内には「通訳付き」と書いてあったのに、クリステヴァの隣りにすわっていたKという学習院大学教授はいっこうに通訳する気配がない。私の隣りには丸山圭三郎、山口昌男、前田愛といった錚々たるメンバーがすわっていたのだが、前田先生が立ち上がって、「通訳付きと書いてあったではないか。そこにぼうっとすわっているきみ、通訳しなさい」と発言した。それに対するKの返答は信じられないものだった。「最近の仏文の学生はフランス語で学び、フランス語で思考し、フランス語で発言するのです。クリステヴァさんの講演は通訳不可能です」。丸山先生や山口先生が「ばかじゃないの」と呆れていた。Kさんはクリステヴァを紹介した後、さっさと袖に逃げればよかったのである。それをいつまでもクリステヴァの隣りにただぼうっとすわっていたからいけないのだ。
 場内がざわざわしたのを誤解して、クリステヴァ本人は「私の主張に反対の人はどうぞお帰り下さい」と発言した。これをきいて、会場はさらにざわざわし、どさくさにまぎれて、「クリステヴァのフランス語は難しいから、フランス語に翻訳してくれ」と発言したフランス人までいた。
 結局、講演は通訳無しで続けられた。私は事前にクリステヴァを何冊かフランス語で読んでいたにもかかわらず、たぶん4分の1くらいしかわからなかった。
 
 で、英語の授業の話に戻る。高度な英語力を身につけるには、たしかに英語で聞き、話せなくてはならない。というか、英語で考えることが必要であろう。だが、そんな能力を必要とする人は、というか、そういう能力を身につけようと考える人は、国民のごく一部でしかない。本当に英語ができる人は、100人に1人くらいいればよいのである。そんなことを高校生全員に押しつけるのは、いくらなんでもばかげている。
 そもそも、中学高校を通じて「6年間も勉強しているのに、全然英語が話せない」というのはまったく間違った認識である。この嘘が事実として通用し、文科省の官僚がそれを信じていることがまず問題だ。6年間といったって、せいぜい週に3時間である。「文法より会話」を重視するのなら、週3時間くらいではほとんど効果は望めない。文科省は英語教育を会話中心にしていくつもりらしいが、それならば毎日朝から晩まで中学高校生を英語漬けにする必要がある。
 でも、朝から晩まで英語漬けにするのはいいが、英語漬けになる中学高校生がどれだけいるだろうか。せいぜい1%だろう。他の99%は人生の6年間をまったく無駄にすることになる。
 でも仮にこの英語漬け教育が成功したとしよう。それで何が得られるのだろうか。彼らがさらに大学で英語漬けになって、「英語ぺらぺら」で大学を卒業し、就職したとする。その英語力を必要とする職種がどれだけあるだろうか。現代日本の社会人のなかで、「英語ができないと仕事にならない」という人がどれくらいいるだろうか。たぶん数年後にはすっかり英語を忘れていることだろう。英語漬けは膨大なエネルギーの浪費でしかない。
 日本の産業はほとんど内需でまかなわれている。輸出にしても、ものをつくるのに英語は必要でない。
 そのような「必要のない」ことにどうしてそれほどエネルギーを割かなくてはならないのだろうか。どうしてそんな「無駄」なことを子どもに強要しようとするのだろうか。まったく理解できない話である。
 
 はやい話が、問題の根は日本人の癒しがたい英語コンプレックスである。コンプレックスだから、事実に基づいた衛生な判断ではない。英語が必要なのに英語ができない、という「痛み」は正常であるが、コンプレックスというのはいわば病気であるから、英語はさして必要でないのに、英語ができないことがやたらに問題視されるのである。
 私は、この英語コンプレックスは、日本人の精神的鎖国に対する罪悪感だと思っている。日本というある意味ではいまだに閉ざされた国に住んでいることはなんとも心地よい。日本人は、胎内で微睡んでいる胎児のようなものだ。でも、快感はかならず罪悪感をともなうのである。
 もちろん実際には鎖国しているわけではないから、外国語のできる人が皆無では困る。でも、繰り返すが1%くらいの人がそうした仕事に従事すればよいのである。
 一流企業のトップの座にいる人たちは、立派な英語を話す。発音もよくないし、文法もあやしいが、ちゃんとYesNoがいえる。言えないと、商売ができないからである。
 語学力なんて、どうしても必要になれば、かならず身につくのである。
 
 いっぽう、必要もないのに語学を勉強する人だっている。現に、この私がそうである。英語もフランス語もドイツ語もロシア語も中国語も朝鮮語もかじった。学生時代、鬱に陥ったとき、イタリア語の学校に通うことで乗り切った。
 結局、自慢ではないが、何一つものにならなかった。英語ですらあやしい。でも、仕事に役立てられるくらいには身についた。
 しかし、「将来のために」語学を勉強したわけではない。中学生のころ、日本橋の丸善の洋書売り場にいって(むかし、ここにレモンを置いた、つまらぬ作家がいた)、そこにずらりと並ぶ洋書(ほとんどは英語)を見回して、その膨大な量の本を自分が読めないということに、無性に腹が立った。その1冊1冊に書かれていることは、私にとってまったく未知の世界であり、外国語を身につけない限り、それは一生私には未知のままなのだ、と思って悲しくなった。
 べつに悲しくならなくてもいいと思うが、たぶん私は欲張りなのであろう。
12月26日(金)
 
 BSの黒澤全作品放映はもう終わったなどと書いたが、『まあだだよ』を忘れていた。
 ご存じ、内田百間(戦後は門構えに月)の伝記的映画である。百間は大正9年から昭和8年までの13年間、わが法政大学の教授をつとめた。教え子たちに慕われ、教え子たちは百間の退職後、毎年、百間の誕生日に「摩阿陀会(まあだかい)」を開いた。「まあだかい」「まあだだよ」
 その教え子たちとの交流と、有名な「ノラ」の話を中心にした映画である。
 法政大学教授というと、まず三木清が思い浮かぶ。清岡卓行もいた。最近では木島始、柄谷行人といった人もいた。谷川徹三(俊太郎の父)は総長だった。それはともかく、学内で派閥闘争があって、百間は関口存男や森田草平ら一派に追い出されたそうであるが、どんな闘争だったのか、詳しくは知らない。
 なお、主演の松村達雄は法政大学出身である。
 ちなみに関口存男は、かの関口文法の関口で、私は学生の頃、「関口・初頭ドイツ語講座」という教科書でドイツ語を独習した。が、ついにドイツ語はものにならなかった。どうも相性が悪いのである。でもその教科書は今でももっている。
 百間の著作は膨大だが、そのほとんどは随筆である。学生時代、私が最初に出会った彼の随筆は「おからにシャンペン」という文章で、晩酌にシャンペンを飲む話である。シャンペンといっても、貧しかった百間のことだから、国産の安いシャンペンである。おからを皿の上にピラミッド状にしっかりと固めて、それを少しずつ崩しながら、シャンペンを飲むというだけのエッセーだが、この人の書くものは、一度読むと容易には忘れない。
 
 もうだいぶ前になるが、「仰げば尊し」が、教師の権威を無理やり押しつけるものだという理由で、卒業式で歌われなくなった。『まあだだよ』では、百間の教え子たちが本当に心を込めてこの歌をうたうのだが、たぶん「仰げば尊し」が歌われなくなったことと、日本の教育がどんどん悪化していったことは無関係ではあるまい。
 「謝恩会」というものもなくなり、最近は「卒業記念パーティ」という。おそらくその理由は、学生が教師に「恩」なんてまったく感じていないということだろう。私にいわせれば、師弟の絆がなくなってしまったことの端的な例である。
 いつの頃からか、父兄の意識が、「子どもがお世話になっている」という感覚から、金を払って教師を雇っているという感覚に変わってしまったようだ。だから「春休みが長すぎる。もっと授業をやれ」と言ってくる親がいる。
 私が家庭教師をやっていたのは今から40年近く前のことだが、その頃の父兄には「先生に来て頂く」という意識があったようで、したがって月々のものも「お礼」だったような気がする。今のことは知らないが、たぶん「家庭教師を雇う」という感覚なのであろうことは想像に難くない。
12月24日(水)
 
 年内の授業は終わった、と書いたが、本日は「体制当番」に当たっていたために出勤。体制当番といったって、一般の人にも他大学の人にもわからないであろうが、一言でいえば「自警団」である。半日、学内をパトロール。うちの大学はいまだに「学生運動」を抱えていて、たまにデモや授業妨害があったりするので、交替でガードマンをつとめるのである。さいわい、本日は「自称革命家」集団の襲撃はなかったので、早めに帰宅。
 
 わが家のクリスマス・ディナーは石狩鍋(笑)。お歳暮に新巻鮭を頂いたからである。キャベツとタマネギをいれた本格派の石狩鍋である。
 
 市川崑監督、市川雷蔵主演の『ぼんち』(1960)を観る。山崎豊子の同名小説の映画化で、船場のしきたりの解説映画みたいなものである。なんとも豪華なキャストで、主人公の母が山田五十鈴、彼の愛人が、若尾文子、草笛光子、京マチ子、越路吹雪。
 雷蔵というと、眠狂四郎とか忍びの者とか中野学校の、渋いニヒルなマスクが思い起こされるが、この映画では題名のごとく、ぼんぼん役である。雷蔵が適役かどうかは疑問である。それはともかく、若尾文子が眩しいくらいかわいい。
 
 五社英雄監督、緒形拳、十朱幸代主演の『櫂』(1985)を観る。宮尾登美子の自伝的小説の映画化。見終わった後、十朱幸代と真行寺君枝のオッパイが見事だったということしか印象にない。
「揺れるまなざし」(って、若い人は知らないでしょうねえ)の真行寺君枝がなつかしくなって、最近は何をしているのだろうと思い、彼女のウェブサイトを見てみたら、なんと、神がかった哲学者になっていた。
 
 深作欣二監督、緒形拳主演の『火宅の人』(1986)を観る。檀一雄の私小説の映画化。奥さんはいしだあゆみ(こわ〜い)、愛人は原田美枝子。そのどちらでもない松坂慶子がすごくいい。
 いま、檀一雄の小説を読む人はあまり多くないと思うが、『檀流クッキング』だけはしっかり生き残っている。というか、わが家では大変重宝している。以前、テレビで壇太郎と嵐山光三郎が「檀一雄のつくった料理を作って食べる」という番組をやっていて、そのときに知ったのだが、豆乳鍋のあとの雑炊には「溶けるチーズ」を入れるとすごくおいしい。わが家ではいつもそうしている。
 
 BSで黒澤明の全作品を放映していた(もう終わった)。それで久しぶりに『影武者』を観て、その冗長ぶりに呆れた。3時間あるが、2時間に短縮できるであろう。自分でプロデュースすると、こういうことになるのだ。外国配給を意識しすぎたのかもしれない。
 よく「ディレクターズ・カット」版というものが売り出されるが、たいていはプロデューサーズ・カット、つまり劇場公開版のほうが優れている。自分の作ったものを切り刻むというのは、なかなか難しいのである。
 『乱』も観たが、こちらはまったく冗長さを感じない。
12月23日(火)
 
 昨日で年内の授業は終わり。あとは1月に2週間。でも試験の採点の他に、レポートを100以上、卒論を7本、修論を3本読まなくてはならない。そして入試の監督。
 でも4月からはほとんど外国暮らしなので、来年度の授業の準備をしなくていいから、この冬は気が楽だ。来年度は3回目の、そして最後のサバティカルである。
 
 19日に太刀川瑠璃子先生が亡くなられた。享年81歳。まだまだ生きていて頂きたかった。
 長年スターダンサーズ・バレエ団の団長をつとめておられた先生である。ここ数年、昭和音楽大学の副学長もつとめておられた。戦前はモダンダンスをおやりになっていたが、戦後、谷桃子先生と離婚した小牧正英と結婚し、小牧バレエ団のプリマ・バレリーナになると同時に、裏方仕事を一手に引き受けられた。
 10年ほど前に、スターダンサーズ・バレエ団のプログラムに書いた文章の一部を引用しよう。全文はこちら
 
 1964年、すなわち東京オリンピックがあった年の9月、日比谷公会堂で「スター・ダンサーの競演によるバレエ特別公演」という催しがあった。当時も今も、いくつものバレエ団が群雄割拠し、観客を奪い合うというのが日本のバレエ界の特色だが、この公演には小牧バレエ団、服部・島田バレエ団、東京バレエ団、東京青年バレエ団所属あるいは出身のダンサーたちが参加し、それに太刀川瑠璃子とニューヨークから帰国した小川亜矢子が加わった。当然、所属を超えたダンサーたちを集めたプロデュース公演として注目を集めた。公演プログラムに三島由紀夫は「今度の各バレー団の花形による競演会は、日本のバレエが各種の悪条件にめげず達成した、最高の花を見せるわけである」と書いている。公演翌朝の読売新聞には「第一線で活躍しているダンサーを所属のバレエ団にとらわれることなく、一同に集めて競演する画期的なもの」と報じられた。プログラムの中心を占めていたのは関直人の「ワルツ・ノーブル・センチメンタル」「帯」「白の旋律」の3作品であった。
 この公演をプロデュースしたのは太刀川瑠璃子である。先に、戦前の日本ではバレエよりもむしろモダンダンスのほうが普及していたと書いたが、太刀川も戦前はモダンダンスを学んでいた。だが終戦後バレエに転向し、発足して間もない小牧バレエ団に入り、1963年に退団するまで、プリマバレリーナとして17年間全国のバレエファンを魅了した。彼女はそのかたわらバレエ団経営の実務を一手に引き受け、その経験が後にスターダンサーズ・バレエ団の経営に遺憾なく生かされることになる。
 この第一回プロデュース公演は太刀川のダンサーとしての最後の舞台となった。彼女は以後プロデュースに専念する決意を固め、翌1965年、同じく所属を超えたダンサーたちを集めて、「アントニー・チューダー・バレエ特別公演」を企画し、アメリカからチューダーを招聘して、「暗い悲歌」「火の柱」「底流」「リラの園」「小さな即興曲」を上演した。
 なぜチューダーだったのか。およそ10年前の1954年に太刀川の所属していた小牧バレエ団の招きでチューダーがノラ・ケイとともに来日し、「リラの園」と「カンカン・バア」を上演して大成功をおさめ、日本のバレエ界にチューダー・ブームが起きたのだったが、出演者のひとりだった太刀川にとってチューダーとの出会いは「今までのバレエを根底からくつがえし、一生を左右する程の衝撃であった」のである。
 チューダー公演終了後、太刀川を中心に、数名の有志によってスターダンサーズ・バレエ・カンパニーが発足し、服部・島田バレエ団のスタジオを借りて、スターダンサーズ・バレエ・スタジオが開設された。
 太刀川は所属のそれぞれ異なるダンサーたちに呼びかけ、二度の公演を成功させ、世間の注目を集め、日本のバレエ界に新風を吹き込んだのだったが、結局、みずからのバレエ団を発足させることになったのである。当時のプログラムに批評家の山野博大は、「バレエ界のすぐれたタレントを公演ごとに集めるやり方はチューダー公演で終わった。1966年7月の第三回からはスターダンサーズ・バレエという団体が観客の前に登場する。この登場は既製バレエ団の仲間入りという面であきらかに一歩後退と思われた。日本のバレエ界をかつての東京バレエ団のように統一するかもしれないという希望は遠くなってしまった」と書いている。もっとも山野はこう続けている。「しかし、すでに後からつけ入る余地はないと思われていたところからこれだけの協力者を集めることができたということはむしろ『バレエは娯しくなければいけない』という主張を勝利と解釈すべきだ」
 その名が示す通り、所属を超えた「スターダンサー」が競演するという試みには、多くの人が期待を抱いていたのである。それがどうして一方後退を余儀なくされたかといえば、太刀川のプロデュースの予想以上の成功に各バレエ団が脅威を感じ、自分のところのダンサーが太刀川のプロデュース公演に出演するのを禁じるようになったからである。優秀なダンサーが集まらなければ話にならない。やむをえぬ後退だったのである。
 しかしそれはたんなる後退ではなかった。カンパニーができたことで、レパートリーをもつことができるようになったからである。毎回オーディションによってダンサーを集めていたのでは、作品を長期間にわたって練り上げ深めていくことができない。

 
 太刀川先生とは20年くらいのお付き合いだったろうか。きっかけが何であったか、もう忘れてしまった。三浦雅士さんの紹介で、バレエのプログラムに原稿を依頼されたのではなかったか。
 故高円宮殿下が名誉会長をつとめておられた芸術文化交流の会というところで、「ジゼル」について講演をしたことがあったが、これはたしか太刀川先生の推薦だった。先生に頼まれて、東京文化会館で、青少年のためのバレエ入門というような講座をやったこともあった。
 昭和音楽学院にバレエ科ができたとき、やはり太刀川先生に頼まれて、最初の2年間教えに行った。
 その他、いろいろな用事で、しばしばお目にかかったり、電話でお話ししたりした。私の自宅にファックスを下さるとき、いつも電話番号とFAX番号をまちがえて、電話の方にFAXが来るので、受話器をとるとピーという音がする。何度もそんなことがあったので、以後、電話のほうにまちがってFAXがくるたびに、かみさんは冗談で「太刀川先生じゃない?」と言うのだった。
 一度、太刀川先生のお仕事を紹介するTVドキュメンタリー番組があって、それを観た知人が感動してすぐにスターダンサーズ・バレエ団に電話をかけ、太刀川先生がいかに素晴らしいお仕事をなさっているかを延々としゃべったそうだ。電話を切ってから、録画した番組を見直して、電話に出た女性が太刀川先生ご自身だったことに気づき、赤面したという。実際、バレエ団に電話すると、たいてい先生ご自身が電話に出られた。
 11月26日に会議でお目にかかったのが最後になってしまった。そのとき、車椅子の先生のお顔が、以前のふっくらしたお顔と比べて半分くらいになってしまっているのをみて、愕然とした。
 デジャヴュに似た感覚に襲われた。心臓手術のあと脳血栓で倒れられた故秋山さと子先生を病院にお訪ねしたときも、すっかり顔が小さくなっていて、まるで別人のようだったので、愕然とした。ちなみに、そのとき付き添っておられた弟子の方が、何度も先生に「晶先生が来て下さいましたよ。先生、うれしいですね」と語りかけるのだが、すでに秋山先生は私のことがまったくわからなかった。お亡くなりになったのは、それからしばらくのことだった。
 秋山先生も太刀川先生も、私にとってはどこか母親のような存在だった。こうして「母たち」がひとり、ふたりと亡くなっていく。
 合掌。
12月21日(日)
 
 「くるみ割り人形」の季節である。師走にベートーヴェンの「第九」を演奏する習慣は日本だけのものだが、クリスマス・シーズンに「くるみ割り人形」が上演されるというのは世界的な慣習である。何しろクリスマスの話であるから。
 たくさんのバレエ団から招待状を頂くが、たいへん申し訳ないのだが、ほとんどお断りする。今年は来週、Kバレエの公演を観に行くだけだ。腰が痛いというのが最大の理由だが、「どこの『くるみ』も似たり寄ったり」というのも理由である。
 「くるみ割り人形」は失敗作である。面白くない。だが、音楽があまりにいい。これはもうクラシックというよりすでにポップスである。チャイコフスキーは何よりも天才的メロディ・メイカーだった。
 だが、台本がよくないせいで、前半はつまらないパーティの踊りだけ、後半は決まり切った民族舞踊めいた踊りばかり。
 見どころは雪の国と最後のパ・ド・ドゥだけ。
 原典に忠実な上演というのも非常に大切なことである。古典というのは勝手に変えてはいけない。しかし、原典に欠陥があったら、回呂しながら生き延びさせなくてはいけない。そこが文学と違うところで、文学作品を勝手に書き換えるわけにはいかないが、古典バレエは新たな衣を着せることによって生き延びてきたのである。
 だが一方、この作品はバレエ団にとって「ドル箱」である。わざわざ改訂しなくても、採算が取れる。それでほとんどのバレエ団はいまだになんの工夫もない「くるみ割り人形」をやり続けている。
 13年前にロンドンで観たマシュー・ボーンの「くるみ」は画期的だった。「くるみ」はお金持ちの家のクリスマス・パーティが舞台だが、ボーンはそれを孤児院に設定したのである。ただ、彼の他の作品と同様、アイデアは抜群なのだが、振付がいまいち面白くない。
 最近観たなかでは、サンフランシスコ・バレエ団の「くるみ」がなかなかよかった。大胆な改訂はほどこされていないが、精一杯工夫をしている。
 
 昨日は新国立劇場にアシュトン振付「シンデレラ」を観に行く。お目当てはゲストのラリッサ・レジニナである。予定されていたアリーナ・コジョカル(正確にはコジョカリュー)が怪我で来日中止になり、レジニナが踊ることになったのである。彼女が来日するのは10年ぶりではなかろうか。
 久しぶりに観たレジニナは、「子どもを産んだのかしら」と思わせるほど、腰回りが微妙に太くなっていて、身のこなしが少女というより、おばさん臭い。などと書いているが、私はレジニナの大ファンである。観ているだけで満足。
 アナニアシヴィリの公演のゲストとして来日したとき、おしゃべりしたことがある。彼女の主演した「眠れる森の美女」のビデオ(LD)は歴史的名盤である。彼女自身はまだあまりうまくないが、妖精のようだ。じかに会ったとき、このビデオの話をしたら、「10年前のことはもう言わないで」と言っていた。
 というわけで、待望の再来日だったのだが、第一幕の途中で足を痛め、第2幕の、それも肝腎のパ・ド・ドゥの前で踊れなくなってしまった。しばらく中断した後、さいとう美帆、マイレン・トレウバエフが代わって続きを踊った。
 この2人は立派に踊ったが、私はお目当てが外れたので、休憩時間で帰ってしまった。中断したために家に帰るのが12時過ぎになってしまうという理由もあった。帰り道、脚の痛みに顔を歪めていたレジニナの姿が眼の裏に焼き付いて、可哀想で仕方がなかった。
 翌朝、彼女が投宿しているホテルにお見舞いのバラの花束を届けた。
12月20日(土)
 
 水曜日だったか、娘から「明日は国会図書館で調べ物をする」という連絡が入る。この暗号の意味はすぐにわかる。「パパの大学のそばにいるから、帰りに夕食をご馳走してくれ」という意味である。
 最初は「鮨屋がいい」と言っていたのだが、その後、また連絡があり、「風邪を引いていて、味が分からないから、あまり高いものは遠慮しておく」というご注文。
 新橋で待ち合わせて、風邪のときは鍋がいいだろうと考え、あちこち居酒屋のメニューをみるが、私の苦手な鶏の鍋ばかりなので、結局、銀座のふぐ料理屋に行く。安くて有名な店である。予約でいっぱいだったが、時間が早かったので、かろうじて入れる。唐揚げも白子も食べて、ふたりで2万円でお釣りがきた。
 12,3年前になるか、この店の第1号店が新宿の歌舞伎町にできたとき、予約を受け付けていなかったので、開店の1時間以上前から店の前に行列ができたものである。その後、2号店、3号店とできて、いまでは数十の支店がある。
 むろん養殖である。養殖ふぐは毒がないからよい。この店に行くようになってからはや10年。天然もののふぐの味なんて、忘れてしまった。
 
 お手伝いさんが「チャングムの誓い」のDVDを全巻貸してくれる。全54話。54時間費やしてまた全部見る体力も気力もないので、あちこち適当に選んで観るが、どの回も、一度観ているし、しかもよく覚えているにもかかわらず、再度観ても面白い。
 
 落ち葉掃きの季節である。まったく賽の河原に石を積むことを連想させる仕事だ。この季節ばかりはマンション暮らしがうらやましい。いまだに腰がよくならないので、1時間も掃いていると、腰が痛み出す。
12月17日(水)
 
 いつのまにか、また一週間過ぎてしまった。
 先週の土曜日は、かみさんの両親の金剛石婚(結婚60周年)を祝うため、横浜のインターコンチネンタルの中華レストランで会食。金婚式を迎えられる夫婦は多くない。ましてやダイヤモンド婚を祝える夫婦は数少ないにちがいないが、それでも高齢化にともない、増えてきているはずである。
 
 日曜日は東京バレエ団の『ザ・カブキ』を観に行く。ベジャールが歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」をバレエ化したものである。初演は1986年だから、もう22年も前である。私はなにかの都合で初演を観られなくて、友人の評論家から様子を教えてもらった記憶がある。
 いまや古典である。日本人の振付家にはこの作品を創作することができなかった、というのがなんとも残念である。
 その後、再演されるたびに観ているが、何度観ても面白いのは、やはり「忠臣蔵」だからか。何しろ日本人のいちばん好きな物語である。小林秀雄すら忠臣蔵論を書いているほどだ。秋山駿が最近出した『忠臣蔵』を読んだが、誰もが一言いいたくなる話なのである。
 でも、忠臣蔵の何がそんなに日本人の心を惹きつけるのか、明快に説明してくれた人はまだない。
 ちなみに、忠臣蔵に魅了されるのは男だけらしく、ほとんどの女性はまったく興味がないらしい。
 さて、『ザ・カブキ』は「仮名手本忠臣蔵」が原作だから、テレビや映画でやる忠臣蔵とはちがい、お軽勘平や伴内(師直家臣)が活躍する。だから歌舞伎を観たことがない人がいきなり観ると、「このカップル、いったい誰?」ということになるのではあるまいか。
 私は日本舞踊の家に育ったので、物心ついたときから「お軽勘平」というカップルの名は否応なく耳に入ってきた。小学校の低学年の頃だったか、母がなにかの会で「道行」(道行旅路の花聟)を踊った。当然、家で稽古をするから、そばにいて、「鎌倉を出でてやうやうと、ここは戸塚の山中、石高道で足は痛みはせぬかや」「何のまあ、それよりはまだ行先が思はれて」という台詞を覚えてしまった。そのときはまだ「仮名手本」が鎌倉時代の話だということを知らず、江戸から戸塚まで歩いていったのだと思い込んでいた。
 鎌倉から山崎(京都)に行くのに、戸塚を通るはずはないのだが(遠回りだ)、そういうことは問わないことになっているらしい。
 余談ながら、鎌倉に住んでいると、家のすぐ前には護良(もりなが)親王の墓があり、5分歩けば頼朝の墓があり、娘が通っていた小学校は鎌倉幕府の跡である。駅まで歩くのがつねであるが(30分かかる)、このあたりは北条一門の屋敷、このあたりが日蓮が説教していた場所、と、なんとなく鎌倉時代の町を歩いているような錯覚に陥るのが面白い。
 話をバレエに戻すと、このバレエは非常に危ういバランスの上に成立している。歌舞伎のバレエ化だから、当然ながら衣裳は着物である。でも着物をきていたら、バレエは踊れない。洋風の衣裳では、どこの国の話か、わからなくなる。ベジャールは、女性ダンサーの場合、レオタードあるいはそれに類するコスチュームの上に打ち掛けを羽織るというアイデアで、そのジレンマを解決したのだった(男の場合は、袴をはいていてもバレエは踊れる)。
 これがちょっとでもバランスが崩れると、ゲテモノになってしまう。
 日本でバレエが繁栄していくためには、いつまでも欧米の真似をしているわけにはいかない。「日本のバレエ」を創造しなければならない。観客とか評論家は、べつに輸入物を観ているだけでも満足しているわけだが、上演する側はそうはいかない。
 そのときに必ずぶつかる壁は、日本の習俗服装とバレエとの間の距離である。バレエはもともとヨーロッパのものであるから、日本の物語をそのままやっても、うまくいくわけがないのである。
 話を衣裳に限れば、これまで作られた作品で、和洋折衷に成功しているのはこの『ザ・カブキ』と、松山バレエ団の『曼荼羅』である。後者は最近再演されず、残念だが、中世の服装が以外に西洋的であることをうまく利用している。
 
 先日、出かけたときに、もっていた本を往きの電車の中で読み終えてしまったので、駅の書店に駆け込み、帰りの電車で読む本を探したら(手元になにか読む物がないと不安なのである)、ふと『蟹工船』が眼に止まったので、これを帰りの電車で読む。
 十代の頃に読んだときには、つまらない小説だと思ったが、今回も感想は同じであった。
 蟹工船が「地獄」であったことはよく描かれている。何しろ冒頭の1行が「おい、地獄さ行ぐんだで!」である。
 しかし、蟹工船に乗り込んだ最底辺の労働者たちがどんな仕事をしているのか、まったくわからない。蟹をとって、それを缶詰に加工しているらしいのだが、その仕事の様子はいっさい描かれていない。登場人物たちが数ヶ月間船の上で何をしているのかが、まったく書かれていない。だから面白くないのであろう。
 じつは書店で『蟹工船』に目が留まったのはまったくの偶然ではなく、先日来、ほとんど毎日のように新聞にカニの全面広告が出ているのを見ていたのである。ズワイやタラバの脚が2キロで1万円、という類である。私が若い頃は、カニ缶といえば高級食材の代表だった。お歳暮にカニ缶をもらったりすると、家族一同、「おお」と感動したものである。最近は冷凍のカニが廉価で出回っている。毎日、新聞の全面広告が出るということは、カニというのはほとんど無限にいるのであろうか。
 『蟹工船』を読むと、当時(昭和の初め)から漁船はソ連の領海に侵入してカニをとっていたことがわかる。私が若い頃もよくソ連による日本漁船拿捕が新聞を賑わせていたものである。最近は、ロシアの漁船にとらせておいて、それを買い上げているようである。ロシアの漁船も、ロシアで売るより、日本に売った方が高く売れるのであろう。
 私もかみさんもカニは好物なので、ズワイの脚が2キロで1万円という広告を見ると、すぐにでも申し込みたくなるのだが、一度には食べられそうにない。残りが冷凍庫に入るだろうか。と考えて、なかなか申し込めずにいるのである。
 
 西原理恵子の『毎日かあさん』の第5巻が出たので、さっそく読む。電車の中で読んでいて、ふとまわりをみると、いい年のおじさんたちが、ひとりはDS2、ひとりはPS2に熱中している。ひとりはケータイで必死にメールを打っている。なんとなく奇妙な、でも平和な風景だと思った。でも、他人からみると、私もきっと不気味だったにちがいない。『毎日かあさん』を読んでいると、ページをめくるごとに笑ったり泣いたり、忙しいのである。
 ところで、読者たちのなかで、西原の『ぼくんち』を読んだことがないという人はまさかいないでしょうねえ。
 
 アルモドバル製作総指揮、イザベル・コイシェ監督の『あなたになら言える秘密のこと』を見る。主演は、同じコイシェ監督の『死ぬまでにしたい10のこと』と同じくサラ・ポーリー。共演はティム・ロビンズ。
 この映画、ジュリー・クリスティがちょっと出ているので、彼女の熱狂的ファンであるかみさんが借りてきたのだった。彼女、最近は『トロイ』とか『ネバーランド』とかで、「美しい老婦人」役を演じている。1996年頃、私はロンドンで、舞台に出演したなまジュリー・クリスティを観たことがある。彼女は映画女優であって、舞台女優ではないから、新聞や雑誌では演技は賞讃されていなかったが、批評家たちは異口同音に彼女の存在感について書いていた。長いこと、ほとんど映画にも出なかった彼女が初めて舞台に出るというので、たいへんな話題になっていたが、実際、舞台に彼女が出ているというだけで、観客はみな見惚れていた。
 話を映画に戻すと、コイシェ監督は海底油田の掘削所にいたことがあるらしく、いつかどうしてもそれを映画にしたいと思っていたそうだが、油田掘削所の独特の世界(海上に孤立している男だけの世界)と、ボスニアの悲劇とを、欲張って両方盛り込んだために、いささか図式的な展開になってしまったのが残念。
 しかし、主人公の若い女性が告白するボスニアの悲劇はあまりに惨たらしい。いわゆる旧ユーゴ紛争の際に繰り広げられた殺戮とレイプは、ほんの10年ほど前の惨劇なのに、私たち現代人は忙しいので、いまやリーマン・ショックの遠い彼方になってしまっている。
12月10日(水)
 
 中国は四川省の大地震のとき、多くの学校が倒壊したことが話題になった。子どもを失って嘆き悲しむ親たち、国に対する恨みを口にする親たちがテレビに映っていた。
 さっき「報道ステーション」を見ていたら、震度6強の大地震で倒壊しそうな学校が日本全国で4万棟あるのだそうだ。四川省で倒壊したのは7000棟である。しかもそのほとんどでは補強工事は手つかずのままである。恐ろしい国だ。高速道路を造るの造らないの、新幹線を造るの造らないのともめているが、それどころの騒ぎではないだろうに。
 
 ソニーが16000人解雇する、というのが今日の新聞の一面トップであった。世界的不況の中で、物が売れなくなるのは当然であるから、驚かない。だいたいソニーがいちばん力を入れているのはエレキ製品であって、生活必需品ではないから、まず買い控えられるであろう。
 
 昨日はボリショイ・バレエの「明るい小川」を観に行く。1935年に初演された後、スターリン政府によって上演禁止処分を受け、最近になってやっとラトマンスキーが新たな振付で再演したという作品である。こんなに理屈抜きで楽しめるバレエはめったにない。振付も細部までじつに丁寧にほどこされており、しかもひとつひとつがじつにユニークだ。
12月7日(日)
 
 おお、寒い。舞踊学会の研究発表の座長(司会)を頼まれていたので、朝7時に起きてお茶大へ。以前教えた子たちが発表をする。
 午後は古武道の日野晃さんによるワークショップだったのだが、寝不足だし、腰痛を抱えているので、こそこそ逃げだし、自分の大学に戻り、研究室で授業用の映像編集作業。
 
 DVDで、レオニード・マシンのシンフォニック・バレエ、「予兆」と「コレアルティウム」を観る。初演はいずれも1933年。バランシンとはまたひと味違う抽象バレエであるが、バランシンよりもマシンのほうが取り組みが早い。どちらも、現在なおじゅうぶん鑑賞に値する作品である。マシン、恐るべし。
 
 夕方、実家に寄る。実家は20年ほど前に母と妹と私の共同でマンションにしたのだが、その外壁タイルの一部が剥がれ落ちたのである。もし下に人がいたら、大けがをしたかもしれない。それで緊急対策会議を開くことになったのである。世の中、いろんなことが起きるものである。
 
 昨夜、テレビで黒澤明の「デルス・ウザーラ」をやっていたので、観る。ちなみに、正しくは「デルスー・ウザラー」である。
 懐かしい。封切られたときに有楽座で観たような記憶がある。当時、私は露文科の学生だった。
 デルスのロシア語はブロークンで、私をメニャー、彼をイェヴォーと言う。英語でいえば、自分をme 、彼を him というようなものである。また、ロシア語では人間を、単数ならチェラヴィエク、複数ならリュージィというが、デルスは単数だろうと複数だろうと全部リュージィという。いや彼にとっては、人間だけでなく、動物も風もたき火もみんな「ひと」なのである。
 デルスのロシア語を聞きながら、私のロシア語もこんなもんなんだろうなと思う。
 黒澤が生涯かけていちばん描きたかったのが友情であることは、この映画を観てもよくわかる。公開当時、「黒澤も才能が枯渇した」「黒澤老いたり」と言われたものである。たしかに映画としては名作とは言いがたいが、映像は壮大である。黒澤自身が自分の老いを意識していたこともよくわかる。
 周知の通り、デルスの役は最初、三船敏郎がやるはずだったのだが、彼のような売れっ子を2年間もシベリアに「抑留」しておくことはできず、そのプランは立ち消えになった。でも、三船じゃなくてよかった。
 デルス役を演じたマクシム・ムンズクはトゥイヴァ(トゥバ)人で、何本かの映画に出ている。この映画に出演したときは65歳だった。89歳で他界したそうだ。ちなみにトゥイヴァは喉歌(ホーミー)で知られる国でもある。
 黒澤監督は助監督時代にアルセニエフの『デルス・ウザラ』を呼んで以来ずっと映画を夢見ていた。だが当時のことゆえ、ソ連で映画を撮るなんて、考えられないことであった。ところが、幸運にもソ連から招かれることになったのである。
 なお、国際映画データベースをみたら、「デルス・ウザラ」は以前に一度ソ連で映画化されている。いい話だもんなあ。
 観た後、佐藤純一先生とこの映画について語り合ったことを思い出す。「黒澤老いたりと言われるけど、そんなことはない。さすが黒澤だ」と力説されていた。
 ふと思い出した。やはり露文科の学生だった頃、新宿にタルコフスキーの『アンドレイ・ルブリョフ』を観に行ったら、たまたま佐藤先生も見に来られていた。終わった後、「時間はあるか」と聞かれて、「はい」と答えると、近くの広島料理「酔心」に連れて行って下さった(露文の先生がたにはよくご馳走になったものである)。そのとき、先生が「映画のなかで、ウーミェル(死んだ)をみんなポーミェルと言っていただろ」とおっしゃったことをよく覚えている。ウーミェルは標準語で、ポーミェルは俗語である。
 人間、些細なことをいつまでも覚えているものである。
12月6日(土)
 
 きょうは本当ならば学会の理事会に出席しなければならないのだが、疲労が蓄積して(感覚としては体中に疲労菌がまわっていて)ここらで一息入れないと暮れに寝込むのではないかという不安があり、お休みさせていただき、家で細々と仕事をしている。
 
 昨日の昼間、熊川哲也くんにインタビューするという仕事を急に頼まれる。
 熊川くんとは、いつもマネージャーを通してしか話をしないし、パーティなどで会っても挨拶を交わすだけだったので、一度ゆっくり話したいと思っていたから、喜んで引き受ける。たまたまこの日だけスケジュールが空いていたということもある。
 私はライターでもジャーナリストでもないので、インタビューされることはあっても、インタビューするという仕事はめったにない(海外は別で、研究としておこなうことはある)。だから、どうして私に頼んできたのか、謎である。あらかじめ、「私、インタビューは得意じゃありませんよ」とお断りを入れておく。
 舞踊ジャーナリストとか舞踊ライターを自称している若い女性たちは、バレエファンに毛が生えたようなものだから、「お金を出しても熊川さんにインタビューさせて欲しい」という人はいくらでもいるだろうに。
 私だって、インタビューの仕事は原則的に引き受けないとはいえ、会いたいと思っていた人の場合は、もちろん喜んで引き受けるのである(深田恭子ちゃんにインタビューするという仕事が来るはずもないが)。
 熊川というと「なまいき」というイメージが強い。実際、昔は相当に「生意気なガキ」だったようだが、実際には、少年のような目の輝きと成人男性の落ち着きを兼ね備えた紳士である。むろんオーラを放っている。バレエ団とバレエ学校を経営するという仕事が、否応なしに彼を成熟させたのかも知れない。
 30分の予定だったので、途中で編集者が「このへんで・・・」と言ってきたのだが、熊川くんが「いいから放っておいて」と言って追い払い、1時間しゃべりつづける。面白かった。
 熊川ファンのみなさまへ。インタビューの「さわり」と彼の大きな写真は、東急デパートとか東急沿線の駅においてある「Bunkamura Magazine」の新年号に出ます。独り占めしないように。
 
 夜は、かみさんと待ち合わせてタイ料理を食べてから、ボリショイ・バレエの「白鳥の湖」を観に行く。主演は女神ザハロワである。
 グリゴローヴィチ版「白鳥の湖」を観るのは久しぶりだ。この改訂版が日本で上演されるのは初めてだが、私も初めて観た。率直な感想を言えば、グリゴローヴィチ版の歴史的使命はすでに終わったと感じた。これは、マリインスキー・バレエがいまだに上演しているオーソドックスで牧歌的なコンスタンチン・セルゲーエフ版とは違った意味で、ソ連版「白鳥の湖」である。改訂で良くなったとも思えない。余計な部分が付け加わったようにも思う。エンディングは良くなったが、音楽のつなぎがスムーズでない。切り貼りが見えるような繋ぎ方だ。
 ブルメイステル版がいかに優れているかを再認識する。
 ザハロワ姫は例によって完璧である。この人は10年前にすでに完璧だったが、完璧がさらに進化するということもあるのだ。
 クリサノワ、ゴリャーチェワといったダンサーが脇を固めていて、プロダクション全体の豪華さ、贅沢さは私たちを酔わせてくれる。さすがボリショイ。世界のトップとはこういうものなのだ。
 
 私は辞書をぱらぱらと引く感覚が好きなので、これまで英和以外は電子辞書を使わなかったのだが(学生には勧めるくせに)、来年はアメリカ、フランス、ロシアを回る可能性もある。英和・和英・仏和・和仏・露和・和露の辞書を全部スーツケースに詰めていくわけにもいかないから、仕方なく電子辞書を買った。
 買ってびっくり。これまで使っていた英和の辞書には英和辞典しか入っていなかったのだが(10年以上前に買ったものだ)、国語、漢和、四文字熟語辞典、類語辞典、ことわざ辞典、簡略な百科事典、会話便利帳など20以上の辞書が入っており、単語の発音も教えてくれる。
 おまけにタッチペンで手書き入力もできる。和英・和仏・和露などを引くとき、漢字で書けばいいのだ。仏和や露和を引くときも、キーボードを打たずに、アクサン付きの文字やロシア文字を手で書けばいいのだ。おお便利。って、私はものすごく時代遅れの生活をしていたようである。
 でも、家にいるときはやっぱり紙の辞書である。
12月4日(木)
 
 歯の具合が大変怪しいのだが、予約がとれないので、来週までなんとか持ちこたえなければならない。夜中にギャー、ということにならなければいいのだが。
 
 大学まで、娘が本を借りに来る。娘は修士論文執筆中である(最低20万字以上書かなくてはいけないそうだ)。学内と歩いているとき、何人かの先生や学生とすれ違ったので、あわてて「娘です」と紹介する。というのも、とかく娘は「キャバクラのねえちゃん」と思われても仕方のないようなファッションをしているからである。
 
 授業の後、ボリショイ・バレエの「ドン・キホーテ」を観に行く。このバレエの「本家」はボリショイである。初演されたのもボリショイだったし、現在上演されている多くの版の原型は、ボリショイのバレエマスターだったゴールスキーの演出だからだ。
 今回の来日公演の「ドン・キホーテ」の主役キトリはアレクサンドロワ、オーシポワ、ザハロワである。ザハロワのキトリは新国で観ているので、だいたい想像がつくから(というか、ザハロワのキトリは「当たり役」とはとてもいえない)、まず外し、アレクサンドロワとオーシポワのどちらにしようかと迷っていたのだが、結局、昨日は日記に書いたように授業が入ってしまったので、自動的にオーシポワということになった。結果としてはとてもよかった(って、アレクサンドロワを観ていないので、あまりえらそうなことはいえないのだが)。
 オーシポワとバジル役のワシーリエフはどちらも素晴らしかった、というより凄かった。久しぶりに「すごい」ものを見せて頂いた。二人とも、跳躍、回転ともに超絶。
 「ボリショイ、命」の赤尾くんも「すばらしい若手が育ってきて、うれしい」と感動の涙を流していた、というのは嘘で、上機嫌でビールを飲んでいた。
 まあ、このふたりが叙情的な役を踊ったときに、同じように素晴らしいかどうかはわからないが、それはまた別の話である。
12月3日(水)
 
 本日は例外的に大学院の「国際文化研究」という授業を担当する。担当教授はちゃんとおられるのであるが、他の教員がそれぞれ違ったテクストを選び、2回だけ担当教授とともに授業を担当するのである。
 私が選んだのは、アンナ・ポリトコフスカヤの仕事に関する論文である。ポリトコフスカヤはチェチェン問題に対するロシアの政策を徹底的に批判し続けたジャーナリストで、2年前、自宅アパートのエレベータ内で何者かに殺された。立場はまったく違うとはいえ、ビルマにおけるアウンサンスーチーと同じように、平和と民主主義を望む人々にとっては希望の星であった。
 現在ロシアでは、まるでかつての帝政のような専制政治が復活しつつある。いやすでに完全復活しているのかも知れない。プーチンは皇帝以外の何者でもない。
 東欧の旧共産圏諸国の場合、選択肢があった。ロシアにつくか、西欧につくか、である。ほとんどすべての国は「西側につく」ことを選んだ。だが、ロシアには選択肢がない。中国も同様だが、一方で資本主義化をすすめながら、一方で独裁政権を確立する以外に、国として生き残る道はないと考えているようだ。
 アメリカがいいとは全然思わないが、ロシアや中国よりはましであろう。が、ロシアがアメリカ的な括弧付き民主主義国になる可能性はほとんどゼロに近い。困ったものである。
12月2日(火)
 
 早稲田の院の授業をやってから、自分の研究室に戻って、講演会に使うビデオを編集し、また早稲田に戻る。最近、映像編集用の大型パソコンがいささか調子が悪いので、誰かに見てもらわなくてはならない。順調に動いているときはいいのだが、ちょっと調子が悪くなると、どこが悪いのか、私にはかいもく見当がつかない。
 さて、夜は、ボリショイ・バレエの芸術監督アレクセイ・ラトマンスキー氏を迎えての、グローバルCOEの研究会(外向けには「ラトマンスキー氏講演会」)。来週東京で上演される『明るい小川』の話を中心に、ラトマンスキー氏にお話を聞く。
 通訳は、本学の講師であり、プロの通訳である佐藤さんにお願いする。
 会場は収容人数80名の教室だったので、もし人が溢れたらどうしようかと心配していたのだが、なんとか収まったので、ほっとする。
 すべて、滞りなく終了する。

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