2008年1月の日記(↑時間軸)
 
1月31日(木)
 
 月曜は早稲田で修論の口述試験。その後、研究室に飛んで帰り、院生に手伝ってもらって、雑用を片付ける。
 それから上野に行き、マリインスキー・オペラのプロコフィエフ「三つのオレンジへの恋」を観る。指揮はもちろんゲルギエフである。フランス風の面白い演出であった。2階の最前列で観たのだが、始まるといきなり、合唱団の歌手が数人どたどたとそばにやってきて、2階から歌うのであった。すぐそばで聴くと、そのヴォリュームに驚かされる。
 オペラは、批評を書かなくていいので、気楽に見られてよい。マリインスキー・オペラは4演目もってきたのだが、忙しくて2日しか行けないのが残念。
 
 火曜は大学院の最後の授業(授業期間はもう終わっているらしいが)。その後、英国から招いたジャネット・ランズデール先生の講義。前日の深夜に急遽この講義の通訳をすることになり、原稿が送られてきたのだが、目を通す暇もなく、ぶっつけでやっつける。
 ランズデール先生は英国サリー大学名誉教授であるが、英国の舞踊学のパイオニアである。リーズ大学で史上初めて舞踊研究で博士号を取得し、サリー大学に英国初の舞踊学科を創設した人である。
 じつは私のお師匠でもある。13年前、私はサリー大学の客員研究員として、彼女の元にいたのである。べつに講義を受けたわけでもないが、師匠であることには変わりないので、言われればなんでもやるのである。
 
 水曜は、私が関わっている早稲田大学演劇博物館のグローバルCOE主催のシンポジウム。前半はランズデール先生の講演。後半は「春の祭典」をめぐるシンポジウム。
 この日の講演も私がぶっつけで通訳をする。
 そのあと続けて、「春の祭典」について講演する。じつは前日まで準備をする暇がなく、当日の朝早く研究室に行って、あれこれビデオを編集したのであった。とくにお見せしたいビデオが1本あったのだが、あちこち探せど、どうしても見つからずじまいであった。
 私の後、伊東一郎早稲田大学教授に「春の祭典」の音楽的側面についてお話しいただき、次いで沼野充義東大教授に、美術を担当したニコライ・レーリッヒについてお話しいただき、最後に平山素子筑波大学講師(というよりダンサー=コレオグラファー)に、「春の祭典」の主役を踊った体験について話していただく。
 私にとってもたいへん勉強になる有意義な催しであった。
 でも、寄る年波には勝てず、疲れた。
1月27日(日)
 
 みのもんたの「思いっきり、いいテレビ」で熊川哲也を取り上げるから、なにかコメントしてくれという依頼が来た。テレビに出るのは大嫌いだが、熊川はまちがいなく日本バレエが生んだ最高の男性ダンサーであるから、喜んで承諾したのであるが、スタジオにいくのはいやだから、研究室で収録してもらった。29日に放映されるそうだ。
 
 火曜日は早稲田の大学院の授業。すでに授業期間は終わっているそうだが、まだ予定を消化できていないので、終わるまでやるのである。
 
 木曜日は修論の口述試験。7人の諸君が修論を提出したので、口述試験は一日がかり。判定会議は夜になった。
 
 金曜日は、早稲田で研究会。そのあと、いつもは打ち上げの飲み会となるのだが、失礼して新宿の朝日カルチャーセンターにいく。乗越たかお君が、コンテンポラリー・ダンスの振付家にいろいろ聞くという講座をやっていて、その日のゲストが大島早紀子だったからである。二人の対談を聞いたあと、乗越くん、乗越夫人、大島さん、白河直子さんと夜遅くまで新宿で飲む。
 
 土曜日は、レニングラード国立バレエの「ドン・キホーテ」にいく。主役はゲストのアナスタシア・コレゴワと、同じくゲストのイーゴリ・コルプ。ルジマトフはもう古典を踊らないそうであるが、彼の後継者的存在がコルプだ。おばさまファンたちはすでにルジマトフからコルプにシフトしているようだ。彼の踊りは基本がしっかりしているから、安心して観られるが、残念ながら色気がないし、重い。
 コレゴワは素晴らしい。セミオノワにちょっとタイプが似ているが、ほとんど理想的なプロポーションで、その脚の動きにはうっとりさせられる。これから10年くらい、マリインスキー劇場のスターであろう。
 その後、ひとつ新年会に誘われていたのだが、気が乗らないので、家に帰ってビデオをみる。
 
 きょう、日曜日は荻窪まで「ヴェルサイユの祝祭」という公演を観に行く。浜中康子さんという、バロック・ダンスに関してはいまや日本における第一人者ともいえるかたが2年に一度くらい催している公演である。どういうわけか知らないが、すぐ近くの席に、横田めぐみさんのご両親が来ておられた。当たり前だが、テレビでお見かけする姿そのものであった。
 バロック・ダンスに興味のある人なんてそんなに多くないのではないかと思ったが、意外や意外、杉並公会堂はほぼ満員であった。
1月19日(土)
 
 昨日も今日も新年会に誘われていたのだが、出かける余裕はなく、ずっと家にこもって仕事をしている。
 とはいえ、雑用が多くて、なかなか自分の仕事ができない。大学の業務を雑用などというと、お叱りを受けること必定であるが、自分の研究が圧迫されるのは叶わない。
 10年くらい前からさかんに、研究よりも教育、といわれるようになった。それは正しい。昔は研究の片手間に授業をやっているような教授がたくさんいたし、年に3度も4度も休講する教授もいた。それはよくない。当たり前である。
 だが、「研究あっての教育」であることを、大学の管理職は忘れているのではなかろうか。
 語学はすべて外注、という大学が出始めているが、これって、なかば教育放棄である。大学の語学の授業は、語学学校の授業とは違う、ということがわかっていないようだ。
 逆にいうと、大学でも語学学校のような授業をやっていればよいと、管理職は考えているのだろうか。
 中学や高校でも授業には創意工夫が必要であろうが、中学高校の場合には教科書というものがある。大学にはそれがない。というより、教科書に書いてあるようなことをしゃべっていては、講義として価値がない。大学教師というのは、「他の人には教えられない」ことを教えるのが存在価値である。
 じつはいま、シラバスの締め切りを過ぎてしまって、矢の催促を受けているのだが、このシラバスというのが、私はどうも苦手である。「記入上の注意」には「13回あるいは14回分の各回の内容を詳しく書け」とある。むかし、講義ノートを棒読みする教授がさかんに揶揄されたものであるが、いまのシステムは、あらかじめ決められた内容通りに授業をやれというのである。このままいくと、数年度には「授業はかならず事前に原稿をつくり、それをあらかじめ配布し、それに沿っておこなえ」という命令がくるんじゃないかという気がする。
 というのも、学生による授業評価アンケートの質問には「授業はシラバス通りにおこなわれましたか」という項目がある。シラバスで予告しておいた内容とは違うことを話すと、評価が下がるわけである。
 きちんと14回分の講義の内容を本に書いたら、それを学生に渡して、授業はやらずにうちで寝ていてもいいというのだろうか。
 と、ぐだぐだ文句ばっかりいっていないで、とにかく、明日までにシラバスを書かなくてはいけない。とほほ。
 
 ずっとテニスをさぼっているものだから、筋力がすっかり衰えてしまった。運動不足解消にと、かみさんと近所を散歩する。
 が、鎌倉では家から5分も歩くと、そこは深山幽谷である。家のすぐ近くの山にのぼると、あとは尾根伝いにあちこちへハイキング・コースが続いている。きょうはぶらぶら散歩しているうちに、「どのコースを通っても4キロ以上歩かないと家に帰れない」という場所に出てしまった。きた道を戻るのがいちばん早いのだが、同じ道を戻るのは芸がない。
 案内表示を見ながらかみさんと顔を見合わせて「どうしよう」と迷っていたら、犬を散歩させている初老の婦人が、私たちを観光客だと思ったらしく、いろいろ教えてくれる。こちらの物わかりが悪いものだから、そのうちにその婦人はしびれを切らし、「あたしが案内してあげる」と言って、先に立って歩き出した。ところがこの婦人、明らかに私たちよりも年上だが、歩くのが速いこと、速いこと。登ったり下ったりの山道(場所によっては手をついてよじのぼらなくてはならない)をすごいスピードでどんどん歩いていく。ついていくのがやっとであった。
 途中で「ここまでくれば、あとは簡単だから」という婦人と別れたのだが、別れたとたんに道をまちがえ、全然方向違いの谷へ降りてしまった。谷間に小さなお寺がぽつんとひとつあって、そばではヤギが草をはんでいる。小川がちょろちょろ流れている。江戸時代にタイムスリップしてしまったのかと思った。
 そのお寺の奥さんに道を教わり、また元の道に引き返し、西御門(にしみかど)に出て、なんとか家にたどり着く。
 ちょうど昼食を取る前に出かけたものだから、私は空腹に苦しみ、山の中で餓死するんじゃないかと思った。
1月16日(水)
 
 前回書いたように、日曜日はロシアの美女バレリーナたちといっしょに過ごし、鼻の下を長くしていたのであるが、夜中に胃が痛くなり出し、翌朝には起き上がれなくなった。胃腸に来る悪性のインフルエンザにかかったようだ。いつかかったのかは、むろんわからない。
 翌日は吉田都の『コッペリア』を観に行くはずだったのに、泣く泣く断念。
 火曜は、大学院の授業は休講にしてもらったが、教授会があり、おまけに学部長選挙があるので、休むわけにはいかず、大学に出かけていく。
 さいわい、今回のウィルスは症状がひじょうに軽く、2晩寝たらほぼ治ってしまった。
 
 私はスポーツとバレエの境界線に興味があるのだが、バレエに最も近いスポーツはフィギュア・スケートと、シンクロナイズド・スイミングである。
 シンクロは、歴史を辿っていくと、19世紀末の英国のライフガードにまで遡るようだ。しかし当時はまだ音楽を使っていないし、泳いだのは男性のみである。まだ女性の水着姿は御法度だったのである。その後、シンクロの普及に最も大きな影響を与えたのは、アメリカのミュージカルの1サブジャンルであるアクア・ミュージカルである。ウォーター・バレエともいう。その女王はもちろんエスター・ウィリアムズである。昨年、全集の第1巻が出たので、すぐに買って全部見たが、第2巻がなかなか出ない。
 よみうりランドでやっていた水中バレエは、3年ほど前になくなってしまった。
1月13日(日)
 
 やれやれ、1週間、日記を書く暇がなかった。
 
 月曜日はバーミンガム・ロイヤル・バレエ団の『美女と野獣』を観に行く。ディズニーのアニメは観ていないが、同じディズニーのミュージカルはロンドンで観た。傑作である。
 いうまでもなく、ジャン・コクトーの映画も名作である。初めて観たのは小学生のときで、壁から人間の腕がのびていて、燭台をもっているという場面が妙に印象に残った。
 話はそれるが、子どもの頃、ニッサン・テレビ名画座とかいう番組があった。コクトーの『美女と野獣』もそれで観たのだと思う。ニッサンといっても、車の日産ではなく、ニッサン石鹸という会社がスポンサーだった。1週間毎日同じ映画を放映するのである。なんとも、のんびりした時代だったのである。
 さて、デヴィッド・ビントリー振付のこのバレエも、気品ある英国風の傑作である。近々、日経新聞に批評が出るが、今回ばかりは与えられた字数の少なくとも3倍か4倍は書きたかった。日本の舞台評も書評も、字数がすくなすぎる。あれでは本当の意味での批評はできず、ほとんど紹介だけになってしまう。
 まず、新国の『椿姫』とは対照的に、音楽がすごくいい。創作バレエの音楽はうすっぺらで通俗的なものが多いが、この曲はかなり本格的だが、同時に適度に親しみやすく、よくできている。
 舞台装置も衣裳も秀逸だった。舞台転換がじつにスムーズ。
 肝腎の振付であるが、ビントリーはじつに達者になったものである。彼の作品にはすでに『ペンギン・カフェ』という「着ぐるみバレエ」があるが、適度に現代的で、適度にクラシックで、適度に演劇的で、ひじょうにバランスがとれている。少女が本を開くと、物語が始まるという始まり方はいささか陳腐だが、少女がはしごにのって書棚に手を伸ばしているストップモーションから始まるという幕開けは、思わず「うまい!」とひとりごちてしまった。一気に観客を物語に引きずり込む。『カルミナ・ブラーナ』の幕開けも秀逸だった。ビントリーはいきなり観客の心をわしづかみするのが得意だ。
 佐久間奈緒(ベル)も、ツァオ・チー(野獣)も、平田桃子(雌狐)も、ひじょうによかった。
 こういう作品が生まれないかぎり、日本のバレエもお先真っ暗である。
 
 バレエが始まる前に、アメ横に行って紅茶を買おうとしたのだが、店が見つからない。なくなってしまったらしい。その店では、たしかトワイニングのイングリッシュ・ブレックファストが1缶780円だった。そのへんの店で買うと1000円以上する。どなたか、イギリスの紅茶を激安で売っているバッタ屋を知りませんか。うちはとにかく紅茶の消費量が半端ではないのです。
 そういえば、さくらんぼ、アメリカンチェリー、ライチー、松茸などの季節になると、「上野にバレエを観に行く」というと、かみさんから「アメ横で・・・を買ってきて」という注文が出て、大量のチェリーをぶらさげてバレエ会場にいくはめになる。
 
 さて火曜日は早稲田の授業。ルネサンスからようやくバロックにすすんだが、このままでは2回くらい補講をやらないと終わりそうにない。
 
 水曜日は一日じゅう家で講演の準備。これについては後で述べる。
 
 木曜日はゼミと試験。
 
 金曜日は大学でいくつか雑用をこなした後、研究室で映像の編集をやり、その後、早稲田の研究会に駆けつける。風邪がはやっているらしく、出席者が少ない。
 
 土曜日はマリインスキー・オペラ友の会に招かれ、「ポロヴェツ人の踊り」についての講演。会場はびっしり満員。150人くらいいらしただろうか。オペラ・ファンの前でしゃべるというのは初めてである。
 私の場合、手ぶらで行ってしゃべる、というわけにはいかず、ビデオを編集し、図版をスキャンし・・・と、準備に時間がかかるのだが、書庫が混乱状態なので、まず探し物から始めなければならない。今回の場合だと、まず『イーゴリ公』のDVDを発掘する作業から初め、次に楽譜、次に参考書、それからボロディーンの音楽を使ったミュージカル『キスメット』のビデオを探す、というふうに探し物の連続である。『キスメット』のビデオが見つかったのは講演前日だったので、あわてて研究室にもっていき、デジタル化する。
「人生は探し物の連続である」というのを、私の名言として後世に残したいと思う。
 
 本日はミハイロフスキー劇場(レニングラード国立劇場)バレエのパーティ。美人バレリーナが勢揃いするというので、出かけていく。イリーナ・ペレンは前から美しいが、その美しさにいっそう磨きがかかり、ちょっと近寄りがたい感じであった。そばにいるだけで、頭がくらくらしてくる。拙いロシア語で「先日の『眠れる森の美女』は素晴らしかったですよ。あなたはリラの精もいいけど、オーロラもいいねえ」なんて話をしていたのだが、そばにボーイ・フレンドらしき長身の男性がいたので、居心地わるく、早々に退散。オクサーナ・シェスタコワともしばらくおしゃべりしたが、なんとも性格の良いバレリーナであった。

 
 
 家に帰って、薄井憲二先生が送って下さった『フローリアン』を観る。1940年の映画である。ウィーンの有名なスペイン乗馬学校を舞台にした話であるが(フローリアンというのは馬の名前である)、イリーナ・バロノワが出演していて、踊る場面もある。観て仰天、こんなに可愛いバレリーナは観たことがない。のけぞって、後ろの壁に後頭部を打ったくらいである。年取ってからのバロノワは、いま日本で公開されている『バレエ・リュス』でもわかるように、顔の細い、痩せたおばあさんだが、若いときは丸顔で、体もぽちゃぽちゃ。でも、テクニックはすごい。涙が出ました。
 続けて、アメリカから届いた『Never Let Me Go』(1944、日本未公開)を観る。主演はクラーク・ゲーブルと、『ローラ殺人事件』で有名なジーン・ティアニー。主役のマリヤ(ティアニー)はマリインスキー劇場のプリマ・バレリーナで、アメリカ人(ゲーブル)と結婚するのだが、ふたりで西側に出ようとすると、彼女だけ出国を許されず(大事なバレリーナだからという理由で)、ふたりは引き裂かれる。ゲーブルは小舟でソ連に密入国し、彼女を連れ出す、というストーリー。マリヤが『白鳥の湖』を踊る場面があり、(クレジットされていないが)アントン・ドーリンが王子役を踊っている。
 さらに『夜も昼も』(1946)を観る。ケイリー・グラントが主演した、コール・ポーターの伝記映画である。コール・ポーターといえば名曲「ビギン・ザ・ビギン」だが、この曲に合わせてダンス・シーンがある。私はそのダンサーが誰なのか、わからなかったが、ジョージ・ゾーリッチとミラダ・ムラドワであることを薄井先生から教えていただいた。これまた驚異的なテクニックである。
1月6日(日)
 
 昨日は新春恒例のレニングラード国立バレエを観に行く。演目は『眠れる森の美女』。主演は、美貌で有名なイリーナ・ペレンである。ペレンもよかったが、リラの精のコチュピラがひじょうによかった(ちなみにペレンのリラの精もすごくいい)。また、妖精たちのキャストが豪華。ハビブリナ、ミリツェワ、ロマチェンコワが勢揃い。ただし、前のバレエ芸術監督ボヤルチコフが手を加えた部分の振付は気に入らない。どうしてカナリアが中心にいて、ピーチクパーチクやっているのだろうか。
 いうまでもなく、現在はレニングラードなどという街はない(でもじつはロシアではレニングラードと呼んでいる人も多い。ベトナムでもホーチミンをみんなサイゴンと呼んでいる)。このバレエ団の正式名称は、ミハイロフスキー=ムソルグスキー劇場バレエ団という。この劇場は最近、ソ連崩壊後の混乱の中で大もうけをした富豪が買収したのだそうだ。どうして国立の劇場を買収できるのだろう。さすがロシアである。
 この富豪は、金持ち相手に、バナナをはじめ、トロピカル・フルーツを輸入して、大もうけをしたのだという。富裕層の間に、歩きながらバナナをかじるというのを流行させたのだとか。
 新体制となり、ボヤルチコフに代わって、ルジマートフがバレエの芸術監督になったのだそうだが、そのルジマートフ、今回の来日公演には来ていないようだ。芸術監督が来ないというのも不思議な話である。
 もう20年くらい続いていると記憶するが、正月にバレエ公演を打つというのは、いいアイデアである。行楽地はどこも混んでいるようだし、華やかなバレエは正月気分にぴったりだし。会場の東京フォーラムAは4千人(ふつうの劇場二つ分)も収容できるのだが、ほぼ満席である。
 
 本日は氏神様である鎌倉宮に初詣にいく。といっても家から歩いて3分だが。いつもは他の神社や寺もまわるのだが、正月以来、腰痛に苦しんでいるので、今年はひとつだけで勘弁していただく。
 
 薄井憲二先生から頂いたソ連映画『バレエ・ソリスト』を観る。1947年の映画である。ストーリーは大したことないが、ダンチェンコ劇場の看板バレリーナだったレージナが主役のソリストを演じており、ウラノワとプレオブラジェンスキーの『白鳥の湖』の一部が観られる。薄井先生から伺っていたのだが、50年前にはロシア・バレエがどんなふうに踊られていたのかがひじょうによくわかる。マリインスキー劇場は、ソ連時代の正式名称はキーロフ劇場だったが、この映画では登場人物たちはマリインスキー劇場と呼んでいる。これは私にとっては新発見である。
 
 暮れの日経新聞に、『カラマーゾフの兄弟』の新訳(50万部!)ですっかり有名になった亀山郁夫さんが、みずからの前半生を語っていた。亀山さんは大学院の先輩である。また、私は彼と同じ年に木村彰一賞を受賞した。
 彼は外語大の学長になった理由の一つとして、研究者としてはすでに峠を越えたという意味のことを語っていた。とても共感を覚えた。
 「生涯現役だ」とか「80歳だが第一線で活躍している」という人たちを、偉いと思うし、心から尊敬するが、私は共感はできない。上昇し続けてきた線があるときぷつんと切れるような人生には、どこか違和感を覚えるのである。人生にはピークがあって、その後は健全な下降線を描き、終結する、のではなかろうか。
 という話をすると、かみさんは決まって、「あんたはまだ大した仕事をしていない」といって怒る。たしかに財も築けなかったし、ベストセラーも出せなかったし、歴史的大著を書いたわけでもないけど、まあまあの人生ではなかったかと思う。これからの10年はきれいな下降線を辿って、人生の終着点へとソフトランディングしていきたいものである。
1月3日(木)
 
 明けましておめでとうございます。
 大晦日からかみさん、娘、おふくろ、妹一家と、総勢8人で箱根の強羅温泉で過ごし、それからかみさんの実家に挨拶に行き、きょう鎌倉に帰ってきた。
 温泉でも、かみさんの実家でも、暇を見つけては、一日中テレビでお笑い番組をみている娘の横で、必死に試験の採点をしていた。年越しで採点をやっていたわけである。まだこれからも試験があるので、全部終わるのはまだ先のことである。

 今年の抱負、というのはとくにないが、4月から担当授業が増えるので、早寝早起きは至上命令である。以前は、週に一度は1時間目の授業をもっていたので、その日は朝7時に家を出たものだが、そのうちに2時間目も辛くなり、ここ数年は午後の授業しかもっていない。
 が、4月からは週に3日、早起きして出かけなければならない。この年になると、仕事が増えるというのがひじょうに辛いが、私が提案し、実現した授業もあるので、むろん文句はいえない。
 
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