| 2007年12月の日記(↑時間軸) |
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12月30日(土)
給油(自衛隊みたい)と洗車のためにGSに出かけたら、金沢街道、すなわち横横道路から鎌倉市内へと通じる道が正月みたいに渋滞している。品川ナンバーや田舎ナンバーがたくさん混じっている。年末に鎌倉観光に訪れる人もけっこういるようだ。 昨日はモスクワ音楽劇場バレエの『白鳥の湖』を観に行く。皆さんご存じのように、このバレエ団の『白鳥の湖』はブルメイステル版といって、数ある『白鳥の湖』の中でも最も優れた版である。本当に観ていて飽きない(凡百のバレエ団だと、すぐに眠くなる)。 私のお目当ては主演のタチヤナ・チェルノブロフキナである。すばらしかった。鳥肌立ちっぱなしというバレエ鑑賞は久しぶりだ。もう40歳くらいだと思うが、数年前に観たときと比べて、微塵も衰えていない。本当にすばらしいバレリーナである。私は何よりもその手に眼が釘付けになってしまった。手首から先である。神は細部に宿るというが、指先の1本1本がじつに美しいラインを描く。 夜は、録画してあったフィギュア・スケート全日本選手権のイグジビションをみる。 淺田真央を観ていると、本当に気分がいい。こんな少女がこの世にいるというだけで、生きる元気が沸いてくる。 私はスーパー・ウーマンが大好きだ。だから長年シルヴィ・ギエムが私の女王様だったのである。私のいうスーパー・ウーマンは美形という点でもスーパーでなければならないのだが(だから、わるいけどヤワラちゃんはパスなのだ)、その点、淺田真央ちゃんは文句ない。 わが法政大学の太田由希奈のスケートにも感動した。荒川静香が、「ジャンプなしでも見ていたいと思うスケーター」と評していたが、その通りである。まさしく「氷上のバレリーナ」。あちこちの大会で優勝しまくっていた頃の彼女は覚えていないのだが、これからが楽しみだ。 フィギュア・スケートが面白いのは、いま日本選手の層が厚いからだ。全日本選手権は世界で最もレベルの高い大会であろう。テレビ局が力を入れるのも当たり前だ。ダイジェストやインタビューを混ぜて番組を長く引き延ばすそのやりかたには腹が立つが、録画してとばしながらみればよい。 それに比べると、バレーボールはテレビ局だけが騒いでいて、実力はとても世界のトップレベルではないものだから、ひじょうに空しい。 それにしても、いつのまに日本のフィギュアは世界のトップレベルになってしまったのだろう。 |
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12月28日(金)
ここ2週間ほど、夜のタクシーの行列がものすごかった。私は、東京からの下り電車が北鎌倉を過ぎると、階段にいちばん近いドアの前までいき、ドアが開くと同時に飛び出して、階段を2段ずつ駆け下り、タクシー乗り場に駆けつけるのだが、たいていは1着か2着である(かみさんは、「そのうちに階段を転げ落ちて首の骨を折るであろう」と予言している)。 ところがこの2週間くらいは、私よりも早い人が数人いて、しかも、せっかくタクシー乗り場に駆けつけても、すでに20人ほど待っている。1本前の電車の乗客である。 とはいえ、さすがに昨夜から人が減ってきた。 きょうは朝からまた落ち葉掃き。家の真上にある巨木の葉もすべて落ちた。今年は何度落ち葉を掃いたことだろうか。 年内締め切りの原稿はすべて片付けた。あとは「正月明けに渡しますから」と約束した仕事だけだ。 もっとも、それは雑誌の原稿の話であって、「大きな」仕事はまた別。今年もまたたくさんの仕事を抱えたまま年を越すことになる。 |
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12月24日(月)
祭日だが、うちの大学は「振替平日」。こうしないと、月曜日の授業数だけが足りなくなってしまう。でもこれでようやく年内の授業は終わり! あとは1月に1週間やれば今年度の授業はおしまい。でも大学院はまだ当分あるし、教授会もあるし、膨大な試験とレポートの採点、学部の入試、大学院の入試など、1月2月はイベント続きである。ああ、なんて楽しいんだろう。 知人から勧められていたのだが、ちょうど昨夜、テレビで放映していたので、ひとりでカキと白子入りの湯豆腐をつつきながら、『手紙』を観る。ちなみに、同じタラの白子でも、スケソウダラの白子とマダラの白子では、どうしてあんなに違うのだろうか。いうまでもなく、マダラのほうが圧倒的に美味である。その旨さはふぐの白子に肉薄する。スケソウダラは熱するとすぐに固くなってしまう。 さて『手紙』。こんなものを作っているようでは、日本の映画界は永遠にハリウッドに叶わないよ。途中で情けなくなってきた。でも、沢尻エリカがメチャかわいいので、許す。 きょうはクリスマス・イブ。娘が帰ってきたので(もうクリスマスにデートするような年ではないのか、それともボーイフレンドより親を大切にしてくれているのか)、家族でクリスマス・ディナーを囲み、モエ・エ・シャンドンの栓を抜く。娘から、プレイボーイのあのウサギの絵のついた腹巻きをいただく。やっぱり、沢尻エリカより、うちの娘のほうがかわいい。(って意味のない比較) |
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12月23日(日)
学生のとき、「メンソレータム」というゲームがはやったのを、ふと思い出した。思い出したきっかけは、9月から10月にかけて読んでいたバーバラ・ヴァイン(ルース・レンデル)の『Chimneysweeper's Boy』の中に、似たようなゲームが出てきたことである。ちなみに、この小説は『煙突掃除の少年』というタイトルで邦訳されているが、この邦題は誤訳である。この邦題だと、煤にまみれた少年の姿が想像されるが、原題の意味は「煙突掃除屋の息子」である。少年自身はべつに煙突掃除屋ではない。 さて、この小説の中に出てきたゲームは「I Pass the Scissors」というゲームで、たぶん著者の考案したものではなく、実際にあるゲームであろう。ハサミを使う。数人が輪になってすわり、ハサミを次々に隣の人にわたす、というだけのゲームである。ハサミを受け取った人は、ハサミを開いて、あるいは閉じて、次の人に渡す。そのときに「私はハサミを開いて渡す(これを「クロス」と呼ぶ。ハサミを開くと、十字架の形になるからだ)」あるいは「閉じて渡す」と宣言する。問題は、その「開いて」と「閉じて」は、ハサミが開いているか閉じているかとは関係がないということだ。初心者はルールを知らないから、ハサミを開いて隣りに渡し、「私はハサミを開いて渡す」と宣言し、まわりから「まちがい!」と指摘されるのである。つまり、初心者は、何が「開いて」であり何が「閉じて」であるかについてのルールを発見しなければならないのである。 ネタバレになるが、ハサミが開いているか閉じているかは重要ではなく、ハサミを渡すときに脚を開いているか閉じているかによるのだ。小説の最後のほうで、このルールをすぐに見抜いてしまう青年が出てくるが、それまでは、新たにこのゲームに加わった人は残らず、最後までルールがわからない。 本来、ゲームというのは参加者全員がルールを知っていることを前提にしているのであるから、この「ハサミを渡す」というゲームは、本来のゲームではない。ルールを知っている者たちが、ルールを知らない者をからかうための遊びである。好意的にいえば、ルールを知らない者がいかにそのルールを発見できるかを見守る遊びである。 だからこのゲームは、その場にいるほとんど全員がルールを知っていて、それよりも少数の人がルールを知らない場合にのみ、おこなわれる。全員がルールを知っていたら、意味がないし、反対に、ひとりだけルールを知っている場合は、ゲームができないわけではないが、そのルールを知っているひとりがみんなからの敵意の的になる。 すでにおわかりのように、これはある小さな共同体が侵入者をからかい、屈辱感を与え、排除するためのゲームである。 「メンソレータム」というのも、これとまったく同じ意図にもとづくゲームだった。ひとりが「タム・タム・タム・タム・メンソレー・タム」と言いながら、右手の人差し指で、開いた左手の指先を、小指から順番にさわっていき、「メンソレー」の部分で、人差し指と親指の谷間をなぞり、最後に親指の先にさわって、「タム」で閉める。そして相手に「やってごらん」と言い、相手(初心者)に反復させる。相手は忠実に反復するのだが、「だめ」と言われてしまう。何度やっても、「だめ」と言われる。そこで「親」が、別のだれかにやってみさせる。その別の誰かはルールを知っているので、ちゃんとできる。初心者は、どうして自分のがだめで、別の誰かのが合っているのか、その理由がわからない。 詳しくは覚えていないが、たしか、「タム」と言った後に、腕を組んで「やってごらん」と言えば、「正解」なのだった。 つまり、どちらのゲームも、「ゲームの範囲」がどこまでかをめぐるトリックなのである。初心者は必死に規則を見つけ出そうとする。だが「正解」は、その規則が適用される範囲、つまりゲームの範囲の外にある。ルールを知っている者は、ゲームの範囲に関して、初心者にまず誤解を与える。前者であればハサミ、後者であれば指でなぞるという行為が「ゲームの範囲」であると思い込ませる。だから、そのゲームの範囲の外に、本来のゲームの範囲があることを発見すれば、初心者の勝ちなのである。 これはスラヴォイ・ジジェクが挙げている例に似ている。ジジェクは最新著『ラカンはこう読め!』のなかで、こんな例を挙げている。 「窃盗を疑われている労働者をめぐる古い小話を思いだそう。毎夕、工場から帰るとき、警備員たちは彼が押している手押し車を丹念に調べたが、何も見つからなかった。手押し車はいつでも空だった。ついに警備員たちは突き止めた。彼が盗んでいたのは手押し車だったのだ」 ジジェクがこの例を挙げたのは、コミュニケーションの再帰的機能について説明するためである。「これはコミュニケーションですよ」というためのコミュニケーションのことである。ヤコブソンのいう「交感的言語使用」である。「いい天気だねえ」「そうですねえ」 ゲームに話を戻すと、先に、このゲームは共同体から侵入者を排除するためのものだと述べた。先に触れたように、ヴァインの『煙突掃除の少年』では、このルールをすぐに見抜いてしまう青年が登場する。ルールを見抜いた「初心者」は、その共同体に喜んで迎えられるのだろうか。ルールがばれた時点で、そのルールのくだらなさ、というか「悪意」があらわになる。要するに、ルールが適用される範囲をめぐる一種のトリックだったのだということがばれる。知力をふりしぼってルールの規則を改名しようとしていた「侵入者」は、拍子抜けして、あるいは、ばかばかしさに激高して、その共同体を見捨てることになるであろう。いや、すんなりとその共同体に加わり、新たな「餌物」を探すのかもしれない。 実際、この小説では、父親とふたりの娘が異常なくらいに親密で(つまり娘はふたりとも「パパっ子」で)、この3人の共同体には何物も入れまいとする。母親ですら。だから母親はこのゲームに加わることを嫌う。 じつは、「場の空気が読めない」という最近流行の表現をきいて、このゲームのことを思い出したのである。 KYが「空気が読めない」の意味だと知ったのは1年ほど前。教えてくれたのは学生(大学生)だったが、彼らは「最近の高校生はこんな略字を使うんだって。もうついていけないね」と話していた。 「場の空気を読む」という、本来は「おとな」の言葉が、高校生の間で流行しているという事実にまず驚いた。というか、気持ちがわるかった。 次に、KYが「空気を読む」とか「空気を読め」という意味ではなく、「空気が読めない」という否定形の略だということに、いやな気がした。本来、この表現は「空気を読め」という「心得」であろう。それに対して、「空気が読めない」というのは、「排除」の表現である。排除に対象にたいするレッテルである。 いうまでもないが、本来、場の空気を読むというのはひじょうに重要なことである。空気の読めない人は「困ったもん」である。 だが、その「空気」の中身がひじょうに下らないものだとしたら? 先に挙げたゲームのように、下らない中身によって、たんに侵入者を排除しようとしているだけだとしたら? といったことを考えると、高校生がこんな表現を多用していると聞いて、いい気はしない。 空気が読めないのは困るが、ちゃんと空気を読み取ったうえで、あえてその空気に亀裂を入れることも、時として必要になる。いや、あまりに素朴で純真なために空気が読めないということも多い。が、そういう空気の読めない素朴な視点が、その空気の邪悪さ、あるいはくだらなさを暴露することがある。アンデルセンの「はだかの王様」を思い出してみればいい。「空気が読めない」というレッテルは、いじめの道具としか思えないのである。 |
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12月22日(土)
本日はかみさんと、新横浜にある横浜スケートセンターまで「クリスマス・オン・アイス」というものを観に行く。かみさんからのクリスマス・プレゼントである。 フィギュア・スケートは、テレビでは欠かさず観るが、ナマで観るのは初めてだ。バレエの授業では、「授業では仕方なくビデオを使用するが、バレエはナマで観なくてはだめだ」と強調しているくせに、腰が重いものだから、スケートはこれまでテレビで済ましていたのである。 スケート鑑賞は寒いと聞いていたので、ダウンジャケットを着込み、座布団と膝掛けとホッカイロをもっていく。おかげで、震えずに鑑賞できた。まわりをみると、ほとんどの観客がちゃんと膝掛けをもってきている。 どういうわけか、私はスキーのエッジが雪を削る音や、スケートのブレードが氷を削る音が大好きである。子どもの頃、家に氷を入れる冷蔵庫があった。氷屋が定期的に氷をもってくるのだが、その氷屋が大きなノコギリで氷をシャリシャリと切る音が快かった。 横浜スケートセンターのリンクの大きさは国際規格(60×30メートル)のはずだが、観客席数が少ないため、リンクの周辺部をつぶして客席を作ってあり、そのぶんリンクが小さくなっている。そのため迫力に欠けるが、いっぽう、より近くで観ることができる。間近で見るトリプル・アクセルは格別である。 主役は荒川静香、脇役がプルシェンコ。その他、恩田美栄とか、本田武史、田村岳斗らが出演していた。私の少し前の席に、楠田枝里子がきていた。 荒川静香は、テレビでしか観たことがなかったので、これまで「顔がデカイなあ」くらいの印象しかなかったのだが、ナマで観て、そのスタイルのよさにびっくり。テレビで観るよりもずっと細い。顔も全然大きくない。何よりも、今回の他の出演者と比べて、技術的レベルが格段に高いし、身のこなしが美しく、特別な品がある。これが世界のトップレベルなのかと、ひたすら感心した。 フィギュアは競技としてもバレエにかなり近いが、ショーになるとますますバレエに近くなる。だって跳躍と回転以外の部分は全部舞踊なのだから。いやもっと重要なことに、跳躍と回転はバレエの本質でもある。フィギュア・スケートとは、氷上のバレエに他ならない。 |
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12月16日(日)
今年も残すところ、あと2週間。ああ、そろそろ年賀状を作らなくては。 授業も、あと2回ほどで終了(大学院は1月いっぱいあるが)。この最後の2,3回がいちばん辛い。息切れしてくるのである。 年末年始はバレエ公演が目白押しだが、この週末は静かに机に向かって過ごし、たまっていた仕事が少し片付く。 が、仕事の合間に、庭の落ち葉を掃かなくてはならない。いくら掃除しても、翌日にはまた落ち葉に埋もれてしまうのである。賽の河原で小石を積むようなものである。 私は掃除がきらいではないが、掃除がきらいという人の気持ちはわかる。何しろ掃除というのは生産的ではない。一所懸命にやって、やっとゼロに戻るという空しい仕事である。何も生み出さない。料理ならば、頑張れば、おいしいものができあがるのに(でも、食べてしまうと、なくなってしまうのだが)。 でも掃除を放っておけば、どんどんマイナスが蓄積されていき、やがて手の付けられない状態になる。 世の中、暇な人が多いらしく、12月だというのに、家の前をぞろぞろと観光客が通っていく。ひとの家を覗きながら。 |
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12月14日(金)
昨日は授業の後、上野へレニングラード国立オペラ(ミハイロフスキー劇場歌劇団)の「イーゴリ公」を観に(聴きに?)いく。「ポロヴェツ人の踊り」のあるオペラである。この踊り、従来「だったん人の踊り」として知られている。そのあたりのことは以前に書いたので、繰り返さない。いずれにせよ、「ポロヴェツ人の踊り」に、観客は熱狂的な拍手を送っていた。 オペラにはバレエまたはダンスが付きものであるが、この位置づけは微妙である。あるオペラ評論家は、「バレエの場面になると、一休み。うたたねタイム」と書いていた。いっぽうバレエ・ファンも、オペラの中のバレエにはあまり興味がないようである。また実際、オペラに挿入されたバレエにはスター・ダンサーが出ないということもある。 私自身も、オペラの中のバレエで、おおスゴイ、と感動したことはない。 でも、近代バレエの嚆矢といわれる「悪魔のロベール」は、オペラの中のバレエ場面である。そこから、現在私たちが見ているバレエが生まれたのだと考えると、おろそかにできないものではある。 きょうは早稲田の研究会。京劇に関する発表がひとつ、舞踊譜に関する発表がひとつ。 前回の研究会のときと同じく、みんなで近くに飲みに行く。 |
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12月12日(水)
北鎌倉の明月院に紅葉を観に行く。ここには北条時頼(時宗の父)の墓所がある。この寺は「あじさい寺」とも呼ばれるが、紅葉でも有名だということ、先日たまたまタクシーの運転手さんから教わったのである。「拝観料300円のほかに、裏庭を見るためにはさらに500円払わなくてはならないが、その価値はある」ということも教わった。 明月院というと、狭い境内にびっしりあじさいが植わっているというイメージしかなかったが、たしかに美しい裏庭がある。花菖蒲と紅葉の季節に限って公開している。 すでに紅葉は峠を過ぎているので、お金を払うとき、係のおじいさんから「もう色があまりきれいではないですが、それでもいいですか」と聞かれた。あと1週間早ければ、目に染みるような赤色だったにちがいないが、知ったのが先週のことだから、仕方がない。(→写真日記) |
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12月5日(水)
昨日はまず午前中に2時間、早稲田の舞踊研究にまつわる打ち合わせ。 昼からは、うちの学部、つまり国際文化学部と大学院(国際文化研究科)の学会。正式名称は国際文化情報学会。教員、大学院生、学部生が研究発表する年に一度の催しである。今年は50以上の発表があり、会場の数が何と11。ちょっとした学会よりも多い。だが、11カ所で同時にいろいろな研究発表をやっているものだから、ほんのいくつかしか聞くことができない。 研究者のみの学会と違って、学部生中心なので、言ってみれば文化祭と学芸会を合わせたようなものである。 学生のつくった映画が4本上映される。私は、うちのゼミの映画と、島田雅彦ゼミの映画の、2本に出演している「俳優」である。 夕方から講演会。ゲストは平野啓一郎さんと金原ひとみさん。どちらも「最年少」芥川賞作家である。島田雅彦氏の尽力で、豪華ゲストが実現したわけである。 講演会の後、授賞式と懇親会があったのだが、料理は決して豪華とはいえないものだったので(というか、学生の勢いに押されて、こちらは何も食べられなかった)、島田くんとゲストのおふたりと4人で、近くに食事にいく。ワインを飲みながらフランス料理、のはずだったのだが、あいにく店が満員で入れず、近くの居酒屋で、サワーを飲みながら焼き鳥をつまむことになった。平野さんも金原さんも、外見は派手だが、根はとてもまじめな人たちである。あんなすごい小説を書く人たちにはとても見えない。 ご近所からバケツに一杯の柚子をいただく。ゆず湯にしていたら一月分以上あり、薬味として使っていたのでは一年毎日使っても使い切れないので、柚子茶(ユジャチャ)を作ることにする。韓国の飲み物(ただお湯で割るだけ)であるが、むしろジャムとして用いると美味である。最近は日本でもかなり知られてきたようだ。 ふつうは砂糖で作るのだが、今回は蜂蜜漬けにする。しかも今回は煮ずに、生で蜂蜜に漬け込む。いわゆる生ジャムである。 というわけで数十個のゆずをひたすら刻む。首と肩が痛くなった。そのあと、落ち葉に埋もれた庭をせっせと掃いているうちに日が暮れる。 初心者主婦はたいてい料理の本を懸命に読んで、まず献立を決め、必要な食材を買いにいくが、ベテラン主婦はまず買い物にいき、その日の目玉商品をみて、献立を決める。 先日、安売りスーパーを覗いたら、小アジを10尾300円で売っているではないか。小アジといっても、豆アジほど小さくはない。15センチくらいある。匂いを嗅いでみると、じつに新鮮。これで献立は決まり。全部の腸とえらをとり、冷蔵庫の氷温室へ。一日は唐揚げにして、塩とレモンで食べ、残りは別の日に南蛮漬けで食べる。メインディッシュが150円なんて、ステキだ。 「師走」である。私の仕事は基本的に季節に関係ないはずなのだが、なぜか今月に入ってからほとんど一日おきに原稿の締め切りがある。どうなっているのであろうか、と考えている暇もなく、一つ一つ注文をこなしていく。 |
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12月3日(月)
昨日はスターダンサーズ・バレエ団の公演に出かける。長年このバレエ団を率いてきた太刀川瑠璃子先生の80歳の誕生日を祝う特別公演である。 ゲストの吉田都が稽古中に足首を捻ってしまい、予定されていた彼女の演目は中止となった。彼女はそれをすごく申し訳ながっていて、一所懸命にファン・サービスにつとめていた。 1996年だったか、ロンドンで、吉田都がオンディーヌを踊るというので、かみさんと娘の分のチケットも買って楽しみにしていたら、怪我で他のバレリーナに交代したことがあった。そのときは稽古中ではなく、朝、ベッドから降りるときに足をくじいてしまったと言っていた。 そのときも、すごく済まながって、わざわざ私の元を訪ねてきてくれた。本当にいい子である。 しばらくご無沙汰していたために知らなかったのだが、太刀川先生は9月に大手術をされて、昨日も車椅子だった。なんだか痛々しくて、涙が出てきて困った。太刀川先生は、うちの母と同い年である。日本のバレエ界を牽引してきた先生のひとりなので、まだまだお元気でいていただきたい。 週末は愚娘が帰ってきたので、朝昼晩と食事をつくって食べさせ、洗濯をし、帰りに、大量に作ったスープをもたせ、駅まで車で送る。やれやれ。 きょうは仕事で一日中東京に出ていたので、対台湾戦は観なかったが、昨夜は4時間も野球(オリンピックのアジア最終予選)を観てしまった。対韓国戦である。まったく、最後まではらはらさせる試合であった。 韓国と日本とはほぼ実力伯仲である。頻繁に国際試合をやっている種目と違って、野球の場合は相手チームのことをよく知らない。いわば一発勝負なので、本当に一瞬先は闇である。 仕事が山積しているので、少しでも罪悪感を減じようと、攻守交代のたびに洗濯物をたたんだり、洗い物をしたりしたのであるが、見始めたらとても途中でやめられない試合であった。 |